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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
六章
142/208

Chanson pour les Enfants l'hiver 【4】

 ぱらぱらと雨が地上へ降り注ぐ音が聞こえる。

 空は雲が広がっていて、陽の光を見ることができない。

 雨の日が好きではなく、進んで外出する気分にもなれないクロエは菓子作りをしていた。

 初めに細かくしたチョコレートとバターを湯煎で溶かす。それから卵白を泡立て、溶かしたチョコレートに卵黄を加えたものと混ぜ合わせていく。

 さくさく、と泡を潰さないようヘラで切るように混ぜ合わせていくと光沢が出てくる。艶々と輝くペースト状のチョコレートを器に盛り付けたクロエは、隣の鍋の様子を見る。鍋の中身は、オレンジとワインを煮詰めたものだ。


「何を作ってる?」

「チョコレートのムースです。良い匂いでしょう?」


 今日のアフタヌーンティーの菓子は、チョコレートムースのオレンジコンポート添えだ。

 イレブンジィズティーで使った食器を洗いにきたルイスは、クロエの問い掛けに生返事をする。


「あんまり甘くしないから大丈夫ですよ。オレンジも添えますし」

「キミはオレにオレンジさえ食べさせていれば良いと思っているのか」

「だったら何が食べたいんですか?」

「何でも良い。要らないから」


 会話はそこで見事に途切れ、蛇口から水が流れ落ちる音だけが厨房(キッチン)に響く。

 クロエは黙って鍋の中身をかき混ぜる。

 時間を掛けて煮詰めたオレンジは甘酸っぱい香りを漂わせている。柑橘好きのルイスにとってそれは堪らなく魅力的な香りのはずだ。自分から進んで食事をしたいと言ってくれないものかとクロエは期待する。

 だが、もしルイスが菓子で懐柔できるような相手ならクロエもここまで苦労してはいないだろう。


(レモンの方が良かったかな……。チョコレートとレモンって合うの?)


 濃厚なブラックチョコレートとレモンの酸味は上手く混ざり合わないような気がした。

 そういえば、エルフェはパイ投げ祭りに向けてホワイトチョコレートとレモンジャムを使ったパイの試作をしていた。明日はホワイトチョコレートを使ったレモンタルトに挑戦しようとクロエは決める。

 そうしている間にもルイスは洗い終えた食器を片付け、部屋に戻ろうとするので、クロエははっとして呼び止めた。


「あ、待って下さい。私、そろそろクリームヒルトと遊ばないといけないんです」

「……それで?」

「暇そうですし、これお願いします。とろりとするまで煮詰めたら保存瓶に入れて下さい」

「オレは本を読みたい」

「一日中読書をしているなんて不健全です」

「健全だろ。晴耕雨読という言葉もある」


 クラインシュミットの邸宅から運んだ本を読み耽っているルイスはこうでもしないと部屋から出てこない。

 物騒な仕事にのめり込むよりは健全だが、だからといって寝食を忘れられるのも困る。不健康だ。


「全部食べろと言ったりしませんから代わって下さい」

「じゃあ、クリームヒルトを構う役目を引き受ける」

「貴方は甘やかすから駄目です」


 読書とうさぎからルイスの意識を逸らしたいクロエは木ベラを半ば強引に手渡した。


「……まあ、良いけど(スィ・テュ・ヴ)


 目を伏せたルイスは嫌々というよりは、反抗することに飽いたという様子だった。






 市場で買い物をして、菓子作りをして、うさぎと戯れて。寝る前には紅茶を飲みながら少しだけ話をして。

 この数日は穏やかな――穏やかすぎる日々が続いていた。

 ルイスは寝食の時間を惜しむように本を読み、父親の遺した手紙に目を通している。

 何となくだが、手紙に記されているのは本の内容だけではないのだろうなとクロエは感じる。

 ルイスはまた何かを大切なことを考えている。これは確信というよりは予感だ。


(まだだって言っていたもの)


