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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
六章
148/208

番外編 白薔薇枯れて ~side Ellen~ 【1】

本編より十八年以上前の話になります。

 主は私の羊飼い 私は何も欠けることがない

 主は私を青草の原に休ませ憩いの水の畔に伴われる

 主は私の魂を蘇らせ御名に相応しく私を義の道に導かん


 例え死の陰の谷を歩むとも私は災いを恐れない あなたが私と共に在るが故に

 あなたの鞭とあなたの杖 それが私を慰める


 あなたは私の(てき)の前で私のために宴を設ける

 あなたは私の首に香油を注ぎ私の杯は満たされる


 命のある限り憐憫(いつくしみ)恩恵(めぐみ)が私を追う

 主の家に私は帰り生涯そこへ留まるであろう


 ――――良く知られた聖書の一節に引かれるように門前までやってきた。

 屋根の上に十字架の掲げた教会は、安息を約束された神の御家。礼拝堂の静謐(せいひつ)な空気は凍えたような静寂を伴って、少女を迎え入れた。

 誰もいない礼拝堂にはステンドグラスから降り注ぐ冷たい光が満ちていた。

 少女は祭壇の前まできたところで足から崩れ落ちた。

 教会というのは祈りの場所という形だけの慰めに縋る人間が訪れる場所だ。

 神の愛は人を救わない。同時に人の手も救済を齎さない。そう理解している少女は愚にもつかない救いを求めてこの場所に赴いたのではない。ただ懺悔の為に訪れた。


「私は、罪深いから……」


 天国は素敵なところだと誰が言ったのだろう。

 誰も見たことがないのに、何故素晴らしいところだと言えるのだ。清く正しく生きれば天使が向かえにきてくれるのだと、そんな慰めの言葉に縋らなければならないほどに人の人生は辛いものということか。

 そうだとすれば、生まれてこない方が幸せだったということだろうか。


「ごめん、なさい……ごめんなさい……」


 生まれてきたことを、産んでしまったことを、懺悔する。

 言葉を紡ぐその内に司祭が傍らにやってきたが、少女にとっては何の意味も成さない存在だった。


「罪を犯した私は死んでも天国の門を潜ることはできない……、あの子も……きっとそう……」


 身勝手な想いで産んでしまった。

 幸せになろうなんて愚かな夢を見て、その夢を叶えられないどころか真逆の一生を与えた。

 苦しむ為だけの命など何の意味があったというのだろう。全てこの罪深い自分の所為だ。


「……貴方を殺したのは、私だから…………」


 もう何処にもいない我が子を想い、少女は涙を流し続けた。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 エレン・ルイーズという名は二輪の薔薇という意味を持っている。

 桃薔薇(エレン)という大層な名をくれたのは貴族の父親、白薔薇(ルイーズ)という華美な二つの名をくれたのは母親。二つ目の名は、エレンが産まれた日の誕生花が白薔薇だったからつけたのだと、貴族の妾の母は語った。

 アップルガース伯爵家の三女という立場のエレンの母は、娼館出の身分の低い女だった。

 どうして母がそのような場所にいたのかは知らない。ただ、母は類い稀なる美貌の持ち主だ。

 怜悧(れいり)な紫色の瞳が人目を引く、大粒の宝石なような存在。母のマルガレーテは背筋も凍るほどに美しい女性だった。


「お母様。私、金髪に生まれたかったわ」

「どうして?」

「金髪だったら、お父様は私を見て下さったかもしれないもの」


 鏡に映るマルガレーテは淡い茶色の髪だ。そしてエレンの髪はくすんだ金色をしている。

 あと数年の内にエレンもマルガレーテと同じ色になるだろう。まるで泥で汚れた雪のような灰金髪(アッシュブロンド)に。

 アップルガース家は金髪碧眼の家系だ。名門貴族の証である恵まれた色彩を持つ異母兄姉たちに初めて対面した時「お前は不義の子だ。汚らわしい」と罵倒を受けた。エレンはその時に己の価値を知った。


