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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
六章
139/208

Chanson pour les Enfants l'hiver 【1】

Chanson pour les Enfants l'hiver / こどものための歌、冬

 二月の雪、三月の風、四月の雨が、美しい五月をつくる。

 どんなものにも意味はある。生まれた意味が仇討ちをするだけということはない。

 そのことをどうすれば伝えられるのかが分からなくて、心をあげようとした。

 それくらいしか差し出せるものがなかった。

 こんな醜いものをあげても喜ぶはずがないけれど、八つ当たりの道具くらいにはなる。僅かでも役に立てることがあるなら、それが些細なことでも良い。

 彼の心の傷が少しでも癒えるのならこの身は人形(どうぐ)でも構わない、と思った。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 誰かが頭を撫でてくれている。

 髪を掻き分け、慈しむように頬に触れる。傍らからは鼓動が聞こえる。

 身動ぎをすると肩に掛けられていたブランケットが落ち、ひんやりとした空気が肌を刺した。

 寒さに身体を丸めると、肩までブランケットが掛けられる。布越しにじんわりと伝わる腕のぬくもりにほっとして、クロエは微睡みの中に戻ろうとする。けれど、そうすることはできなかった。

 この状況は何かが可笑しいと気付いてしまった。

 ゆっくりと目を開けると、その手の持ち主が紫の瞳の彼であることが分かった。

 これはどういう状況なのだろう。

 自分の傍に彼がいる。それは嬉しいと思うが、どうしてこんなにも近くにいるのかが分からない。

 普段こちらから近付こうものなら「煮て焼いて食べるつもりだ」などと失礼なことを言って、逃げてしまう。そんな彼が自分の傍に大人しくしている事実が不思議でならない。

 どうしてだろう。クロエが問い掛けようとして顔を上げるとそこで視線がぶつかった。

 紫色の瞳の中に自分の顔が映り込んでいる。その自分と目が合った瞬間、全身から嫌な汗が吹き出した。


「ごっ、ごめんなさい――!!」


 昨晩のこと、同じ寝台で眠ってしまったこと、寝顔を晒した挙句に寝起きの顔を見られたこと、腕の中にいること。現在に至るまでの様々なことが頭の中を駆け巡り、クロエは飛び起きた。そしてそのまま靴も履かずに部屋を飛び出した。






 それから数時間後、クロエは裸足のまま廊下を行ったり来たりしていた。

 きっと逃げたことでルイスはまた変な勘違いをしている。そうして拗れることはクロエも望んでいない。

 逃げたからには出頭しなければならない。とはいえ、とても気まずい。

 どういう顔をして会いに行けば良いというのだろう。クロエはルイスに会わせる顔がない。


(話さなきゃ駄目なのに……)


 話さなければいけない。

 話してもらわなければ、困る。

 しかし、クロエは自分にその資格がないと感じている。

 クロエは足を止め、瞼を伏せる。その眼裏には壊れそうな眼差しをしたルイスがいた。


『――キミが、可哀想だ』


 髪に顔をうずめ、その髪ごと首筋に唇を寄せられる。痛い、と思う前に頬を這っていた手が襟が緩め、身体が竦んだ瞬間には冷たい手が鎖骨に触れていた。

 心臓が止まりそうなほどに冷たい手で触れられてクロエは震えた。

 上擦った呼吸がもれる唇は油断すれば拒絶の言葉を口走りそうになる。クロエは唇を噛みしめることで堪えようとするものの、耳朶に触れられた時には悲鳴がこぼれてしまう。だが、それでも止めなかった。彼はその先の反応を待っていた。


『……どうして……』


 クロエの両の手は自由だった。

 それを使って抵抗しないクロエにルイスは何故と問うた。


『恐怖で動けないのか? それとも抵抗しない方が傷が少ないと知っているからか?』


 耳朶をなぜる声は凍てついていた。彼自身もそのことを身を以て知っているという響きに、クロエは震える。

 こういう時は抗ってはいけないとクロエは知っている。暴力を振るう側の気の済むように大人しくなぶられる。そうした方が痣も少なく済む。痛い思いをしたくないのなら、痛みを黙って受け入れることが大切だ。


