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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
六章
152/208

番外編 白薔薇枯れて ~side Ellen~ 【5】

 それは雪が降り積もるように。

 気付けば彼のことをもっと知りたいと思うようになった。

 きっかけは覚えていない。ただ、無性に腹が立ったのだ。

 どんなことでも微笑みで聞き流してしまう彼の様子がもどかしくて、腹が立った。


『莫迦みたいに笑うの止めなさいよ』

『雰囲気を和らげているだけだよ』

『周りのことなんてどうでも良い癖に』


 彼が笑みを絶やさないのは優しさや演技という訳ではなく、無関心だからだ。自分も他人も世界のこともどうでも良いから、海月のようにゆらゆら漂っている。

 自分を安売りするように笑うのを止めて欲しい。彼には幸福になってもらいたい。彼の抱える寂しさを取り除いてやりたい。

 だが気持ちを伝えられるほどエレンは素直ではなかったし、他人への恐怖心も捨てきれなかった。

 結局はいつものように喚き、不機嫌になって、彼を困らせてしまう。

 そういうことを何度か繰り返したところで、自分が己にも他人にも望みを抱いてはいけないことを思い出した。

 彼のことを知りたいと――もっと近付きたいと思う心に蓋をして、エレンは慈善活動に参加している。

 そして、今日も紳士淑女の間で噂話は繰り広げられる。


「ねえ、また嫌なものを見てしまったわ」

「あの勘違い女、まだいるのね」

「下層の出の癖に目障りよね」

「本当にどうしてここにいるのかしら。気味が悪いわ」


 素知らぬ顔で花壇の手入れをするエレンに、くすくすと笑い声が聞こえてくる。

 噂話、陰口、羨望、妬み。社交界はいつもそういうものに溢れている。物心付いた頃からそうした声に囲まれているエレンは馴れていた。


(聞こえないんだから)


 あちらはこちらへ聞こえるように言っているのだ。それに反応するのはあちらを喜ばせるだけだ。

 気にしないと言いながらもしっかり聞き耳を立てている己を叱り、雑草を取る作業に集中する。

 けれど、その手はすぐに止まってしまった。


「アデルバート様、庭園を見に行きませんか?」

「あら、一人だけ狡いわ。皆で行きましょうよ」


 慈善活動とは名ばかりの社交場に男は名を上げる為に通い、女は男と出会う為にやってくる。

 珍しくもない、いつものこと。

 陰口と同じ、変わらない人生の一時だ。

 少女たちが何を言おうと、彼が誰と付き合おうと、こちらには関係のないことだ。エレンは小さな溜め息をついて唇を結ぶ。すると、背後の少女たちの間から悲鳴のような声が上がった。


「お待ちになって! どうしてわたくしたちを無視なさるの?」


 少女の問い掛けに答える声はなく、ただ静かな足音が近付いてくる。

 エレンは顔を上げようとして、けれど俯いた。ここで顔を上げてしまったら自分自身に負けそうな気がした。


「誰だって顔が綺麗な方が好きに決まっているもの。仕方ないわ」

「はしたない女。消えてしまえば良いのに……」


 少女たちは自分たちを無視した男よりも、男が気に掛けようとする女に嫌悪を露にして去っていく。

 エレンは色々な思いが胸に滲んできて泣きそうになった。


「……これ、私の植えた花なの」

「自分で植えたものは特別か?」

「ええ、特別だわ。人はこういうものを大切にすれば良いのよ」


 刈り取った雑草を袋に詰め、手についた泥を払ったエレンは立ち上がり、やっと相手の顔を見る。

 黒いフロックコートを纏う鳶色の瞳の紳士は、目が合うとふわりと眼差しを和らげる。


「片付けが終わったら、散歩をしないか?」


 活動が終わればパーティーが開かれる。それを抜け出して公園の散策をしないかという誘いだった。


「他のお嬢様方は良いの?」

「私の気になる花はキミだけだ」

「……真顔で言ったって懐柔されないわよ」

「知っているよ」


 それでこそキミだ、と言うようにアデルバートは淡く微笑んだ。

 春の日射しのように甘くとけた微笑に、思わず呆然とする。

 エレンの色素の薄い碧眼は光に弱く、夏の日射しは眩しくて仕様がない。それを差し引いても妙に眩しくて、彼の輪郭がぼやけてしまった。


「またお嬢さん方に酷くやられていたようだが」

「そうね。一人でいると雑音が酷くて苛々するわ」


 公園内の庭園へ移動すると、エレンはやっと呼吸が楽になる。

 そよ風は香りが甘く爽やかで心地好く、手入れの行き届いた色とりどりの花には心が和む。耳を澄ませば、人々の声に混じって小鳥たちの鳴き声も聞こえた。

 黒いパラソルを差したエレンは風に吹かれながら溜め息をついた。


「社交界なんて下らない奴等ばかり。ゲロが……ああ、いけない、反吐が出そう」

「どちらも変わってないよ」


 エレンの言葉にアデルバートはくすくすと笑った。

 女がこういう言葉を使うと大抵の人間は嫌な顔をするのに、彼は笑って済ませてしまう。それはおおらかな性格というよりは、やはり他人にそこまでの関心がないといった方が正しいだろう。


