番外編 白薔薇枯れて ~side Ellen~ 【7】
園芸を趣味とする者ならホワイトガーデンに一度は憧れる。
まだ肌寒い春の庭でエレンは白薔薇の苗を植える為の用土を準備する。
霜が庭を白く染める季節が薔薇愛好家にとってのシーズンの始まり。大苗を植え終え、強まる日差しに葉の色が濃くなる四月は春苗の植え込みの適期だ。
薔薇の苗の植え付けには用土が大切だ。根と枝は比例するので、植え穴が小さいと根が上手く伸びきれずに生育不良となってしまい、結果的に花つきも悪くなる。
エレンは大きなスコップで豪快に土を掘り返す。四十センチほどの深さの穴を掘ったら庭土と骨粉、石灰、油粕などを混ぜた元肥を底に敷く。その上に二分の一程度の配合土を入れる。こうしてできた空気が入ったふかふかの土壌は、空気や養分を好む薔薇の根は良く生育できるのだ。
鉢で育てた苗を地植えしたら、九月になるまでは蕾を摘み取って株を太らせる。苗が丈夫に育つ為には必要不可欠な過程だ。
憧れのホワイトガーデンの完成までまだまだ先は長かった。
「良い風……」
午前中の作業を終えたエレンは、庭園内の東谷風ベンチに落ち着いた。
壁面の一角にクライミングローズを絡ませて作った休憩所はアデルバートからの贈り物であり、女主人のくつろぎの場所だ。エレンは春の匂やかな風を浴びながら、お気に入りの薔薇を眺める。
アデルバートは沢山のものを教えてくれた。
腕の中で微睡む心地好さ、朝目覚めた時に誰かが傍にいることの嬉しさ。エレンがずっと求めていた家族のぬくもりを彼は与えてくれた。
だが、一番の贈り物はエレンの子供たちを見付けてくれたことだ。
子供たちは下層部の施設で暮らしていた。
アップルガース伯爵に仕えていた使用人が赤子を哀れみ、逃がしてくれたのだという。
血濡れの産衣が伯爵を欺く為のものだったと聞かされても、エレンは実際に子供たちの顔を見るまでそのことが信じられなかった。
実際に会っても、彼等が自分の子供なのだと理解するのには時間を要した。
ずっと死んだものだと思っていた我が子だ。エレンは血濡れの産衣が唯一の形見なのだと――罪に与えられた罰なのだと己を責めてきた。言ってしまえば、今のエレンを作り上げた事象そのものなのだ。自分から理不尽に切り取られた子供を、すぐに受け止めることがエレンはできなかった。
目を見て、言葉を交わし、髪を撫で、胸に抱き、匂いを確かめ、漸く自分の愛し子だと認識した。
それから慈善活動と称し、施設に通い詰めるエレンにアデルバートは子供たちを引き取ろうと言った。自分たちふたりの間に授かった子供として育てよう、と。
『私はあなたから貰うばかりね……』
『私もキミから勝手に貰っているから気にしなくて良い』
子供は要らないと語っていた彼にその言葉を言わせるまでにどれほどの覚悟をさせたのかを考えると、エレンは申し訳ない気持ちで一杯になった。
しかし、アデルバートが見返りを求めることはなく、彼が望むのはエレンが笑顔でいることだった。
(私は守られてばかりだわ)
夫に守られるばかりのこんな自分が子供たちの母親になれるのか不安に思う。
幸福にしたいという思いに偽りはないし、その為の努力を惜しむつもりはない。けれど、自分といることこそが不幸なのではないかという考えが頭を過ぎるのだ。
エレンは祈るように歌を口ずさむ。
罪の世人らに救いの泉を開きて 救いを現しし神子よ
檻より離れて迷いし我をも白く成したまえ 聖き血潮にて
雪よりも雪よりも白く成したまえ 聖き血潮にて
我が罪の為に茨をいただき 十字架を背負いて苦しみし神子よ
罪を悲しみて来たれる我をば白く成したまえ 聖き血潮にて
雪よりも雪よりも白く成したまえ 聖き血潮にて
主よ 我しばしば御許を離れて 最早救わるに由無き身なれど
今お約束に再び縋れば白く成したまえ 聖き血潮にて
雪よりも雪よりも白く成したまえ 聖き血潮にて
傷付いた腕はもう繊細な音楽を奏でることはできはしないが、歌を奪われたわけではない。エレンはそのことに花を植えるようになってから気付いた。
運命が決められたものとは思いたくない。運命に立ち向かい、幸福を掴む為の勇気が欲しい。
