表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
林檎の木の下で  作者: 瑠樺
六章
141/208

Chanson pour les Enfants l'hiver 【3】

 エレン・ルイーズの日記帳は三冊あった。

 ずぼらな性格だったのか日記は不定期で、一冊の日記帳で五年が経過していることもあった。

 日記に綴られていたのは不安定な感情と、何かに苛立っているようでさえある攻撃的かつ虚無的な言葉。

 幼い頃の彼女は両親のことばかりを気にしていた。

 自分を顧みない父親と、そんな父親しか見ていなかった母親に憤り、愛情を求めていた。そして、彼等から生まれた自分の価値に悩んでいた。そのような辛い現実に在りながらも希望は失わず、苦しみながらも前を向いて生きようとしていた少女時代だった。

 少女時代の終わりは母親を亡くし、父親に捨てられ、子供を失ったこと。

 我が子を奪われてからは攻撃性よりも諦観が目立つようになる。死にたい、という一言が彼女を襲った不幸をまざまざと語っている。

 生き地獄でもがき苦しむ彼女の言葉は虚無感に満ちていて、欠片も希望がなかった。

 だが、ある時から日記に記されることに変化が見えるようになる。

 慈善活動をしているとか、そこで知り合った男が鬱陶しいとか、一緒に出掛けて楽しかったとか、髪を褒められて嬉しかったとか。未来の夫である彼と出会ってからの彼女は、少女だった頃の彼女に戻ったようだ。

 絶望と悲嘆と諦観の冬が終わり、春が訪れる。

 彼と結婚してからの彼女には、まるで悲しみなど何もなかったようにさえ見えた。

 朝に小鳥の囀ずりが聞こえたとか、夏の星が煌めいていたとか、新しい紅茶が美味しかったとか。妻となり、母となった彼女は平穏な日常を綴っている。


 ――明日もまた晴れますように。


 日記の最後の一文は自分に訪れる運命を何も知らない、いつもの彼女の言葉だった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 クラインシュミットの邸宅は時間に置き去りにされているかのように、ひんやりとした空気が重く溜まっていた。

 廊下の壁に手をつき、動けなくなるルイスにクロエは声を掛ける。


「大丈夫ですか?」


 ルイスは頷くことも否定することもせずにまた進み始める。その背を追いながらクロエは不安に思う。

 前回は気を張っていたから耐えられたのだ。片割れが姿を消したという不安と、それを見付けるという目的意識が彼の足を進ませた。今も父親の遺したものを探すという目的はあるが、この場所に足を踏み入れることはルイスの精神を削っていた。

 エレン・ルイーズの日記には、アデルバートが病に冒されていたことが書かれていた。

 詳しいことは書いていなかったが、自分が長生きできないことを悟って陰で躍起になっていたらしい。

 アデルバートは自分が死んだ時の為に【言葉】を残し、隠した。

 エレン・ルイーズは下らないから燃やしてしまおうかと思ったなどと物騒なことをぼやいていた。

 それは半分は本心で、半分は嘘だ。

 妻として夫が遺言めいた言葉を残している姿を見るのは辛かっただろう。弱気にならず、しっかり生きて欲しいと思ったはずだ。日記の文面は夫を莫迦にするような内容だったが、彼女の哀しみや辛さは充分に伝わってきた。

 クロエとルイスは邸宅の二階にある書斎に行き、本棚を探した。

 意外にも探し物はすぐに見付けられた。

 書物の間に手紙が挟まっていた。それも一冊だけでなく、数冊にだ。ルイスは封筒から手紙を抜き出し、読み始めるので、クロエは黙って書斎を見て回る。

 私物が殆どない無個性な部屋だ。その代わりのように家具の上には写真立が並んでいる。

 クロエは初めて双子の義父である男性の姿を知った。

 鳶色の髪に同色の瞳という親しみやすい色彩をしているからか、とても柔和な印象のある青年だ。軟派に髪を伸ばし、派手な色物の小物を身に着けているところはレヴェリーと似ていた。


(かわいい)


 写真の中のレヴェリーは無邪気な笑顔が天使のように愛らしい。

 幼少のレヴェリーは悪戯好きな甘えん坊で、面倒を看るのは苦労したと大人たちがぼやいていた。このような可愛らしい子供なら甘やかしたくもなるだろう。クロエは微笑ましくなる。

