お菓子の家の甘い罠 【4】
翌朝、目覚めると身体は軽くなっていた。最近感じていただるさが嘘のようだ。
クロエが起きると、使用人の仕着せを纏った女が着替えや食事の準備をしてくれた。彼女は着替えを手伝おうとしたが、恥ずかしいので断った。クロエは貴族ではないので、風呂や着替えを他人に手伝わせるような習慣には馴染みがなかった。
着替えと食事を済ませたクロエは点滴を受けている。
沢山の枕が詰まれたベッドに寄り掛かりながらクロエは点滴が終わるのを待つ。
(綺麗なお庭)
窓から望める庭は素晴らしいの一言に尽きた。
育てるのが難しいとされる冬薔薇が見事に咲き誇っている。仕えている庭師が優秀だろうことが窺えた。
「――――?」
ふと、クロエは目を瞬かせる。今何かが視界の端――ベッドのすぐ横で動いた。
この部屋には自分しかいないものと思っていたが、今見えたのは間違いなく人影だ。クロエは恐る恐る天蓋の陰を覗き込む。すると、飛び出したのは小柄な少女だった。
「見付かっちゃった」
アンティークドールのような姿の少女がちょこんと立っていた。
天蓋の陰から出てきた少女は身を乗り出し、興味津々といった様子でクロエを眺める。さくらんぼのような色の唇は笑みの形に曲げられている。
ベッドに豊かに波打った髪が流れ、黒いレースの豪奢なリボン揺れた。
(お人形さんみたい)
アンティークドールのようなドレスには思わずうっとりしてしまう。まるで目の前に、絵本の中からお姫様が飛び出してきたようだ。
「貴方は……」
クロエは問おうとした。それを遮るかのように三度のノックが響き、部屋の扉が開け放たれる。
訪ねてきたルイスはクロエの隣にある少女の存在に驚いた。クロエの横にいた少女が動く。弾むように赤茶色の髪が宙を躍った。
「お兄様!」
「エリーゼ、ここにいたのか」
自分より頭二つほど背の低い少女をルイスはそう呼んだ。
応えるように頭を上げた少女の顔に浮かんだのは、喜びに満ちた晴れやかな笑顔だ。
ルイスを兄と呼ぶということは二人は兄妹ということだ。雰囲気の違う兄妹だな、とクロエは密かに思った。
「勝手に出歩いては駄目だといつも言われているだろう」
胸に飛び込んできた妹を宥めながらも、兄は厳しい口調で言う。
「だって……だって……お兄様はいつも外へ出掛けてしまうんだもの」
「それでどうしてここに?」
「ジルベール先生がここにくれば会えるって」
エリーゼの零れ落ちそうなほどに大きな瞳が揺れる。今にも泣いてしまいそうな雰囲気だ。
ルイスは習い事で毎日のように外へ出掛ける。きっとエリーゼは寂しいのだろう。見たところ彼女の年は十に満たないほどだ。兄に構ってもらえなくては寂しく思うのも仕方ない。
「あとで本を読んであげるから、部屋に戻っているんだ」
「本当に? ご本を読んで下さるの?」
「ああ、エリーゼの好きな本を読むよ」
「絶対よ!」
ルイスを見上げると嬉しそうに目を輝かせ、朗らかに笑った。
エリーゼはクロエへ向かって微笑むと、長い髪を靡かせながら去って行った。
「騒がしくして悪かったね。具合はどう?」
「とんでもないです。お陰様で楽になりました」
まだ節々の関節が強張っている気はするが、昨晩ほど気分は悪くない。クロエは改めて頭を下げた。
ルイスは必要以上に語らず、サイドテーブルに置いてある銀の盥へタオルを浸す。
「さっきの方は妹さんですか?」
「……ああ」
簡潔というよりは、曖昧な返事だった。
「可愛らしいですね」
クロエはエリーゼを可愛らしいと思った。
ふわふわの長い髪を背に流し、光の加減で青にも桃にも映える淡い紫陽花色の瞳を輝かせる少女はお姫様のようだった。華美な服装もさることながら、彼女の存在感はその装飾に負けていない。香水だってませては映らないし、それでいてドレスの裾が翻ることも構わずに駆けるような無邪気なところも愛らしい。
そんなことを考えながらクロエはエリーゼの面影をルイスに探してみたが、二人が似ている箇所は何処にも見付けられなかった。
(あれ……?)
