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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
六章
137/208

ばらのはな、さきてはちりぬ 【9】

 朝から雨が降っていた。

 雲の向こうから陽光が射している。この季節に多い天気雨だ。

 五月と六月が薔薇月と呼ばれるのは雨が多いからだ。適度な雨量と暖かい気候が美しい花を咲かせる。

 今頃、薔薇の丘は一面が鮮やかな色に染まっているだろう。その様子を想像すると雨の日も悪くないように感じるが、今は前向きにはなれなかった。

 クロエは動けないでいる。

 ファウストに啖呵を切ったものの、ヴァレンタインの別宅の所在地が分からないので動き様がない。救いはレヴェリーがメルシエの元にいると分かったことだけだ。

 昨晩遅くに仕事から戻ってきたエルフェは早速、開店準備をしている。


「そこでそうしているならこちらにこい」


 クロエが眠れずにリビングで過ごしていると、エルフェにパスタを茹でるように言われた。

 喫茶店【Jardin Secret】はコーヒーとケーキの店だが、稀に軽食を出すこともある。観光地であるテーシェルにきてからはその頻度も増し、朝にある程度の仕込みをするようになった。


「茹で時間、五分でしたっけ?」


 パスタの具材はピーマンにハムとシンプルで、スパゲッティーニパスタをトマトソースで絡めて作る。後からフライパンで炒める分、パスタは硬めに茹でないと柔らかくなってしまうのだ。


「いや、七分で良い。シューリスの奴は硬いパスタを好まない」


 湯の中を泳がせたパスタをトングで引き上げる。パスタの旨味を吸った茹で汁はスープにも使うことができるので、捨てずに取っておく。

 そうして黙々と作業をしていたクロエは、ふと口を開いた。


「あの……エルフェさん」

「調理中に喋るな。話は後で聞く」


 当たり前の注意を受け、気持ちが緩んでいることに気付く。

 はっとしたクロエは言い付けられた作業を終えて朝食を作ると、いつものように午前中の仕事をした。

 何かをしている間は気持ちも紛れるかと思っていた。

 クロエは辛く悲しいことがあった時ほど何かをしようとする。今回もいつものように痛みを遣り過ごそうとして、できなかった。

 顔を上げようとする度に耳の奥であの声がよみがえり、その度に胸はひりひりと痛んだ。

 エルフェが対話の時間を作ったのは、昼下がりだった。

 客が引いた時に店に呼ばれ、クロエはカウンター席に座るように言われた。

 席につくと、熱いコーヒーが出される。

 喫茶店にはエルフェに話を聞いてもらう為に訪れる客もいる。コーヒーを出すというのは、彼なりの他人の話を聞くという姿勢だ。


「エルフェさんは何処まで聞いているんです?」

「レヴィの生みの親が義理の母親だったということだ」

「どう思いますか、身近にいた人が本当のお母さんだったということ」

「ろくでもない奴が母親でなかったという意味では安堵している。……あいつには言えないが」


 エレン・ルイーズは己の子供を全く愛していなかった訳ではない。

 快楽の為だけに異性と交わり、邪魔な子供を捨てたような人間でなかったという意味では双子は救われていると言っても良い。

 だが、当人にとってはそれほど単純な問題ではないし、割り切れるものでもないだろう。


「父親のことも聞いているんですよね」

「そちらは然程問題はないだろう」

「どちらかというとそちらの方が問題では……」

「その者たちにはクラインシュミット侯爵が制裁を下している」


 言いながら、エルフェは書類を取り出す。そこには侯爵が暴行事件の関係者を粛正したとあった。

 義親が実親を殺めた。それは重大な出来事だ。

 この書類をどうしたのかと訊ねると、エルフェはファウストに渡されたのだと語った。

 ファウストはどうしてそういう重要な書類を双子に渡さず、エルフェに送ったのだろう。現在の義親から伝えた方が良いと考えてのことだとしたら、その配慮は残酷だ。

 クロエの中にファウストへの批難が湧き起こる。その一方で安堵が広がった。

 ルイスのことだから銃を取れば両親の敵だけでなく、母親を辱しめた相手にも報復するだろう。

 実の父親までを殺すことはないのだという事実にほっとした。彼が親殺しの罪を背負わずに済むということに安堵した。


(……何を考えているの)


