姫君は花の国を夢みる 【1】
七月に入ると長雨も終わり乾期に入る。テーシェルを包む朝霧も晴れ、湖畔の散歩に適した時期だ。
檸檬の木々を揺らす風が窓から吹き込んでくる、爽やかな朝。
こういう朝は時間を気にせずゆっくりとモーニングティーを楽しみたいものだが、生憎この家の朝は忙しく、また住人たちもそういうものを尊ぶ情緒に欠けていた。
この家で静かな食事の時間などあったことがあるだろうか。
答えは否。例にもよって今朝も賑やかな食卓だ。
「このトマト、色やばいんだけどどうしたんだ?」
「お隣さんからの貰い物なの」
「へえ、ブラックトマトなんて珍しいね。何個まで?」
「常識的な範囲でお願いします」
サラダボウルからヴィンセントは十粒ほど、レヴェリーは七粒ほどのトマトを皿に取る。特にトマトが好物でもないクロエとエルフェは控えめに取る。
「ルイ、トマトは? 早く取らないとなくなるぞ」
「欲しくない」
「まだトマト嫌いなのかよ」
「食べろと言われれば食べるよ」
今までクロエが知らずに出していた時は黙って食べていたのだから食べられないことはないのだろうが、ルイスが自主的にトマトを取ることはない。
こういう時、ヴィンセントは嬉々として無理矢理食べさせそうだが、そうしない辺りはやはり好物だ。彼は珍しい黒トマトを気に入った様子なので、クロエもほっとして一口食べた。
「エルフェさん。これで何かお菓子できませんか」
「どういうものが良い?」
「暑いですし、冷たいものが良いですよね」
「ゼリーかシャーベットかババロアか」
「あ、ババロアが良いです」
「考えてみよう」
クロエに答えながらエルフェはサラダにドレッシングを足した。
「ドレッシングかけすぎじゃね?」
「そうでもないだろう」
レヴェリーの指摘を真剣に受け止めようとしないエルフェに、ルイスは呆れ混じりに言う。
「良い年なんだから糖分と油分と塩分と酒は控えないと大変なことになりますよ」
「年寄り扱いするな」
「自分では若いつもりでも二十歳を過ぎれば身体の機能は落ちていくだけです。義息子と義娘の婚姻装束……いえ、孫の姿が見たいのなら今から気を付けるべきだと思います。成人病になってからでは遅いんですよ」
「生々しい話は止めろ」
あんまりな指摘にエルフェは渋面を作り、クロエも思わず噎せる。
「大丈夫かよ……」
「……目玉焼きの胡椒が……」
レヴェリーが背中を叩いてくれたが、言い訳をしても動揺が収まらない。
結婚や出産というのは人生の一大事だ。そのようなことを他人事のように言うルイスが恨めしい。クロエはどうにか呼吸を落ち着け、目尻に浮かんだ涙を拭う。
顔を上げると、涙で滲んだ視界でヴィンセントが意地悪く笑っていた。ヴィンセントは珍しくクロエには何も言わず、その矛先をルイスに向けた。
「他人事って感じだけど、君だってそろそろ身を固めないといけないんじゃないの?」
「そうですね」
「マザコンでファザコンの小侯爵はやっぱりそういう相手もお母様とお父様に選んで貰うのかなあ」
小馬鹿にするように言ってヴィンセントはテーブルにゆっくりと頬杖をついた。
無作法ではあるが、艶めいたその仕草は絵になる。何も知らない乙女なら目を奪われることだろう。
相変わらず見せ掛けだけは完璧な様子にクロエは生暖かい気分になった。
「それとも綺麗なお人形くんは生身の女の子には興味がなくて、死んでいる相手にしか食指が動かない?」
「人生を共有する相手くらい自分で決めますよ。誰かのように痴情のもつれで刺されるような醜態は晒したくありませんから」
「うるさいよ」
「ババロアだったら三層にしようぜ。ストロベリーとマロンとか」
「それは主張が大きすぎる。どうしても三層にするのであれば一層をコンフィチュールにするべきだな」
「トマトババロア、ヨーグルトババロア、トマトジャムとか?」
今朝も変わらず食事の席は賑やかで、変わらず二人はいがみ合っていた。