 対するルイスはというと、折角の写真なのに母親の背に隠れてしまっていた。

 今とは印象が違って見えるのは表情の所為だろうか。それとも髪が明るい金色をしているからだろうか。漠然と、ルイスは昔から自立心のある子供だったのだと想像していたクロエは、母親の背に隠れている彼に少しだけ驚いた。


(今のルイスくんは逃げたり隠れたりするのは嫌がるよね)


 クロエは写真を眺めることを止め、窓辺で手紙を読んでいるルイスに訊ねた。


「何て書いてあったんです?」

「ただの本の感想」

「え……、えっと」


 クロエは思わず言葉に詰まる。

 エレン・ルイーズが呆れ、コリンナが勿体ぶっていたもの――遺書の類だと想像していたのだ。


「具体的にどんな感想なんです?」

「この本の作者は性格が悪いだろうから反面教師にすると良い。そんな感じだよ」

「……それは……何というか……」

「性格悪いんだ」


 ルイスは以前からアデルバートのことを性悪だと(なじ)っていたが、クロエもその意味を理解した。

 わざわざそのような感想文を丁寧に封筒に入れて残す辺りが奇特だ。他に書くことはなかったのだろうか。

 けれど、遺族からすればどんな言葉でも嬉しいのかもしれない。

 手紙を元の場所に戻したルイスは、他の手紙が挟まれた本を探していくのでクロエもそれを手伝った。

 ルイスは本をテーシェルの屋敷に運ぶつもりだった。

 とても二人の手で持ち運べる冊数ではないので、郵便(メールサービス)を頼ることにした。少しずつ自分の手で運び出すという手もあったが、ここは惨殺事件があった場所だ。その場所に何度も足を踏み入れたくないというルイスの気持ちも理解できた。


「少し外の風を浴びましょう」


 梱包した本を業者に渡した後、クロエは庭に出ることを提案した。

 庭にはあらゆる色と形の薔薇が爛漫と咲いている。

 そよ風はほんのりと甘く、芳しい。甘く艶やかな香りを絡ませた風にクロエはうっとりと溜め息をつく。

 薔薇の庭は年数を重ねる毎に管理が難しくなる。手入れをしていなければ尚更だ。コリンナがたまに水やりにきているらしいが、それでも美しい姿を留めているのは奇跡のようだ。

