お菓子の家の甘い罠 【5】
「ヴィンセント・ローゼンハイン。彼女の命が惜しくばオレの言うことを聞いて貰う」
声が耳許で聞こえる。その声の冷徹さにクロエはぞっとした。
どうして。
そんな疑問は口に出せない。呼吸をすることすら危ういような緊張感が辺りを重く支配していた。
「獲物に飛び掛かる寸前の猟犬のような顔だね」
「この女を殺されたくなかったらオレに従え」
クロエに銃口を向けたルイスは敵を見据え、淀みなく告げる。ヴィンセントは小さく肩を竦めてみせた。
「別に撃っても良いよ? 下僕の命なんて取るに足りないものだし、人間なんて掃いて捨てるほどいる」
換えは幾らでもいる。ヴィンセントならそう言うと思ったが、実際言われると傷付いた。
ヴィンセントは袖に隠していた拳銃を一瞬で構え、その銃口をルイスへ向けた。
「小侯爵、得物から手を放すんだ。それは子供が扱って良い玩具じゃないよ」
「オレはヴァレンタインの人間だ」
「お菓子の国の王子様にそんなものは扱えっこない」
「ヴァレンタインは国の管理者に属する一族だ。その中にあんたたちが放り込んだというのに忘れたのか」
「その手の傷は普通ではないと思ったけど、鍛錬によるものという訳か。では君の話を聞こうか。なるべく理解するよう努めるから、話してごらん」
小馬鹿にするような口調に、けれどルイスは揺らがない。
沸点が過ぎて却って醒めた。そんな様子だった。
「オレがあの日からの十年間、どんな気持ちで生きてきたと思う? いや、問う必要もないな。オレはあんたの理解なんて必要としない。目的の為なら何でも利用するだけだ」
ただの恨み辛みというにはあまりに清浄な声でルイスは続ける。
「ヴィンセント・ローゼンハイン、オレもあんたと同じ外法狩りだ」
(げほうがり……?)
クロエはルイスが言っている意味が解らなかった。
ただ、直感的に一つ理解したことがある。ルイスはきっとヴィンセントやエルフェと同じ存在だ。
「へえ……、君が歪んだ理由はそれか」
「そういう意味ではあんたに感謝している。人を殺す機会を与えてくれたんだから……」
「それで、君が望むことは?」
「あんたが隠している、オレの両親を殺した奴を教えろ」
「秩序を崩してただで済むと思っているの?」
「オレはあんたの罪を白日の下に晒せるのなら、他がどうなろうと構わない」
冷たい銃の感触をこめかみに感じながらクロエは目眩を感じた。
ルイスは本気で言っている。それも自暴自棄になったからではなく、自らの固い意志からそう言っている。
彼は流れるまま流されるまま曖昧に生きてきた自分と似ているのではと、クロエは密かに思っていた。けれど、違う。ルイスは自分の足で立っている。逃げて流されるままのクロエとは違う。
「何だよ、騒がしいなー」
その時、今にも切れてしまいそうな緊張の糸を断ち切ったのはレヴェリーだった。
店での仕事を終えたレヴェリーは夕食の支度の手伝いをしていたらしく、エプロン姿だ。
普段なら場を和ませることを得意とするレヴェリー。だが、エプロンにバンダナという本気か冗談か知れない、彼の料理スタイルも今は場を和ませることはなく、凍り付かせる材料にしかならない。
嫌悪、困惑、悲哀。そんな様々な思いが込められた三種三様の視線を向けられてレヴェリーは怯む。
けれど、ヴィンセントに拳銃を向ける少年の顔をみとめた彼ははっとした。
「お……お前、まさかルイか……?」
「そうだよ。オレの顔忘れたのか、レヴィ」
「わ、忘れるもんか!」
恐る恐る訊ねるレヴェリーに、ルイスは皮肉げに切り返す。
クロエはこの二人に仲直りをして欲しいと思っていた。だからこそルイスを招こうとした。
望んだ再会は最悪のものとなってしまった。
