姫君は花の国を夢みる 【3】
ベルシュタイン駅でアンジェリカと別れたクロエは一時間ほど鉄道に揺られ、テーシェルへ戻った。
駅から出た途端、熱い空気が肌に触れる。
時刻は午後四時。空からは強い陽光が降り注いでいる。【アルケイディア】では七月と八月の日照時間が長く、十九時頃まで明るいこともある。丁度、今の時間帯が一番気温が上がるのだ。
クロエは日陰の道を選び、緩やかな坂道を下っていった。
割れ物を持っているので慎重に歩かなければならないが、その足は自然と早くなる。
(エルフェさんに早く教えないと)
メルシエの同居相手はアンジェリカだ。エルフェが気兼ねする必要はないのだ。
エルフェのそれは今の状況が災いしているというよりは性格の問題のような気もするが、それは良い。今は兎に角、彼から彼女へアクションを起こさなければ駄目だ。重い腰を上げてもらわなければ、メルシエがいなくなってしまう。
クロエはエルフェを責付くつもりはない。ただ、彼が自発的に動けるよう不安要素を排除する。それが自分に許される干渉だと思った。
マルシェ広場まで戻ってくると、喫茶店の扉には閉店の札が掛かっていた。
いつもならこれから片付けをする時間だというのにどうしたのだろう。不思議に思い、外から店内の様子を見ると、まだ片付けは済んでいないようだった。
こんな状態のままエルフェは何処に行ったというのだ。
クロエが訝しみながら玄関口の扉を開くと、探し人の姿はそこにあった。
「ただいま帰りました」
門限に厳しいエルフェなのでクロエはきちんと帰宅の報告をする。そして、訊ねた。
「お店はどうしたんです?」
「俺はいない」
「はい?」
「俺という存在はここにはいない。分かったな」
「いえ、あの、話がさっぱり分からないんですけど……!」
仕事着のまま玄関ホールに佇むエルフェは要領を得ないことを語る。
存在しないも何も、目の前にいる。言っていることが可笑しい。
クロエはエルフェが暑さでばててしまったのかと心配した。
「今日は……というか、暫くお休みになった方が良いです。店の片付けは私がやりますから、早くシャワーを浴びて寝て下さい。エルフェさんは働きすぎなんですよ」
「俺は疲れてなどいない」
「いえ、でもエルフェさんここにいますし……!」
「俺が言いたいのは、今日はこれ以降誰がきても戸を開けるなということだ」
「ルイスくんとローゼンハインさん、まだ帰ってきていないですよね?」
「今は夏だ。一晩くらい放っておいても死にはしないだろう」
「駄目です!」
やはり今のエルフェは正気ではない。
これは他の者に状況確認をするべきだろう。砂糖菓子屋の仕事から戻っているはずのレヴェリーを呼ぼうと、クロエはエルフェから離れようする。
まさにその時、異変は起きた。
「あらまあ、戸締りがなっていないわあ」
誰もいないはずの部屋から声が聞こえた。
エルフェはその場に縫い止められたように一点を凝視したまま固まる。
(だ、だれ……?)
クロエが恐る恐る確かめると、玄関ホール横の応接間には窓枠を乗り越えようとする女性の姿がある。
身形は良く、窓枠を跨ぐという大胆な行為をしながらもドレスの裾は殆ど乱れていない。優雅な動作で応接間に降り立った妙齢の女性は、唇を笑みの形に歪める。その姿にエルフェは青冷めた。
「わたくしのことが分からない訳じゃあないわよね」
「……フェーエンベルガー伯爵夫人……」
立ち竦むエルフェに向かって女性はにっこりと微笑みながら歩み寄る。
「メフィストお姉様、でしょう? いつもお姉様から逃げていけない子ね、レイフェル」
親愛を示すように肩に手を置く。すると、エルフェの顔が醜く歪んだ。
「あら、美男子さんが台無し。レイフェルらしいといえばレイフェルらしい反応だけれど」
「姉さん……」
「元気そうで良かったわ」
「メフィスト姉さんも……変わらずお元気そうで何よりです」
もう姉から逃げられないと悟ったエルフェは表情を絶望に染めたまま応対する。元から起伏が小さな彼の声からは抑揚が消えている。完全な棒読みだ。
弟のあからさまな拒絶に姉は目を細めて笑う。
姉弟間の力関係が分からないクロエは黙って見守るしかない。
部外者が踏み込めない空気を破ったのは、母親を呼ぶ息子の声だった。
「は、母上……お待ち下さい……!」
今し方、エルフェの姉が乗り越えてきた窓の外には少年がいた。
「遅いわ。早くこちらにいらっしゃい」
