番外編 白薔薇枯れて ~side Ellen~ 【3】
社交シーズンは五月に始まる。
貴族の邸宅やティーガーデンで開かれるパーティーに舞踏会。それに加え、スポーツ観戦や演劇観賞といったイベントは貴族にとって欠かせない社交プログラムだ。
けれど、妾腹かつ父親であるアップルガース伯爵の後ろ楯をなくしたエレンに招待状がくるはずもない。今宵、エレンが参加したのはダーム・ド・シャリテと呼ばれる慈善家たちによるパーティーだ。
貴族の令息令嬢たちがこぞって慈善活動に参加することには理由がある。
慈善家という聞こえの良い肩書きがあれば社交界で、もてはやされるのだ。また、活動中に他家とのコネクションを築くこともできる。高貴なる者の責務を実践しようとする者は少数で、多くは独身の若者たちの点数稼ぎだった。
「あのセンスのないドレスを見て。あんなものを平気で着ているなんて……」
「流石、卑しい生まれのお嬢様ですわね」
社交場では紳士淑女の別を問わず、噂話が繰り広げられる。
そういう噂話や悪口を聞いていると胸が悪くなる。人付き合いが苦手な性質のエレンは、誰もいない木陰の席で一人で紅茶を飲んでいた。
(帰りたい……)
教会の司祭に勧められた慈善活動に参加して二年になる。
目立つ顔の所為で男たちは下心を持って近付いてきたし、女性たちには疎まれた。
こういう場に出てこなければ、これほど嫌な思いをすることもなかっただろう。
慈善活動とは名ばかりの貴族の社交行事に巻き込まれたエレンは、その元凶となった司祭を恨んでいる。
あとから知ったことだが、教会には礼拝堂の裏に司祭室というものがあり、礼拝堂での出来事は全て司祭室に筒抜けになるような造りになっている。
あの銀髪の司祭は、エレンの罪を知りながらも何も知らないような顔をして語り掛けてきた。
それが聖職者としての在り方だとしても、今のエレンは許せない。かの人物に乗せられるままに社交界に踏み込んでしまった自分にも呆れている。
あの妙な色をした碧眼を抉ってやれたらどれだけ清々するだろう。
物騒なことを考えながら飲む紅茶はとても不味く、エレンは苛立ちのままフォークをケーキに突き刺した。
「こんばんは、エレン・ルイーズ」
「あら、アデルバート様。ごきげんよう」
ケーキをつつきながら二杯目の紅茶を飲んでいたエレンは形だけの挨拶をした。
席から立つことは疎かティーカップを置くことすらしないエレンに、周りから非難の視線が突き刺さる。
「ここに座っても構わないだろうか」
「立っていられるより座っていられた方がまだ目障りじゃないわ」
ここで下手に断ると傍に立っていられる。一度経験済みなのだ。
アデルバートは手に持っていた、タルトを盛り合わせた小皿をテーブルに置いた。
「キミの好きそうなものを選んできた」
「菓子で懐柔されないわよ」
「それは残念だ」
愛想の欠片もない応えに、アデルバートは低すぎない声で愉しげに笑った。
エレンの頬は引き攣る。無視するという手段を選ばなかったことを悔やんだ。
「折角だから貰うわ」
内心うんざりしながらも、小皿には美味しそうなタルトが並んでいたので一つ取って口許に運ぶ。
ほろりと崩れるビスケットの香ばしさと、甘酸っぱいハニーレモンジャムが堪らないレモンタルトだ。
エレンは甘いだけの菓子は苦手だが、こうした酸味のある菓子は好きだ。以前、甘いクリームをたっぷり使ったケーキを持ってきてエレンに無視された経験のあるアデルバートはその点は弁えていた。
しかし、だからといって好感度が上がる訳でもない。
エレンはアデルバートの存在を無視して菓子を食べることに専念する。
「キミはどうしてそういうドレスを着ているんだ?」
黒いフロックコートに黒い革手袋という装いのアデルバートは、黒一色の格好をしたエレンに問う。
モノトーンのフロックコートは今年の流行だが、女のドレスにまでは適用されない。淑女は華やかな格好をして、優雅で上品な振る舞いをすることが求められる。
「もしや黒が一番素敵に感じる年頃だとか」
「そう見えるのだとしたら、あんたの目は肥溜めで腐った玉葱以下よ」
「腐った玉葱とはどういうものだ?」
「どろどろとして、とても臭いわ。あの中に落ちるくらいなら地獄に堕ちた方が良いくらい」
「地獄も何も落ちたら死ぬだろう」
「正論だけど、どうでも良いわ。今はあんたの話をしているんだもの」
いっそ肥溜めに落ちて、汚れた水で肺を一杯にして死んでしまえば良いのだ。彼が消えれば一人だけのティータイムを楽しむことができる。
