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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
六章
138/208

ばらのはな、さきてはちりぬ 【10】


「はちみつレモンキャンディーです」


 砂糖菓子屋で見つけた瓶詰めのキャンディーをクロエは差し出す。

 吸引ステロイド薬は喉を枯らしてしまう。ここ数日、ルイスは口を開くことはないが喉は痛んでいるはずだ。テーシェル名産の薔薇蜂蜜(ローズハニー)と檸檬がたっぷり使われたキャンディーは喉に良さそうで、何より美味しそうだ。

 ルイスはクロエの勧めるキャンディーに一瞥もくれずに本を読んでいる。


「あ、そうだ。この砂糖も見てください。蝶々の形ですよ」


 シュガーポットの蓋を持ち上げ、中を見せる。砂糖菓子屋(コンフィズリー)で見付けたティーシュガーだ。

 蝶の形をした砂糖は繊細な細工が施された芸術品だ。実用性よりもまず目で楽しむことを考えている。こういうところは芸術を尊ぶシューリスならではだろう。


「……紅茶、冷めたら飲んでくださいね」


 ティーセットをテーブルに置いたクロエはそれ以上は何も言わずに部屋を出た。

 部屋にいる間、その顔には笑みがあった。そして今も悲壮感はない。

 クロエは何ができるかを考えて、漸くその答えを見付けた。

 彼に何をしてあげられるかではなく、自分が何をできるか。クロエができるのは、彼の言う、お目出度い話をして暢気そうに笑っていることだ。

 きっと彼は呆れるだろうが構わない。そうやって下らないと呆れている間は気が紛れるかもしれないから、それで良い。

 彼の心が少しでも楽になるように、彼の傍で幸せな顔をしていようと決めた。

 クロエは彼の気持ちを大事にしたい。だからもう復讐は止めない。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 日陰を涼しい風が通り抜けていく。

 風には夏っぽい湿気と植物の匂いが含まれている。

 肌で風を感じながら、木々のそよぐ音を聞いている。何とも穏やかな時間だ。このまま眠ってしまえたらどれほど幸せだろう。クロエは微睡みそうになりながら、傍らの小さな生き物に語り掛ける。


「気持ち好いね、クリームヒルト」


 うさぎは雑草を食べたり、土を掘ったりするのが好きだ。

 何故この場所にうさぎがいるのか。それは家にいる大人たちが面倒を看られないと訴えたからだ。うさぎを連れてきたことに関してルイスは何も言わなかったので、クロエはうさぎと共に居候していた。


「庭で遊ぶの、好き?」


 クロエは草を食べることに夢中なうさぎの背中を撫でる。

 うさぎが妙にふっくらとしているのはクロエが甘やかしたからというよりは、双子が――主にルイスが餌をやっていたからだ。

 餌をやり過ぎるのは為にならないと散々言っていた癖に、一番構っているのはルイスだった。皆の前では触れようとしない。ルイスは皆が出掛けたり、バスルームを使っている時などにこっそりと構っていた。

 幸せ者のうさぎを撫でながら、クロエは垣根の花に目を向けた。

 朝方に降る雨は日中の陽射しですぐに渇いてしまうので、葉には雨粒一つ残っていない。自然の恵みを一身に受け、生を謳歌する植物は緑の濃い香りを発していた。


(まだ、やんでない)


 明けない夜がないように、降り続く雨はいつかは止む。

 けれど、冬の季節に立つ彼には今日も変わらず冷たい雨が降り注いでいるようだ。

 クロエがここで過ごし始めてもう五日が経つが、ルイスは相変わらずだ。

 日が昇ると仕事に出掛けて、日が沈んで帰ってくるとそのまま部屋に籠ってしまう。食事もクロエと取ろうとはせず、一人で済ませてしまう。


(……これで良いの)


 彼が家に帰ってくる時に、部屋に明かりを点けて待っているだけで良い。

 クロエは一人暮らしをしている時、仕事を終えて暗い家に帰ることが寂しかった。これは自分にしかできないことだと思っている。






 観光地とはいえ、中心部から離れた田舎町の夜は静かだ。

 辺りは静まり返っている。夜の静寂に沈んだ屋敷内はひんやりとした空気が溜まっていた。

 療養というからには、かの従者を始めとした使用人たちが傍にいるものと考えていた。しかし、ここにはルイス以外には誰もいない。体調が優れないことも確かだが療養というのは建て前で、一人になろうとしているのは明らかだった。

