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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
六章
140/208

Chanson pour les Enfants l'hiver 【2】


「まあまあ、ご立派になって……」


 エレン・ルイーズの侍女であったコリンナという女性は、【ロートレック】のベルシュタイン地区にいる。

 地区の外れの入り組んだ路地の奥に建つ古びたアパルトマン。そこの最上階に一人で暮らすコリンナは、ルイスが訪ねてきたことをとても喜んだ。


「手狭な場所で申し訳御座いません」


 狭い屋根裏部屋の踊り場には蜘蛛の巣がかかっている。コリンナはこのような場所に招いて済まないと恐縮する。

 深々と頭を下げた彼女の肩を金色の髪がさらりと滑り、伏せられた睫毛が青い瞳を隠した。


「ぶしつけな訪問を詫びなければならないのはこちらです。何より、私は貴方の主ではないので畏まらないで下さい」

「私にとっては大切な坊っちゃんです。旦那様と奥様亡き今、主君は貴方様なのですから」

「……その呼び方は困ります」

「そう仰せになるのでしたら、お言葉をお改め下さいませ」


 ルイスからすると今の言葉遣いが改めたものだったのだろう。それを更に改めるように言われ、面食らう。

 助けを求める眼差しが向けられるものの、クロエも口を挟めない。そうして二人が戸惑っているとコリンナは朗らかに微笑み、こう言った。


「ルイシス様もそちらのお嬢様もどうか普段のままに。このコリンナも努力致します」


 ルイスとクロエが肩肘張らずに振る舞えば、自分も使用人としての振る舞いを止めるということだ。

 コリンナの中ではルイスは幼子のままなのか、彼に向ける眼差しはとても優しいものだった。

 玄関扉を潜ってすぐのキッチネットの席につくと、紅茶と手製の茶菓子が出される。


「うわあ、美味しそう。レモンタルトですよ、ルイスくん」

「見れば分かるからキミは黙っていてくれ」


 部外者だから黙っていなければいけないのにうっかり口が出てしまった。クロエは慌てて口を塞ぐ。

 コリンナの手前、直接言葉にはしないがルイスの目は余計なことを話すなと言っている。

 怯むクロエと、圧力を掛けるルイス。その様子を見かねたコリンナはぴしゃりと言った。


「紳士として淑女にその態度はいけませんよ。ルイシス様は昔から態度やお言葉遣いがぎこちなくて、見ている方がひやひやしてしまいます。もっと他人に歩み寄りの姿勢をお見せになって下さい」

「…………」


 侍女(レディーズメイド)というのは紳士に対する従者(ヴァレット)と同じようなもので、主人の補佐をし、時として叱ることが仕事だ。だからといって再会早々に説教を受けるとは思いもしなかっただろうルイスは絶句する。

 説教の原因を作ってしまったクロエはルイスに内心謝った。

 それから暫し交わされる、和やかな思い出話。


「ああ……そうそう、レモネードもお好きでしたよね」

「好きというか、あの人がオレに好みを押し付けていただけですよ」

「ルイシス様が逃げないから奥様が付け上がってしまうのです」

「付け上がった……」

「レヴェリー様は奥様の餌食にならずご無事だったでしょう?」

「その言い方だとあの人が猛獣か何かのように聞こえるんですが、そんな相手に仕えていたんですか?」

「そのような御方だからです。あれほどに私がしっかりお仕えせねばという気持ちが湧き起こる御方はおりませんでしたわ」


 ルイスは年上の女性に弱いのか、はたまた使用人の情熱に引いたのか、コリンナにやり込められてばかりでクロエは少しだけ笑ってしまう。母親ともこんな様子だったのかもしれないと想像した。