「活動の後のこういうパーティーも本当に下らないと思うの」

「では、お嬢さん方はどうしてあれほどまでに着飾って出てくるんだ? 素晴らしい席だからではないのか?」

「そうね……、きっとお姫様になりたいのよ。お金持ちの王子様を見付けて、幸福に暮らしたいの」


 社交界に群がる女たちは男という腐肉を漁る蛆虫のようなものだ。

 男は女が嫁ぐ時に持ってくる持参金に期待するものだが、女だって男の懐にある金には興味がある。

 往々にして政略結婚には愛はないのだから、結婚相手は綺麗なドレスを着せてくれて、美味しいワインとチーズを食べさせてくれる者が良いに決まっている。


「そんな腹黒いお嬢さんは姫君とは言わない」

「当たり前よ。皆が皆お姫様だったら、わざわざそんなきらきらしい名前で呼ばないわ。お伽噺のお姫様には条件があるの」

「例えば?」

「美少女であることね。美しくない女はお姫様にはなれないわ」


 夏の木漏れ日の射す小道を歩いていたエレンはくるりと振り返る。

 後ろに続くアデルバートは僅かに目を細め、和やかに微笑む。


「だったらキミにはその資格があるよ。キミは容姿は恵まれている」

「あら、お世辞がお上手。だけど、もっと大事な条件があるのよ」

「汚れのない魂を持っていることとか?」

「それは勿論だけれど、一番は清らかな乙女であること」


 アデルバートは目を剥き、視線を逸らした。

 思いの外、初な反応を見せられてエレンは戸惑う。

 妻子持ちだった男がどうして動揺するのだろう。これだけ恵まれた容姿をしているのだから、相応の遊びは経験しているはずだ。

 やることやっている癖に。そう言おうとした唇を固く引き結び、改めて続けた。


「清らかな乙女じゃないと、魔法使いのおばあさんも白馬の王子様も助けてくれないの。それから漏れた誰にも目を掛けられないお姫様なんて、お荷物と同じよ」


 エレンはパラソルを閉じ、赤い薔薇のアーチを潜る。


「……でも、それも良いわ。恋の為に浅はかな選択をしないで済むのだもの」


 アデルバートに背を向けたエレンの顔からは精彩が消え、ただ無機質に凍えた表情だけがある。

 硝子玉のような空虚な瞳が捉えたのは、白い薔薇の花だ。


「薔薇は清く美しく健気で潔い。……人もそう。見掛けを幾ら着飾っても内面の美しさには適わないの」


 薔薇は強い。葉を毟られても茎を手折られても気高く凛と咲いている。

 花は根をなくしても健気に咲いている。ならば私は……と考えて、エレンは自分が暗闇の中にいるような錯覚に陥った。

 折れて、枯れて、腐って。そんな自分が美しい薔薇と同じ名など何の皮肉だろうか。


「エレンさん」


 薔薇のアーチの出口でアデルバートは名を呼ぶ。

 その声はエレンを悪夢から現実へ引き戻すものであり、同時に現実という地獄を突き付けるものだ。

 白い薔薇の咲く茂みの傍に佇むエレンは剣呑な眼差しで彼を見上げた。


「ねえ、前から気になっていたのだけれど、あんたはどうして私に優しくしてくれるの? 友人だから?」

「言わなければ伝わらないのか?」

「私はあんたじゃないもの。あんたの気持ちなんて分かるはずがない」


 急に不機嫌になったエレンの様子を訝りながらも、アデルバートは傍にやってくる。


「キミに好かれるため、と答えたらキミは私を軽蔑するだろうか」

「意味が分からないわ」

「私はキミを気に入っている。これから先も仲良くしていきたいと思っている。できれば、ずっと傍にいて欲しいとも」


 小さな告白に、胸が疼いた。

 エレンは動揺を気取られぬよう少しばかり深呼吸して問う。


「それは……プロポーズ?」

「そう取っても構わない。キミの左手に約束の指輪を差し上げても良いだろうか?」


 降り注ぐ陽光が急に増したように感じた。エレンはすぐに目を伏せた。

 途中から知っていた。

 厚意ではないことに、気付いていた。

 その好意に、気付きたくなかった。


「……無理よ」

「私のことが嫌いか? それとも初婚ではないことに抵抗があるのか?」

「そういうことじゃないわ。あんたと一緒にいればそこそこ楽しいわ。多分一緒になっても、楽しい時間は続くと思う」

「では、何故?」

「……私はあなたに相応しくない……」


 エレンは震える唇を噛み締める。

 アデルバートがどのような顔をしているのか気になる。しかし、今顔を上げたら表情にも言葉にもきっと失意が滲んでしまう。

 一緒にいたい、と愚かな心を告げてしまう。

 それは許されない。罪深い身には何も許されはしないのだ。


「私は……あなたのお姫様になる資格はないわ、アデルバート様」


 必死に自らを奮い立たせ、エレンは答えた。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 いつから好きになったのだろう。

