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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
七章
156/208

姫君は花の国を夢みる 【2】


「もう七月だよ」


 あれからもう三ヶ月が経つというのにディアナは未だ眠っている。

 あの時、階段から落ちたクロエを庇ったディアナは身体を――頭を打っている。当たりどころが悪かったのかもしれないと、医者は語った。

 このままずっと目覚めないかもしれないし、目覚めたとしても何か後遺症が残るかもしれない。

 そういう診断を始めに受けて覚悟はできていたものの、実際眠り続けている彼女の姿を見るのは辛い。

 花瓶の花を新しいものに替えながらクロエは話し掛ける。


「来月にはテーシェルでお祭りがあるの。賑やかなの好きだよね」


 ひと月後にはテーシェルの水上花火が行われる。

 数百の花火がテーシェル湖で上げられる光景は圧巻だろう。

 派手好きなディアナは喜んではしゃぎそうだ。クロエは子供の頃の記憶に思いを馳せ、語り掛けるがディアナは目を閉じたままだった。

 母は子供の声が届かぬほど深い眠りに落ちていた。

 クロエが悲しい気持ちで古い花の片付けをしていると、今まで黙っていたヴィンセントが言葉を発した。


「お前、最近怠慢じゃない?」

「何がですか?」

「ここにくるのだよ。前はもっときていたのに最近はちっともこないじゃない」

「……私にだって私の生活があります」

「男の世話焼く暇はあるのにディアナを見舞う暇はないっていうのは可笑しいよね」


 痛いところを突かれたクロエは思わず手を止める。

 ディアナの傍らに寄り添ったヴィンセントは離れ難いというように彼女に触れている。


「お前が能天気に遊んでるのに何でディアナが眠ってるんだって思うよ」

「それは……、そんなこと言われても、困ります……」


 クロエが逃げなければ、ディアナは頭を打つこともなかった。

 不可抗力だと、理不尽だと思っていても、胸の中には自責の念がある。ヴィンセントの言葉はそんなクロエの胸を鋭く貫いた。


「ディアナの子供ならディアナのことを一番に考えるのが筋ってもんじゃない? お前なんかができた所為でディアナは苦労したんだから、お前はもっとディアナに尽くすべきだよ」


 クロエはヴィンセントに存在を認められたから生かされたのではない。ディアナの娘としての価値を見込まれ、生かされている。

 ヴィンセントにとってクロエの価値はディアナの娘ということに尽きる。その娘が望み通りの働きをしなければ、不満に思って当然だ。


「そもそも、お前の所為でディアナはこうなったんだからさ」

「――――!」


 胸が、ざっくりと切り裂かれた。

 ディアナの代わりに死んでいれば良かったのだと言われたようで、クロエは放心する。


『つまらない人生だって……生まれてこなければ良かったって……、その言葉を取り消して下さい』

『醜く生きて、幸福になってみろ。その結果が俺が納得できるようなものだったなら、あの言葉は撤回してやるよ』


 幸せになって自分を納得させてみろとヴィンセントは告げた。

 けれど、無理だ。

 クロエの【幸せ】をヴィンセントは認めない。

 今の彼はきっと笑みを浮かべていない。表情を怒りに染めてもいない。彼がどのような顔をしているのか想像ができるクロエは恐ろしくて振り返ることができない。






 帰り道、クロエは大きな背の後ろをとぼとぼと歩いていた。

 ヴィンセントの言うようにクロエは近頃、ディアナの見舞いから遠ざかりがちだ。

 目覚めない母の姿を見ているのが辛いというのは以前からあった。だが、最近はそれだけではない。

 今のクロエには自分の何をあげても良いと思う相手がいる。

 大切にしたい人がいる。

 信じられないと思うけれど、そうなのだから仕方がない。そのことについて言い訳をするつもりはない。

 クロエはこうなることで、ディアナがヴィンセントに向ける複雑な想いも感じ取れるようになった。ほんの少し、以前よりも女の母を理解できる。

 だからこそ、好きでもない相手と何故そういう行為ができるのかと疑問に思う。

 愛してもいない男の子を宿し、その子供を適当な相手に押し付けて。クロエはディアナがしたことに一層の嫌悪が湧いてしまい、そんな自分が恐ろしくなる。母なのに――彼女がそうしたからこの自分が生を受けたのに――彼女を許せなくなりそうなのだ。