そういう願いを込めて歌っていると、歌声に誘われてやってきた人物は穏やかな眼差しを益々甘くとかして笑った。
「何か嬉しいことでもあったの、アデル?」
「私の天使は相変わらず可愛らしいと思って」
その答えに思わず溜め息がこぼれた。
天使だとか妖精だとか、そのようなことを大の大人が正気かつ素面で言っているのだから怖ろしいと、称賛を受ける当事者も呆れている。
「たまに歌っているが、何の曲なんだ?」
「聖歌の【罪の世人らに】という曲よ」
「そんな懺悔をしなくとも、この庭で一番綺麗な花はキミだよ」
「世辞を重ねれば良いってものじゃないわよ」
緑の褥で咲き誇る薔薇の美しさに敵うものなど、この世には存在しない。
アデルバートの言葉に気分がささくれたエレンは子供のように顔を背けた。
花のように美しくなくても良いけれど、雪のように潔く生きたいという願いを知っているアデルバートはエレンの頭に花冠を乗せる。
「手の凝った懐柔策ね」
不器用な癖に花冠など良く編めたものだと感心していると、手を取られ、口づけられた。
「世辞ではなく、キミは私の一番だ」
アデルバートがこうしてエレンに花を贈るのは珍しいことではなかった。
家族になってからも頻繁に贈り物をしてくれる彼は夫というよりは恋人のようで、エレンも迂闊にもときめきを覚えることがある。
ただ、人目も憚らないお姫様扱いにたまに恥ずかしくなる。
アデルバートは指先に唇を寄せ、それから指の付け根にキスを落とす。忠節を誓うようであり、哀れみを乞うようでもある。そうして彼がちっとも離れようとしないので、エレンは手を引いた。
「調子に乗らないで」
「ただの愛情表現だ」
「昼間からこんなことして、今後もし子供に見られたらどうするの?」
「両親が仲睦まじいことは良いことだろう。良い教育になる」
女の前で平然と膝を折る父親を見て育ったら、間違った知識が植え付きそうだ。エレンは睨むものの、アデルバートは事の重大さをまるで理解していない様子でのほほんと笑っていた。
その笑顔が不意に消える。
「キミが望む答えを出せるとは限らないが、悩み事があるなら聞くよ」
まるで今までの振る舞いがエレンの心を解す為の演技だったかのように、彼は真面目な顔をしていた。
淀みない瞳がじっとこちらを見ている。
彼は人の心の機微について聡い。エレンは目蓋を伏せ、膝の上で手を握り締めた。
「今、あなたは両親の仲が良いのは素晴らしいことだと言ったけれど、私は父親と母親というものがいまいち分からないの」
エレンの父は子供に無関心で、母は父のことしか見ていなかった。
母に愛されなかったとは思わない。それでも彼女にとっての自分の価値は【夫の子供】だった。アデルバートという家族を得たエレンは、父と母の関係が余計に分からなくなっていた。
「良い親を知らない私が、あの子たちの良い親にはなれないんじゃないかって怖くなるのよ」
「親というのは子供と共に成長していくものではないだろうか」
「成長、ね……」
「私の両親も、キミの両親もお世辞にも良い親ではなかった。ならば、私たちはそうならないようにすれば良い。私たちが寂しい思いをした分だけ、あの子たちには悲しい思いをさせないようにしよう」
エレンも自分の不幸の分だけ子供には幸福になって欲しいと思っている。だけど、想いだけではどうにもならないことがある。
この身の奥に眠る悪夢が子供たちを傷付けてしまうことが怖い。
「そういうことを恐れるキミがそうなるとは思わないが、もしもの時はきちんと向き合おう。……というより、そもそもキミと子供は個の存在であって、他人だ。ぶつかることもあると念頭に置いた方が良いだろう」
膝の上できつく握り締めた手に、相手の手が重ねられる。
伝わるぬくもりに胸の中の強張りが和らぐような気がした。
「……何よ、アデルの癖に……聖書の言葉みたいなこと言って」
「私の癖に? 意味が分からないな」
「あなたは一々言うことがくどいのよ。耳だけでなく口と頭も腐っているんだわ」
「そういう相手を選んだのはキミだろう」
慰められたことが決まり悪くて憎まれ口を叩くと、アデルバートはさらりと返した。
エレンは反論が見付からない。だが、何か言い返さないと気が済まない。
