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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
六章
143/208

Chanson pour les Enfants l'hiver 【5】

 ルイスを伴い家に戻ると、一足先にレヴェリーが帰宅していた。

 二人は連絡を取り合っていたようで、エレン・ルイーズの件はレヴェリーにも伝わっていた。クロエが心配するほど拗れている様子はなく、二人はコリンナに会いに行ったり、祖母だという人物の墓を訪ねたりしていた。

 それぞれ抱えるものはあるものの表面上は穏やかに、いつも通りの日々に戻り始めている。

 そういう折にヴァレンタインの家へ帰り、再びテーシェルに戻ってきたルイスは物凄く不機嫌になっていて、クロエとレヴェリーはおろおろと様子を窺う。


「お前、その顔どうしたの……?」

「殴られた」

「何したんだよ」

「キミに説明する必要は――」


 言い掛けて、顔を顰める。喋ると口が痛むらしい。


「拳で殴られたことないんだろ」


 ろくでもない大人たちに育てられ、喧嘩馴れしているレヴェリーとは違い、ルイスは貴族の養子だ。荒っぽいこととは無縁の生活を送ってきた。

 弟が顔を腫らしている姿を見るのは複雑なようで、兄は哀れみの眼差しを送る。


「ちゃんと冷やさないと本当に腫れますよ……」


 なまじ整った容貌をしているものだから、こういった傷は余計に目立つ。クロエがそっとルイスの髪を退けると、殴られた側の目は充血して肌も赤くなっていた。

 兎に角、今は冷やすことが大切だ。クロエはボールに氷水の用意をする。


「いつもすかしてる小侯爵が醜く顔を腫らしているなんて良い眺めだなあ」

「……そうですか」


 騒ぎを聞き付けてリビングへやってきたヴィンセントは意地悪く微笑んだ。


「もう数発殴られてみない? 君がもっと醜くなれば僕は優しくできるかもしれない」

「貴方と親しくなるくらいならオレは普段の顔で充分です」

「遠慮しなくて良いよ」

「そんなに気に入ったのなら二、三発殴らせてもらえれば同じようにしてあげられますよ」

「喧嘩はやめてください!」


 男はこれだから嫌だ。すぐ殴り合いや掴み合いに発展する。

 喋ることが辛い癖にしっかり言い返している様子に頭が痛くなったクロエは、ルイスを黙らせる為にこめかみに冷したタオルを押し付ける。


「冷たいんだけど……」

「我慢してください」

「今更な気がする」

「打撲は一日冷やすとかなりマシになります」


 放っておくとそのままにしそうな様子なので、クロエはタオルは宛がっておく。


(何も大丈夫じゃないよ)


 実親に捨てられたのではないと知ってからのルイスは精神的に余裕ができたようだが、だからといって不良になっては意味がないのだ。

 殴られるほどの何をしたのだろう。そもそも誰に殴られたのだろうか。

 クロエは彼が実家で何をやらかしてきたのか気になって仕様がない。

 そういう気持ちを押し隠しながら手当てをしていると、ヴィンセントが面白くなさそうな声で言った。


「僕の見えないところでやってくれない?」

「何がです?」

「傷を冷やすくらい自分でできるじゃない。過保護だよ」

「ヴィンセントさんが怪我してもこれくらいしますよ」

「そういう話じゃないよ」


 ヴィンセントやレヴェリーが絡むとルイスが面倒なことを言い出すのと同様に、ルイスのことが絡むとヴィンセントは普段よりも更に心が狭くなる。クロエはろくでもない大人の小言を適当に聞き流す。

 大人の対応を受けたヴィンセントは唇に浮かべていた笑みを消し、瞳をじっと細めた。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 雨の降り続いた六月はあっという間に過ぎていく。

 雨の月が終わりに差し掛かる頃、テーシェルの中心地であるマルシェ広場は賑わっていた。

 天候不良の為に延期になっていた、パイ投げ(オレンジデー)が行われているのだ。

 パイ投げといえばクリームを盛り付けた紙皿をぶつけるものを想像するかもしれないが、オレンジデーに於けるパイ投げとは本物のパイを使う贅沢な遊びだ。

 食物で遊ぶなど不謹慎だと眉を顰める者も多い。だが、テーシェルの住民にとってこれは豊作を祝う伝統的な行事なのだ。大切な行事に向けて、町のパン屋、菓子屋といった者たちは前日からパイを焼き上げる作業で大忙しだった。