(親不孝だよ)


 母のことを一番に想わなければならないはずなのに、それができていない。

 ルイスやレヴェリーは母に会いたくても会えないというのに、いつでも母に会うことのできるクロエはそれを怠っている。

 ヴィンセントが可笑しいと言うのは理不尽なことではなかった。


「私、行くところあるので先に帰っていて下さい」


 クロエが足を止めると、先を行くヴィンセントも歩みを止めた。

 見下ろしてくる双眸を真っ直ぐ見返す。

 疚しいことは何もないはずなのに、彼の眼差しを受け止めることはクロエの精神を酷く削った。


「逃げる気?」

「逃げるも何も私の家はあそこしかありません。メルシエさんのお店で買うものがあるんです」

「ああ、そういえば皿割ってたね。割るくらいなら一人でやれば良いのに莫迦なの? それともそういう仕事を口実にしてでも関わりたいの? だとしたら惨めだなあ。滑稽ですらあるよ」


 ヴィンセントは長々と批難と揶揄の言葉を口にした後、まるで飽いたとでもいうように視線を明後日の方角に逸らし、吐き捨てた。


「さっきのこと謝らないからね」

「構いませんよ。ヴィンセントさんはディアナさんのことだけ想っていれば良いんです」

「じゃあ、そうさせて貰うよ」


 言うや否や来た道を戻り始めるので、クロエは焦った。


「あの、駅の方角はそちらでは……」

「早く帰る必要はないよね」

「戻るんですか?」

「お前がいた所為でゆっくりできなかったんだよ」


 どうやらヴィンセントはディアナのところへ戻るようだった。

 その一途さに呆れもするが、憧れもする。

 誰かの傍にいることは簡単に見えてとても難しい。

 友情、愛情、利益、血縁。人が人の傍にいることには様々な理由があるが、どれなら許されるのだろう。






 閑静な住宅街にある骨董品店【Waldhaus】。

 ヴィンセントと別れたクロエはメルシエの店にやってきた。


「クロエちゃん、雰囲気変わったね」

「髪伸びてきましたしね」

「そういうことじゃないんだけど……まあ、良いか」


 一つに結っていた髪を下ろし、背も伸びたのだから雰囲気は違って見えるだろう。クロエはメルシエの指摘をそのように捉えたが、彼女の言いたいことは違うようだった。

 クロエがメルシエと顔を合わせるのはふた月振りだ。

 久々に会ったということもあり、近況報告混じりの世間話を交わす。


「へえ、シューリス語やってるんだ。喋れるようになった?」

「まだ聞き取るので精一杯でちょっと焦っています」

「シューリス人は共通語で話し掛けると無視する奴いるしね……」

「ちゃんと喋れるようになって買い物くらいは一人でできるようになりたいです」

「若いんだからすぐ覚えられるって。あたしも最近馴れてきたつもりなんだけど、変かな」

「完璧です」


 生まれも育ちも【ロートレック】という生粋の貴族であるメルシエは共通語を苦手としていたが――普段はドレヴェス語とシューリス語しか使わない――最近は言葉に詰まることも少ない。クロエとの会話もスムーズだ。

 クロエにとってメルシエが同性の相談相手であるように、メルシエにとってもクロエは気安い話し相手だ。事情を知る者同士、語ることも多かった。


「ところで、今日は何を探しにきたの?」

「えっと……お皿を割ってしまって、代わりになるものを探しにきました」

「少しくらい壊してやった方が良いよ。コレクション増えていくだけなんだから」

「コレクション……」

「食器だからまだ何となく許せるけど、やってることは綺麗な石を集めて喜んでる子供と同じ。食器収集家なんて高尚な呼び方しなくて良いよ、食器オタクで充分。誰かが捨てていかないと延々と増えていくよ」


 数十年の付き合いになると、良いところ以上に嫌なところも知り尽くしているのだろう。エルフェの悪口を言う時のメルシエは容赦がない。

 メルシエは気にすることはないと慰めてくれるが、皿を割った理由が理由だけにクロエは申し訳ない気分だ。せめてもの詫びに、代わりの品はなけなしの審美眼を駆使して真剣に選ぶ。