「私が結婚してあげなかったらあんたは一生、一人だったわ」
「キミ以外に一緒にいたい相手がいないのだからそれは幸せなことだ」
「な…………」
「常々、果報者だと思っているよ」
不意打ちにエレンは顔が熱くなる。
アデルバートは暫く真顔を崩さなかったが、怒りとも喜びとも困惑ともつかない表情を作るエレンを前にして、堪えきれずに声を上げて笑った。
「何よ、アデルの癖に!」
「エレンさんは本当に可愛らしいな」
「子供扱いしないで」
「本当に……キミは人間らしくて、愛しくて堪らなくなる」
何気なくこぼされたその言葉にエレンは声を失った。
己が人間らしいあたたかみに欠けた存在だと自嘲するアデルバートは、泣いたり怒ったり笑ったりする――人間らしいエレンに惹かれた。自分にないものを持つ存在だからこそ愛しく思うし、尊敬するのだと夫婦となった時に告白された。
だけど、エレンはこの自分を人間にしてくれたのは彼だと思っている。
(救われたのは私よ、あなた)
エレンは唇だけで淡く微笑み、先ほどとは別のことを口にした。
「ねえ、アデル。お伽噺の雪白姫って知ってる?」
「どうしたのかな、私のエレンさん」
「雪白姫は毒林檎を食べて死んで、王子様のキスでよみがえるわ。考えてみたら怖いと思わない? 毒に触れた唇に触れたら死んでしまうかもしれないわ。勿論、王子様はお姫様が毒林檎を食べたことなんて知らないけれど、私は怖いと思うの。王子様は病気がうつるとは考えなかったのかしら」
「それでも構わないと思う魅力が姫君にあったのではないか?」
「まあ、それは素敵。とても深い愛だわ、一目惚れの癖に」
お伽噺にある都合の良い話だと鼻で笑い、ベンチから腰を上げる。そのまま背を向けて歩いていこうとすると、手を掴まれた。
「私はキミのものになれるのなら死んでも良い」
「真顔ですごいことを言うのね」
「にやけた顔で言ったら下心があるように聞こえるだろう」
「あら、残念ね。今のあなたの目からは下心しか見えないわ」
掌をつねってやると、アデルバートは片目を眇めた。
笑顔の仮面を脱ぎ去った彼は不満そうに見下ろしてくる。
エレンを自由にさせながら、けれど思い通りにならないことを悔やむ。そういう時の彼は人間味に溢れているとエレンは感じる。
「私はこれからあの子たちの母親になるわ。あの子たちのものよ。それでも私が欲しいのなら、私を一人にしないって約束して。死ぬまで一緒にいて、良い父親になって」
「その約束はできない」
「……そう。あなたの愛はその程度なのね」
愛の為に死ねるというのは嘘なのか、と落胆する。
けれど、アデルバートはエレンのその落胆すらも掻き消すことを口にした。
「私とキミは死んでからも一緒だ」
降り注ぐ陽光が増したような気がして、エレンは目を細める。
そんなことはない。錯覚だ。これはただ、胸が高鳴っただけのこと。愛しいという気持ち以上に恋をしてしまったから、彼を見つめていると視界がぼやけてしまう。
頭一つほど上にある顔を見上げる。そこには出会った時と変わらない鳶色の瞳があった。
彼も何処かしら病んでいるなあ、と思う。
少しだけ首を傾げると、白薔薇の冠から甘い香りがふんわりとおりてきた。
「気難し屋の姫君とその子供の家族になるのに私ほど相応しい相手はいないと思うが、どうだろう?」
「そうね。あんたに我慢できる女なんて私しかいないもの」
エレンは小さく笑いながら背伸びをして彼の頬にキスをした。するとそれだけでは物足りないというように首の後ろに腕を回され、唇を塞がれた。
困ったひと、とエレンは心の中で呟きながらも自分から手を伸ばし、背と頭を抱き締める。
触れるだけの口づけを何度も交わし、互いのぬくもりを確める。キスの合間に安堵めいた吐息をこぼしたエレンは肩に顔をうずめる。アデルバートは愉しげな笑みを浮かべて、薔薇の色をした髪を指先に絡めた。
茨の棘だらけの私を見つけてくれたのは彼だった。
彼にもらった優しさを、今度は私が誰かにあげたい。
白い雪の舞う日、エレンは彼と共に愛しい子供たちを迎えにいく。
「これから家族になりましょう。レヴィ、ルイ――私たちの可愛い天使」