全てがどうでも良い。何もかもが鬱陶しい。
風が乱した髪を無造作に払い除けたエレンは顰め面だった。
アデルバートは給仕からシャンパンのグラスを受け取ると、それを一口飲んだ。
「キミはいつも苛立っているな」
「可愛い女がご所望なら他を当たって。あんたみたいな男に話し掛けられて私も不愉快なの」
ティーガーデンという社交場で「私をお茶に誘って」と男に慎ましく甘えるのが女たちの流行だったが、エレンの柄ではない。男に甘えるなんて虫酸が走る。
「それは気の毒だが、私は他人の指図を受けるつもりはない。私は私の価値観に従って生きる」
「……本当に気持ち悪い」
エレンはアデルバートという男が嫌いだ。
アデルバートはエレンが一人でいる時を見計らってちょっかいを掛けてくる。皆がいる前では口を利こうとしなければ、女たちに悪口を言われていても助けようともしない。
エレンに味方しようとする男はいなかった。いても口先だけで、そこには下心があった。
男が傍にいることで女たちの嫌がらせには火が点く。そういったものに辟易したエレンは意識的に男たちを避けていた。それを今宵、壊したのはアデルバートだ。
「あんたの所為でパーティーがつまらなくなったわ」
「そういう陰気なドレスを着ているキミがパーティーを楽しむ心積もりだったと?」
「ええ、陰気な格好をしていても食べる楽しみはあるもの」
「折角のパーティーなんだ。普段できないような格好をするのも楽しいだろう」
「着飾って何になるというの?」
「……まあ、黒が好きならそれを否定はしないけど」
アデルバートは小さく肩を竦めてみせると、椅子の背凭れに背を預けた。それから長い足を組む。
エレンは眉を顰め、アデルバートを睨む。
(不愉快だわ)
見掛けを繕っても内の醜さは滲み出てくるものだ。目の前の男が良い見本だろう。
アデルバートは紳士然とした態度を取りながらも、その言葉には棘があり、眼差しも何処か冷めている。微笑みという衣を纏っていても、性根の悪さはまるで隠れていない。
そのような人間性に問題がある相手に呆れられるのはどうにも不快で、エレンは仕方なく答えた。
「家族が死んだからよ。私が忘れたら他に覚えている人がいないから、こうやって喪服を着ているの」
「悼むことと喪服は関係ないよ」
「証が欲しいだけ。私は冷たい人間だから、こうでもしないと弔い続けるなんてできないの」
「そうか」
悪意も冷ややかさもない声色でそう言い、アデルバートは微笑んだ。
意外な反応にエレンは目を見張る。こういった話をすると同情的な態度を取る者ばかりだったのだ。
何かを企んでいるのだろうか。これまでの経験からエレンは警戒する。
キャンドルの炎でアデルバートの双眸には仄赤い光が閃く。陽の光の下でも読めない彼の感情が益々分からない。エレンはきつく見据え、そして発見した。
彼はこちらの容貌ではなく、目を見ていることに。
実家の後ろ楯を期待できないエレンにそれでも近付いてくる男たちは、酒に酔ったような目をしている。彼等が求めているのは心でも持参金でもなく、恵まれた容貌――言ってしまえば身体だった。
こんなにも真っ直ぐに見つめてくる彼は何を望んでいるのだろう。
いや、考える必要はない。彼を理解する為に時間を費やしたくない。憎たらしくて仕様がない相手を理解したくない。ならば何故、自分はそのような相手と関わっているのだろう。
疑問の海に沈み込む手前でエレンは瞼を伏せた。
(……静かだから)
アデルバートが傍にいる時、エレンは雑音に悩まされずにいた。
勿論、隣にいれば侯爵のエスコートに相応しい女かという値踏みを受けはするが、女たちからあからさまな陰口を叩かれることはなかったし、近付いてくる男もいなかった。
エレンがアデルバートの存在を拒みながらも許容しているのは、それが大きい。
(皆はこいつが恐いのよ)
貴族たちは侯爵である彼に近付きたいと思いながらも、気紛れな彼の不興を買うことを恐れている。そういう男に興味を持たれているエレンは、ある意味で守られていたのだ。
入り組んだ路地の奥にあるアパルトマンの螺旋階段を上る。
自宅であるアパルトマンの一室に帰宅したエレンは、ミルクパンで少量の湯を沸かし始める。すると、同居人のコリンナが慌てて飛んできた。
「お嬢様! 私がしますから!」
「良いの。私がする」
貴族の子供だからといって何もできないのはみっともない。母のマルガレーテの方針でそう厳しく育てられたエレンは、果物を剥いたり、簡単な食事を作る程度の家事をすることができた。
紅茶の茶葉を煮出してからミルクをざぶざぶと投入する。