 クロエは一瞬でも人の死を喜んだ自分を恥じる。


「あとは良い方向に取るか悪い方向に取るかは本人次第だ」


 エルフェはレヴェリーがこの程度のことでは潰れないと信じているのだろう。エルフェの薄情とも取れる態度は決して冷たいからではないということをクロエは知っている。

 彼等には積み重ねてきた十年という時間があるから、相手を信じることができる。

 クロエにはその時間がない。

 何もできることが見付からず、黙って見守っていることもできない。その歯痒い気持ちが呟きとなって唇から漏れた。


「今回とは少し別のことなんですけど……、ルイスくんはどうすれば良いんでしょう……」

「また銃を持っているようだな。仇討ちか」

「あの人が両親の仇を取りたいという気持ちは分かるんです。でも、どうすれば救われるのか分からなくて……」


 両親が大切だから復讐はしなければならない。けれど、そのような行為に走れば多くの人間を傷付け、手を血で汚す。結果的に尊敬する両親を裏切ることになる。

 誓いも誇りもどちらも大切だから己を犠牲にするしかない。

 今のルイスは出生の真実を知ったことからくる不安定な心を、復讐という炎に注ぐ油にしているようだ。

 傷付いた心を全て、恨みに変える。それは自ら退路を断ったも同然だ。

 本人は幸せになりたいなんて微塵も考えていないのだろうが、クロエは見ていることが苦しい。

 どういう方向に進んでも苦しむしかない彼を、見ていたくない。

 見ていたくないけれど、傍にいたい。

 クロエの心は相反していた。


「ああいう奴は直視するな。そういう風に生まれてきてしまったのだから仕方ない」

「……仕方ないって、何です?」

「言葉通りの意味だ。あれはああいう人間だ。周りがどう悩もうとそれは変わらん」

「エルフェさんもそうやって決め付けるんですか」


 周りの者に決め付けられて、傷付けられて、諦められて。奪われ続けた彼には何が残っているのだろう。

 だが、クロエだって勝手に決め付けているのだ。クロエは自分がどうしたいのか、何を考えているのか分からなくなってしまう。


「お前は俺に答えは求めていないのだろう、クロエ」


 クロエは他人に答えなど求めていない。ただ気持ちを口に出して己を確かめたかっただけだ。


「……わたしは……」

「やって駄目ならば仕方がない。ならば気が済むまでやってみれば良い」


 結局、どう理屈で考えようとクロエはルイスを放っておくことはできない。

 他人に何と言われようと身体は動かない。望まないことに心は従わない。

 クロエのその気持ちを汲んだエルフェはヴァレンタインの別宅の場所を教えてくれた。






 行くからには連れ戻すまでここに戻るつもりはなかった。

 長期戦になることを見越して荷造りをしたクロエは自室の鍵を閉める。そしてトランクケースを持って一階に下りると、玄関ホールにはヴィンセントの姿があった。

 たまたまここに居合わせたという風ではない。待ち構えていたという様子だ。


「こんな雨の日に何処行くのさ?」

「ルイスくんを迎えに行ってきます。暫く家を空けるかもしれません」

「行ったら駄目だよ。お前はディアナのもので、ディアナは僕のものなんだから」


 ヴィンセントは通さないというように扉の前に立ち、寄り掛かった。

 クロエはじっと見上げる。

 家を出るなら裏口を使えば良い。しかし、クロエはヴィンセントを納得させた上で出ていきたかった。


「私はこれ以上失望したくないんです。貴方にも、自分にも……」


 ここで動けばルイスには更に嫌われ、自己嫌悪にも陥るだろう。ここで動かなかったらそれ以上に自分のことが嫌いになる。


「そこを通して下さい」


 逃げることも無視することもせず、真っ直ぐ向き合ったクロエは訴えた。

 寄り掛かった姿勢のまま腕を組んだヴィンセントは、口の端を笑みの形に吊り上げた。


「ルイスくんをって言ったけど、レヴィくんは? あっちも同じくらい苦しんでいると思うけど良いの?」

「エルフェさんとメルシエさんがいます」

「あの子にも義理の両親とファウストくんがいるじゃない」

「……それでも、です」

「ふうん……、そういうのって不平等だよね。依怙贔屓って言うのかなあ。自分のお気に入りだけに優しくするなんて醜い人間だね」