 パイの補給作業の手伝いをしているクロエは、喫茶店内でパイが冷めるのを待つ。

 同じく手伝いに駆り出され、暇を持て余しているルイスは椅子にかけて雑誌を眺めていた。

 クロエはそろそろと近寄る。


「この前の怪我、誰にやられたんです?」

「……ヴァレンタインの父親」


 厨房のエルフェに聞こえないほどの声で訊ねると、ルイスは短く答えた。

 生みの親の件をすぐに報告しなかったことで、養父であるヴァレンタイン侯爵と揉めたらしかった。


「手を上げるのはやりすぎだと思いますけど、そういうことは一番に知らせなきゃいけない人ですよ」

「養って貰っているんだから報告する義務があるのは分かるよ」

「そういうことじゃなくて――」

「だから迷惑は掛けられない。父親のことが表沙汰になると面倒だ」


 ルイスもレヴェリーも、エレン・ルイーズのを悪く言うことはなかった。一方で、顔も知らない父親のことは深く恨んでいた。

 恨んではいけないと言うことなどできない。恨んで当然の相手だ。

 だが、そうして憎しみを抱えることで二人の苦しみが増すようで、クロエは辛い。


「本当のお父さんのことは気にしない方が良いですよ」

「口で言うのは簡単だよ」

「どんな人が親でも貴方は貴方です。それに男の子はカタツムリと蛙と子犬の尻尾で出来ているとも言いますし、あんまり細かいことは気にしちゃ駄目です。親は親、自分は自分です」

「それは慰めのつもりなのか?」

「……あ」


 蛙嫌いのルイスにとって身体の三分の一が蛙で構成されているというのは気休めにならない。明らかに墓穴を掘った。


「え……えっと、あの、流石に蜂は無理ですけど、蛙とか他の嫌なものが襲ってきたら守りますから!」

「意味が分からないし、キミに守られても嬉しくない」

「どうしてです!」


 クロエは自分に悪意や害意がないことを訴えることに真剣だが、ルイスは益々嫌な顔をする。クロエは必死に反論を考え、そして不意を突かれた。


「大体、オレに襲い掛かってくるのは主にキミだろ」

「な……っ」


 クロエは息を呑んだ。

 こちらが忘れる努力しているのに、どうして蒸し返すのだ。

 火を吹く勢いで睨むと、ルイスは機嫌を損ねたような仕種で顔を背けた。


気絶(ジェ・ファイイ・)しそう(トンべ・ダン・)だった(レ・ポム)

「林檎の中に落ちるって何です? そんなに私って林檎に似てるんですか?」

キミ、(テュ・ア・アン・)莫迦(プティ・ポワ・)だろ(ダン・ラ・テット)

「そういうことばっかり言ってると本当に怒りますよ」


 林檎だとかグリンピースだとか一体何なのだ。以前にも梨に例えられて莫迦にされたクロエは面白くない。

 妙な責任を感じて大人しくなられても嫌だが、だからといって万年反抗期というのも困る。

 そうして二人で噛み合わない会話をしながらぼそぼそ揉めていると、厨房から出てきたエルフェは呆れ顔をした。クロエは慌てて口許を覆う。

 エルフェがその視線を向けた相手はルイスだった。


「然るべき場所では然るべき言葉遣いをするべきだ。こういう場では共通語を使うのが礼儀(マナー)だろう」

「貴方まで何なんですか」

「何のことだ?」


 最近マナーについて教育的指導を施されることが多いルイスはエルフェを煙たがる。


「貴方までこの人の味方かという話です」

「義理とはいえ身内なのだから当然だろう」

「エルフェさん……!」


 エルフェがそのように思ってくれていたとは知らなかった、とクロエは感激した。

 ルイスの存在を諦めようとしたことでクロエはエルフェに対して憤りを感じていたが、もしや気遣ってくれたのだろうか。だとしたら、自分の振る舞いはそんなエルフェを悲しませるものだったかもしれない。

