番外編 白薔薇枯れて ~side Ellen~ 【4】
「昔見た映画にこんな言葉があったわ。【愛されないほど辛いことはありません。愛されないと心が捻けます】って。きっとあんたは愛されたことがないから性格が悪いのね」
「先日読んだ本に【人生は鏡のようなものである。貴方が笑いかければ、貴方に貴方の像を送り返す】という言葉があった。もし私が捻けて見えるのだとしたら、私に対するキミの態度が悪いからではないだろうか」
「あんたは言い回しが一々くどいのよ」
「そうだろうか」
アデルバートは皮肉屋で厄介者だが、腐っても年上だ。エレンより六歳も年長の彼は小言を聞き流す術も身に付けていた。
彼は静かに目を伏せて微笑むと、黒い手袋に包まれた手をそっとエレンに差した。
「ほら、次はあの店を見よう。何か良いものが見付かりそうだ、一目惚れするようなものがね」
長い冬が終わって、春が訪れた。
冬の間眠っていた花がいよいよ派手に咲き始めるこの季節はピクニックに絶好の時期だ。五月も中旬に入るある日、市内散策を終えたエレンとアデルバートがやってきたのはシゴーニュの森。
シューリス人の屋外好きはある種の病気だ。休日の公園は空いている芝生を探すのが大変なほどだ。
春のシゴーニュの森で人気があるのは薔薇色の桜の区画で、日光浴に良さそうな場所は既に占領されている。
二人は人混みを避け、散り掛けの白い桜の木陰に陣取った。
芝生の上に敷布を広げたら、バスケットを開けて昼食作りだ。バターを塗ったパンにチーズとハムを挟んで簡単なバゲットサンドを作り、紙皿に並べる。あとは総菜屋で買った料理を取り分けて完成だ。
「では、ワインを開けるよ」
「どんなものを買ったの?」
「フルーツ味がするんだ。食事にも合うよ。そちらは?」
「牛肉のワイン煮とジャガイモのグラタン。それとコリンナが作ってくれた野菜の盛り合わせよ」
「良いチョイスだ」
きゅぽんと小気味良い音を立てて栓が抜かれる。
コップに注がれた葡萄酒は仄かに甘い香りがした。
「シャンバラの塔に乾杯」
遠くに見える【アルケイディア】の中央塔に向かって乾杯を交わし、エレンは葡萄酒を一口飲む。
アデルバートは葡萄酒に口をつけずにじっとエレンを見ていた。
「あの、何か? ワインならちゃんと美味しいわよ」
「十六歳の誕生日おめでとう、エレンさん」
「私なんかの誕生日を覚えていたの? 可笑しなひと」
誕生日など少しだけ豪華なディナーを取る日程度の認識しかないエレンは、どういう反応をして良いのか悩んだ。
生まれてきたことを祝う日に何の意味があるか分からないのだ。
この自分が生まれてきたことを喜んでくれた人間がいるのかを考えても、思い付かない。
「悪友の誕生日を忘れるはずがない」
「アクユウって……」
色々突っ込みたいところはあったが、疲れそうに感じたエレンは短く息をつく。下手に言い返すと厄介だ。
「ありがとう」
「こちらこそ、生まれてきてくれて有難う」
恥ずかしげもなくそのような台詞を言う相手をエレンは睨むが、アデルバートは微笑みで受け流した。
その柔らかな笑みを見て、もし本当に心の底から祝ってくれる人がいたら――それが一人だけだとしても――幸せなことなのだろうなと思った。
こうしてプライベートでも顔を合わせるようになったからといっても、気を許した訳ではない。
これはある種の契約だ。
特定の相手がいると周囲に思わせることで厄介事に巻き込まれないようにする為の演技だ。
エレンが男嫌いだからこそアデルバートはエレンに近付き、アデルバートが人間嫌いだからこそエレンはアデルバートを許容することができている。
互いに利害は一致していたし、心の中の深いところで二人は同類だった。
「そうやっていると貴族に見えないわよね」
「然るべき場所では然るべき振る舞いをするべきだろう」
「偽りの姿に騙されているお嬢様方がお可哀想」
「キミに幻想を抱いている男ほどではないよ」
社交場では澄ましているアデルバートはこういうところでは地が出ている。
上等な上着も堅苦しいと言って脱いでしまうし、言葉遣いも砕けている。いつもはぴんと張った背中も曲がっている。挙げ句にはトマトを丸かじりしていたりするので、トマト嫌いのエレンは若干引く。だが、エレンも先ほどまでキュウリをかじっていたので人のことを言える立場ではない。
「だけど、だらしないあんたの方がマシだわ」
「貶すのか褒めるのかどちらかにして貰いたいところだが……、酔っているね?」
「天気が良いから浮かれているの」
程好く晴れた空の下に広がる芝生は輝き、そよ風は穏やかだ。
桜の花が散り時の今だからこその美しさがここにはある。
