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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
六章
136/208

ばらのはな、さきてはちりぬ 【8】

 幾日か経った。

 六月も二週目が終わろうとしているものの、状況は変わるどころか悪化していた。

 レヴェリーは一度連絡を寄越したきりで、あれからずっと家に帰ってこない。ルイスは一日の殆どを外で過ごしている。ファウストはまるで追い詰めるように【仕事】を与えていた。

 当人たちを差し置いてこの自分が取り乱してはいけないと叱責し、いつものように家事をこなしているが心は鬱いでしまう。クロエは己の無力さに打ち拉がれた。


「君ってさ、好きでこの仕事してるんだよね。物好きだなあ」


 リビングのソファに足を組んで座っているヴィンセントは、帰宅したルイスに揶揄の言葉を掛ける。

 昨晩仕事から戻ったヴィンセントは双子を襲った不幸を既に知っていて、不安定になっているルイスを煽ることに暇潰しを見付けていた。


「僕もわりと好きでやっているけど、借金の所為で金が全然貯まらないんだ」

「……何が言いたいんですか?」

「そんなに働くことが好きならもう一度売られてくれないかって話さ。二、三日好きにするって約束でさあ。君ならきっとそれくらいでも充分な金を稼げるよ」


 平静を装おうとしていたクロエだったが、手に持っていた林檎をずるりと落とした。

 ぼとりと重たい音を立てて床に落ちた林檎は一度跳ねた後、静かに転がり横たわった。

 冷たい静寂の中でヴィンセントは冷笑を浮かべたまま、声高に言う。


「聞いたよ、君はレイプで生まれた子供なんだってね。そんな要らない子供の君が人様の役に立てるんだ。それって幸せじゃない?」

「や……やめてください!」


 クロエは落ちた林檎もそのままに詰め寄る。


「それ拾わなくて良いの? いや、掬い取ったところで一度傷んだものはもう戻らないか。どれだけ見掛けを取り繕おうと中身がぐずぐずに腐っていたら腐敗臭が漂ってくる。丁度ルイスくんみたいな感じだ」

「いい加減にして下さい! そんなにお金が欲しいのなら私が稼ぎます」


 今のクロエに悪意を受け流す余裕などはなく、真面目に怒るしかできない。

 思惑通りの反応が心地好いのか、ヴィンセントはからかうように口の端を吊り上げた。その双眸は少しも笑っていない。


「親無し同士、傷の舐め合いなんて気持ち悪いなあ」


 浮かぶ酷薄な微笑に冷や水を浴びせられたような気分になるが、その冷たさの奥から熱が込み上げてきて、クロエはヴィンセントを強く睨んだ。

 腹の底が熱い。腸が煮え繰り返るとはこういうことを言うのだ。

 怒りで言葉も出てこない。そうして睨み合いを続けていると、ルイスは何も言わず部屋を出た。

 去りゆく姿を引き止めようとクロエは振り返る。

 だが、足は動かない。腕を掴まれていた。


「離してもらえますか?」

「まだ話の途中なのに背を向けるって何なのかな」


 掴まれたというよりも捕まえられたという方が正しい。手首に掛かる力は締め付けるように強い。


「ふざけないでください」

「ああ、巫山戯ているね。今のお前の態度は冗談にしてくれないと困るよ」

「離してくれないと貴方を恨みます!」

「どうして? 僕はお前に対して何もしてないじゃない」


 悪びれた風でもなくヴィンセントは答える。

 居直りや開き直りではなく、心の底から己が悪だと理解していない様子に、クロエは沈黙する。案の定の返答だと内心諦めがあった。

 撲たないのは優しさなどではない。臆病風に吹かれた訳でも、保身の為でもない。

 クロエは力任せに相手を振り切り、そのまま廊下に向かって駆け出した。

 ミュールの踵が立てるけたたましい足音が遠ざかっていく。

 床に転がる林檎を拾ったヴィンセントは、テーブルの上にあるバスケットに戻そうとして、けれど途中で価値をなくしたように握り潰した。

 破れた赤い皮の間から肉がはみ出し、果汁が垂れる。飛び散ったそれは周囲を派手に汚した。


「腐ったものはもう戻らないんだよ。俺も、あいつも……」


 呪うような忌々しげな声でそう呟き、ヴィンセントはじっと眉を寄せた。






 暗い廊下を、階段を駆ける。

 クロエは閉ざされている扉を開き、踏み込む。

 私室に他人が踏み入ったことにルイスは何も言わない。まるで空気のようにその存在を無視した。


「毎日何をしているんですか?」

「…………」


 あれから今日までずっとこの調子だ。ルイスはクロエとの関わりを拒絶していた。

 風に吹かれただけで折れてしまいそうな彼に触れることを恐れ、クロエはただ距離を置いて接するしかできなかった。その努力をヴィンセントは見事に壊してくれた。

 手折って、尚も踏み散らしたのだ。

 クロエの存在を意に介さず着替えを始めたルイスは上着を脱ぐと、シャツのタイを緩める。悲しさよりも怒りの感情が込み上げているクロエは腕を掴んだ。


「無視しないで」


 伸ばしたい手は無言で振り払われる。負けじと黒いシャツを掴む。タイの締められていない襟は大きく開き、首が露になった。

 現れたのは、肉が裂けて、繋がった痛ましい傷。

 クロエはぞくりとする。初めて見た時とは違って、この傷の意味を知ってしまっていた。

 この傷はクロエが刻んだようなものだ。

 思わず闇に呑み込まれそうになり、そんな自分を叱責する。今は引き摺られてはいけない。

 怯む気持ちを捩じ伏せたクロエは再び問い掛けた。


「こんな時間まで一体何をしているんです……?」

「キミが軽蔑するようなこと」


 漸く反ってきたその声は暗鬱だった。

 クロエはルイスを救いたいと思っているが、一つだけどうしても許せないことがある。それは他人を傷付ける行為だ。人を傷付け、殺めてきたということを認めることはできない。