「そう言われましても……」
よろよろと窓枠を乗り越えようとして、けれどそれができずにがくりと項垂れる。クロエが扉を開けてやると、少年は直ぐ様飛び込んできた。
エルフェの姉は呆れを含んだ眼差しで一瞥した後、そこで漸く存在に気付いたというようにクロエを見た。
「初めまして。私はレイフェルの姉のメフィスト。こっちは息子のフランツ」
少しだけ首を傾げ、メフィスト・フェーエンベルガーは鮮やかに微笑んだ。
青いドレスに身を包んだ淑女の名はメフィスト。
上から数えて八番目だというエルフェの姉は、レイヴンズクロフト家の特徴である銀髪碧眼の容姿だ。
淡い青が入った灰色の目はエルフェと同じで、寒々しい銀灰色の髪はファウストと同じ。二人とは趣の異なる顔に屈託のない笑みを刻んでいる彼女は、クロエの用意した紅茶を美味しそうに飲んだ。
「姉さんが家に戻ったという噂は聞いていたが、何故ここにいる?」
「旅行よ。傷心旅行という言葉もありますでしょう」
「だから何故ここを選んだのかを訊いているんだ」
「だってレモネードが飲みたくなっちゃったんだもの」
「………………」
「ピンクレモネードって響きが素敵。乙女心を擽るわあ」
メフィストはまるで世間知らずの乙女のように小首を傾げた。
彼女の実年齢を知らなければそのように見えるかもしれない。しかし、姉の実態を知っているエルフェは思いきり渋面を作った。
メフィストの一挙一動にエルフェの生気が奪われているというよりは、メフィストが目の前にいること自体がエルフェの精神を削っている。椅子に浅く腰掛け、いつでも逃げられるようにしている辺りからも彼の怯えぶりが窺えた。
(お母さんが違うお姉さんなんだよね)
フェーエンベルガー伯爵家に嫁いだというエルフェの姉。彼女の嫁ぐ前の名はメフィスト・カヴァレーラ・ルウ・レイヴンズクロフトという。
そう、十二人の異母姉弟ではファウストと母親を同じくするのだ。
あの人物の姉と聞けばクロエも警戒する気持ちがある。おまけに十二人姉弟は上にいくほどに変わり者だという噂も聞いているので、余計に構えてしまう。
だが、メフィストは屈託のない笑みを弟以外へも向ける。そして、弟の言動を不快に感じたら渋面を作る。どうやら彼女は感情が顔に出てしまう性質らしく、そういう意味ではクロエは警戒心を解くことができた。
クロエは二杯目の紅茶の用意をしながら、もう一方の客人へ目を向けた。
「へー、フランって二男なんだ」
「気安く名前を呼ぶな。というか、勝手に略すな」
「細けーよ。名前なんて減るもんじゃねぇんだし別に良いだろ」
「良くない。この名は母上が付けて下さった名前だぞ!? その名を略すなど身内でも許せんだろう!」
「……あー……うん、分かった。分かったから落ち着けよ。お前が母ちゃん大好きなのは分かったからさ」
変人奇人の相手に慣れているレヴェリーの対応は流石だ。まるで動じる様子がない。
姉弟が向き合うリビングの隣のダイニングでは、こうして少年たちが戯れ合っている。
(レヴィくんと同じか、少し下くらいかな)
一般的にドレヴェス人は体格がしっかりして手足が長いので、実年齢よりも年長に見える者が多い。
メフィストの二番目の息子だというフランツ・フェーエンベルガーも長身で、短く刈った黒髪や一重瞼のきりりとした双眸は精悍な印象があった。
「折角訪ねてきたお姉様を追い返そうだなんて酷い子ね……」
ふと、悲しげな声が聞こえてきてクロエは振り返る。
「旅ならば俺の家に滞在する必要はないだろう。疾く去ね」
「あらぁ、乱暴な言葉を使って怖いわあ。姉が可愛い弟の傍にいたいと思うのに理由は必要ないはずじゃなくて?」
「迷惑だ」
「あなたって昔からそう。ファウストにばっかり懐いて、お姉様たちを邪魔者扱いするんだから」
「邪険にしたくなるようなことをしているのは、あんたたちだろう」
ここに滞在したいというメフィストをエルフェは追い返そうとしていた。
急な話にエルフェが怒るのも分かるが、遥々訪ねてきた客人をそのまま返すということも良いとは思えず、クロエは二人の間に割って入った。
「部屋がないからうちに泊められないというのは仕方ないと思います。幸いここなら近くに宿もありますし、そこまで案内してあげたらどうですか?」
「お前は下がっていろ」
「エルフェさんが行かないなら私が宿を探してきます」
その提案にエルフェは渋面を作った。クロエは続ける。