 薔薇の根本から出てきたブルーダイヤをルイスは身に着けようとはしなかった。

 母親に対する(わだかま)りが消えていないのかと不安に思い、訊ねたところ、レヴェリーときちんと話をして両親の墓参りをしなければならない、と言っていた。

 律儀な人だとクロエは思う。

 両親が自分の為だけに残してくれた形見を身に着けることにも理由を求める姿は痛々しい。彼がまた何かを一人で抱え込んでしまうことが心配だった。

 このひと時が嵐の前の静けさなどではなく、ずっと続けば良い。

 穏やかな時間が永遠に続けば良い。

 悲しいことや苦しいことがない世界にいれば、いつか彼も笑ってくれるかもしれない。そんなことを考えて、クロエは自嘲した。

 幸せを望んでいない彼は例えそのような世界にいても自分自身のことを許せなくなるだけだ。

 何だかんだでそういう人間性を理解しているから――理解してしまったから、クロエは復讐がいけないことだと言うことができなくなった。

 クロエはカーテンを少しだけ開け、荒れ模様の外の様子を眺めた。

 暗い夜空から氷の塊が凄まじい音を立てて降り注いでいる。

 雹嵐(ヘイルストーム)といって寒暖の差が大きいこの時期は珍しいことではないが、雹が長く降り注げばその被害は莫迦にできないものがある。


「これじゃお屋敷の花も枯れてしまいますね……」

「十年持ったんだ。もう充分だよ」


 無関心という風でも諦観している訳でもない、納得しているといった様子にクロエはそれ以上の言葉を封じられる。

 料理用の安ワインを鍋で温めて何かを作ってきたルイスは話を変えるように問うた。


「飲み物は?」

「貰います」


 ルイスが飲み物を用意することにクロエは驚かない。ここ数日の生活で、クロエが雑事をする代わりに、ナイトティーを用意するのはルイスの役目になっていた。

 クロエはカーテンを閉めて窓から離れようとする。直後、空に稲妻が走り、少し遅れて雷鳴が轟いた。

 びくりと硬直するクロエ。その瞬間を運悪く目撃される。

 ルイスは意外だというように目を見張るので、クロエは居た堪れない。


「虫も蛙も好きなのに……」

「いえ、私だって昆虫とか好きな訳じゃ――!」


 好きなのではなく、耐えられるのだ。そして虫や蛙が平気なことと雷は関係ない。

 そう訂正しようとした時にまた雷鳴が響き、クロエは首を竦めた。

 平静を保とうとしたが、徐々に近付く雷鳴に心が挫けた。ずるずるとソファに座り、膝掛け(ブランケット)にくるまる。

 幼子ならいざ知らず、大人になって雷を恐れるなど恥以外の何物でもない。クロエは雷が苦手だ。

 怖いのではなく、嫌いなのだ。

 雨や雷の日は嫌な記憶ばかりで、どうしても好きになれない。

 クロエが冷たくなった四肢を守るように膝を抱えていると、目の前のテーブルにマグカップが置かれた。ほんわりと湯気が立ち上るカップの中身は葡萄色の液体だ。


「……温かいワイン(ヴァン・ショー)ですよね。苦くないですか?」

「不味かったら残して良いよ」


 ワインは苦くて美味しくないイメージしかないクロエは警戒して口をつける。

 沸騰させたことによってアルコールが飛んでいるのか、苦味はない。蜂蜜とオレンジの風味がするミックスジュースのようだ。

 クロエはひとくちふたくちと飲んでいく。


「どうして貴方が用意してくれる飲み物って美味しいんでしょうね」

「自分以外が用意したものは大抵まともに感じると思う」

「そういうものかな……」


 例えば泥を拭う為に温かいタオルを用意してくれたり、水差しにレモンのスライスが浮かべてあったり。気付かなければ当たり前のように受け取ってしまうけれど、そこには一手間がある。