薔薇もカーネーションもマルグリットも。夏に向かう草木はいつだって美しい。エレンはそういうきらきらしたものを見ることが好きだった。
葡萄酒を一口飲んで、白カビのチーズを堪能する。
牛乳のチーズに、羊乳の青カビチーズ、ウォッシュチーズ、そしてミモレット。シューリスのチーズは数多くあるが、クロミエの木の実のような風味は葡萄酒ととても良く合う。
エレンがデザート代わりにクロミエを摘まんでいると、アデルバートはこう言った。
「アイスクリームでも買っておいで」
「あら、奢ってくれるなんて優しいのね、アデルバート様」
「エレンお嬢様の機嫌を損ねないようにしなければ、とね」
「そういうことは思っても言わない方が良いと思うの」
アデルバートが餌付けでこちらを懐柔しようという姿勢は相変わらずだった。
出会ったばかりの頃なら反発もしていたが、幾らかの譲歩を覚えたエレンは公園内にあるアイスクリームスタンドに向かうことにした。
「アールグレイとココナッツとマロングラッセのアイスクリームをお願い」
氷菓の季節には少しだけ早い為か、スタンドは空いている。
注文したものはすぐにできあがった。
「お嬢さん美人さんだからトッピングはおまけですよ」
「……まあ、ありがとう」
ホイップクリームのついたアイスクリームを受け取ったエレンは柔らかく微笑み、踵を返した。
遊歩道を進むエレンの中で苦々しい記憶がよみがえる。
この顔がなければ自分に近付いてくる者もいないだろうし、優しくしてくれる者もいない。アデルバートだってこちらが醜い容姿をしていれば近付いてこなかったはずだ。
美しければさぞや人生は薔薇色に輝いているのだろうと嫌味を言う者もいるが、少なくともエレンの人生は薔薇色ではない。
容姿は才能ではない。ただ親から与えられただけのものだ。そんなものを褒められたところでエレンは何も嬉しくない。それどころか惨めな気持ちになるのだ。
(どうしてこんな嫌なことばかり考えるの。こんな風だから私は……)
今のエレンは人生の全てが虚しくて、当たり散らすことすら面倒に感じていた。
エレンはコリンナに言われたように他人を理解する努力をしている。そうすればするほどに自分と他人の差に絶望するのだ。
屈託なく笑うこと、お喋りを楽しむこと、喧嘩をして仲直りすること、異性に恋をすること。
他の人間には当たり前にできることができない。
今戻ればアデルバートに思いもしないようなことを言ってしまいそうな気がして、エレンはベンチにかけて暫く時間を潰した。
それから暫くして複雑な気持ちで戻ったエレンを、アデルバートは穏やかに出迎えた。
「散歩は楽しかったか?」
「ええ、スリズィエが綺麗だったわ」
「……そうか」
何も知らないはずなのに何も言わずとも分かっていると言いたげな態度を取るものだから、戸惑う。
敷布に腰を下ろしたエレンは拾ってきた桜の花を指先で撫でた。
薔薇色の花はサクランボの木で、雪色は花のサクラの木。同じ桜の花なのに色の違いでこれほど雰囲気が違って見えるのだから、不思議だとエレンは思う。
「折角なんだ、髪に飾ってはどうだろう」
「いかれてるわ」
「何故だ?」
「似合わないもの」
「桜は薔薇科だ。エレンさんにぴったりだろう」
アデルバートはエレンの手から桜の花を取ると、編み込みの髪へ挿した。
肌をそっと撫でるような感触に反射的に目を閉じてしまったエレンはゆっくりと目蓋を開け、顔を上げた。
(あんたは私の目ばかり見るのね……)
髪に挿した花も、花を添えた容貌もまるで興味がない様子でアデルバートは目を真っ直ぐと見ている。
それほど碧眼が珍しいのだろうか。呆れたエレンは目を伏せ、自嘲の笑みをこぼした。
「頭に花なんてつけて、脳みそまでお花畑に見えそうだわ」
「お伽噺の姫君みたいで可愛らしいと思うけど」
「やっぱりあんたの目は腐った玉葱以下よ」
「自分の審美眼の歪みは自覚しているつもりだが、それでもキミは魅力的だよ」
「生憎、私は自分の名前も顔も嫌いなの。ゲロが出そう」
世辞にしてもあんまりだ。今の台詞は悪い意味で心の琴線を引っ掻いた。
エレンが髪から花を毟り取るとアデルバートは仕方なさそうに肩を竦め、芝生に横になった。
「胸糞悪いなら、昼寝をしようか」
「……は?」
突然何を言い出すのだとエレンは耳を疑う。
この流れで共に昼寝をしようと提案するのは明らかに何かが可笑しい。空気が読めないにも程がある。
「何を考えているの……というか、実は何も考えていなかったりする?」
「ふて寝をするという言葉もあるだろう。私も振られてふて寝したい気分なんだ」
アデルバートは冗談を言っている様子はなく、本当に心地良さそうに芝生に身体を預けていた。
枝葉を揺らす風に茶色の髪がさらさらと靡く。