「もう少ししたら外は暗くなりますよ。メルシエさんも最近は物騒だって言っていました。このままお姉さんを帰すなんて駄目です」
「姉さんを襲う奴などいる訳がない」
義理の父娘が言い争っていると、話の中心となっているメフィストは声を出して笑った。
エルフェの辛辣さにもクロエの無遠慮さにも気分を害していない、明るい声だ。
「ふふ、安心して頂戴。宿ならちゃんと取ってありますの」
広場を挟んで向かいにある宿を取っているのだとメフィストは白状した。
姉にからかわれていたと知ったエルフェは眉間に皺を寄せる。メフィストはそんな弟の姿は目に入らないというように、クロエを見た。
「とても良い子なのね。私、あなたが気に入ってよ」
クロエは手を取られ、柔らかく微笑み掛けられる。
メフィストは手袋をつけているので手のぬくもりは伝わってこなかったが、手付きは優しい。向けられた笑みは慈愛に満ちていて、母性を感じさせた。
それからクロエは二杯目の紅茶を客人たちに出し、その場を離れた。
(今日は暑かったから疲れちゃった……)
客人が帰るまでは夕飯の支度もできそうにない。自室で少し休もうと考えて玄関ホールまで行くと、そこで丁度帰宅したルイスと鉢合わせた。
「お帰りなさい」
「……ああ」
ルイスはただいま、とは言わない。
ここは彼の実家ではないのだから仕方ないのかもしれないが、クロエはそれが寂しく感じる。
以前なら、これだけでも幸せだった。
朝に始めに会った時に皆と挨拶を交わして、一人きりではない生活に安堵をして。例え彼が応えてくれないとしても、クロエは満足できていた。
だけど、今は悲しい。
彼の方から挨拶をして欲しいとか、名前を呼んでもらいたいとか、そんなどうしようもないことを考えてしまう。
贅沢になってしまったことを恥じるしかない。
醜い自分を押し隠して、クロエは訊ねる。
「今日はお仕事だったんですか?」
「別宅にエリーゼが来ているから会いに行ってきた」
「エリーゼちゃん来ているんですね」
「良かったら一緒に茶でも飲んでやってくれないか。屋敷で暇を持て余しているようだから」
「構いませんよ。私もお話しできたら楽しいですし」
ここへ連れてくるのでアフタヌーンティーに付き合って欲しいという頼みに、クロエは頷いた。
エリーゼとは春に茶会をするという話をしてから会っていなかった。その約束を叶えることができるなら、拒む理由など何処にもない。
クロエはどんな持て成しをしようかと考える。その胸に不意に不安が広がった。
(エリーゼちゃんは何処まで知っているんだろう)
エリーゼは双子の親について何と聞いているのだろうか。
先日、ヴァレンタイン家に帰宅したルイスは顔に傷を作って戻ってきたのだ。侯爵と実親のことを話した結果だと彼は語ったが、ならばエリーゼは何処まで話を聞いているのだろう。
分からない以上、迂闊なことは喋れない。
そんなことを考えて、クロエは即座に否定する。
(私が訊いちゃいそう)
義親に殴られるほどの何をしたのかを訊いてしまいそうだ。
知らないことが沢山あるというのに、どんどん知らないことが増えていく。
彼の抱える問題は簡単に触れては良いことではない。彼の過去にも、現在にもクロエが干渉する権利はない。そうだというのに知りたいと思う。
もしや自分は彼のことを知りたいから、彼の妹に関わろうとしているのだろうか。
何を口実にしてでも関わりたいのかとヴィンセントは嘲笑したのだ。
(そんなことない)
自己嫌悪の気持ちが込み上げ、クロエは表情を曇らせる。
「何かあったのか?」
「何もないですよ」
「嘘だ」
「貴方が気にするようなことじゃないです」
ルイスに突っ込まれるのが一番困る。
貴方にかまけて母親を蔑ろにしていることを指摘されて落ち込んでいた、などと言えるはずがない。
「何もないならそんな暗い顔しないだろ」
「私は元から陰気です」
「そういう話じゃない」
「私とヴィンセントさんの問題です!」
クロエは棘が出そうになり、声を張り上げた。
身を翻し階段を駆け上がろうとする。だけど、できなかった。
手首を掴まれ、引き寄せられる。小窓から射す夕日を背に浴びる彼の爪先が一歩前に出た。クロエは近すぎる距離に戸惑うより先に胸が痛くなった。
(どうして……)
どうしてこういう時ばかり踏み込もうとしてくるのだ。
手首を拘束するのは、今まで散々追い縋っていた男だというのに、いざ自分が捕まえられると泣きそうになる。彼が何をしたという訳でもないのに逃げたくなる。