美味しいミルクティーが飲みたいのなら、ストレートティーに冷たいミルクを注ぐのは邪道だ。手間が掛かっても水で茶葉を煮出してからミルクを注ぎ、短時間加熱をすることがポイントだ。
紅茶というのは繊細な飲み物だ。カップにミルクを先に入れてから紅茶を注ぐか、紅茶を注いでからミルクを入れるかでも舌触りが異なる。
紅茶に人一倍拘りを持っているエレンは、手間を掛けて煮出したミルクティーが一番美味しいと感じていた。
「――まあまあ! エレンお嬢様にお友達ができたなんて、今日はなんて素晴らしい日でしょう」
エレンとコリンナは夜に紅茶を飲みながら一日の出来事を語らうことがあった。
今夜、エレンが話題に出したのはあの変わり者の若君のことだ。
「友達じゃないわ。というか、何気に莫迦にしているでしょ」
「そんなことは御座いません。私は気難しいお嬢様に友人ができたことを心から喜んでおります」
やはり莫迦にしている。エレンは溜め息をこぼした。
エレンはコリンナが喜んでくれることは嬉しい。だけど、その理由が嫌なことばかりの外の世界での出来事だと思うと複雑なのだ。
「友達とかそういうものは要らないわ……」
「私は、お嬢様はもっと外の世界と関わりをお持ちになるべきだと思います」
「どうして? もしかしてあなたも、守ってくれる人を……味方を作る為に愛想を振り撒けとかいうの?」
「それもありますね」
「私は他の奴等に理解されたいなんて思わないわ」
「そうではなく……、理解する為の努力をしなければいけませんよ」
エレンはコリンナの言っていることの意味が分からなかった。
理解される努力ではなく、理解する為の努力とはどういうことだ。どうして自分が他人を理解しなければならないのだ。傷付けられ、奪われてきたエレンは人間が嫌いだ。コリンナもそれを知っているはずなのに、何故今になってそのようなことを言うのだろう。
意地悪だ。不愉快だ。
しかし、その感情を言葉にしてコリンナにぶつけるのは何かが違う。
エレンは眼差しだけで訴えると席を立った。そしてバスルームに入り、扉を閉めた。
入浴の支度をしながら、込み上げてくる涙を押し殺す。
不満を感じながらもエレンがコリンナを責めなかったのは、他者へ向ける【毒】は自省の刃となって己の胸を抉ることを知っているからだ。
(いつだって……いつだって私が悪いのよ……)
いつだって間違っているのはエレンだった。【あの時】だってコリンナは忠告してくれたのだ。
十三歳の小娘が双子の育児をできたのだろうか。あの場で死なずとも、いずれ不幸になっていたのではないだろうか。ろくでもない男が父親だという時点で、生まれてこない方が救いだったのではないだろうか。
考えるまでもない。エレンが間違えていたから子供たちは不幸になった。
「……わたしが……ころした」
罪深いこの身では天を仰いで泣くこともできない。何も許されはしないのだ。
気付くと、もう涙の気配もないほどに目は乾いていた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
常緑の葉を撫でる風は湿り気を帯びてひんやりと冷たい。
七月を過ぎれば暑さは峠を越え、一日ごとに涼しくなっていく。九月が終ればもう冬は間近だ。
秋の訪れは社交シーズンの終わりだ。この時期になると田舎から出てきている貴族たちはタウンハウスを去り、カントリーハウスへ帰っていく。慈善活動に参加する若者たちの中にもそういう者は多い。
この八月が終れば、下らない社交に煩わされることも少なくなる。
けれど、それ故の厄介事にエレンは巻き込まれていた。
「どうして私に関わろうとするんですか?」
「貴女の為、そして僕の為です」
「意味が分かりません」
「僕は貴女を暗闇から解放し、光の元へ連れ出してあげたい。そして、貴女という美しい薔薇を手に入れたいんですよ」
エレンは今し方、プロポーズ紛いの言葉を受けた。
実家の後ろ楯がないということは持参金を期待できないが、そういう娘は妾に打ってつけだ。慈善活動を通して顔見知りになったことを良いことに、身軽なエレンを領地に連れ帰ろうとする男たちが少なくなかった。
「お断りします。私は誰のものにもなるつもりはないんです」
「貴女から何かを奪うつもりはない。僕は貴女を幸せにしたいんだ」
「私は幸せにしてもらいたいなんて頼んでいません。それに私はあなたの名前も知らないのよ」
「え……、前に名乗ったはずじゃ……」