面立ちも髪や瞳の色も性格や雰囲気も、幾ら年が離れた兄妹といっても二人は離れ過ぎている。
微かな違和感を感じて思わず首を捻るクロエに、ルイスは濡らしたタオルを渡す。
「首でも冷やすと良い」
「有難う御座います」
「夕刻に【クレベル】まで送らせるから、今は休みなよ」
ルイスはそう言い残すと上着を翻し、部屋を出て行ってしまった。
構われないことは救いであった。クロエはタオルを頬に当てた。
(ちょっとだけ、似てるかな)
ルイスは嫌がるかもしれないが、ヴィンセントと似ていると感じた。
必要以上に踏み込まず踏み込ませず、何処か距離感のある気遣いは出会ったばかりの頃のヴィンセントに似ている。その二人が決定的に違うのは、ルイスに愛想の欠片もないことか。
もし自分があの時、何も詮索せずヴィンセントに騙されたままだったとしたら、何かが変わっただろうか。
今のように毎日嫌味や揶揄を浴びせられず、笑顔を張り付けて差し障りのない会話を交わして。今更そういう関係を望む訳ではないが、クロエは現状に辛さを感じている。
クロエはヴィンセントを悪い人だと言いたい訳ではない。ただ、あの時と状況が似ているからか、同じ美しい人の相違点を探してしまうのだ。
何にせよ二人は違う。少なくともルイスはクロエに酷いことをしない。
今は休んで早く体調を戻さねば。そうしなければ働くことはできない。
他人の家に厄介になっているという立場で寝てばかりもいられない。
クロエはベッドに横になりながらも必死で睡魔と格闘していたが、その懸命の抗いも虚しく、知らない内に眠っていたようで気付けば時計の短い針が三の数字を指していた。
(そろそろ準備した方が良いよね)
ベッドからひょいと飛び降りたクロエは部屋の鏡台を借りて髪を結び始める。
花屋で務めていた頃は下ろした髪の一房だけを摘むようにしてリボンで結んでいたが、今はポニーテールにさっぱりと纏めている。
三つ編みを結い目に巻き付け、ピンで留める。服も元着ていたものに着替え、帰り支度を終えたクロエは改めて辺りを見回した。
医者を自称する男――ジルベール・ブラッドレーの話によると、ここは屋敷の離れにある小広間の一室で、茶を飲む時や読書をする時に訪れる場所らしい。奥には図書室があると聞いて、クロエは興味を引かれてしまった。
ジルベールは四時になったら迎えにくると言っていた。時間まではあと二十分ある。クロエは庭が一望できる席に座り、時間を待つことにした。
そうして時刻まであと十分と迫った頃、室内に小さな足音が響いた。
クロエは振り返り、目を剥く。
「エリーゼ、ちゃん?」
幼い侯爵令嬢が潜り抜けてきたのは部屋の扉ではなく、壁に設えられた鏡だった。
エリーゼはクロエの驚きを意に介した様子もなく、可愛らしい掛け声と共に鏡の扉を閉じた。
(これは抜け道なのかな)
朝方も何処から入ってきたのかと疑問に思ったが、まさか鏡が抜け道になっているとは考えもしなかった。
扉が閉じる前に見えたのは、地下へと続く階段だった。そういえば防衛の為に貴族の屋敷には抜け道が存在すると何かで聞いたことがある。
「間にあってよかった」
クロエが膝を折って視線を合わせると、エリーゼは柔らかい微笑みを浮かべた。
「エリーゼちゃん、ご本を読んでもらえた?」
「ええ、美女と野獣を読んでもらったの」
美女と野獣はクロエが好きな物語だ。それは互いが容姿ではなく、内面に惹かれ合う物語だから。
白雪姫、人魚姫、眠り姫、灰被り姫。恋愛を題材としたお伽話の中の王子と姫は一目惚れだ。出会った瞬間に惹かれ合う。
けれど、美女と野獣は違う。美女が最初に目にしたのは誰もが恐れる醜い野獣だった。
姿など関係なく愛し合える。それは素敵なことだと思う。
「お姉さんはお兄様のお友達なの?」
幸せそうに微笑んでいたエリーゼが不意に真面目な顔になり、クロエの顔を覗き込んだ。