『どうしてキミは逃げないんだ?』


 再度、何故と問うルイスはクロエに逃げられたいようだった。


『……あなただから』


 クロエはルイスの自傷に付き合うつもりはなかった。

 傷付きたがっている彼を傷付けたくない。彼の筋書き通りには動きたくない。


『あなただからです』


 何故こんな思いまでして留まるのか。それは相手がルイスだからということに尽きた。

 クロエは逃げも拒みもしなかった。だが、その程度で何が示せたというのだろう。偽善者という認識を覆すことができたのだろうか。結局クロエが示すことができたのは、傍にいたいという身勝手な感情だけだ。

 押し付けるだけの愛情は同情と変わらない。そしてそれはルイスが嫌うものだ。

 強引に彼の傷に触れるような真似をして、それ以上傷を抉るようなことをする訳にはいかない。


(今は無理だよね)


 話してなんて言えない。

 クロエの口から、はあ……と溜め息がこぼれた。

 溜め息と共に気が緩み、肩が落ちてしまう。そんな時、扉ががちゃりと開いた。


「………………」


 だらだらと背中を嫌な汗が伝った。

 このまま逃げた方が良いのではないだろうかとうっかり思ってしまう。

 クロエが硬直する前で、部屋から出てきたルイスは手に持っていた靴を床に置いた。


「靴なら返す。帰りたいのならどうぞご自由に」

「そ、そうじゃなくて……!」

「じゃあ何の用だ?」

「用って……その……、ですから……」

「言いたいことがあるなら言えば良いだろ。そこでそうやっていられると鬱陶しい」

「……それは、そうなんですけど……」


 刺々しく話すルイスは怒っているようだった。

 当たり前だとクロエは思う。あのようなことをしておきながら結局逃げたのだ。ルイスからしたら、ふざけているとしか思えないだろう。

 床の冷たさが裸足の爪先に染みる。冷たさは爪先からゆっくりと膝に上がってくるようだ。


(このままじゃ駄目だよ)


 このままではいけない。自分も彼も、逃げ続ける訳にはいかないのだ。クロエは意を決して一歩踏み出した。


「話があります。できればゆっくり話したいです」

「……応接間に行こうか」


 靴を手に持ったクロエはルイスに従う。

 クロエを先に室内に入れたルイスは部屋の扉を閉じなかった。

 開け放たれたままの扉がクロエには彼の僅かながらの容赦に見えた。そして、いつでも逃げて良いと言われているように感じた。

 クロエとルイスは向かい合わせに座らず、同じソファに並んで腰掛ける。距離を詰める為ではなく、目を合わせることを避けてのその位置関係は、出会ったばかりの頃のものだ。

 冬の公園のベンチで毎日のように話していた。

 何も知らなかったあの頃は気楽だったな、とクロエは思い返す。

 何も知らないから互いのことを必要以上に考える必要もなかったし、自分で決めた境界線を守っていれば良かった。今は知ってしまったから、考えずにはいられない。

 知ってしまったからこその自制がクロエの中にはあった。


「今は話さなくて良いですから、私の話を聞いてくれますか?」

「復讐はやめないと言ったはずだ」

「そのことじゃないです」

「だったら何だ?」

「今、貴方が考えるべきなのはお母さんの……エレンさんのことです。それから目を背けたら駄目ですよ」


 ルイスはエレン・ルイーズのことを語らない。

 レヴェリーと話した際に、自分たちは恨まれているという客観的な意見を述べただけで、ルイスは母親に対する己の感情を語っていないのだ。

 母親に罪の意識を感じているのか、それとも恨んでいるのか。どちらにしてもルイスは傷付いているはずだ。その傷付いた心を憎しみで満たし、復讐の糧とするのは間違っている。クロエが確かに言えるのはそれだけだ。


