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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
六章
149/208

番外編 白薔薇枯れて ~side Ellen~ 【2】

 自分の内でのことか外の世界のことかは分からない。

 ただ、とても近くで何かが割れるような音がした。


遺伝子改変動物(トランスジェニック)?』

『体組織全てが他人に親和性がある。つまり、臓器移植も輸血もこれがいれば足りるという人類の女神だ』

『こいつに子供を産ませて増やせば、俺たちは遊ぶ金に不自由しないって訳さ』


 逃げないように鎖で繋がれ、舌を噛み切らないように口は塞がれ、抵抗できないように腕を傷付けられた。

 その地下室には五人の男がいた。一度に五人の相手をさせられることもあったが、基本は一人ずつ。たまに見知らぬ男を連れてきて、皆で弄んだ。

 尊厳などは初めからなかった。

 感傷は途中で殺した。そうしなければ何も知らない子供のエレンにはとても耐えられなかった。


「あ……あ……」

「も、申し訳ありませんお嬢様!」


 ティーカップが落ちたその音に、エレンはフラッシュバックを起こす。

 忌まわしい記憶が脳内によみがえった。


「いや、だ……」


 腕の中に冷たい何かが差し込まれた。激痛が駆け抜け、身体が痙攣する。

 身体を傷付けるとそれだけ奥がきつく閉じて具合が良いのだと笑って、男たちはエレンに様々なことをした。その時の怪我の後遺症でエレンの左手には異常がある。ピアノもバイオリンも弾けなくなった。


「……い……や……」


 トランスジェニックは不老長寿の妙薬だと訳の分からないことを言って、男たちは血を啜った。

 自分の身体の血が男たちの口へと流れ込んでいく。その気持ち悪さにエレンはきつく目を閉じる。

 こうして救われた今もエレンは一人で外出することができない。誰かが背後に立つだけでパニックになる。

 男は嫌いだ。野蛮で厭らしくて汚い。

 あの男たちは名ある貴族の息子で、社会的に裁くことが難しいと聞いたが、エレンには関係のないことだ。事態がどう動こうと穢れた事実はもう消えない。


「……いや……もう、いやぁ…………」


 囚われの身体は救い出されても、エレンの心は未だに捕らわれたままだった。

 そんな気が狂いそうな日々に追い討ちを掛けるような出来事があった。

 腹の中に子供がいることが分かったのだ。


「父親がいないなら私が愛すわ……」

「いけません! そんなことをしてはお嬢様の人生が……!」


 コリンナはエレンが子供を産むことに強く反対した。

 あの事件は表沙汰になっていない。子供を始末し、口を閉ざせばエレンは幸せを手に入れることもできる。

 ただ誰かを愛し、愛される、甘くて幸せな未来がある。


「私の中に一つの命があるの。お腹の子に罪はないわ」


 腹の中に生まれた命には何の罪もない。その無垢な命を奪ってまで己の幸福を願って良いのだろうか。

 答えは否だ。

 周りが許したとしても、エレンは許せない。自分の血を引く家族を殺してまで幸せになろうとは思えない。そんな価値が自分にあるとも思えない。


「いいの……私はもう純白のドレスを着ることもできないから……いいの……」

「お嬢様……」

「ごめんなさい。でもね、この子は私のたった一人の家族なのよ……」


 父親がいていないもののようなエレンにとって、腹の子供だけが唯一の家族になるのだ。


「家族なら私が、このコリンナがいます」

「ええ、そうね……。今までありがとう」


 こんな勝手を通そうとする主人など見捨てて、新たな雇い主を探せば良い。

 年上のコリンナはエレンにとって姉のような存在だ。エレンは彼女に甘えてばかりだった。だから、これ以上付き合わせることはできない。


「コリンナ・ドローネー。私はあなたの主たることを辞めます。今日からあなたは自由よ」

「自由の身というなら、この身はどうかお嬢様のお側に」

「コリンナ」

「私は俸給の為に支えている訳ではありません。あなたがあなたである限り、この私はあなたにお仕えする侍女として一生を捧げます。……それとも、この身は不要でありますか?」


 そんなこと、あるはずがない。

 だが、エレンが子供を産んで将来結婚しないということは、コリンナも君主を持てないということだ。


「……きっと、いっぱい嫌な思いをさせるわ……」

「苦労なら今まで充分しております。エレンお嬢様の侍女は私にしか務まりませんわ」


 何処かおどけたようにそう言うコリンナに、エレンは折れた。

 それからエレンはマルガレーテに仕えていた使用人全てに暇を出し、コリンナと二人だけの生活を始めた。


「ちゃんと食べなくてはいけませんよ。それでは体力がつきません」

「レモネードはちゃんと飲んでいるじゃない」

「レモネードは食べ物ではありません」

「マカロンも食べているわ」

「マカロンは嗜好品です」

「この子も甘いもの好きだって」

「お嬢様、いい加減にして下さい!」


 二人で暮らし始めてからのコリンナは口調がぞんざいだ。

 叱ってもらえることが嬉しくて、エレンはわざと甘えてしまう。


「……コリンナのレモンパイなら食べても良いのだけど」

「それはしっかり食事を取ったらの話ですね」

「ええ、分かっているわ。ごめんなさい」


 過去の忌まわしい記憶と、まだ見ぬ未来への不安がエレンを苛んだ。痛みに涙が出てしまうこともあったけれど、自分だけがこの子供たちの親なのだと考えれば、頑張ろうという気持ちなった。