「一々他人の名前なんて覚えていないわ。あなたが何男爵のご令息かは存じあげませんけれど、私は名前も知らない相手に付いていくことはできません」
「エレン……」
「ごきげんよう」
エレンは身を翻す。青年はその背に手を伸ばし、指先に触れた髪を絡め取った。
振り払おうと伸ばした手を掴まれ、エレンは青年の腕の中に閉じ込められる。
「待ってくれ、エレン! 貴女が好きなんだ!」
「は……はな、して!」
「初めて会った時からずっと想っていた。貴女が手に入るなら――」
「触るなって言ってるのよ!!」
身体に巻きつく腕に、耳朶を撫でる吐息の熱さに、願い乞う声の切なさに、怖気が走る。
パニックを起こし掛けたエレンは青年の向こう脛を思い切り蹴飛ばして逃げた。
ドレスの裾が乱れるのも構わずに駆けたエレンは膝から崩れ落ちそうになる。木の幹に手をついて踏み止まるも、足はどうしようもなく震え、心臓は破裂しそうなほどに騒いでいた。
(なんっ……で……いつも……)
男たちにべたべた触られた長い髪は切り落とした。なぶられた身体は洗剤で何度も洗った。気持ち悪いものをなくす努力をした。忘れる努力をした。それでも身体の奥深くに刻まれたものは永遠に消えない。
嫌な記憶が消えてなくならない。
これから生きていく限り、永劫に苦しみはなくならない。生き地獄だ。いっそ命を絶てば楽になれるのだろうか。天国へ行くことはできないが、今より悪い世界はないように思う。
生きている理由はないのだから、死んでから償っても良いはずだ。この考えは間違っているだろうか。
「…………っ」
エレンはうなだれ、肩を震わせる。
そんなエレンを嘆く暇も与えないというように、同じ年頃の少女たちが周りを取り囲んだ。
「あなた、調子に乗っているんじゃなくて?」
「アデルバート様はわたくしたちと仲良くしていたのよ!」
「そうよ、横取りなんて卑怯だわ」
「あの御方だけでなく、他の男たちも誘惑してどういうつもり?」
言い返す気力もないエレンは黙って少女たちを見返す。
「ちょっと、何か言いなさいよ」
「こんなことで黙るほど面の皮は薄くないでしょう!」
「そいつは愛人の子供なんだもの。きっとそういう風に出来ているんだわ」
「流石は妾腹のお子ね。性根が卑しくていらっしゃる!」
妾腹という蔑みの言葉を聞いた瞬間、頭に血が上った。
「あんたたちに何が分かるって言うのよ!」
「な……何よ、離しなさいよ!!」
咄嗟に掴み掛かったエレンに少女たちも掴み掛かる。
四人の少女に髪やドレスを力任せに引っ張られ、エレンは芝生の上に倒れた。
捻った足首に激痛が走り、息が止まる。
「何なのこの女……気持ち悪い……!」
「こんな奴、ほっときましょう」
行きましょう、と言って少女たちは去っていった。
エレンはうずくまったまま動けなかった。打ち付けた身体の痛みも酷かったが、心が折れてしまっていた。
夕暮れの風がエレンの髪をさらさらと撫でた。
涙で視界が滲む。ぼやけた視界の端に黒いフロックコートの紳士の姿が入った。
エレンは唇を噛み締め、懸命に嗚咽を押し殺す。
「随分酷くやられたようだな」
「覗き見なんて……悪趣味よ……」
「助けるべきだったか?」
言葉を紡ぐことができず、首を横に振る。その拍子にぼろりと涙が零れ落ち、エレンはうずくまったまま泣き出した。
泣くことは嫌いだ。泣いても何も解決しなかった。涙を幾度流しても悲しみは尽きることはなくて、一層の深みに嵌まる。泣いてしまったらもう立ち上がれなくなってしまいそうで怖かった。
実際こうして泣いてしまうと箍が弛んで、思ってもみないことをしてしまいそうになる。
「そうやって素直に泣けば可愛いげもあるのに」
「……うるさい……」
アデルバートは膝をつき、ハンカチーフを差し出す。
いつも嫌味ばかりの癖に、こういう時だけ紳士のように振る舞うつもりなのか。エレンは苛立ちのままハンカチーフを奪い取り、涙を吸わせた。そうしている内に取り繕うのも馬鹿馬鹿しくなって洟も拭うと、幾らか気持ちも落ち着いてきた。
「これ、どうすれば良い?」
「捨てて良いよ」
「……ああ、そう。それで何の用? 今日の活動はもう終わったはずよ」
別れを済ませたのにこうして戻ってきたアデルバートをエレンは訝しむ。
剣呑な眼差しを向けるエレンに、アデルバートは五月の陽気のように穏やかにこう言った。
「今度の祝日、時間が空いているかと訊ねるのを忘れたんだ」
「は…………?」
「映画でも観にいこう。人混みが嫌なら別な場所にするけど」
煩わしいことから解放されるはずの秋だった。
だけど、彼は変わらず傍にいた。