 どうして好きになってしまったのだろう。

 告白されて、それを拒絶して、漸くエレンは自分の想いを知った。けれど、気付いたところでどうしようもないのだ。

 汚れたこの身は純白のドレスを着る資格がない。罪深いこの身は漆黒のドレスを纏っていなければならない。


(私はあの子たちとお母様のことだけを想っていなきゃいけないのに……)


 誓いを破ったこともどうしようもないが、失恋するしかないと分かりきっているのに恋をするのも愚かだ。そうした自己嫌悪の苦しさよりも、彼の想いに応えられない自分の運命が悲しくて、そのことが一層エレンを追い詰めた。

 慈善活動にも顔を出せず、ひと月が過ぎようとしていた。

 そんなある日のこと、事件は起きた。


「お……お嬢様、大変です! クラインシュミットの侯爵様が……!」

「コリンナ、そんなに慌ててどうしたの?」

「病気で倒れられたそうで……余命幾ばくもなく、譫言でエレンお嬢様の名を口ずさんでいたと……」


 窓辺の席に座り、日がな外の様子を眺めていたエレンは、コリンナの口から出たその言葉に堪らずアパルトマンを飛び出した。

 駆けるエレンの胸には後悔があった。

 アデルバートは体調が悪かったからあのようなことを言い出したのかもしれない。だとすれば、あの望みを拒絶したことは彼の生きる気力を奪ってしまった可能性がある。

 こんな自分の安い自尊心や誓いなど投げ捨てて頷いていれば良かったのだ。そうすればアデルバートは倒れるようなこともなかったかもしれない。

 涙は拭っても拭っても浮かんでくる。喪服の裾が重くてちっとも進めない。

 やっとのことでクラインシュミットの邸宅に辿り着き、応接室に通されたエレンはそこで胸を凍らせた。


「ねえ……、余命幾ばくもない方はどちらかしら?」

「エレンさんが本当にきてくれた」


 アデルバートは鳶色の目をきらきらと輝かせ、嬉しそうに笑った。

 まるでミルクにありついた捨て猫のような様子にエレンは変な笑みが出た。


「謀ったわね……」


 肌の血色も良いし、毛並みも艶々としている。鼻水が出たり足を引き摺っている様子もない。

 全くいつも通りな彼の様子を見れば、コリンナに裏切られたということを理解せざるを得なかった。

 いつからアデルバートとコリンナは結託していたのだろう。エレンは裏でどのような取引があったのか気になったが、今はこの場を去ることしか考えられない。

 いずれにしても、ここに長居をする必要はない。


「帰るわ」


 もう相手にするまいと、エレンは踵を返した。

 そうして立ち去ろうとしたところで、壁際に控えていた少女が行く手を遮る。


「通して」

「駄目。貴方をここから出すなと命じられている」

「客人を帰さないなんてどうかしてるわ」

「それでもここではあの人の定めた規定(ルール)に従って貰う」


 癖の強い黒髪の少女は機械のように淡々と告げ、扉の鍵をかけた。

 少女はエレンを冷ややかに見据える。

 冗談にしてもあんまりだ。振り返り、怒りを込めて睨むとアデルバートはその反応さえも心地好いというように明るく笑った。


「この子は何? というか、あんたは気に入った年少の女の子を家に閉じ込める趣味でもあるの?」

「グロリアは使用人だ。それにキミがたまたま年下だっただけだ」


 要領を得ない会話に苛立ちが増す。

 胸の中からじわじわと溢れ出す怒りをどうにか抑え、エレンは顔を引き攣らせながら訴えた。


「これって監禁に当たるわよ。れっきとした犯罪なの。捕まったらあんたは後ろ指をさされる人生になるわ」

「心配しなくて良い、私が裁く側だ」

「ああ……そう」


 クラインシュミット家は政府の重役だという話を思い出す。社交界の噂話が初めて役に立った。


「世も末ね」


 言いながらエレンは頭半分ほど上にある顔を睨む。アデルバートは眼差しを和らげ、淡く笑った。

 先ほどとは印象の違うその笑顔をエレンはただじっと見つめる。


「怖がらなくて良いよ。キミは何も心配しなくて良い。――ここはキミの庭だ。食べるものも着るものも欲しいものは全て用意しよう。キミは楽しく暮らすと良い」

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