「考える必要なんてないだろ」

「どうしてですか?」

「恨まれていたのに考えてどうなるというんだ」

「私がエレンさんの立場なら子供は恨みませんよ」


 前提が間違えていると考えてもいない様子のルイスに、クロエは自分の考えをぶつける。


「恨むなら自分に酷いことをした相手です。それに……子供も産みたくないと思ってしまいます」

「キミは子供を殺すのは怖いと言ったじゃないか」

「怖いですよ。でも、それ以上に怖いんです」


 己の罪で授かった子供と、他人の罪によって授かった子供では訳が違う。

 前者の命を奪うことは身勝手極まりないが、後者の命を取ることを悪だとクロエは断言できない。


「お腹の子供には罪はないですけど、やっぱり怖いです。悲しい思いをする子を産みたくない……いいえ、それは綺麗事ですね。そんなことで授かった子供をちゃんと愛する自信がないだけです。貴方を産んで育てたエレンさんは強い人です」

「違う……。優しい(よわい)から、殺せなかっただけだ」

「弱いだけならできません」

「それでもあの人はレヴィを捨てたんだ」

「確かに貴方たちに辛い思いをさせたかもしれないけど、ちゃんと迎えにいきましたよ」


 クロエは話していて分かった。

 ルイスはエレン・ルイーズを恨んではいない。


「貴方が仇討ちをしたいということは、お母さんとお父さんと過ごした毎日が幸せだったからなんでしょう? だったら、その思い出まで否定しちゃ駄目です。――これは貴方が言った台詞ですよ」


 クロエは母親に捨てられた癖に、いつか迎えにきて欲しいという愚かな願いを持っていた。

 そのことを自嘲混じりに吐露した時、ルイスは幸せだった頃の記憶まで否定することはないと言った。

 ルイスは他人のことには気が付くが、自分のことには疎い。己の存在を嫌うあまり簡単なことにも気付いていない。

 クロエはルイスの横顔を窺う。

 彼はこちらの目を見ようとしない。けれど、床を睨むその眼差しには苦渋の色が浮かんでいた。


「あの……、本当にエレンさんが貴方たちを手放したんですか?」

「何が言いたい?」

「貴方たちを産んだ時、エレンさんは若かったんですよね。だったら……周りが勝手にとか……」


 十三歳という年齢のエレン・ルイーズは親の庇護下にあったはずだ。

 御産後の母親は辛くとも子供に乳をやったりと起き上がらなければならないが、流石にエレン・ルイーズ本人が双子を遺棄することはできない。双子が生まれたこのテーシェルの地から、施設がある土地までは離れすぎている。

 双子の誕生日は四月八日で、施設に預けられたのは十四日。恐らく、六日の内に何かがあったのだ。


「捨てられたというのは絶対ではないと思うんです」


 手元に置けなかった理由が何かあったかもしれないなんて都合の良い解釈かもしれない。それでもクロエは、写真の中で幸せそうに微笑んでいた彼女が実子を捨てるようには思えなかった。

 じっと床を見つめていたルイスは浅く息をついた。


「本当は十年前の事件の生き残りがいるんだ」

「それは……巻き込まれて助かったんですか?」

「いや、オレと同じであの日出掛けていて巻き込まれなかった。母さんが子供の頃から仕えていた人だというから、知っていると思う」


 今まで怖くて会えなかったのだとルイスは語った。

 顔を合わせれば嫌でも事件のことを思い出してしまう。クロエはルイスの会いたくないという気持ちも分かる。


「その人に会いましょう」

「何処にいるのか知らない」

「こういう時こそ、有能な従者の使い時だと思いますよ」


 今回の件がここまで拗れたのはあの人物が黙っていたからだ。あの人物がルイスの幸福を本当に考えているというなら、ここで協力しないのは嘘だ。

 クロエの勧めにルイスは逡巡(しゅんじゅん)し、それから意を決したように席を立った。

 部屋を出ていく背を見送ったクロエは膝の上の手を握り締めた。


(結果がどうでも……)


 真実がどれだけ残酷でもクロエはエレン・ルイーズに感謝する。

 ルイスとレヴェリーを産んでくれてありがとう、と。

 それがエゴと言われようとクロエの中で彼女への感謝の気持ちは変わらない。

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