 応接間のソファでショールにくるまって明かりを見つめていたクロエは、ふと思い立って席を立つ。

 まだ時間も遅くない。少しお喋りをしても許されるはずだ。


「――ティーカップアロマって言うんですって」


 部屋を訪ねたクロエが話題にしたのは、市場で見付けたティーカップ型のアロマライトだ。

 細工が施された白磁越しにやわらかな明かりが広がる。

 クロエはルイスに楽しんでもらいたくて様々なものを探してくる。蝶や花の形をした砂糖や、美しいプリカジュールのティースプーン、可愛いマグカップ。このティーカップアロマもその一つだ。


「オレンジのオイルもいい香りですけど、これもいい香り。きっと素敵な夢が見られます」


 何かと気を張っているだろう彼に、少しでも安らいだ心地になってもらいたかった。

 用件が済んだクロエはお休みなさい、と短く言い残して背を向けた。


「……帰りなよ」


 ベッドで読書をしていたルイスは本を閉じて言った。

 幾日かぶりに聞く声にクロエは心が震える。

 声を聞けたことが嬉しい。だけど、その内容は苦しい。

 その痛みを捩じ伏せたクロエはルイスの傍に歩み寄り、平静を繕いつつ問う。


「どうしたんです?」

「身体の具合が悪くてこうしている訳じゃないことは分かっているんだろ。キミがここにいたってどうにもならないんだ」

「掃除をしますし、洗濯だってします。ご飯だって作りますよ」

「使用人にさせれば良いことだ。キミがいなくともどうにでもなる」

「あと、具合が悪くなった時に看病するくらいはできます」

「それこそどうだって良い」


 ルイスは食い下がるクロエに苛立ったように声を鋭くした。

 いつからか抑揚のなかった彼の声に感情が宿るようになっていた。無表情の中に感情を見付けられるようになった。いつからか、気付けばそうなっていた。

 だが、それは彼が変わったという訳ではなく、本来の姿なのだろう。


「復讐をしても何も帰ってこない。誰も喜ばない。そんな言葉は腐るほど聞いた。でもそれは部外者だから言えることだろ?」


 黙って佇むクロエに問い掛け、続ける。


「自分の大切な人を蔑ろにされて、その事実を忘れて享受する平穏なんて御免だ。オレはその下らない人生(うんめい)に決着を付けたい」


 ルイスは枕元に置いていた懐中時計に手を伸ばした。鎖が砂のように零れ落ち、微かな音を立てる。手に収まったそれに注がれる視線は恐ろしいほどに澄んでいる。そのひたむきさはヴィンセントがディアナに注いでいるものの危うさと似ていた。

 クロエは復讐という望みはルイスから切り離せないものだと悟る。


「オレはオレの為に銃を持つ。キミはそれでも邪魔をするのか?」

「……そうじゃないです」


 クロエは堪えきれずにルイスの左手を自らの両手で握りしめた。

 手袋をつけていない手は金属から伝わる冷たさに凍えたようにひんやりとしている。


「懐柔するつもりか?」

「いいえ……、貴方にとって仇討ちは大切なことです。多分、そういうもの含めて【貴方】なんですよね……。私は貴方から【貴方】を奪うことはできません。だからその代わり、話して欲しいんです。八つ当たりでも何でも良いですから」


 ルイスの歩みを止めることはクロエにはできない。ならば、せめてその苦しみを吐露して欲しい。弱音を吐けないというなら、八つ当たりでも構わない。一人で抱え込まないで欲しい。


「ずっと……傍に、いますから……」


 クロエは金で雇われた使用人でも、鎖で繋がれた従僕でもない。己の意思で傍にいるのだ。

 綺麗事には騙されない。そんな様子で見下ろしてくる瞳にクロエは訴えた。


「ずっと……? 永遠に? 敵を殺し尽くして殺人鬼になっても?」

「え……」


 不明瞭な問い掛けにクロエは戸惑う。まるで夢の中のように現実感のない言葉だった。

 訝りを込めて見つめると、ルイスは醒めた声で切り捨てた。


「下らない……」

「私は本気で言っています」

「どうせあと一年かそこらの付き合いだったんだ。できもしないことを言わないでくれ」

「それでも、います」

「……ああ、そう」


 引きたくないという意地で答える。すると、ルイスの右手が伸びてきた。突然腕を引かれ、バランスを崩したクロエは前に倒れる。

 爪先から滑ったミュールがこつん、と音を立てて床に落ちた。

 咄嗟に手を出すことで転倒は回避することができたが、手をついた場所は彼の肩だ。奇しくも凭れ掛かるような形になってしまう。その状況から逃れようとすると、襟を掴まれる。