義理親子二人はトマトババロアの構想を練ることで隣の争いを黙殺したが、残されたクロエの胸にヴィンセントの発した言葉はちくりと刺さってしまった。
七月に入ってからは何かと忙しい日々が続いている。
エルフェはテーシェル文化に適したものを出そうと日々菓子の研究に余念がないし、ヴィンセントはディアナのところへ通い詰めている。レヴェリーは砂糖菓子屋での手伝いをしながらエルフェに菓子作りを学んでいるし、ルイスも外出していることが多い。
クロエはというと、エルフェに勧められて週に数度シューリスの言語を学びに通っていた。
率先して話そうとしない限り言語は身に付くものではないという指摘を教師から受けたクロエは、家の外ではシューリス語を使うようにしているが、まだ聞き取ることが精一杯だ。
新しい生活に慣れるのに時間が要るように、気長にやっていくしかない。自分にできることをできる限りでやろうと考えているクロエは焦るつもりはない。
学習が終わり、帰宅したクロエが観葉植物に水をやっていると電話機が音を立てた。
受話器を取る。すると、名乗る前に用件が告げられる。
『――栓抜きを持ってきてくれ』
「栓抜きですね。すぐに行きます」
クロエは如雨露を置き、路地裏に面した玄関から出た。
広場へ行くと、喫茶店のテラス席は賑わっている。
席の値段はテラス、店内、カウンターの順で安くなるが、やはりここには日光浴をしながら飲食をしたいという客が多い。店内席も人気がない訳ではなく、カウンターでは常連客が他の顔馴染みと話に花を咲かせていた。
会釈をして客の横を通り過ぎたクロエは言い付けられた品を渡す。それ受け取ったエルフェは直ぐ様ワインのコルクを空け、客席に運んだ。
ちらりとエルフェの様子を窺うと、いつもベストに掛けている栓抜きがなくなっていた。
バーテンの必需品である栓抜きをなくすほどに忙しいのだろうか。
(エルフェさん、大丈夫かな)
テーシェルは観光地なので喫茶店の利用者は住民だけでなく、旅行者も多い。狭い店とはいえ、昼時は目の回る忙しさだ。そこでエルフェは一人でバーテン、ギャルソン、料理人、皿洗いの役目をこなしている。
「私、暇ですし、注文を受けたり食器を片付けるくらいならできますよ」
エスプレッソマシンの前でコーヒーを淹れるエルフェにクロエは申し出る。
「……済まん、頼めるか」
「勿論です」
少しだけ考えてからそう返事をしたエルフェにクロエは笑顔で応える。
クロエはカウンターの陰で髪を纏める。それから九つもポケットがついた特製のベストを羽織り、腰には前掛けを着けた。
「おや、可愛らしい給仕さんだ」
客の冷やかしをクロエは笑みで受け流し、入口の前に立った。
「いらっしゃいませ。店内席ですか、テラス席ですか?」
昼下がりの時間はそうして過ぎていき、一息吐けたのは辺りが夕焼け色に染まる頃だった。
カウンター横の丸テーブルにカフェオレと、【Jardin Secret】自慢の日替わりの自家製タルトが運ばれる。その席に客として座った――手伝いの駄賃だ――クロエはタルトを口に運ぶ。
ほろりと崩れるビスケット生地の香ばしさとラズベリーの甘酸っぱさが口一杯に広がる。労働後ということもあり、クロエはあっという間に完食した。
「もう一切れ要るか?」
「いいえ、もう充分です。一気に食べたら勿体無いですから」
同居しているといってもエルフェのコーヒーとケーキを楽しむ機会は少ない。
だが、それで良い。たまに楽しむからこそ価値があるというものだ。
力強く主張すると、エルフェは苦笑混じりの息をついた。
「頻繁にお前の手を借りるようでは困るのだがな」
「べ、別にエルフェさんのケーキが食べたいから手伝った訳じゃないですよ。喋らないと言葉は覚えませんし、何より今日はババロアもあるんですから」
「今日は、か」
クロエは自分に下心がないことを懸命に訴えたが、エルフェはあまり信用する様子はなかった。