 午後の光が射し込む屋根裏部屋で二人は亡き女性を偲んで語り合った。

 三杯目の紅茶を飲み終える頃に、コリンナはルイスが訪れた目的に触れた。


「奥様――エレンお嬢様は子供を手放したのではありません」


 エレン・ルイーズは身分の低い女から生まれた娘で、母親と共にアップルガース家から冷遇されていたという。

 疎まれた母子は田舎へ追いやられ、母親の死後、事件に巻き込まれた。失踪した娘を父親である伯爵は探さず、彼女が発見されたのは半年後だった。


「私はお嬢様にお仕えする立場として堕ろすことを勧めました。でも、お嬢様は頷いて下さらなかった。子供は自分の唯一の家族だから、と……」


 父親を始めとした男たちの身勝手に傷付いた少女は、腹の中の子供に縋るしかなかったのだ。

 初めは歪んだ感情だったのもしれない。傷付いた己を保つ手段だったのかもしれない。それでも、子供を精一杯愛そうとした。

 三人で幸せになることを誓い、その証として最初の贈り物である名前を刻んだ首飾りを作らせた。

 だが、エレン・ルイーズは出産直後に体調を崩し、子供の傍にいられなくなった。その間に体面を気にした伯爵が子供を取り上げ、殺害した。

 実際は赤子を殺すことを不憫に思った使用人たちが施設に預けていた。

 それは伯爵を欺く為に家畜を殺し、血濡れた産衣までも用意して行われた隠蔽だ。エレン・ルイーズが我が子の生存を知るはずもなかった――――。


「お嬢様は旦那様のお力で貴方と再会することができたのです」


 エレン・ルイーズが我が子と再会できたのは、夫のアデルバートが事件を調べ直したからだ。

 本当の父親が義父親に粛正されたという事実を、ルイスは淡々と受け止めた。悲しまない代わりに喜びもしない。何も感じていないという表情だった。


「おおよその経緯は分かりました。ただ、一つ解せないと思ったのは貴女の存在です」

「私がどうかしましたか?」

「あの人が家から縁を切られた時点で、貴女が仕える意味はなくなっているはずです。俸給も貰えないのに何故、傍にいたんですか?」

「ち、ちょっと、ルイスくん……」


 クラインシュミット家惨殺は顔見知りによる犯行の可能性が高い。当然、内部犯ということもある。ルイスが生き残りを疑うのは自然なことだ。


「何も今訊かなくても良いじゃないですか」

「今だからこそだ」

「今はエレンさんのことだけを考えて下さい」

「考えているからこそ、オレは忠誠心の所以(ゆえん)を知りたい」


 あんまりだ。惨すぎる。

 コリンナに対して失礼だということ以上に、その問い掛けはルイスの心を抉っている。

 助かった者同士なのに何故疑わなければならないのだ。クロエは訴えるが、ルイスは取り合わなかった。

 厳しい面持ちをする二人の前でコリンナは青い瞳を細め、淡く笑った。


「貴方が怪しむのも仕方がありません。お嬢様も私の忠誠心には疑問を感じていたご様子ですから」

「理由を話して頂けますか?」


 詰問の姿勢を崩さないルイスにコリンナは頷いた。


「私の名乗っている姓は母方のもの。父方の姓はアップルガースと言います。私の母は……伯爵様に仕えていたメイドでした」

「では、貴女は……」

「貴方の伯母ということになりますね」


 コリンナはエレン・ルイーズの異母姉なのか。礼儀に反すると分かりながらもじっと顔を見る。そこでクロエは、目の前の女性と薔薇の淑女の瞳の色が同じであることに気付いた。

 エレン・ルイーズが伯爵の愛人の子供ということも衝撃だったが、伯爵が使用人にまで手を出していることには驚きよりも呆れがあった。

 ルイスもクロエと同じのようで、コリンナの告白を理解した彼は疲れきった顔をしていた。


「そのことを母は知っていたんですか?」

「いいえ。下層階級出の私を伯爵様は認知して下さらなかったので、お嬢様はご存知ありません」


 コリンナは事もなげに語るが、そのことが却って悲壮な雰囲気を醸し出していた。

 彼女は父親に存在を認められないことを受け止め、諦観してきたのだ。同じ境遇の異母妹と共に何を思い年を重ねてきたのかを想像すると、クロエは遣りきれない気持ちになる。

 斜め向かいの席ではコリンナが微笑んでいる。

 クロエは膝の上で重ね合わせた手に力が入った。


「こんな生まれをした私の運命はどうしようもないものだと諦めていました。でも、お嬢様と出会えたお陰で私の人生にも意味があるのかもしれないと思えるようになったのです。私の忠節はそれが全てです」