 感極まったクロエが瞳を潤ませていると、ルイスは他人事のように提案した。


「お父様と呼んであげたらどうだ」

「え……っ」

「義理とはいえ父親なんだから、そう呼ばれたら喜ぶかもしれない」

「そうですね。じゃあ――」

「止めろ。老けて見られるだろう」


 ルイスの勧めに従ってその言葉を口にしようとした時、エルフェは制止を掛けた。

 思いの外、厳しい声色にクロエはびくりとする。

 エルフェは眉間に皺を寄せている。その表情と声色から一見重大なことのように聞こえる。だが、その理由はどうしようもないことだ。

 先ほどとは打って変わり、今度はエルフェは二人分の呆れの眼差しを受けることになる。


「老けるというよりも遊んでいるように見えますよ。年食っていても見掛けだけは若いんですから」

「ですよね……。ご近所の方に、どういう関係なのって訊ねられることが多いです」


 外見は二十代半ばのエルフェと、十代のレヴェリーとクロエ。そしてレヴェリーの兄弟のルイス。そこに職業不定のヴィンセントまで加わるのだから怪しすぎる集団だ。


「追加だ。外に運べ」


 突き付けられる現実に嫌気が差したのか、エルフェは冷めたパイを残して厨房に戻った。


「……逃げた」

「逃げましたね」


 短く感想をこぼし、クロエは作業に取り掛かる。

 業務用のトレーには六枚のパイが並んでいる。この一枚を八等分にして使うのだ。

 パイにナイフを入れると、ふんわりと甘酸っぱい香りが漂う。テーシェル名産のハニーレモンジャムとホワイトチョコレートを使ったエルフェ特製のパイは、例え顔面に攻撃を受けたとしても幸せになれる出来だった。

 切り分けたパイを持って外に出ると、広場はレモンの香りに包まれていた。


「さっきよりも凄いことになってますね」

「掃除するくらいならやらない方が良いと思う」

「それを言ったら駄目ですよ」


 パイをぶつけられて困るもの――テラスの花など――にはビニールシートが被せられていて、汚れた広場の清掃は参加者たちがしなければならない。しかし、後の掃除のことを考えて加減するという考えは参加者たちに通用しない。彼等は敵にパイをぶつけることに夢中だ。

 陣営は二つに別れており、クロエがパイを運ぶのはレヴェリーのいる西ブロックだ。

 陣営といっても即席で割り振られただけの集まりなので纏まりはなく、裏切り者も出る。祭りの最後は同士討ちが横行する阿鼻叫喚の巷と化す、と誰かが語っていた。


「追加ですよ」


 クロエとルイスがパイを運び込むと、皆はあっという間にそれを掴んでいく。

 遅れてパイを取りにやってきたレヴェリーは、頭から爪先に至るまでジャムまみれになっていた。


「レヴィくん、大丈夫? 何処か怪我してない?」

「パイぶつけられたくらいで怪我しねーんだけど」

「沢山ぶつけられたみたいだし」

「食べたくてわざと食らっているんじゃないか。そうでなかったからそこまで不様な姿は晒せないはずだ」

「え……、そうだったんだ……」

「二人してオレのことおちょくって楽しいか?」


 言いたい放題のルイスとそれに流されるクロエに、レヴェリーは頬を引き攣らせた。

 レヴェリーのその呆れの表情が驚きに染まるのは直後のことだった。

 べちゃり、と何かがぶつかる音が近くで響いた。横合いからの攻撃に何が起きたか理解できなかった。


「ふ…………え……なに……これ……」


 どろりとしたものが頬を伝って落ちてきたところでクロエは漸く自分が攻撃を受けたことに気付く。

 補給係に攻撃を加えてはならないなどというルールはない。この広場にいる者全てが参加者だ。


「クロエ、大丈夫かー……?」

「…………うん、大丈夫、平気……」


 腫れ物を触るようなレヴェリーの態度にクロエは思わず肩を震わせ、パイを頭から引き剥がした。そこで衝撃を受ける。パイが何故か赤黒かったのだ。

 レモンの収穫祭のはずなのに誰がストロベリージャムを入れたのだろう。そのことはまだ許容範囲なのだが、パイは奇妙に生臭い。魚介類のような得体の知れない物体が混ざっている。