クロエとルイスは友達ではない。互いの認識は知り合いの知り合いというところだ。けれど、期待を籠めて見つめてきている少女に【ただの知人】と答えるのも憚られるものがあった。
勝手に友達を名乗って済みません、と心の中で謝りながらクロエはこくりと頷いた。
するとエリーゼは年齢に似合わない憂いの表情を浮かべ、暫く何かを思案する。そして意を決したように言う。
「わたしを外に連れていって」
「え…………」
「お願い。わたしを誰にも見付からないところへ連れていって!」
「そ、そんなことはできません。お父様やお母様、それにお兄様だって心配してしまいます」
エリーゼはふるふると首を振るばかり。
「わたしがいなくなれば……お兄様は笑ってくれるの……」
お兄様はわたしのこと嫌いなの。
ああ、いけない。そう思った時には少女の瞳から白玉の涙が零れていた。
突然のことにクロエは仰天する。
(ヴァレンタインさんがエリーゼちゃんを嫌い? ううん、そんなはず……)
ルイスとエリーゼは仲の良い兄妹ではないのだろうか。
それは先ほどのルイスの態度は家族に接するにしては少々素っ気なくはあったが、嫌いな相手に本を読んでやったりするだろうか。エリーゼだってあんなに幸せそうに笑っていたではないか。
まずは涙を拭わなければ。
クロエはベストの内ポケットを探り、ハンカチーフを差し出す。エリーゼは「ありがとう」と消え入りそうな声で呟き、目尻を押さえた。その間にも浮かんだ涙が目頭からはらはらと落ちてゆく。
クロエは少しでも気持ちを楽にしてやりたいと、エリーゼの背中を優しく叩いた。
幼い頃、泣いてばかりいたクロエの背を母が優しく擦ってくれた記憶がある。辛い時に優しくされると却って悲しい気持ちになって泣いてしまうことになったけれど、その手の温もりと優しさだけはしっかりと感じていた。
エリーゼも徐々に落ち着き、呼吸も元通りになってくる。
部外者が首を突っ込んではいけないことかもしれない。それでもクロエはエリーゼの話を聞くことで何か手助けができないかと考えた。
そこへ空気を読まず、定時きっかりにやってきた男がいる。
「いやあ、自分より幼い女の子を泣かせるなんて見掛けによらず意地悪なお嬢さんなのですねえ」
「え、ええ……っ!?」
ジルベールは眼鏡の奥の目を細めながらそんなことを言うので、クロエはびくりとする。
狼狽するクロエの様子を見てジルベールは声を上げて笑った。
「分かっていますよ。一部始終は見ていましたので」
今の発言はわざとということになる。性質の悪い大人の所為で頭痛を感じたクロエは押し黙った。
何故だろうか。口調や雰囲気も全く違うのに、ジルベールからはヴィンセントと同じ匂いがする。理屈をこねくり回し他人の神経を逆撫でして楽しむ、加虐趣味のようなものが感じられた。
戦慄くクロエの隣に立ったジルベールは身を屈める。
「お兄様がエリーシャ様をお嫌いだなんて何処からそんな話を?」
「お兄様は……わたしと目を合わせてくれないの……」
「それはエリーシャ様があまりにお可愛らしいので、お兄様が照れているのでしょう」
「いいえ、そういうことじゃないの。わたしがいなければ、お兄様は何の憂いもなく家を継げるの」
わたしがいなければ。そう繰り返して涙もなく肩を震わせるエリーゼは幼い子供ではなく、侯爵令嬢の顔をしていた。
クロエの視線に気付いたジルベールは、そっと諫める。
「エリーシャ様、お客様の前でお話する内容ではありません」
「……ええ……」
「暫しお待ち下さい。車の手配ができましたので、門まで案内致しましょう」
背を伸ばしたジルベールはクロエへ向き直り、にこやかに微笑みながら、けれど有無を言わさない様子でそう言った。
【Jardin Secret】に着くと、既に連絡がいっていたのか店前にレヴェリーとエルフェがいた。
もうとっくに閉店時間を迎えているはずなのに店の中は暖かい。
「調子悪いのに気付いてやれなくてごめんな」