 絵皿よりも料理が映える無地の皿が良いだろう。リムのすらりとしたラインが美しいと料理も美味しそうに見える。何より白皿は汎用性が高い。

 クロエはいつものようにメルシエに相談しながら選んだ。


「普段使いなら二級品混ざっても良いよね」


 メルシエは展示棚の下から取り出した皿を丁寧に梱包していく。

 クロエは展示された姿見越しにその横顔を窺う。


(変わった様子はないんだけど……)


 仕事に打ち込む姿勢も、言動も、いつも通りだ。

 女一人で生きていくのは大変だから、メルシエは男のような振る舞いをする。嫌味を言う時でさえも女の嫌らしさは感じさせず、さっぱりとしている。普段と変わらないその様子からは、エルフェの他に相手を見付けるようにはとても思えない。

 同居相手がいるとはどういうことだろう。

 直接疑問をぶつける勇気がないクロエは遠回しで訊ねてみる。


「メルシエさんはエルフェさんと出掛けたりします?」

「たまにね」

「どういう場所に行きますか?」

「うーん……、映画かな。ワインバーも結構行くけど、あいつ飲めないからねえ」


 店を梯子することができなくてつまらないのだとメルシエはこぼした。

 映画館というのは友人でも恋人でも無難な場所だが、酒場というのは気心が知れた関係を窺わせる。二人がどういう付き合いをしているのか余計に分からなくなったクロエは唸る。


「誰かと遊びに行くの?」

「……え?」

「出掛ける場所訊くなんて珍しいからさ」

「あ……ええと……ルイスくんとちょっと出掛けるかもという話を……」


 質問を返されるとは思いもしなかったクロエは慌てた。

 参考にする為に訊ねたように取られたのだろうか。エルフェとの関係について詮索していたとは言えないクロエはメルシエの勘違いに乗る。すると、彼女は表情を消してしまった。


「悪いことは言わないから、あの子に関わるのは止めときな」

「ヴァレンタインの皆さんは悪い人じゃないですよ」

「ヴァレンタイン家が嫌いだからじゃないよ。あの子はクラインシュミットの事件の犯人が捕まっていないこと知ってて【死神】(モルト)の弟子になったんでしょ。ろくなもんじゃないよ」

「モルト?」

「教会の異端審問官。ファウストお兄さんだよ」


 またその人物の名が出てきたことにクロエは暗鬱な気持ちになる。

 ヴィンセントの口振りからして教会の暗部にいたのだろうことは推測ができたものの、実際にそうだと聞くと胸の中の蟠りが一層膨らむような気がする。

 ルイスを妙な方向に連れていこうとするなら容赦はしないと、クロエはあの人物から釘を刺されている。

 両者の幸せを考えての忠告だから、その気持ちを受け取って欲しい、と。

 けれど、クロエは頷かなかった。


「自分の立場は弁えています」


 メルシエがルイスを良く思っていないことも、ファウストなりにルイスの未来を考えていることも、母を一番に想えない自分の不誠実さも、こんな状態で出掛けても辛くなるだけだということも、全て分かっている。

 それでも繋がりを求めてしまう自分は愚かだと、そこまで自覚しながらもクロエはどうにもできない。


「クロエちゃんの世界は狭いよ。その世界の中ではあの子もまともに見えたのかもしれないけど、外に出たら絶対気が付く。あんなのに囚われるのは可笑しいって。……あたしはあんたが不幸になるのを黙って見ていられないよ」