食い意地が張っていないことを主張したいのなら、給金代わりのケーキを断ることから始めなければならない。誘惑に負け、こうしてケーキとカフェオレを楽しんでいる時点でクロエは充分罪深かった。
「ところで、客に貰ったんだが使うか?」
話を変えたエルフェが差し出したのは、湖沿いにオープンしたフルーツパーラーの招待券だった。
「これ、人気あるお店ですよ」
「そうなのか」
「折角ですし、メルシエさんと行ったらどうです?」
世間では夏期休暇で休業している店も多いというのにエルフェは相変わらず仕事人間だ。
そんな彼に休養を取ってもらいたいのもあるし、何よりメルシエの応援もしたいクロエはやんわりと背中を押してみた。
しかし、エルフェは首を横に振る。
「同居相手がいるのに誘う訳にはいかないだろう」
「え……っ!?」
クロエはカフェオレの入ったカップを落とし掛けた。
「ど、どうきょって何ですか?」
「言葉通りだ。同棲と言った方が良かったか」
「い、いえ……、どちらでも良いんですけど、誰なんですか?」
「さあな」
メルシエ宅に身を寄せていたレヴェリーも語らないので相手の素性は分からないのだという。
クロエはショックを受ける以上に目の前の男に対して呆れた。
エルフェが煮え切らないからメルシエが愛想を尽かしてしまったのだ。クロエは自分を棚に上げ、エルフェを情けないと詰る。
「エルフェさんは乙女心が分かってないです……」
「おい、意味が分からないことを言うな」
「こんなこと女性から言える訳ないんですから、男の人がちゃんとしてくれないと……」
「最近ディアナに似てきたぞ」
「親子ですもん。顔は似ています」
「そういうことを言いたいのではないんだが」
女心に疎いエルフェは唸る。何を責められているのかも分かっていない様子だった。
その後、店の片付けをするという理由で追い出されたクロエは仕方なく家へと戻る。
夕飯の支度をするにはまだ早い。うさぎと遊ぼうとリビングへ向かうと、そこには先客がいた。
双子がソファに並んで座っている。クロエの求めるうさぎの姿は膝上にあった。
うさぎは抱き上げられたり膝に乗ったりするのは苦手なはずなのだが、クリームヒルトはおやつですっかり懐柔されてしまっている。膝上で仰向けに寝転がっている姿は幸せそのものだ。
(邪魔しちゃ悪いかな……)
双子はうさぎを構いながら話していた。
最近は共にいるところを見掛けることが増えた。以前より穏やかな空気が二人の間には流れている。もしかすると、二人は共通の趣味としてうさぎと戯れているのかもしれない。
「最近変な時間に出掛けてるけど、仕事?」
「仕事というか……副業をしている」
「え、何それ。聞いてないんだけど」
「一々話すことでもないだろ」
「いやいや、普通言うだろ」
「私も聞いてない」
兄弟水入らずの時間を邪魔するつもりがなかったクロエも思わず食い付いてしまう。
ルイスの膝上で寛いでいたうさぎはびくりと飛び起きて、レヴェリーの方へ移動した。
逃げられたクロエは内心ショックを受ける。うさぎを保護したレヴェリーはドライフルーツを与えながら、ルイスを促した。
「バイトくらい教えてくれたって良いじゃん」
「……施設でピアノを弾いてる」
その答えを聞いたレヴェリーは大仰に溜め息をつく。
「カフェとかホテルとかあんのに何でそっちに行くかなあ……」
ピアノを弾く仕事なら、何も孤児院でなくとも他に華やかな場所があるはずだ。
飽くまでも日陰に在ろうとする弟に、兄は呆れ混じりの哀れみを向ける。すると、それを心外だと思ったのかルイスは言い返した。
「そういう場所は素人を雇わないよ」
「音楽やりたいなら寄宿学校行きゃ良かったんだよ。集団生活すればお前も協調性付くだろ」
「キミも規則正しい生活ができるようになるかもしれない」
「無理。胃が痛くなる」
「オレも他人と同じ部屋で過ごすなんて御免だ」
施設での生活があまり恵まれていなかったことから、集団生活には拒否反応を示す双子だった。