「ごめんなさい、ルイーズ」

「いいの、お母様は何も悪くないわ」


 美しく生まれていたのなら父は見てくれただろうか。

 答えは否だ。

 父が愛情を向けるのは正妻とその子供たちだけ。愛人に産ませたような子供には目も掛けない。

 エレンが金髪碧眼の美しい容姿を持っていたとしても、名を呼ばれたことのない事実は変わりないだろう。


「私は自分を不幸だとは思ったことはない」

「ルイーズ」

「だけど、早く死んでしまいたいと思うわ。天国は良いところだって言うもの」


 不幸ではないけれど、死んでしまいたい。

 エレンが胸の中にある思いを告げるとマルガレーテは頬を撲った。

 遅れてやってくる痛みに撲たれたということを知る。どうして撲たれたのか理解できなかった。

 マルガレーテが部屋を出て行った後、エレンは侍女に訊ねた。


「ねえ、コリンナ。何故お母様は撲ったのかしら」

「エレンお嬢様を愛しているからですよ」

「ええ、お母様はお父様の分まで私を愛して下さっている。分かっているの。……でも、それが辛い」

「お嬢様……」

「私がいなくなればお父様を捨てて逃げることだってできる。きっとお母様は楽になれるわ」


 傍に寄り添ってくれるぬくもりにエレンは顔を埋める。

 エレンにとって物心付いた頃から傍にいるコリンナは家族のような存在だった。誰の目もない時はこうして甘えてしまう。そういう時はコリンナも使用人ではなく、姉のように接してくれた。


「お母様とお父様の罪の間に生まれた私は地獄に落ちる定め。だから、夢を見ることくらいしても良いでしょう……?」

「ずっとお側にいます、私のお嬢様(マイ・フェア・レディ)