「私がしっかりしないと」


 コリンナの知り合いの医者にエレンは世話になっている。

 若年出産は発達が不十分な骨盤が出産時に危険を催すことがあるので、帝王切開による処理を勧められた。だが、エレンは自然な形での出産を望んだ。

 リスク回避の為の検診を繰り返した。その間にも子供は順調に成長していき、三十七週になる頃に漸く普通の出産でも大丈夫だろうという判断が出た。

 子供が産声を上げたのは、暖かい春の日だった。


「ふたりとも元気な男の子ですよ」

「……ほんとだ……」


 痛みで涙が止まらなかったのに、気付けばその涙は嬉しさで零れていた。

 あんなに苦しかったのに、その痛みは子供の顔を見た瞬間に吹き飛んでしまった。

 涙で歪む視界の先には狂おしいほどに愛おしい我が子がいる。

 手を伸ばして、林檎色の頬にそっと触れる。

 産衣に包まれた小さな身体は粉雪のように繊細で弱々しく、けれど懸命に息をしている。


「レヴェリー……ルイシス……」


 エレンは慈しみを込めて、眠る赤子に呼び掛けた。


「お名前ですか?」

「ええ……、夢想曲と白薔薇よ」

「まあ! それはお嬢様らしい素敵なお名前ですね」


 エレンに夢を与えてくれた音楽というもの、そして白薔薇という名。それ等は母のマルガレーテから貰った愛だ。それを自分の子供たちにもあげたかった。

 名前はずっと前から考えてあった。こっそりと作らせておいたペンダントもある。首に絡まったり口に入れてしまうと大変だから今は無理だが、もう少し大きくなったら渡すつもりだ。


「生まれてきてくれて、ありがとう……」


 例え誰も祝福してくれないとしてもこの母だけは嬉しく、誇らしく思う。

 何もあげられない未熟な母だけれど、皆で幸せになろう。寂しい思いだけは絶対にさせない。

 この世の誰よりも愛おしい双子を想い、エレンは幸福の涙を流した。






 その直後、エレンは御産の憔悴で体調を崩してしまった。

 頭が朦朧として記憶は定かではないが、周りで人が慌ただしく動いているのを感じた。

 もしかすると危険な状態だったのかもしれない。実際、死んでも可笑しくない状態だったと後から聞いた。

 エレンは熱に浮かされる中で子供たちの泣き声を聞いたような気がした。


「……ねえ、コリンナ。子供たちは……?」


 喉からは掠れきった声しか出ない。どうしてこれほどに苦しいのか分からない。

 父親のいない子供を産んだ罰が当たったというのだろうか。そんなどうしようもないことを考えながらも、エレンが一番に想うのは我が子のことだった。


「私の子供たちはどこ……?」


 ベッドの傍には双子の姿はない。

 母親である自分が臥せっていた所為でお乳もあげられていない。お腹が空いているはずだ。きっと隣の部屋で誰かがミルクを与えてくれているのだろう。エレンは期待を込めて見上げた。

 だが、視線の先でコリンナは唇を震わせる。

 一体何があったというのだろう。訊ねようとしたその時、部屋の扉が乱暴に開け放たれた。

 コリンナははっとして部屋に踏み込んできた人物を止めに掛かる。


「旦那様、お止め下さい!」

「使用人の分際で口を利くな!」

「きゃ……っ」

「コリンナ……」


 重たい身体に鞭を打ち、上半身を起こす。そこには父のロランと、彼によって突き飛ばされたコリンナがいた。身を起こしたエレンを見るなり、ロランは手に持っていた赤い布を投げ捨てた。エレンにはそれが何だかすぐに分かった。


「……あ…………」


 それは、愛しい我が子の産衣だった。

 赤いものでぐっしょりと濡れた裳抜けの産衣が意味することをエレンは飲み込めない。


「ど……して……、おとうさま……」

「父親の分からない子供も、そんな子供を産んだお前も私の恥だ」


 父から初めて掛けられた言葉は侮蔑にまみれていた。

 記憶にある限り、エレンはロランと口を利いたことがなかった。妾腹だから仕方ないと諦めながらも、せめて名だけは呼んでもらいたいとずっと願ってきた。それなのに、この結末はどういうことだろう。