 クロエは、こういった庭園を持つことができたら素晴らしい毎日になりそうだと憧れる。

 自分で育てた花の庭で茶を飲む。それはささやかだけれど、満ち足りた時間だ。


「これ、何という名前でしたっけ」


 オレンジにピンクが混ざった色合いは見ていると気分が明るくなるようだ。

 クロエは花の名前が思い出せず、遅れてやってくるルイスに訊ねた。


「ピュアポエトリーだよ」

「そう、それです。詩的といえばそんな感じもしますよね」

「純粋な詩というには派手な感じがするけど……」

「無垢さをこういう明るい色合いで表しているのかな、なんて」


 力説するクロエに、ルイスは曖昧に頷く。


「気に入ったなら摘んでいこうか」

「……でも、折角綺麗に咲いているのに」

「どうせ他に見る人はいないんだ」


 誰も訪れない場所で朽ちることと咲くことを繰り返している薔薇なら、持ち帰って楽しむ方が有用だろう。

 そうして裁ち鋏と花籠を持ってきたルイスだったが、茎を断とうとしてその手を止めた。


「これは少し棘が多いかな」

「ほんとだ」


 華やかな花に目がいくピュアポエトリーには茎に鋭い棘がびっしりとついていた。

 この棘を取り除くのは手間が掛かりそうだ。


「他に気になるものは?」

「どれも素敵なんですけど……」


 ピュアポエトリーの傍にあるマチルダにも惹かれたが棘が長く、また蕾も多く、切ってしまうのは惜しい。

 好きなものを好きなだけ選んで良いと言われてクロエは迷ってしまう。


「飾るんだったら、丈夫なものが良いです」

「フェリシアとか」

「フェリシアの蕾は砂糖菓子みたいで可愛いですよね。ちょっと林檎の花の色に似ているし」

「……だったら、コーネリアは? あれは四季咲きだった気がする」


 コーネリアは杏色を帯びた薄桃の花弁で、密集して咲く様はそこはかとなく林檎の花に似ている。

 クロエは大きく頷いた。

 自分好みの花を彼が見付けてくれたこと以上に、ささやかな会話ができることが嬉しかった。


「白い薔薇と、あと葉ものも少し加えたいです」

「キミも中々うるさいな」


 指定される花を集めていくルイスはげんなりしている。

 クロエは花の話になると少々うるさい。これはそのことを知りながら花摘みを提案したルイスの自業自得だ。


「エレンさんに渡すものですもん。半端なものは作れません」

「どうしてあの人に花を渡すんだ?」

「母の日、色々あってお墓に行っていないでしょう?」

「……それは……」

「花屋で見繕うのも良いですけど、自分が育てたものを持っていったら喜ぶと思うんです。私、ちゃんと花束作りますから」


 五月の最終日曜日、若しくは六月の最初の日曜日は母の日ラ・フェット・デ・メールだ。

 宗教(精霊降臨の日)の関係で毎年日付が変わる為、今年の母の日は六月だ。その日は既に過ぎてしまったけれど、こういうものは気持ちが大事だろう。

 エレン・ルイーズという名から白薔薇と桃薔薇のアレンジメントを構想したクロエは、それとなくルイスに花を選ばせていた。

 知らずの内に母の日の花を選んでいたルイスは面食らい、複雑そうに眉を寄せた。


「オレはキミが自分のものを選んでいるんだと思っていた」

「私のものはあとで選びます」

「選ぶのか」

「勿論です。またお勧めを教えて下さい」


 ルイスは呆れたが、クロエは籠いっぱいの花を前にどうしても堪えきれず、笑みがこぼれた。

 いばらの小道を進み、蔓薔薇のアーチを越えた先には白薔薇の庭(ホワイトガーデン)がある。

 白薔薇の庭は特に素晴らしい。銀灰色の葉やクリーミィな色の花も取り入れられたことで配色にも深みがある、輝くような高貴な花園だ。

 とろけるような香りが胸をいっぱいにする。クロエは爛漫した香りを楽しみながら薔薇の茎を断つ。その傍でルイスは辺りに視線を巡らす。


「どうなさったんです?」

「いや……、何でもない」

「この前もここにいましたよね」


 ルイスは白薔薇の庭で何かを探しているようだった。

 彼にはどんなことでも吐き出して欲しいと願うクロエは、期待を込めて見上げる。


「首飾りを捨てたのはこの辺りかと思って……」

「それってエレンさんが持たせてくれたものですか?」

「ああ。白い薔薇の根元に捨てたんだ」

「探さなきゃ駄目です!」


 薔薇の根元に捨てた――つまり、埋めた。

 そのような大事なことをどうして黙っているのだ。母の日も大事だが、こちらも同じくらい大切だ。

 クロエは花籠の花を水を張ったバケットに挿し、一旦作業を止める。


「何か特徴は? 形とか匂いとか覚えていませんか?」

「香りはティー系だったのは覚えているんだけど、いまいち分からない……」

「ティー系の匂い……」


 クロエは側にある薔薇に顔を寄せてみるものの、他の薔薇の香りが混ざって良く分からなかった。

 捜索はルイスの記憶が頼りだが、首飾りを埋めた当時とは背丈が変わっていて見る景色も違うだろう。また、庭の状態も十年の内に変化している。手当たり次第に掘り返すこともできないので、どうしたものか。

 そんな時、クロエの視界に飛び込んできたものがいる。


「あ、蜂。気を付けて――」


 気を付けて下さい。そう言い掛けて、クロエは固まる。

 隣にいたはずのルイスがそこにいない。何故か背後に移動している。

 嫌な予感がしたクロエは恐る恐る訊ねた。


「あの、どうして私の後ろに立つんです……?」

「……蜂はちょっと……」

「わ、私だって駄目ですよ!?」

「オレは一度刺されているんだ。今度刺されたら死ぬかもしれない」

「だからって私を身代わりにしないで下さい! こういう時に前に出るのが紳士の在り方です」

「どうしてキミにまで説教をされなきゃならないんだ」

「貴方が説教したくなるようなことしてるんじゃないですか!」

「騒ぐと襲ってくるから静かにしてくれ」


 人を盾にするなど紳士にあるまじき行為だ。大体、そういう黒い服を着ているから蜂に狙われるのだ。

 口を閉ざせと言われたクロエは抗議をたっぷり込め、ルイスを睨む。


(たまに酷いよね……)


