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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
七章
158/208

姫君は花の国を夢みる 【4】

 いつもと変わらない家の変わらない場所が何故か華やいで見える。

 調度も証明も何一つ変わっていない。ただ、一人の少女が物珍しそうに部屋を歩き回っているだけだ。

 そう、彼女こそがこの場の空気を変質させている。

 アンティークローズを思わせる赤みを帯びた茶色の髪に、紫陽花色の双眸。華奢な体躯を包むのは小花の刺繍が施された若草色のドレスで、腰回りについたリボンは豪奢なレースで縁取られている。

 クロエがエリーゼの愛称で知る彼女は、ヴァレンタイン侯爵令嬢エリーシャ・ローゼだ。


(大人っぽいな)


 エリーゼが歩くと、膝下丈のプリーツスカートの裾がひらひらと揺れる。

 丈の短いドレスは幼い少女が着ることを許されるドレスだ。エリーゼが爪先まで隠すフルレングスのドレスを纏い、社交界へ出るのはまだ先である。

 貴族の娘は十五を数えるまで演劇場や夜会に踏み入れることができない。当然、まだ九歳のエリーゼが完璧な淑女として振る舞えるはずもない。けれど、社交界デビューに向けての教育を受けている侯爵令嬢は立派なレディーだ。

 長い髪を纏め上げている所為かエリーゼはとても大人びて見え、クロエは緊張する。

 壁際に使用人に扮したグロリアが立っていることも、緊張の一つの要因だ。


「これが一般的な食堂なのね!」


 溢れ落ちそうなほどに大きな瞳を輝かせ、エリーゼはキッチンを見回している。

 一般家庭よりも裕福な家の様子を見てこの様だ。アパルトマンの狭いキッチネットを見た日には仰天するのではないだろうか、と下町育ちのクロエは焦った。


「ごちゃごちゃしていてごめんね」


 リビングで持て成しをするつもりでいたクロエは、そちらの美化に力を入れていた。しかし、ある事情でそちらの部屋が使えなくなり、隣のダイニングを使わなければならなくなった。


「わたし、お兄様がどんな暮らしをなさっているのか見てみたかったの。日頃お兄様が過ごしているところなら、どんな場所でも構わないわ」


 なんと健気なのだろう。エリーゼの心の広さに胸を打たれたクロエは、その愛らしさに思わず目を潤ませた。






 かねてよりの約束の茶会をする為にエリーゼはやってきた。

 客がくるということは持て成す側にはそれ相応の準備がある。

 侯爵令嬢を招くというクロエの頼みにエルフェは戸惑いを示したが、エリーゼと面識のある彼はこの家で茶会をすることを許し、ケーキまで作ってくれた。

 ティースタンドに並べられた色とりどりのフルーツサンドイッチやタルトはそれだけで乙女心を擽る。

 甘い菓子を前にして頬が緩んでしまうことに身分や年齢の差はないようで、クロエもエリーゼも笑みがこぼれた。

 クロエはダージリンティーにミルクを注ぐ。

 グロリアが皿の下にナプキンを敷くと、エリーゼはスコーンを取った。


「クリームをつけられますか、それともジャムになさいますか?」

「ジャムにするわ」

「畏まりました」


 頷いたグロリアはエリーゼの皿にジャムを取り分ける。

 甲斐甲斐しく仕える下僕と、それを当然のように受ける主人。これが貴族とその侍従の常なのかと感心していると、グロリアはクロエに対しても訊ねた。


「クロエ様は如何なさいますか」

「わ、私は一人で大丈夫です」


 グロリアは表情を一切動かさずに頷く。

 別世界の住人に見惚れていたクロエは、ティースタンドの一番下の段からサンドイッチを取った。


「このカップ、絵柄が素敵だわ。ロセッティーナかしら」

「うん、エルフェさんが好きで集めているの」

「わたしもロセッティーナの五つ花シリーズが一番好き」

「凝った絵柄だよね」

「絵皿だったらサマードリームも素敵だけど、ティーカップはやっぱり五つ花が華やかで気品があるわ」


 カップを眺めていたエリーゼはゆっくりとストレートティーに口をつける。そして洗練された動きでカップをソーサーに戻し、続けた。


「クロエさんはどちらの食器が好き?」


 愛らしい笑みを向けられたクロエはカップに伸ばした手を引いた。

 自分の手元のカップには花と蝶が描かれている。写実的に色を重ねて描かれた絵柄は美しいの一言に尽きるが、名前が分からない。食器に拘りを持たないクロエはどのようなブランドがあってシリーズがあるのか分からなかった。