 心を何処かに置き忘れてきたようなエレンを胸に抱き締め、コリンナは誓う。

 優しい姉の胸に甘えて泣くだけ泣いたエレンは、喧嘩の仲直りに母に花を贈ろうと考えた。


「済みません。お金が足りないので桃色の方だけお願いします」

「良いよ、持ってきな。お嬢さんは可愛いからサービスだよ」

「あ……ありがとう」


 桃色の薔薇と、白色の薔薇を一輪ずつ。自分の自由になる金など殆ど持っていなかったエレンには、一輪の花しか買うことができなかった。

 花屋の善意にエレンは笑顔で感謝する。

 けれど、胸を凍らせる言葉が何処からか聞こえてきた。


「やだねえ……、男に色目使って」

「あの子でしょう、アップルガース家の妾の子供って。小さくても母親と同じなのね」


 嫌だわ、と言って婦人たちはくすくすとさざめくように笑った。

 小さな町ではアップルガース家の妾とその子供という立場は知れ渡っていた。今までも外を歩いていて笑われることがあったのに、どうして笑んだりしてしまったのだろう。

 頭がかっと熱くなったと思えば冷たくなりエレンは花を突き返し、家に引き返していた。


「どうしたの、ルイーズ」

「触らないで!」

「ルイーズ」

「呼ばないで……、来ないで……!」


 心配して近寄ってくるマルガレーテの手を振り払い、エレンは叫ぶ。


「どうして……どうしてお母様はあいつの愛人なんかになったの? ねえ、どうして!?」


 要らないと言いながら、求めている。

 遠ざけながら、触れて欲しいと思っている。

 ただ父がつけてくれた名前を呼んでもらいたいだけなのに、妾腹の身ではそれも適わない。エレンは父と言葉を交わしたことさえなかった。


「私の……生まれた意味は何なの……」


 愛してくれないのなら潰して欲しかった。卵から孵る前にその手で握り潰して欲しかった。

 殺してくれるだけで愛されていたと錯覚できたのに、それさえもしてくれなかった。それはつまり、本当の意味でこの存在のことなど目に入っていなかったということだ。

 愛されもしないこの人生に何の意味があるのだ。エレンは己の運命を呪い、声を上げて泣いた。

 泣いても泣いても涙は尽きない。

 涙は尽きることなく溢れて、拭っても拭っても止まらない。


「エレン・ルイーズ」


 名前を呼ぶマルガレーテの声に、エレンはしゃくりあげながら顔を上げる。


「おまえは怒りを他人に向けては駄目よ。おまえの怒りは【毒】となって他人を殺すわ。恨まず妬まず、花のように生きなさい」


 どうして母がそのような酷いことを言うのか理解できない。だが紫色の瞳は何処までも真剣で、エレンは母が本心から言っているのだと嫌でも理解した。

 毟られる野の花のように生きろという母の言葉は、その後の少女の成長に影響を与えることになった。






 男の子はカエルとカタツムリ、それに子犬の尻尾で出来ているのだという。

 女の子はお砂糖とスパイスと素敵な何かで出来ているのだという。

 素敵なものの詰まった女の子は何も知らないままでいるべきだと教師は説く。

 家事よりも刺繍を、勉学よりも詩作を。その教えによってできる完成された女性は、毟られる野の花と似ているとエレンは考える。

 その言い付けを守らずともエレンは詩作や刺繍に長じている訳ではない。社交的な訳でもダンスが得意な訳でもなく、母親譲りの姿ばかりが目立った。

 容姿だけが優れたお人形だと、良く陰口を叩かれた。エレンは聞こえない振りをしていつも微笑む。

 所詮は妾の子だ。神に背いて生まれてきた命に祝福が与えられることはない。

 諦観することで平穏を手に入れたエレンは芸術に――取り分け音楽にのめり込んだ。

 この無価値な腕でも音という命を生み出せるのだという事実に心が震える。

 ピアノを教えてくれた母のように、自身もまた誰かに音楽の素晴らしさを伝えたい。望まれずに生まれたような命だけど、それを生きる意味にしたいとエレンは望んだ。

 娘に生きる意味と平穏を与えたマルガレーテは、エレンが十二歳になる頃には病に倒れていた。

 何が原因か知れない奇病だった。


「恨んでは駄目よ、ルイーズ……」

「お母様、どうして?」

「……あの人を……恨まないで……」


 あの人――エレンの父は、マルガレーテが身体を壊すと療養の名目で田舎に追いやった。

 小さな屋敷と金だけを与えられて、仕える使用人も僅かばかり。療養というのは(てい)の良い厄介払いだ。

 父は見舞いにはこず、こうして母が危篤になっても顔を見せることはない。

 エレンはマルガレーテが何故、父を庇うのか最後まで理解できなかった。


「ああ……愛してるわ、あなた(ロラン)……」


 最期の言葉がずっと傍にいた自分へのものではなく、夫へのものだったという事実にエレンは傷付いた。

 父への恨みが湧き上がる。だが、大好きな母の言葉は守りたかった。


「恨まないわ。お母様が愛したお父様ですもの……」


 マルガレーテの葬儀は速やかに行われた。

 参列者は身内だけだ。三年振りに会った父はやはりエレンのことは目にも入っていない様子で、十字架を腕に抱いた牧師に事務的な感謝を述べた。

 埋葬が終わった丘の上にエレンはひとり残された。

 ここはテーシェルの町並みを見下ろす静かな場所だ。

 灰色の空から落ちてくる雪は水気を含まず、さらさらとしている。美しい結晶を見ることのできる粉雪だ。

 ただ静かに雪は降っている。

 黒い手袋の上に落ちた白いものは暫くその形を保っていた。


「綺麗な雪ね、お母様」


 冷たい土の下に眠るマルガレーテに話し掛けるエレンの心には決意があった。

 もう父の愛情を期待することは止めにする。

 エレンは諦めた振りをしながら、何処かで信じている部分があった。いつかは笑顔で迎え入れてくれるのではないかと願い続けていたのだ。

 父は母の死に顔を見た時、笑った。

 今回のことで父の愛を求めることが如何に無意味であるのかが分かった。

 エレンは黒いドレスの腕を広げ、高々と歌う。


 罪の世人らに救いの泉を開きて 救いを現しし神子よ

 檻より離れて迷いし我をも白く成したまえ 聖き血潮にて

 雪よりも雪よりも白く成したまえ 聖き血潮にて


 我が罪の為に茨をいただき 十字架を背負いて苦しみし神子よ

 罪を悲しみて来たれる我をば白く成したまえ 聖き血潮にて

 雪よりも雪よりも白く成したまえ 聖き血潮にて


 人も、罪も、等しく銀色に染まる。

 エレンは薔薇のように艶やかに生きたいとは思わない。エレンは雪のように生きたい。粉雪の結晶のように、純白で汚れのない存在になりたいのだ。

 祈りを終え、墓石と花に降り積もる雪を眺めていたエレンはふと顔を上げる。

 誰もいない丘に雪の踏み締める音が響いた。

 墓場にやってきたのは三人組の男だ。年の頃合いは十代後半で、何処か垢抜けない派手なフロックコートを纏っている。喪服を着るでもなく、手向けの花を持っている訳でもない。そんな彼等はマルガレーテの墓を目指して歩いてきた。


「こいつがアップルガースの娘か?」

「ああ。母親と同じ髪の色だ」

「本当に価値があったのは母親なんだが、死んじまったら仕方ねえよな」


 エレンを取り囲むように立った男の一人がナイフを抜いた。


「抵抗すんなよ。痛い思いをすることになるからな」


 十二の少女が知っていることは少なかった。それでも何か酷いことをされるのだと直感的に気付いた。

 抵抗すれば刺されるのではないかという恐怖に身体が凍った。

 どれだけ声を上げようとしても、喉で死んでしまう。

 声も出なければ、身体も動かない。


「一緒に来てもらうぞ、紫眼の魔除け人形(トランスジェニック)

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