「ううん、気にしないで。私の自己管理不足だから」
「暫く家事はオレがやるからさ、クロエはゆっくり休めよ」
カウンターでココアを用意をするレヴェリーは申し訳ないという顔をしていた。
「それにしても、いつにも増して使えないと思ったら風邪引いてたんだ?」
【上】の仕事から戻ってきていたヴィンセントは楽しそうに続ける。
「賎しい従僕の分際で勝手に風邪を引くなんて生意気な娘だね」
クロエだって引きたくて引いた訳ではない。その言い方はあんまりだ。
帰宅した途端に嫌味を言われると思っていなかったクロエが受けたダメージは酷いものだ。
しかし、何故かヴィンセントは機嫌が良さそうで、ショックで硬直するクロエの頭をぽんぽんと叩く。
「まあ、死なれても面倒だし三日くらい休んでも良いよ? 店で風邪を撒き散らされたら大変だし」
ショックで何も言い返せないクロエの頭をヴィンセントは叩き続ける。
「いい加減にしろよ、ヴィンス……」
甘い香りを漂わせるカップを持ってくるレヴェリーは呆れ顔だ。
ああ、やっぱりいつもの日々だ。
非日常から日常に帰ってきたことを噛み締めながら、クロエは安堵と嘆きの溜め息をついた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
クロエがヴァレンタインの屋敷で世話になってから一週間が経った。
数日間の休暇を貰い、充分に身体を休めることができたクロエは全快していた。
ノエルまであと一週間。街の空気も何処か弾んでいる。
今年はさっぱり雪が降らない。ホワイトノエルは無理だろうと諦め気味に外の景色を見つめていると、店の入り口に付いているベルが澄んだ音を立てた。
「ヴァレンタインさん!」
「こんにちは。あれから具合はどう?」
目深に被った帽子が持ち上げられるとアッシュブロンドの髪が現れ、紫色の瞳が煌めいた。
その節はお世話になりましたと頭を下げるクロエに、ルイスは気にするなと言う。
「それにしても今日はどうしてこちらに?」
「ノエルにはまだ早いって言いたげだね。……ほら、忘れ物」
「あ……!」
「エリーゼが迷惑を掛けたみたいでごめん」
ルイスはわざわざハンカチを返しにきたようだ。洗い立てで洗剤の香りのするそれを受け取りながら、クロエは「捨てても良かったのに」と申し訳ない気分になる。
「それと有難う。エリーゼは友達がいないからキミと話せて喜んでいた」
「そんな……とんでもないです」
ルイスは淡く笑んだ。クロエは呆気に取られる。
普段素っ気なく、にこりともしないルイスが見せた笑みは思わず引き込まれてしまうほどに綺麗なものだったが、何故か違和感を覚えた。
ヴィンセントのあからさまな愛想笑いとは違う、極々精巧な本物と見紛うような笑み。
クロエにはルイスが演技をしているように見えたのだ。
(どうして……?)
どうしてこのような非現実的な笑みを浮かべるのだろう。
どうしてルイスは使用人の仕着せのような格好をしているのだろう。
ルイスの装いは、紺のタイを緩く結び、カッターシャツの上にウエストコートをボタンを留めずに引っ掛けただけだ。今風の若者と言えばそうなのだが、貴族としては洗練されていないような気がする。
「あれ、珍しい客だね。本当に会いにくるとは思わなかったよ」
厨房の片付けから戻ってきたヴィンセントはルイスの姿を見とめてにこりと笑う。その瞬間、服の襟が後ろから引かれたような違和感があり、クロエは首を傾げる。
低く抑え込んだような声が耳許で聞こえた。
「ごめん」
「え――――?」
次の瞬間、手を捻り上げられ、こめかみに硬いものが押し当てられていた。
冷たくて硬くて中心に空洞があって引き金があるもの。クロエも拳銃だと気付いてしまう。
「ヴィンセント・ローゼンハイン。彼女の命が惜しくばオレの言うことを聞いて貰う」
半分伏せられた睫毛の奥に窺うルイスの紫色の瞳は、刃のように強い光を湛えていた。