 レヴェリーの居場所が分かっているのに飛んで行かないのだから、薄情者と言われても仕方がない。

 クロエはいつも他人の目が気になって仕様がない。嫌われることが怖くて、他人に合わせてばかりだ。

 今回も体裁を繕おうとすればできるのだ。平等にどちらの元へも訪ねたら良い。

 だけど、そうはしない。

 もうこれ以上は偽れない。クロエは誰よりも、ルイスに幸せになって欲しいと思ったから。


「私は……何も持っていないんです。無力でちっぽけです。気に掛けられるものなんて高が知れています」

「つまりお前は双子の良い方を選んだ訳か。僕があの子の方が高く売れると選んだように、お前もあの二人を選別した訳だ。あはははは、傑作だよ」


 失望と感激を粗く混ぜたような、ぞっとする笑い声だった。

 一頻り笑ったヴィンセントは猫撫で声で言う。


「多分、あの子はそういうのを一番嫌うと思うよ。双子なんだから平等に扱ってあげなきゃ可哀想だ」

「嫌われても良いんです。あの人の苦しみが和らぐのなら私はどうなっても……」


 ルイスが平等に扱われたがっているのか、不平等を望んでいるのかは本人しか知らないことだ。双子に生まれた苦しさをクロエは分からない。

 だが、ルイスはあの時、傷付いた目をした。

 傷付けてしまったのだと今になって気付いた。


(勘違いだよ……)


 レヴェリーを心配するよりも先に、傍にいるルイスが落ち着くのを待たねばならなかった。それなのにクロエはレヴェリーを探すことを優先して、不安定なルイスをそのまま惨劇のあった家に連れて行った。

 ルイスが妙に平静だったから、泣いているレヴェリーの傍にいた。

 大丈夫なはずがなかった。何処で誰が死んだかを覚えているようなルイスが、その場所で一人になって平気なはずがなかった。

 クロエにはどちらかを優先にしたという思いはなかったが、受け取る側からすれば――レヴェリーと双子であるルイスならば――歪んだ解釈をしてしまう可能性がある。

 クロエはどうしようもなく、間違えた。


「お前は見返りを求めず尽くすんだ? 他人の為に自分を犠牲にするなんてどうかしてるよ。やっぱり醜い女は捨てられたくないからそうするしかないのかな。……まあ、お前の場合、最初から眼中にも入らないけど」


 嘲笑混じりの声色が徐々に冷めていき、最後には平静に戻っていた。


「行きなよ。お前はディアナじゃないから興味ないよ」


 ヴィンセントは扉に預けていた背を離すと、息をついた。その仕草は何処かつまらなさげだった。

 クロエはミュールでゆっくりと床を踏み締め、傘立てに手を伸ばす。

 水色の傘を取ろうとしたところで、ヴィンセントはそれ奪い取った。


「いい加減にして下さい。こんな嫌がらせをして、貴方は子供なんですか?」

「親切のつもりだよ」

「何がです!?」

「色気なしじゃ誘惑も籠絡も無理だろうけど、濡れ鼠になれば少しは哀れんで貰えるかもよ」

「ろぅ…………」


 クロエは喉の奥からしゃっくりでもするような妙な声が漏れ、絶句した。

 籠絡など、露ほども考えていない。

 抗議の言葉が頭の中をよぎったものの、口に出すこともできない。

 ヴィンセントはからかうようは笑った。彼の暗緑の瞳は愉しげに煌めき、それでいて獣のように鋭い。

 やはりこの男は悪魔だ。この男に関してはエルフェの言うようにこういう人物だと割り切った方が良い。


「行ってきますっ!」


 意を決し、ヴィンセントの手から力づくで傘を奪い取ったクロエはその勢いのまま飛び出した。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 許せない、と言った。

 死者への想いに満ちた声が耳の奥でよみがえる。

 幻滅だ、と言われた。

 失望を含んだ声は嫌いだと言われるよりも(こた)えた。

 ルイスは初めからクロエを見ていない。それでもどうにかして友人になったけれど、嫌われてしまった。

 幻滅しないと言ってくれたルイスに幻滅されたクロエは、もう傍にいる意味もない。

 見返りを求めることを止めてまで関わろうとするのは何故なのか。

 役に立つことを考えていないというのなら今、彼の元に向かおうとしている自分は何なのだろう。諦めきれず、ただ傍にいたいなんて未練がましいだけだ。


(私は平等なんて無理だよ)