 クロエが【美味しい】と感じるのは恐らくそういうことだ。

 やけに蜂蜜の味が濃いジュースを飲みながら、クロエは遠くの席にかけたルイスに話し掛けた。


「そうだ、貴方には苦手なものってありますか?」

「今の父親と母親は苦手だよ」

「そういうのではなく……」

「蛙と蜂とか」

「そういうものでもなくて」

「トマトとか」

「覚えておきます……ではなくて、怖いものです」

「キミとか」

「はあ……」


 こうなると言葉遊びだ。クロエは思わず溜め息が出る。

 クロエはたまにルイスがわざとやっているのではないだろうかと思ってしまう。


「何度も言ってますけど、私に害意はありません。ただ仲良くなりたいだけです」


 クロエが追い掛けているからルイスが逃げるのではない。ルイスが逃げていくからクロエが追っている。

 ルイスが自分は被害者だというような態度なので、クロエは一言断った。

 カップがテーブルに置かれる音が微かに響く。


「キミはオレといて何が楽しいんだ? 皆レヴィが良いと言うのに可笑しいだろ」

「誰に言われたんです?」

「誰に言われたかの問題じゃない。それが事実だから……、オレもそうだと思っている。そうやってオレが他人に合わせようと考えていないから、キミは楽しくないはずなんだ」

「また決め付けるんですか」


 理不尽な暴力を受けて育つと人は感情を抑圧するようになる。

 クロエに絡み付いている茨と同じだ。ルイスのそれは簡単に払拭できるものではない。


「私は……貴方といるとほっとするんです」

「襲おうとしたのにか」

「そういうことばっかり言ってると怒りますよ」

「キミはいつも怒っているじゃないか。そういう嫌な奴の傍で安らぎを感じるほど一人が嫌なのか?」

「嫌に決まってるじゃないですか」

「だから誰でも良いということか」

「いい加減にして! そうじゃないって何度も――」

「ああ、そうではないと言ったね。キミは莫迦だけど、そこまで頭が悪いとはオレも思っていない」


 その言葉に、鎌を掛けられたことに気付く。

 クロエはあまりのことに頬が引き攣った。

 何処までが本心で何処からが嘘だったのだろう。ぎくりとするが、もう言葉は出た後だ。


「あの……ええと……ルイスくん?」


 クロエは宥めようと優しく話し掛けてみる。しかし、そのような懐柔策に乗るルイスではない。


「キミは誰にでも傍にいる訳じゃないと言った。【貴方だから】とも。だったらここにいるのは何故だ?」

「え……っと」

「どうして」

「へ、へんないみ、じゃ……っ」


 聞き流してくれたのだと安心しきっていたクロエは蒸し返されて焦った。

 自分から攻めている時は必死になっているから羞恥心など吹き飛んでいるが、蒸し返されたり、反対に攻められたりするとどうして良いのか分からなくなってしまうクロエだ。

 ルイスの「どうして」という言葉は狡い。色々なものを引き出そうとしている。

 クロエはルイスの様子を窺おうとするものの、この位置からは彼の背中しか見ることができなかった。


「あの……、好きとかそういうのじゃないんです」

「嫌いなのにするのか」

「き、嫌いな人にしないと言いました……」

「意味が分からない」

「だから、好きって言ってるじゃないですか!」


 揚げ足を取るような言葉に苛ついて、うっかりと口を滑らせてしまう。


「い……いえ……ですから、その、好きなんですけど、変な意味の好きじゃないんです。ええと……そう……砂糖と同じくらい好きです」

「は……?」

「私、甘いものが好きなんですけど、砂糖は料理にも欠かせないですし……っ」


 自分でも何を言っているのか分からなくなってきたクロエは、しゃっくりのような息をする。

 必死で言い訳を考えている内に気付いてしまったのだ。何をされても構わないと思うその気持ちの在処に。

 今更恥ずかしさが込み上げて全身が火照ったように熱くなる。だが、頭の酷く冷静な部分が警鐘を鳴らす。

 その気持ちを理解してはいけない、告げてはいけない、と。

 迷惑にしかならない。また幻滅だと言われてしまう。


(だめ、だ……)


 クロエが愛することにも愛されることにも慣れていないから出た答えではない。両親に愛されて育ったとしてもきっと同じ答えが出た。

 唇が震えて、声が掠れた。


「大切な友達だからですよ。私が勝手に思っているだけですけど……」

「……それなら良いんだ」


 ルイスは意地の悪い詰問をしていたことが嘘のように、奇妙なほど聞き分けが良かった。

 クロエは納得してもらえて助かったはずなのに、嬉しくない。

 そう、悲しいのだ。

 今まで何度もこの切なさを味わっている。

 初めにこの感情を抱いたのはいつのことだろう。思い出せない。思い出せないけれど、ずっと前だ。気付いていなかったのは自分だけだったのだろうか、とクロエは震える。


「見限らないでくれて有難う」


 その声は雹と雷の音に掻き消されず鮮明に届いた。

 我に返り、クロエが振り向いた時にはルイスは部屋を出ていこうとしていた。


「あの、ルイスくん。私――」

「あと三冊読み終えたら戻るよ」


 クロエはその背を呼び止めようとしたが諦め、唇を引き結ぶ。

 またいつも通りの生活に戻る。また平凡で非凡な毎日が始まる。

 ルイスを連れ戻す為に追ってきたクロエにとってそれは喜ばしいことだ。そのはずなのに、クロエの表情は浮かないままだった。






 シャワーを浴び、借りている部屋に戻ったクロエはドレッサーの前で髪の手入れをしている。

 目立つ色の髪はやはりコンプレックスだが、一時よりは肯定的に捉えることができるようになった。

 金色ではなく、蜂蜜色。子供騙しと言われそうだけれど、その意識は大切なことだ。

 鏡を見ながらブラシで丁寧に髪をとかす。邪魔になった反対側の横髪を背中に払おうとしたところでクロエは硬直する。寝間着のゆったりとした襟から覗く首筋には、くすんだ色の痣があった。

 クロエは髪を下ろした。長く垂れた髪にそれは包み隠される。


(忘れなきゃ……。今まで通りに戻るんだから)


 何もなかったことにはできる。

 だけど、何もなかった、なんて嘘だ。

 これと同じものが鎖骨と腕にある。あの夜、刻まれたものだ。

 あの時の彼は不安定だった。捌け口を求めていて、それを復讐という行為に向けていたのだ。その矛先を変えようと強引に触れたからこそ、報復を受けた。ただの当て付けた。そうして手荒にされるだけなら割り切ることができたのに、彼はクロエを惑わせた。

 頬に触れ、髪を撫でたその手が妙にあたたかかったから、こんな自分でも何か与えられるのではないかと期待し、愚かな夢を見た。

 そう、勘違いをしたのだ。

 きっとそうだ。そうでなかったらこの感情に説明が付かない。

 彼がこちらを好きでいてくれたらどれだけ嬉しかっただろうその余韻は、今はただ冷たく突き刺さった。

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