「本当ならお前も豚の餌にするところだが、マルガレーテに免じて命だけは助けてやる」


 遠い昔、革命戦争で溢れた孤児を国は家畜の餌にしたという。それは比喩ではなく、実際の出来事だ。

 首の骨を砕かれ、ばらばらに切り刻まれて、家畜の肥やしになった。この赤い産着が全てを物語っていた。

 息をするだけで精一杯のような、無垢な命が奪われた。

 エレンの唯一の家族が血縁者によって殺められた。


「……あ……あああ……いやあああぁああアアアァあああああああ……ッ!」


 幸せにしてあげたいと願ったのに真逆の一生を与えてしまった。

 愛し子を殺したのはこの自分だ。

 喉から迸る絶叫は、慟哭。空になった腹に孕んだのは、絶望だ。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 あれから父のロランからは離縁された。エレン自身ももう向き合う気力は起きず、それに従った。

 アップルガース家の庇護を失ったエレンは世界に投げ出された。

 古びたアパルトマンの部屋を借りて、生活を始めた。

 幸い、母が残してくれた遺産があった。コリンナと二人暮らしをするだけなら暫くは尽きることはないだろう。

 エレンは贖罪の日々を過ごした。

 教会で懺悔をする日々。その内に司祭に勧められて、エレンは慈善活動に参加した。

 慈善活動とはいえ、僅かばかりの謝礼は入る。エレンは人々の助けになりたいという気持ちよりも、少しでも金銭を稼いでコリンナに楽をさせたいという思いがあった。


「エレン・ルイーズ」


 花壇に花を植えていると、背後から声を掛けられた。

 あの事件以来、エレンは己の背後に立たれることが苦手だ。

 胸が騒ぎ、身体も震える。心臓を握り潰されたような恐怖に駆られる。だが、声の主は知った人物だ。心を封殺したエレンは人形のような顔で振り返った。

 すぐ傍に鳶色の目をした青年が立っている。

 上着を脱ぎ、ウエストコートを羽織っただけの紳士はスマートでスタイルが良い。端正な顔立ちをしている美男だ。

 クラインシュミット侯爵家の若君、アデルバート・ジュード。彼はこの慈善活動に参加している者の中で一番家柄が良いことと、独身であること、そしてその端正な顔立ちから何かと話題に上る存在だった。

 穏やかな微笑みが堪らなく魅力的だと、女性たちは黄色い声を上げている。

 しかし、エレンはその笑顔に騙されはしない。

 エレンは初対面で彼が【厄介者】だということが分かった。彼からは自分と同じ臭いがする。配水管から垂れ流される汚泥の()えた臭いだ。そのような臭い男に声を掛けられたエレンは不機嫌だった。


「何の用です? 私は作業中なのですけれど」


 澄ました嫌な女だと陰口を叩かれる存在に何の用があるのだろう。

 取り巻きの女たちと仲良くしていれば良いのに、とエレンは内心毒吐いた。


「キミは女なのに愛想がないな」

「悪いですか?」

「いや、悪くはない。ただ、そんな風では守ってくれる人ができないよ」


 守りたいと思えない女なんて男に好かれるはずがない。

 その評価は女の心を抉るものではあったが、エレンにとっては望んでもないことだ。


「私は誰かに守られるつもりはないんです。そんな女に殿方と話す以上に不毛な時間がありますか?」


 男を愛し、愛される未来は要らない。エレンが愛するのは死んだ母親と子供たちだけだ。

 非凡な容姿に惹かれてやってくる汚らわしい男たちをエレンは拒絶した。

 この男にも、暗に声を掛けるなと言ったつもりだった。


「それは同感。名前も良く知らない女性との時間より、ティータイムが大事だ」

「そう。じゃあ、私に関わらないで下さい」

「どうしてだ?」


 背を向けるその先に回り込む厄介者を睨み上げる。

 頭一つほど上ある顔の鳶色の目は笑っていない。真面目だからこそ、エレンは苛立つ。


「人生は短いのだから時間は大切です。生きている内に楽園を味わった方が良いですよ」

「キミは楽園を味わっているような顔をしていないようだが」

「……別に。私がどうだってあなたには関係ないと思います」

「キミが幸福でも不幸でも私には関係ない。関係ないからこそ興味があるというのはいけないだろうか?」

「あんた、男の癖にうるさいわ。というか、気持ち悪いのよ」


 エレンは苛立ちのまま暴言を吐く。淑女とは思えないその口の利き方に彼は驚くでもなく、ふうん……と気の抜けた返事をした。

 年上としての余裕を見せ付けられたようで、エレンは心の底からアデルバートという人物を嫌悪する。

 今日何が起ころうと、例え明日死ぬことが定められているとしても、エレンは何もかもがどうでも良かった。

 自分も世界も嫌いだった。この男の存在もそういうもののはずだった。

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