クロエが批難を込めて見上げると、その顔を映す紫色の瞳がじっと細くなる。
「あの男の傍に行かないで欲しい」
「え……」
一瞬、息が止まった。呼吸も瞬きさえも忘れた。
ルイスは不愉快に思っただけなのだろう。けれど、その主張はクロエの胸に甘く響いた。
掴んだ手を握る力は強く、こちらを見つめる眼差しはそれ以上に強い。その行動に、その言葉に、特別な意味があるのではないかと――あって欲しいと願う自分が悲しい。
クロエは密かな動揺に気付かれないようにそっと呼吸をして、彼の言葉を待った。
「あいつとキミの機嫌が悪いとオレにとばっちりがくるんだ」
予想し得た答えに落胆する。それ以上に、落胆した自分に失望する。
他人に期待して落胆できるほど自分は偉い人間ではないのに、そんな自分の立場は弁えているはずなのに、心は矛盾したものを求めている。
矛盾が何処から生まれてくるものなのかを考えることをクロエは放棄した。
「ヴィンセントさんは悪くありません。私がお母さんのお見舞いをさぼっているから怒られただけです」
上擦りそうになる声を堪えながらクロエは弁明する。
虚勢に強張った小さな肩から流れ落ちる髪を見つめるルイスは浅く息を吐き、そして言った。
「週に三度も顔を出せば充分だ」
「でも、貴方なら毎日行きますよね?」
「オレは……何というか、親離れができていないから……」
「自分で言わないで下さい」
ヴィンセントに延々と揶揄されて自分がそういうものなのだと思い込み始めているルイスだが、クロエはそうは思わない。
ルイスは亡くした両親を神を崇めるように慕っている。その依存は甘えというよりは、克己的な心の表れのように感じる。だからこそ、クロエは自分の醜さを痛感する。
「家族が一番じゃないのは薄情です」
「どういう意味で言っている?」
「例えば……、私がお母さんが一番じゃないって言ったら酷い娘だと思いますよね」
家族の復讐を一番に考えているルイスは家族が何よりも大切なはずだ。
そういう彼に詰られれば頭も冷えるだろうと目論み、クロエは自罰的な問い掛けをした。
「それが普通だと思う」
「普通?」
「父親や母親が一番なのは子供の時だけだ。普通は他に大切なものができる」
(……だけど、貴方にとってはそれが普通なんでしょう?)
クロエを肯定するルイスの耳許に揺れるのは、両親が残したブルーダイヤ。
気持ちの整理が付くまでは使わないと語っていたそれを、ルイスは両耳に着けている。サファイアでもアクアマリンでもない落ち着いた色合いの石は彼に良く似合っていた。
すっかり馴染んでしまっているからこそ、痛感する。
彼が一番に想うのは喪った両親だという事実が、悲しい。
その想いを邪魔したくない。余計な手出しをして、また彼が沈んでしまう姿を見たくない。いや、そんなものは建前だ。クロエは彼に嫌われるのが怖い。
怖くて、何もできない。
死んでしまった彼の両親に適わないという事実よりも余程恐ろしい。
「そういう人がいるなら大切にした方が良い」
いつまでも一緒にいられる訳ではないのだから、と小さく言ってルイスは口を噤んだ。
ルイスが大切なのは家族だということを強く思い知ったクロエは掴まれたままの手を引いた。
「離してくれますか」
「何を」
「手を、です」
「……ああ……、ごめん」
クロエの指摘を受けて気付いたというようにルイスは手を離した。
無意識でここまで握っていたというのはあんまりだ。指先の強さに、手首はすっかり赤くなっていた。
「悪かった」
「……いいえ」
衣擦れの音と共に影が揺れた。
明かり取りの小窓から射し込む夕日は周囲を赤く染めている。クロエの髪も今は燃えるように赤かった。ルイスは何か物言いたげな面持ちをしたが、諦めたように目を伏せ、クロエの横を通り過ぎた。
足音は遠ざかっていき、やがて聞こえなくなる。
静寂の中に取り残されたクロエの胸に今し方、彼が口にした言葉がよみがえる。
「大切にしたいから」
大切にしたい。優しくしてあげたい。彼の傷を埋められるのなら、この自分の何をあげても良い。
けれど、クロエにはもう何も出すものがない。
友情が駄目なら愛情をと思いもしたが、愛情も両親が残した形見で足りてしまった。
空は赤く滲んでいる。
このような夕暮れを一人で眺めていると色々と考えてしまう。
胸の痛みを掻き立てる景色を拒むように、クロエは踵を返した。