 コリンナは眼差しを和らげ、淡く笑った。

 穏やかで、けれど拭いきれない寂寥(せきりょう)を感じさせる表情は、人生に意味を与えてくれた存在を失った残りの人生には、もう悲しみさえないと言っているように見えた。






 帰途につくルイスにコリンナはエレン・ルイーズが生前に綴った日記帳を渡した。そして、クラインシュミットの邸宅へ行くことがあったら、書斎の本棚を見るように言った。

 再会を約束して別れを交わしたルイスは、テーシェルの屋敷に戻ってからも何か考えている様子で、クロエのことを避けていた。


「どうして逃げるんです?」


 クロエはルイスが一人で考え事をしたいというなら、その時間を邪魔するつもりはない。

 うさぎを構っている隙を突いてクロエに詰め寄られたルイスは、あからさまに顔を背けた。


「貴方の気に障ることしましたか?」

「……何でもない」

「何でもないならこっちを見てください」


 ルイスは現実逃避をするようにうさぎに餌付けをしようとするので、クロエはうさぎも餌も取り上げた。

 ケージに戻されたうさぎは物足りない面持ちをしたように見えたが、クロエは堪える。甘やかすことだけが愛情ではないのだ。


「貴方がそうやっておやつを沢山あげるから、ヴィンセントさんに食べ頃とか言われるようになっちゃったんじゃないですか」


 こんなに丸々と肥えさせてどうするのだ。

 クロエはうさぎを太らせた犯人を睨む。ルイスは目を伏せてしまった。


「……何かあるなら言ってくれないと分かりません」


 ルイスが目を合わせなくなったのは朝からだということに気付かないクロエではなかった。

 理由が自分にあることは分かっているのだ。恐らくそれが昨晩の出来事に関係していることも想像はつく。だからこそ、きちんと言葉で言って欲しい。


「私はやっぱり邪魔ですか?」

「そうではなく……、あんなことをしておいてどういう顔をして見ろというんだ」

「別に、何もしてないじゃないですか」

「何もなかった? キミはあれで何もなかったことにできるのか?」


 ルイスは言ってから苦虫を噛み潰したような面持ちをする。

 クロエは嘆息し、隣に腰掛けた。二人分の重みを受け止めたソファがぎしりと軋む。


「だって本当のことですし……」


 クロエは数ヶ月前にも似たようなやり取りをしたことを思い出す。

 あの時はルイスが何もなかったことにしようとして、クロエがそれは嫌だと駄々をこねた。

 これは進歩がないということなのだろうか。進歩がないならまだ良いが、後退している可能性もある。


「そう……ほら、施設で眠れない時にママ先生やお姉さんに添い寝してもらったことありませんか? それと同じだと考えれば大丈夫ですよ。お姉さんが嫌ならお兄さんとでも――」


 悪い考えが頭をよぎり、クロエはそれを振り払う為に努めて明るい声で言う。

 けれど、ルイスの顔色がどんどん悪くなっているのを見て口を噤んだ。


「オレが忘れたとしてもキミはそうはいかない」

「そんなことないです。忘れた振りをするのは得意です」

「振り?」

「い、いいえ! 忘れるのは得意です。兎に角、大丈夫です。何の問題もありません」

「……逃げただろ」

「それは……びっくりして思わずです」


 昨夜、二人の間に何かがあったわけではない。

 全く何もなかったとは言えないかもしれないが、男女の最後にまでは至っていない。

 ルイスに望まれたのは今夜はここにいるということと、悪夢に魘されたら起こして欲しいということ。

 クロエはその望みを聞いた。

 望みというにはあまりにささやかな願いを叶えようと思った。

 そうして寝ずに彼の傍にいようと思ったのに、明け方には意識が落ちてしまった。そして、気付いたら腕の中にいた。軽率な振る舞いだったと猛省する自分がいる一方、この状況は幸せだと考える愚かな自分も確かにいて、どうして良いか分からなくなった。