 肝心なところで頼りにならないというか、ろくでもない。

 クロエはルイスに対して言いたいことが多々あるが、今は言わない。

 言うと、拗れる。

 拗れると、面倒臭い。

 何より、今大切なのはクラインシュミットの両親のことだ。その問題の前では己の感情など些細なものだ。教育的指導を施すことを一先ず諦めたクロエは、庭を散策しながら薔薇を探していった。


「せめて傍にあった花が分かれば良いんですけど……」

「掘り返すつもりはなかったんだ」

「そうですよね……」


 当時のルイスにしたら、首飾りは自分を蔑ろにした親が持たせたものだ。

 けれど……とクロエは考える。

 本当に要らないものなら、埋めずに捨てることもできたはずだ。そうしなかったということは、実親との繋がりを断ち切りたくないという気持ちが心の何処かにあったのではないだろうか。

 クロエはその想像を心の中に留め置く。

 訊いても答えは得られないだろうし、彼の心は彼自身のものだ。彼の(こころ)を土足で踏み荒らしたくはない。

 伸びきった枝葉を掻き分けて白の庭園を奥へ進んでゆく。

 進むほどに棘で手は擦り傷だらけになり、木薔薇の枝に髪も絡まって散々なことになる。そうしてぼろぼろになりながら捜索するも、探し物は中々見付からなかった。

 ふと、先を進んでいたルイスが足を止める。


「これは何という名前か分かるか?」

「ロイヤルハイネス……ううん、この葉はメルヒェンケニギンかな」


 お伽話の女王という名のこの薔薇は、剣弁高芯咲きの佇まいが美しく、初心者にも育てやすい為、とても人気のある品種だ。コンテストに出品されることも多く、クロエのいた花屋でも切り花を扱っていた。


「なら、これは?」

「それは蕾は紫なんですけど、花が咲くと真っ白に変わるんです。確か名前はルイスダルザン」


 そう口にしてクロエは、はっとする。

 ルイスダルザン、若しくはルイーズダルザン。マドモワゼルブランシュを親とし、美しい白薔薇として有名なブルドゥネージュとは兄弟だ。

 彼の名前は由来がはっきりしなかったが、今分かったような気がする。

 夢想曲と白薔薇。音楽と園芸を愛した薔薇の淑女らしい命名だった。


「殴られたような気分とはこういうことを言うのかな……」


 ルイスは迷わずスコップを差し込んだ。


「えっ、ここで良いんですか?」

「オレはここにこんな花を植えた覚えはない。回りくどい嫌がらせをするのはあの人たちだけだ」

「い、いやがらせ……」


 それほど名前が嫌だったのだろうか。ルイスは殴られたというよりは、嫌いなものを無理に食べさせられたような顔をしていた。

 確かに花の名前を付けられたというのは、男性視点からすると複雑なのかもしれない。レヴェリーのようなあからさまな女性名でないだけ救われていると思ってしまうのは、第三者の感情だろう。

 クロエがはらはらと見守る中、土の中から菓子の缶が出てきた。

 缶の蓋を開けると現れたのは、木製の小さな宝石箱だ。


「……開けたのか」

「分かるんですか?」

「これにそのまま入れたんだ」


 周りを取り囲むように植えられた白薔薇と宝石箱が一度缶が開けられたことを示していた。

 宝石箱の中には白金のペンダントと、青い石(ブルーダイヤ)の耳飾りが横たわっていた。

 耳飾りはダイヤモンドがあしらわれていることから、四月生まれの彼の為に用意されたものだということが伝わってくる。

 ルイスは宝石箱の底にあったメッセージカードを手に取った。


 【私の可愛いルイへ 愛をこめて ――――エレンより】


 色褪せた台紙にはそう書かれていた。


「エレンさんはもしかしたら二人が大きくなったら話すつもりだったんじゃないでしょうか」

「さあ、どうだろう」


 もしあの事件が起きなかったらエレン・ルイーズは双子に真実を話したような気がする。ルイスは分からないと、力なく首を振った。

 クロエはじっと息を潜め、横顔を見つめる。


「話したくても、もう何処にもいない……」


 文句を言いたくても、訊ね事をしたくても、感謝を伝えてたくても、彼女は何処にもいない。

 ルイスはぽつりとそう呟きながら、目を伏せた。

 西日を浴びて金色に輝く彼の髪が微かに揺れる。頬を撫でる優しい風は彼女からの手向(たむ)けのようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