(何か欲しいものでもあるのかな)
それにしても、急にどうしたのだろう。金や物に執着のないルイスが副業というのは意外だ。先日のパイ投げもそうだが、最近の彼は学ぶことにも遊ぶことにも積極的でクロエは驚く。
知らないことが沢山ある。
訊きたいことが沢山ある。
話してもらいたいことが沢山ある。
だけど、踏み込むことはできない。
水やりの途中だったことを思い出したクロエは静かに双子から離れた。
夏の長い昼は今日も穏やかに終わり、夜が訪れる。
いつものように食器洗いをするクロエは何度目か分からない溜め息を心の中でついた。
憂鬱の原因は手伝いの相手だ。
約二名当番をすっぽかす者がいるので、こうして手伝ってもらえるのは有難い。だけど、その相手がルイスとなると今のクロエは素直に喜べない。
狭いシンクで洗い物をしていると、どうしても相手の手と自分の手がぶつかるという事態が発生する。指先が触れて、その度に可笑しなくらいに慌てるという失態を繰り返したことで、クロエにとって洗い物はひたすら苦い時間になっていた。
この半月で皿を二枚も割った。
そのことでクロエと共にエルフェに怒られているルイスは余計な手出しをせず、皿拭きに専念している。クロエも皿に全神経を集中させて余計なことを考えないようにしている。
黙々と皿を洗っているクロエの心中など全く知った風でもなく、ルイスはこう言う。
「そういえば、行きたい場所は決まったのか?」
「ま、まだですっ」
迷惑を掛けた詫びとして、好きな場所に一日付き合う。ルイスはクロエにそんな約束をしていた。
「無理にとは言わないけど」
「そうじゃなくて……行きたい場所は沢山あるんです!」
紫陽花や菖蒲を見にいくのも楽しそうだし、ポピー摘みも素敵だ。ランチを持って森林公園の散策も良い。
クロエは行きたい場所がなくて先伸ばしにしているのではなく、行き先が決まらないのだ。
(一緒に行って楽しめる場所って何だろう)
クロエとしては何処でも良い。傍にいられるだけで幸せなのだから、いっそ買い物に行くだけでも構わない。
けれど、そんなことを言えるはずもなかった。自分の好みを押し付けて彼を困らせるようなことはしたくないと、慎重になってしまう。
「済みません、中々決められなくて……」
「決まらないなら本でも見てこようか」
「そうしたいです」
旅行雑誌でも眺めて共に決めようという提案にクロエは大きく頷いた。
「いつ空いてる?」
「そちらが都合良い日で大丈夫ですよ」
「明日は?」
「ごめんなさい、明日はローゼンハインさんと出掛ける予定があります」
「……そう」
「あ、あの、遊びとかそういうのじゃないんですよ。お母さんのお見舞いに行くだけで……!」
「別に、何も言っていないじゃないか」
何故言い訳を聞かねばならないのだと言わんばかりの声色にクロエははっとする。
こちらが勝手に意識しているだけで、ルイスからしたらこちらが誰と出掛けようが関係ないのだ。
クロエは自制心を総動員して平静を装い、言葉を絞り出す。
「明日以外ならいつでも大丈夫です。私の習い事は午前中で終わりますし」
「なら週末に」
「はい」
約束を交わしたところで洗い物も終わり、二人はそれ以上の会話を交わさずに別れた。
一人になったクロエの口からは小さな溜め息がこぼれる。
(何やってるんだろ)
貸しを作りたくて傍にいたのではない。そのことを伝えたいと思いながらも、この気持ちを伝えてはいけないことをクロエは良く理解している。
ルイスが詫びをしたいというならクロエはそれを受け入れ、互いに忘れるのが最良だ。
(私にできることなんてもうないもの……)
彼が前を向くことができたのなら、八つ当たりの道具であるこの身の役目などもう存在しないのだ。
できるのは友人として見守るだけ。
彼の役に立ちたいという想いの矛盾に気付いてしまった時点で、クロエは失恋したも同然だった。