「何か足みたいなの混ざってね?」

「え……これ、イカ……イカスミ!?」


 クロエは大慌てで顔を拭う。するとその手が真っ黒に汚れ、悪臭に染まった。

 数歩身を引いたレヴェリーは声を上げて笑い出す。


「ちょっと、そんなに笑うことないじゃない。そっちだってどろどろの癖に!」

「いや、オレは墨じゃねーし」

「取り敢えず、騒ぐ前に隠れたら」


 クロエはルイスに物陰へと引き込まれる。

 レヴェリーは笑いたそうに唇をぶるぶると震わせている。

 祭りは無礼講とはいうが、あんまりだ。拭えば拭うほどに顔や服が墨とジャムで汚れ、クロエは泣きたくなる。


「女の子は砂糖とスパイスと素敵な何かでできているらしいから、墨くらい被っても平気だよ」

「慰めになってないです……」


 差し出されたハンカチーフの優しさに甘えても心はちっとも晴れなかった。

 クロエが生臭さと辛気臭さを背負って嘆いていると、ルイスが地面の墨入りパイを眺めて言った。


「このパイ、使って良い?」

「え、お前もやんの!?」


 その発言にはクロエよりもレヴェリーが驚いた。


「やられたらやり返さないと気が済まない」

「いや、それお前が言うと洒落になんねーから!」


 報復は倍返しを信条とするルイスをこの手のことに関わらせると危険だ。

 レヴェリーは慌てるが、ルイスはパイを掴んで物陰から出ていった。

 それから先は、凄まじかったという一言に尽きる。

 悪ふざけをしたレヴェリーがパイを届けにきたエルフェに攻撃を加え、そのことに腹を立てたエルフェがレヴェリーにパイをぶつけ返したことで同士討ちが始まった。敵味方入り乱れてパイをぶつけ合い、祭りが終幕を迎えた時には皆一様にジャムまみれになっていた。

 一部の者にとっては悲惨だったが、塞ぎがちだった双子にとって良い気分転換になったのは間違いないだろう。

 広場の掃除が始まり、漸く物陰から出たクロエはルイスを見付け、駆け寄った。彼はクリームパイをぶつけられたらしく、上等な上着がクリームで汚れていた。


「大丈夫ですか?」

「一応、仇は取った」

「あー……えっと……」


 丁度、視界の端に顔面が墨まみれになった男性が入り、クロエは胸を冷やす。あの様子ではパイを投げつけられたのではなく、直接顔に押しつけられたのだろう。

 クロエは少しだけ同情し、自らの有り様を改めて見た。


「ここまで酷いといっそ清々しいですね……」


 墨が染み込んでワンピースが駄目になってしまった。気に入っていた服なのでクロエは残念に思う。


「買い物に行くなら付き合うけど」

「ど、同情ですか?」

「そうではなく、色々と……詫びもあるから」


 思いがけない言葉に喜びながらもしっかり予防線を張ると、ルイスは少しだけ言葉を濁した。

 胸の中で膨らんだ嬉しい気持ちが途端に萎んだ。

 詫びなど要らない。だから、なかったことにしたくない。

 そんなはしたないことを考える自分を諫め、クロエは胸の痛みを捩じ伏せる。


「あ……そうだ、ハンカチ、洗って返しますね」

「別に、返さなくて良いよ」


 ルイスは借したままのハンカチーフを返さなくて良いと言い、掃除に戻った。

 こんな汚れたものを返しても迷惑だということを考えもしなかった己を呪う。

 しょんぼりとしながら掃除用具を取りに家の玄関を潜ったクロエは、そこでしゃがみ込む。


(勘違いなのに……)


 帰宅して何日も経つというのにクロエは未だに気持ちの切り替えができていない。

 自分の心など些細なことだ。彼の心が楽になるのならどうだって良い。そう思うはずなのに、胸が潰れそうになるのはどうしてだろう。彼とこれまで通りの友人付き合いをしようとすればするほどに胸は痛んだ。

 理由は既に理解していた。

 だけど、それは駄目なのだ。

 叶わないと分かっている夢を見るのは愚かだ。分不相応な夢を抱いて傷付いたり惨めな思いをするくらいなら、クロエは自分の心を誤魔化す為の嘘をつき通したい。

 彼と自分の為の嘘をつけるようになりたい。

 自らの負うべき痛み堪え、クロエは目をきつく閉じる。

 人知れず雨は降っていた。

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