ルイスは自分を困惑の目で見つめるレヴェリーから視線を外すと、深い闇を宿すその双眸でヴィンセントを捉えた。
「オレはどうなっても構わない。あんたを撃っても心は痛まないし、目的の為なら彼女も殺す」
「そう。じゃあ僕も容赦はしない」
瞬間、響いたのは、シュ……と乾いた音。
あまりに軽い音でクロエは何か分からなかった。だが背後のガラスが砕け散ったことで嫌でも理解する。
「お、お、おい、ヴィンス! マジで発砲すんな! 威嚇でもやり過ぎだろっ!?」
「威嚇? 何生温いこと言ってるの、レヴィくん。彼は敵だよ? 我が前に立つ敵は残らず排除しないと」
「なん……っなんでお前はそうバイオレンス思考なんだよ!?」
言いながら、レヴェリーはヴィンセントの前に立つ。それは背中にルイスとクロエを庇うように。
「僕さあ、飛び道具は専門外だから、一撃で仕留めるのも狙って撃つのも無理なんだよね」
「頭いかれてるな」
「人質を取るような極悪人に言われたくないなあ、ルイスくん」
それは流れ弾に当たる可能性があるということ。散々苦しんで死ねと言っているようなものだった。
「レヴィ、退きなよ。キミが立っていたら邪魔で撃てない」
「退けられるかよ!」
前に立たれたことによってルイスの視界は遮られている。クロエに至ってはレヴェリーの肩越しにヴィンセントから銃を向けられている状態だ。
「だったら、キミも人質だ」
苛立ちを込めて吐き捨てた後、ルイスはクロエの手を離し、レヴェリーの首根を掴み上げた。
「い、いででで……」
「うわ、自分を庇ってくれたレヴィくんを盾にするなんて非道だね」
手荒な掴み方にレヴェリーは悲鳴を上げた。
ルイスはヴィンセントの胸に銃を向けたままクロエに言う。
「キミは扉を開けて。そして走って」
「で、で、でも……!」
「良いから言う通りにしろ」
従う理由はない。だが、従わなければレヴェリーかヴィンセントが撃たれてしまうかもしれない。
悩んだ挙げ句、今は下手にルイスを刺激しない方が良いと判断したクロエは従うことにする。
クロエが作った退路を、ルイスはレヴェリーを拘束したままゆっくりと油断なく辿る。
「ルイ、首引っ張んな! オレが人質になりゃ良いんだろっ」
そうして店を出た瞬間に素早く身を翻すルイスを、レヴェリーは自らの意思で追った。
しん……と重く湿った空気に包まれた裏路地を駆けてゆく。
少年たちは体力があるようで全く息が上がっていないが、運動神経がからきしのクロエはすぐにへばってしまった。これでは人質以前にお荷物だ。
立ち止まり、振り返る。追っ手の気配はなく、路地には暗い闇夜の空気だけが満ちている。
街灯から少し離れた位置にある物陰に身を隠したところで、レヴェリーが声を発した。
「おい、ルイ。いい加減にその物騒なもん放せよ」
「偽物だよ。ほら、キャンディ」
トリガーを引くと、銃口を割って棒状のキャンディが飛び出した。爽やかな香りは林檎のものだ。これにはクロエもレヴェリーも唖然とした。
あげる、と言われたのでクロエは銃型キャンディを受け取る。
「わあ……、流石【ヴァレンタイン】のお菓子ですね。本物かと思ってびっくりしました」
それにしても本物に凄い。菓子というレベルを越えている。これはある種の芸術ではないだろうか。
偽物をさも本物のように見せたルイスの演技力と度胸も大したものなのだが、色々と感覚が麻痺したクロエにあったのは菓子への感心だった。
「オレがキミに武器を向ける理由はないだろ。でも、手荒なことはした訳だから……ごめん……」
「ううん、大丈夫」
強く掴まれていたと思った手首も痣になったり、赤くなったりはしていない。加減してくれていた証拠だ。