 貴族のエリーゼにとっては、持て成しを受け、その家の食器を素晴らしいと感じたら褒めるのが礼儀だ。そのような付き合いを知らないクロエは答えに窮する。


「私は……あんまり食器には拘らないかな」

「そう、なの?」

「綺麗なお皿も素敵だと思うけど、料理をどうやって盛り付けたら美味しそうに見えるかとか考えるのも楽しいし、シンプルで丈夫なものが良いかも」


 つまらない庶民の娘と思われてしまうかもしれないが、これが精一杯の答えだ。

 ルイスが口にしていた、別世界の人間ということを痛感したクロエは苦笑いをする。

 本物の貴族の前では気取ることもできない。何せアフタヌーンティーのマナーも知らないのだ。ティースタンドから取るティーフーズの順番も、初めの紅茶はストレートで飲むという常識も知らない。

 クロエはミルクティーを一口飲むと曖昧な笑みを浮かべる。


「クロエさんらしいと思うわ」


 エリーゼはスコーンにジャムを乗せながら朗らかに微笑んだ。少女のその笑顔は大粒の宝石のように華やかで、クロエは眩しく感じてしまった。

 茶会は穏やかに進んでいく。

 無知なクロエに配慮したのか、エリーゼが選ぶ話題は菓子や動植物のことばかりだった。

 明るく愛らしくて、賢く気配り上手で、大人っぽくて。エリーゼという少女の器量にクロエは自分の小ささを痛切に感じた。

 けれど、嫉妬する気持ちは起こらない。

 嫉妬もできないほどに彼女と自分は別世界の住人だった。

 そうして三杯目の紅茶を飲み終え、ティーフーズも減ってきたところで隣室から顔を出した人物がいる。


「ごきげんよう、可愛らしいマドモワゼル」


 やってきた彼等は、リビングが使えなくなった原因でもあるフェーエンベルガー親子だ。

 朝から我が物顔で弟宅に入り浸っているメフィストはエルフェのケーキを見て微笑み、それを頬張る娘たちの姿に更に笑みを深くする。


「クロエさん。そちらは?」

「エルフェさんのお姉さんのメフィストさんと、その息子さんのフランツさんだよ」

「……えっと、失礼しました」


 エリーゼは自ら名乗ると両手でドレスを摘まみ、膝を折って頭を下げた。

 すると、メフィストは社交の手本のように優雅に微笑んだ。


「公の場ではないし、私は家から出ている身だから畏まらなくて良いのよ」

「いいえ、貴族の子供は貴族に在らず。わたしが膝を折るのは当然のことですわ」


 貴族の子供は厳密に言えば貴族ではない。勿論妻も貴族ではないが、元侯爵令嬢であり伯爵夫人であるメフィストと、幼いエリーゼには上下が存在する。


「躾の行き届いた子ね。まだ社交界に出ていない年でしょうに」


 慈愛に満ちた目でエリーゼを見たメフィストは、妙案を思い付いたというように胸の前で手を合わせる。


「ねえ、可愛いエリーシャ嬢。うちのフランツはどうかしら?」

「何を仰せになるのですか、母上! 俺はずっとお側で母上をお守りすると――」

「今はこんな風だけれど、きっとあなたのことをお守りできると思いますの」

「お父様に相談してみないと分からないです」


 エリーゼは即答だ。


「うふふ……、そうよね。でも考えて頂戴。私はヴァレンタイン家と仲良くさせて頂きたいもの」


 メフィストは小首を傾げてうっとりと笑った。貴族の子供として社交辞令に慣れているエリーゼもまるで動じない。淑女たちは言葉遊びを楽しんでいる。ただフランツだけが困惑顔で母親と幼い少女を見比べていた。