その様子を見ている内に暖かな芝生のベッドは何だかとても幸せな空間に感じられて、木陰から日向へ出た。ごろりと横になったエレンは、髪が崩れることも構わずに芝生に頬を寄せる。
こうして草の香りを嗅いだのはいつ以来だろう。
日焼けをするから外には出ていけないと、母や使用人に怒られるようになってからは外で遊んだ記憶はない。家の中で刺繍をしたり、詩を作ったり、ピアノを弾いてばかりだった。
芝生の上に落ち着くエレンにアデルバートは上着を掛けた。
「何よ、父親みたいに……」
そう言ってみたものの、エレンは父親という存在がどういったものなのかを知らなかった。
父親とは何をしてくれる存在なのだろう。そうしてぼんやりと考えていると、あることを思い出した。
「ねえ、あんたには奥さんと子供がいたんでしょう」
「……ああ、そうだよ」
アデルバートはかつて妻と子供がいたが、不幸な事件でその両方を喪っていた。
「男たちはあんたが殺したんだって言っているけれど、どうして言い返さないの?」
「事実だからだ」
「どういうこと?」
「普通はそこで詮索を止めないか?」
「話したくないなら否定すれば良かったのよ」
失態を演じたアデルバートは溜め息をついた。
彼の眼差しが妙に暗い色を帯びていることに気付いたエレンははっとする。
「ごめんなさい……。他人に話したくないことは誰にでもあるわよね」
「いや、過去のことだから構わない。結論を言えば、私の妻と子供を殺したのは妻の秘密の恋人だ」
誰々は子供が生まれたら寝室を別にして、愛人を作った。社交界ではそういう噂話が飛び交っている。
それは珍しいことではない。
シューリス人の大原則は【人生は楽しむ為にあるもの】。個人の幸福が人生で最も重要という価値観だ。不倫であっても愛に人生を捧げた者は評価される。妻に貞操を守らせるという考えもあるにはあるが、嫡子さえできてしまえば婚姻後の夜遊びには比較的寛容だ。
「妻とは生まれる前から婚姻の約束をしていたんだが、彼女には他に好きな相手ができた」
「あんたはそれで良かったの?」
「政略結婚はそういうものだろう。……私の父と母もそうだった」
エレンは愛人の子供だから自分は不幸なのだと思ってきた。しかし、正妻の腹から生まれたとしても必ずしも幸福という訳ではない。
政略結婚で生まれた子供の多くは二人の愛の証ではなく、家同士の契約の証だ。
エレンのように存在しないものとして扱うこともされず、けれど愛されもしない。歯車として存在し続けねばならない子供はどれほど窮屈なのだろう。
「妻を繋ぎ止められないような不甲斐ない男だ。私が殺したようなものだろう」
「あんたはその償いの為に教会の活動に参加しているのね」
「……さあ、どうだろうか」
「自分のことなのに分からないの?」
彼はまるで事態の深刻さを理解していないようで、苛立ったエレンは責めるように問い掛けた。
「男は妻の産んだ子供を自分の子だと信じることで幸せになれるというが、私は初めからあれが自分の子供ではないと知っていた。いずれは壊れていた器だ。悔いても仕様がない」
アデルバートはゆっくり芝生から身を起こした。そして肩越しに振り返ると眼差しを和らげ、淡く笑った。
自嘲というには穏やかすぎる微笑みに、エレンはアデルバートという人間の歪みを垣間見る。
(全部どうでも良いって顔してる)
エレンがアデルバートのことについて知っているのは、若くして爵位の襲名をし現在は孤独の身ということ。そして昔、病を得たことがあるということ。
彼は決まった曜日の決まった時間に薬を飲むので、エレンは訊ねたことがある。
彼の病は決して死の病という訳ではない。早期に発見し、切除すれば助かる。だが治療後に転移や再発することがあり、若いと病状の進行も早い。一度患ったら生涯注意しなければならない病だ。
そのことを語った彼に悲壮感などはなく、死んでもそれはそれ、と割り切ってしまいそうだった。
他人事のように自他の生死や不幸を語る彼からは、同じ匂いがする。
とても不快な、生き損ないの匂いが。
「あんたは幸せになるべきよ」
「エレンさん?」
「辛いことがあったなら、喜びだってないと可笑しいでしょう」
「キミの愛は私を幸せにしてくれるよ」
「……あんた、莫迦でしょう。私は同情しているのに」
「哀れみでも構わないよ。キミが少しでも私のことを考えてくれるのなら」
「本気でいかれてるわ」
同族嫌悪が半分と同族愛がもう半分。それ等の感情が胸の中でない交ぜになったエレンは声を荒げる。
怒りの炎が灯った眼差しを受け止めたアデルバートは数瞬驚いたように目を見張り、それから強張った表情を和らげた。傍らでこぼされたそれを見たエレンは言葉を失った。