玩具といえど知人に銃を向けられたショックはまだ冷めやらない。それでもクロエは精一杯の返事だと首を横に振った。ルイスは再度、済まなかったと詫びる。
子供のように仲直りをし、和み掛ける空気。
しかし、明らかに可笑しい状況にレヴェリーは突っ込む。
「そういう問題じゃねえだろっ!!」
「じゃあ、どういう問題だ。レヴィのそのとんちんかんな格好に突っ込めという問題か?」
「いや、それは確かに夜の街を歩くには浮いてるかもしんねえけど、これはオレ的、本気のクッキングスタイルっつーか……って、違え!! お前なあ、ヴィンスに得物向けといて無事で済むと思ってんのか!?」
ついいつもの調子で冗談めかした口調で語るレヴェリーであるが、いつものように自分突っ込みを入れて軌道修正する。その反応に向けられたルイスの目は冷たい。
「無謀だって言いたい訳か。だったら生まれた時からぎりぎりのところにいるオレにとっては今更だ」
「ルイ……」
「でも確かに無謀だね……。だからこそこの命が代価なんだけど……」
ウエストコートの下に隠していた拳銃を抜いたルイスは低い声で吐き捨てる。
今度は偽物ではない、本物だ。
「お前、何を考えてるんだ?」
「オレを始末したらあいつだってたたじゃ居られない。オレが望むのはそれだ」
つまり、肉を切らせて骨を断つということ。
ルイスは最初からヴィンセントに物理的に勝つことは諦めているようだった。
命の遣り取りを事も無げに淡々と語るルイスの様子にレヴェリーは眉を寄せ、低く抑えた声で問うた。
「ヴァレンタインの家はどうするつもりだ?」
「エリーゼが継げは良い」
「エリーゼ?」
「義妹。ヴァレンタイン夫妻の実子だ」
「な……何だよそれ!? ガキがいないからお前が引き取られたんだろ……!?」
「オレが引き取られてすぐに産まれたんだ」
(それはつまり、本当の兄妹じゃないということ?)
自分がいなければルイスは笑ってくれる。何の憂いもなく家を継ぐことができる。エリーゼはそう言って大粒の涙を流した。
「卑しい身分のオレが家を継ぐべきじゃない。家は正当な血を引く者が継ぐべきだ」
「だったら……だったらオレがあの時お前を突き放した意味は何なんだ!!」
「ないよ。それ以前に自分だけ幸せになるなんてできる訳ないだろ」
「ふざけんなよ!!」
「ふぜけているのはそっちだ!」
自分たちが逃げている立場だということも忘れ、紫色の瞳を持つ二人は言い争った。
レヴェリーはルイスの胸倉を掴み上げ、ルイスは自分の首を絞めるレヴェリーの腕を掴む。
今にも取っ組み合いの争いが始まりそうな不穏な空気が漂う。
混乱しきったクロエが仲裁に入れるはずもなく、また入ったとしても男二人の力に敵う訳もない。けれど、争いを始める前に終止符を打ったのは本人たちだった。
「ルイ、お前……」
「オレは誰かの不幸の上に成り立つ幸福なんて御免だよ、兄さん」
ルイスはそう呟き、目を伏せる。そしてレヴェリーの腕を掴んでいた手を下ろした。
「にい、さん?」
聞き間違いだろうかと、クロエは耳を疑う。
兄さんとルイスはそう言ったのか。クロエはまさかと否定するが、それは幻聴でも何でもなかった。
そっくりな四つの瞳が一斉に向けられ、どきりとする。
「ああ……こいつ、オレの弟なんだ」
「双子だから兄とか弟とかあまり関係ないけどね……」
少し躊躇いながらレヴェリーは答える。それを次いだルイスは飽くまでも淡々としている。
レヴェリーに弟がいるというのはクロエも聞いていたが、双子の弟だとは思いもしなかった。
二人はあまり似ていない。綿のように柔らかそうな髪も焦茶色と薄茶色に分かれているし、何より纏う雰囲気が対照的だ。
「二人が、兄弟……」
譫言のような心地でクロエは言葉を吐き出す。
途轍もなく騙されたような気分だった。