 エレン・ルイーズを傷付けた男に彼の義父が手を下したと聞いて、クロエは嬉しかった。

 罰を受けて当然だと、そんなことを考える自分にぞっとしたが、これは本心だ。

 クロエの良心(かみさま)は平等ではない。自分の大切な人間を中心として働いている。

 もう惑うこともないほど明確に、道は示されていた。


(だけど、この格好はないよね……)


 心に決めたその道を進むクロエが憂鬱なのには理由がある。

 憂鬱の原因は、履いているミュールだ。

 水色のリボンと白花の飾りがついたミュールは長距離を歩くことに適していない。そんな靴のまま飛び出したものだから、クロエは一度転んだ。

 派手に水溜まりに倒れ込むということはなかったが、トランクケースと傘を持っていた為に地面に手をつくことができず、膝を思い切り打ち付けた。

 膝を擦り剥き、スカートの裾も泥で汚れてしまった。見事に濡れ鼠だ。

 ヴィンセントがあの場にいなければ踵の低い靴に履き替えていたのだ。彼の嫌がらせの所為で、しなくて良い怪我までしてしまった。

 クロエは苛立ちと悲しみで鬱ぐ心を抱えながら黙々と足を進めた。

 ヴァレンタインの別宅は、喫茶店のあるマルシェ広場から徒歩で二十分ほどの場所にある。

 いつも買い物にくる青空市場(マルシェ・ウヴェール)の更に向こうなので、湖沿いを歩いていけば辿り着く。


(どうしよう)


 門を潜り抜け、玄関扉の前に立ったクロエは考え込む。

 チャイムを鳴らし、そこで正直に名乗ったところで追い返されるだろう。ならば偽るしかない。

 クロエは一度咳払いをし、チャイムを鳴らした。


『どちら様ですか?』

「お、お届けものですー」

『分かりました』


 そうして扉の前で構えるクロエの横で、さくり、と青草を踏み締める音がした。

 クロエはぎくりとする。

 盲点だった。庭からくるとは考えもしなかった。


「悪戯なら帰ってくれ」


 振り向いた先で、黒衣の彼は不機嫌そのものの顔をしていた。

 ぱらぱらと降る小雨が髪や肩に染みていく。庭先に立つルイスはまるで気にしない。

 玄関の(ひさし)から出たクロエにも六月の冷たい雨は降り注ぐ。


「悪戯じゃありません。貴方に会いにきたんです」

「あんたはそんなにオレに嫌がらせをしたいのか?」

「私はただ貴方と話したいんです」

「もう話すことはない」

「ま、まって!」


 身を翻すルイスをクロエは慌てて追う。

 クロエは華奢な靴を履いていることを忘れて駆ける。その結果、泥濘(ぬかるみ)にミュールの踵を取られて(つまず)いた。


「ぅ、わ……っ!」

「まだ何か用が――」


 うるさそうに振り返ったルイスは、泥の中に座り込んだクロエを見て無言になる。


「……あの……済みません……足元を拭くタオルのようなものを貸して貰えると助かります……」


 二度も転んだクロエはそう言うことしかできなかった。

 曲がりなりにも女性をそのまま帰すことは忍びないと思ったのか、ルイスは家の中に入れてくれた。

 ハンカチーフで雨粒を拭っていると、湯できつく絞った熱いタオルと紅茶を出される。湯気の立ち上る紅茶を呆然と見つめるクロエに、ルイスは硬く冷たい声で告げる。


「服が乾いたら帰ってくれ」

「……嫌です」

「キミの望みは聞いた」

「帰るなんて言ってません」


 タオルを貸してくれたら帰るとは一言も言っていない。

 クロエは屁理屈だと思いながらも、こうして家の中に潜り込んだからには出ていく気はなかった。


「もうオレに関わるなと言ったはずだ」

「貴方は私の主人ではないんですから、命令は聞きません」

「友人としての頼みだ」

「虫がよすぎますよ」


 友人と思っていないのにこういう時ばかりその言葉に頼ろうとするルイスをクロエは睨む。

 クロエはルイスが何かをくれるから傍にいたいのではなく、彼の為にできることを探している。

 無力な自分に何ができるのか、そんな身勝手な自分を許せるのかは分からない。それでも、答えは一つしかない。


「貴方が一緒に戻るまで、私は帰りませんから」

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