 引き寄せられたと思った瞬間、目の前に紫の双眸があった。

 薄明かりの中で紫色の瞳は赤みを帯びて濡れ光っていた。その色にクロエはぞくりとする。


「ずっとって、こういうことだろ」

「――――っ」


 何の情も籠っていない乾いた声だった。

 硬直する背中に、腰に、腕が回され、クロエは息まで止まる。


「オレの為だけにここにいるというなら、こういうことをされても文句は言えない。その覚悟もない癖に何がずっとなんだ?」

「……わたし、は……」

「誰でも彼でも優しくして……、だからといって哀れみを寄越す訳でもない。出来もしないことを軽々しく言うあんたはただの偽善者じゃないか。結局、可哀想な奴に同情したいだけなんだろ? いつもそうだ……人なんて弱い奴から奪うだけだ」

「違います……!」

「違わない。そうでもなければオレの傍にいる人は……レヴィを選ばない人はいない」


 この(ひと)は全てを壊してしまいたいのだな、とクロエは静かに理解した。

 ルイスはクロエの存在を消すが為に暴言を吐いているだけだ。

 いつだってそうだった。

 身体に回された腕が離れていく。それは、後ろ向きな拒絶のようだった。


「……貴方がそうしたいというなら、それでも良いです」


 クロエは離れていく腕を掴んだ。


「傍にいられる理由ができるのなら、それで……」


 ルイスが身を引くので、クロエはそのまま背中に腕を回した。

 華奢な靴を投げ捨てて、雪原に身を投げ出すように飛び込んだ。

 凍える季節に彼はずっと傍にいてくれた。クロエはあのぬくもりにどれだけ救われたことだろう。けれど、今その腕はこちらを拒絶している。

 こちらからは何も奪うつもりはない。そういう意思を込めて、抱きしめる。


「そうやって……弱味を見せれば誰にでも許すのか……あの男にも、レヴィにも……」


 クロエは知らずの内に何度もルイスを傷付けてきたのだろう。

 自分のような人間は皆に平等でなければいけないと思ってきた。彼もそれを望んでいると思っていた。

 ルイスは双子という生まれだからこそ、比べられることに傷付いてきた。だからといって平等に扱われれば扱われたで、各々の価値が揺らいでしまうようで苦しくなる。

 皆に良い人と思われるような存在で在りたいと思う限り、触れられない。

 今あるものを捨てて、漸く両手が空になる。


「離せ」

「話してください」

「離せと言ってる。オレに関わるな」

「私は貴方を【許さない】んです。だから、離れません」


 自分が口にした言葉に自分の胸が切り裂かれる。

 力を込めるクロエをルイスは力ずくで引き剥がそうとする。爪を立てられた肩が痛い。骨が軋むような感覚がする。それでも離れるつもりはない。

 クロエは自分がどうなろうと構わない。ルイスが一人で抱え込まないように、どんな形でも吐き出させたい。その為に負う痛みなら甘んじて受け入れる。クロエはルイスのことを諦めたくないのだ。

 ふと、肩に掛けられていた力が弱まる。観念したのだろうか。そうかと思うと背中がベッドに沈んだ。

 体重を掛けるようにしがみついていたことが災いして、押し倒された。暗い天井を見つめることになったクロエは瞬く。

 白い海に、溺れる。

 手首に触れた相手の手は引き上げてくれることはなく、一層の力を込めて沈められた。


「そうやって軽率なことばかりするから傷付くのだとどうして分からない? それとも本当に莫迦なのか?」


 覆い被さるようにしてクロエの片手を掴んだルイスは、空いている方の手で髪を掴んだ。

 まるで熱を持たない手がクロエの頬を掠め、それに引っ掛かれたように目からぬるみずが落ちた。


「侮辱しないで下さい……」

「その言葉をそのまま返す」

「私は本気です」

「意味が分からない」

「貴方だからです。一々言わせないで下さい」


 このようなことをされて黙っているほど、クロエは他人が好きではない。他人に無体なことをされて喜ぶほど惨めでもない。


「キミが、可哀想だ」


 ルイスのまるで切り込むような鋭い瞳は今にも壊れそうだった。

 雨空のような瞳を見返したいのに、茹だるような目からは涙が止まらない。

 溢れ出す涙に冷たい指先が触れた。

 視界を曇らせていた涙が拭われて、彼の眼差しの中にひとつの答えを見つける。


「友情が駄目なら、私は――」


 小さな声は首筋に吸い込まれる。

 ルイスは白い布の上でたゆたう蜂蜜色の髪の感触を確かめるように頬を寄せ、顔の形をなぞるように手を這わせた。彼の髪や手を頬に感じながらクロエは目を閉じた。すると覆い被さってくる身体の重みが増した。

 衣擦れの音は雪を踏みしめる音と似ていると、頭の片隅で考える。

 胸から溢れた雨は涙となり、雪のように溶けた。

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