「じゃあ、メルシエさんは?」

「あたし?」


 クロエは無意識の内に問い返していた。


「そう思ったからメルシエさんは他の人と――」

「ただいまですぅ!」


 どうしようもない男の傍にいることの虚しさに気付いたから、新しく始めることにしたのか。その問い掛けは、扉の開閉音と甲高い少女の声に掻き消された。

 我に返ったクロエは自分が口走ったことの無神経さと、思いもしない人物の出現に混乱する。

 だが、メルシエと少女――アンジェリカがあまりにも普通に挨拶を交わしているので、すぐに頭は冷えた。


「メルシエさんの同居相手ってアンジェリカちゃんのことですか?」

「そうだよ。クロエちゃんに言ってなかったっけ」


 安堵すると共に脱力感が襲ってくる。

 クロエはてっきりメルシエが恋人を作ったのかと思ったのだ。

 エルフェが同棲などと紛らわしい言い回しをするので、気になって仕様がなかった。彼の意気地のなさと朴念仁ぶりにやきもきし、彼女の心変わりを悲しみもした。

 実際は彼女は彼が考えるような相手を作った訳ではなかった。


「夕飯は何です?」

「ポロネギとジャガイモのグラタンだよ」

「チーズと生クリームはいっぱい入れるです!」

「はいはい」


 今日の晩御飯の献立を楽しそうに訊ねるアンジェリカに答えるメルシエもまた楽しそうだ。

 クロエは思わず恨みがましい目を向けてしまう。


「エルフェさん気にしてましたよ……」

「へえ、気にしてくれたんだ」

「当たり前じゃないですか」

「あたしがいなくてもあいつの人生は変わらないのに」


 けろりとした口調で言いながらメルシエは笑った。いつもの彼女の笑い方とは何処か違う、疲れた笑いだ。

 不意に鋭い感覚が胸を抉った。

 どうしてそのような寂しいことを言うのだ。クロエは言葉も出ない。その間に、メルシエは告げた。


「アンジー。クロエちゃんのこと駅まで送ってきな。最近は物騒だからね」

「……確かに物騒ですぅ」


 カウンターに寄り掛かっていたアンジェリカは含みのある様子で呟き、梱包した商品を持つと扉の前へ移動した。そして、クロエの思いを断ち切るようにして扉が開いた。

 何故と眼差しだけで問うと、短い髪をした女は笑った。

 先ほどとは違う笑顔は詮索の手を拒むものだ。クロエは促されるままに店を出るしかなかった。


(エルフェさんもだけど、メルシエさんも……)


 エルフェとメルシエは互いが相手にとって自分の価値はないもののように考えている。

 相手が自分の傍から離れていったのならそれは仕方ない、と諦めるのだ。

 彼等には彼等の事情と想いがある。だけど、クロエは他人事として割り切れなかった。

 暗澹たる思いに沈むクロエの先を黙って歩いていたアンジェリカは、不意に言葉を発する。


「さっき、アンジーもディアナのところにいたのですよ」

「え……、そうなの?」

「ディアナがああなったのはあいつの所為です。責任転嫁しないと自分を保てないなんてろくでもねぇ奴です。あんな奴、早く捨てられてしまえば良いのです」


 クロエは突然の罵倒に困惑するものの、アンジェリカが慰めてくれようとしているのは分かった。

 気遣いは嬉しい。少しだけ泣きそうになってしまう。

 礼を言うのも筋違いな気がして、クロエは足を早めて優しい少女に並んだ。


「ディアナさんに捨てられちゃったら、ヴィンセントさんは大変なことになるよ」

「あいつの話は七割がディアナのことですぅ」

「それだけ大切だってことだよ」

「重いですよ」

「重いのかな」

「今の相手が唯一とか運命とか一生想い続けるとか、そういうのは重いってディアナが言っていたのです」

「あの人らしいね……」


 アンジェリカの言葉は抽象的だったが、クロエは何となく言いたいことは理解できた。

 つまり、ディアナは一人の相手を想い続けることが陰気だと言ったのだ。


(お母さんは自分のことが好きだからそう言えるんだよ)


 己に自信があるディアナは、恋愛など気軽に数を楽しめば良いと笑うのだろう。

 クロエには無理だ。

 自分のことが嫌いで、そんなどうしようもない自分を見付け、気に掛けてくれた人の優しさに勘違いをして、思い悩んでいるようなクロエはディアナのようにはなれない。

 諦めて、次へ、と切り替えることができない。

 クロエはまさにディアナの嫌う、重たい人間だ。

 それでも、それでもだ。クロエにはクロエなりの意地があるのだ。そこの部分を――自分の大切な心を――他人に否定されたくはなかった。


「お前はディアナとは違うです。メルとも違うです」

「……うん」


 アンジェリカの眼差しを受け止め、クロエは頷く。そして、ディアナと自分は相容れない存在だという気持ちがまた強くなったことを憂いだ。

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