 クロエが逃げたのは自己嫌悪によるもので、ルイスに責任はない。


「私、本当に平気ですよ。強がりとか嘘じゃないです」

「それでも可笑しい。あんなことをされて何も文句を言わないなんて変だ」


 彼には撲られたい願望でもあるのだろうか、とクロエは思ってしまう。

 恐らくそれは外れていない。

 クロエはルイスの自傷行為に付き合いたくはないし、彼を傷付けたくないから詰りはしない。それでも、一つだけ気に食わない――言っておかなければならないことがあった。


「誰にでも……ああいう……その、体当たりはしませんよ」

「体当たり……?」

「体当たりです」


 身体を張ってぶつかったのだから体当たりだ。遠回しな言い方が思い付かないクロエはそういうことにする。


「それに、嫌な人に触られたら私だって怒ります」


 クロエはそう口にしてから自分の吐いた言葉の可笑しさに焦った。

 この言い方では、好きな相手に触れられたから大人しくしているようだ。


(そ、そういう意味じゃなくて……)


 彼を嫌っていないことと、自分が軽い女ではないということを伝えたかったのに、どうしてこうなるのだろう。クロエが色々な意味で消えてなくなりたくなる。

 穴があったら入りたい。布団があったら被ってしまいたい。

 しかし、都合良く逃げ場はない。


「貴方だって……自分のお母さんがされて嫌なことはしないでしょう」


 クロエは混乱する頭で必死で考え、懸命に言葉を続けた。


「好きでもない相手と、そんなこと……」

「それは感情論だよ。キミは何も知らないからそういうことを言えるんだ」


 何だ、その言い方は。それではまるで好きでもない相手と夜を過ごしたことがあるようではないか。

 クロエは狼狽えた。

 今まで考えてもみなかった――考えないようにしてきた。意識的に避けていた。

 ルイスがクロエの過去を知らないように、クロエはルイスの過去を知らない。

 共にいたのは半年にも満たない時間で、あと一年もしない内にこの生活も終わる。クロエとルイスが共有する時間は今も先もとても短いものだ。

 彼にはそれよりも長い時間を既に共に過ごした相手もいるだろうし、これからだってそういう相手ができる。そして、その相手が女性ということだってある。クロエはそれがとても嫌だと感じた。

 こんな酷いことを考える自分は一体何なのだろう。

 彼に向ける感情を何と呼べば良いのかクロエは分からない。ただ、友情にしろ恋情にしろ彼のことを好いているのは確かなのだから、愛情は向けられる。今はただそれだけだ。

 それ以外には、何もない。

 目尻に浮かんだ涙を拭ったクロエは上目がちに視線を上げた。

 薄明かりの下、すれ違い続けた眼差しが絡まった。

 昨晩あんなに近くで見たというのに、こうして改めて目が合うと戸惑ってしまう。クロエはゆるりと瞼を伏せる。そこでテーブルの上にある日記帳を見付けた。


「日記、読んだらどうです? 私はもう寝ますから」

「見たいと言うかと思った」

「え……、だって他人に日記を読まれたら嫌ですよ。エレンさんに申し訳ないです」


 ルイスにとってエレン・ルイーズの日記帳は形見だ。そんな大切なものを部外者が見ても良いのだろうか。

 真意を窺おうと視線を上げたクロエはそこで迷いが消えた。


「やっぱり見ます。ここにいても良いですか?」

「……ああ」


 己が愛されていなかったのではないと知った今でも、ルイスの心に付いた傷は癒えていない。クロエがそんな彼にしてあげられることは傍にいることだけだ。

 クロエが寄り添うとルイスは安堵めいた溜め息をつき、日記帳の表紙を捲った。

 そうして、空の月が傾き、夜が終わっても二つの影は傍にあった。

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