「ところで、エリーシャ嬢。あなたの小間使いをお借りしても宜しいかしら?」

「ビアンカ」

「……畏まりました」


 エリーゼに命じられたグロリアは従順に従う素振りを見せる。しかし、一瞬その黒い双眸に鋭い光が閃いたのをクロエは見逃さなかった。

 メフィストは小さく笑うとフランツを連れて歩き出す。その後にグロリアが続いた。

 扉は再び閉ざされ、クロエはエリーゼと二人きりになる。

 横槍が入れられた所為ですっかり会話が途切れてしまった。

 何か言わなければ。そう考える間もエリーゼはこちらをじっと見つめてくる。

 カップに残っていた紅茶を飲むと、熱くも冷たくもなかった。

 沈黙はこの紅茶の温度に似ている。じわりと広がる沈黙にクロエは焦る。

 すると、エリーゼの方から口を開いた。


「わたし、クロエさんのお部屋が見てみたい!」

「え……!?」

「クロエさんのことがもっと知りたいの。ね、良いでしょう?」


 たじろぐクロエをエリーゼは尚も見つめてくる。

 甘えたような眼差しと声は施設で面倒を看ていた妹を思わせ、同性のクロエでも可愛いと感じる。そういうものに弱いクロエはエリーゼを案内した。


「うわあ、明るいお部屋!」


 部屋に足を踏み入れたエリーゼが初めにこぼした感想はこうだった。


「冬は暖炉がなくても暖かそう」

「今はちょっと暑いけど、日向ぼっこには良いかな」


 レースのカーテンを開けると眼下にはマルシェ広場がある。

 今の季節は日射しが強いのでカーテンを締め切りがちだが、クロエは窓から広場を眺めるのが好きだ。

 質素に徹した部屋の唯一の華がこの窓かもしれない。


(エリーゼちゃんが喜びそうなものがあれば良かったんだけど)


 クロエの部屋には他人に見せるような調度の類いは殆どない。

 施設で暮らしていた時間の長いクロエは、エルフェのように食器を飾ったりも、レヴェリーのようにポスターを貼ったりも、ヴィンセントのように酒を集めたりもしない。調度といえば、ぬいぐるみと観葉植物の鉢がある程度だ。

 エルフェには無趣味さを心配されていたりもするが、欲しい物がないのだから仕様がない。

 そういえば、ディアナも部屋には物を置かない性質だった。派手な衣服や装飾品を好む割には調度には拘らなかった。

 他人の見ないところで手を抜くのは自分と彼女の似ている箇所だろうか。

 ベッドに置いたぬいぐるみを並べ直しながらクロエがそんなことを考えていると、エリーゼが硬い声を上げた。


「これは、お兄様のだわ」


 彼女が手にしたのは、黒い染みの付いたハンカチーフ。それはパイ投げ祭り(オレンジデー)の際にクロエがルイスに借りたものだ。

 胸の前でぎゅっとハンカチーフを握ったエリーゼは眼差しだけで問うてくる。


「洗って返そうと思ったんだけど、汚れが落ちなくて……」


 元々捨てて良いと押し付けられたものなので、返す機会が見付からずに部屋に置いたままになっていた。

 困るものを見られた訳でもないのに、クロエは隠しものを見付かったような心地になる。

 捨てることも、返すことも、弁償することもできていない。

 未練がましく持っていたと知ればルイスは嫌がるだろう。今度こそ嫌われるかもしれない。何もできないクロエは、こうして見える位置にそれを置いておくしかできなかった。


「わたしが返しておくわ!」

「あ……うん。そうしてくれると助かる」


 エリーゼは笑顔だ。そこに悪意がないからこそ、胸は痛んだ。

 彼女の良心を利用することになったクロエは消えてしまいたくなる。そんなこちらの心の内を知らないエリーゼは、甘い菓子を頬張った時のように穏やかに微笑みながら兄のことを語った。


「わたしのお兄様は優しいでしょう?」

「……うん、そうだね」


 メルシエの言うように、クロエの世界が狭いからルイスが優しく感じたのかもしれない。

 親も友人もなく育ったから、当たり前のことが特別に感じる。愛情に飢えているから、人として当然の気遣いを勘違いして受け取ってしまった。


「お兄様は誰にでも優しいの。お父様にも、お母様にも、ご友人にも。わたしが流行り病を得てしまった時もずっと傍にいてくれたわ」


 クロエの声に耳を傾けてくれたのも特別なことではない。彼という人間の尺度では当たり前のことなのだ。

 けれど、救われたことに変わりはない。

 等量に降り注いだ雨だとしてもクロエはその恵みに感謝している。だからこそ役に立ちたかった。


「お兄様はもっと自分の為に生きるべきよ」


 エリーゼは紫陽花色の瞳を憂いに陰らせる。長く密な睫毛を伏せた様子ははっとするほどに大人びている。


「他人のことなんて考えずに自分の幸せを求めるべきなの。クロエさんもそう思うでしょう?」

「エリーゼちゃん……」

「だから、決めたの」


 エリーゼは何を決めたのかは言わなかった。ただ強い決意を自らに課すように呟く。

 そうして、顔を強張らせるクロエの前でエリーゼは兄のことを語るよりも嬉しそうに微笑んだ。


「わたしはお兄様のお役に立てるわ」

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