「やめてください」

「やめてどうなる?」

「続けてどうなるんですか」

「くどい。キミには関係ないと言っているだろ」


 クロエは本音ではルイス本人よりも、周りの大人たちに対して腹を立てている。

 ファウストはルイスの味方だと言った。ずっと傍にいたなら彼の不安定な心も、その心が傷付いていることも分かるだろう。ならば、どうして追い詰めるようなことをするのだ。

 ルイスはこんなにも傷付いているのに、その傷を抉るような行為をさせるなんて可笑しい。


「もう良いんです……貴方が悩んだって、誰も喜びませんよ……」

「他の人間がどうだろうと関係ない。オレはオレの為に敵を殺すんだ」

「お母さんとお父さんが貴方を恨んでいる訳ないじゃないですか……!」


 それは理由や原因を求めて自分を責めてはいけない死だ。

 突然に家族が殺されるなど普通の状況ではない。そんな異常に真剣に向かい合ってはいけない。


「お母さんだって……ちゃんと貴方たちを愛してくれたんでしょう?」


 エレン・ルイーズを襲った悲劇は双子に罪はない。勿論、彼女にも。

 そんな真実に替えられない、大事な思い出があるはずだ。母親である彼女を慕っていたという自分の気持ちまで偽りに変える必要はないのだ。


「……知っているよ」

「じゃあどうして!?」


 暗澹(あんたん)としたルイスの言葉を振り切るようにクロエは声を張り上げた。

 身体の震えが止まらない。心臓は痛いほどに騒いでいる。

 煩い鼓動を掻き消したのは、絶望的な響きだ。


「復讐しないと許せないんだ」


 敵を、己を、許せない。

 窓から射す夜明かりの中、ルイスはクロエを正面に見据え、淡々と続ける。


「前にキミの言った通りだよ。あの時のオレではどうしようもなかった。オレがどれだけ早く帰ろうと父親と使用人は死んでいたし、母親も助かりようがなかった。あの場にいたとしても一緒に殺されただけだ」

「分かっているなら自分を責めるのはやめてください」

「……生まれてきて……生き残ったんだからせめて報復するしかない。オレにはそれしかできないんだ」


 それは理屈の上では分からないものではないが、クロエにとっては受け入れられない。

 彼は救われなければいけないと、願いのような感情を抱いているクロエには到底受け入れられないことだ。


「他にできること、あります……きっと……」


 痛みを忘れろとは言わない。

 だけど、両親への今も鮮やかな想いと、己の存在価値を、復讐で証立てるしかできないということはない。

 両親の墓に花を供え、祈るのは息子の彼にしかできないことだ。それで充分ではないか。

 クロエは思いを込めてじっと見上げた。その眼差しを振り切るようにルイスは瞼を伏せる。


「ないよ」


 断言の言葉は短かった。

 クロエのような空っぽの存在の持つ感情――底の浅い同情――では、他人の心を動かすことはできない。

 失意と共に手を離そうとする。

 けれど、その手は彼の手に押し留められた。

 手袋をした手がクロエの手を包むように触れる。その瞬間に感じたのは恐怖や戸惑い、ましてや嬉しさでもなく、身を切るような哀しみだ。


「クロエさん。関わるなら、レヴィにしなよ」


 告げられたその言葉はどんな態度よりもクロエの胸を深く切り裂いた。


「レヴィはオレと違うから傷付いている。一人でいるべきじゃない」

「なんで、ふたりとも、おんなじで……」

「【同じ】だけど、【違う】んだ。だったら、良い方を選べば良いじゃないか」


 それは、これまで並べられたどんな建前よりも真摯な響き。

 レヴェリーが何故ルイスの傍にいられないと言ったのかをクロエは漸く理解した。

 幼い頃から双子として比べられてきたルイスは、レヴェリーが優れていると思い込んでいる。そんなレヴェリーと同じ天秤に乗った時、ルイスは自ら天秤を傾けてしまう。


「レヴィは優しいから恩を仇で返したりもしない。キミの優しさはオレ以外の人間にあげるべきだ」


 クロエの目を真っ直ぐと見て告げたルイスは手をほどいた。


「……いや……です……」


 もう友情は要らない――お前の存在は不要だと言われたような気がして、それは嫌だと強く思う。

 その痛みによって思い知る。

 そう思う心の在処にはっきりと気付いた。


「わたし……わたし、は……あなたの傍にいたいんです」


 どうしようもない言葉(こころ)を聞いてくれた優しいひと。

 もう傍にいない家族のことをずっと想い続けている哀しくて、強いひと。

 そんな彼に救われて欲しいという願いの裏に、心の何処かで見返りを求めていたところもある。

 一緒に頑張れたら良い、と。認めて欲しい、と。

 そうして関わった結果として親しくなれるなら勿論嬉しいが、そんな下心などいつだって捨てられるのだ。

 いつか彼が平穏に暮らせるのなら、それでも良い。この自分が介入できない遠い場所で幸せを掴むのなら、それで良い。

 だけど、せめて共にいられる間に一緒に笑うことができたら幸せだと、そう思う。

 クロエの中で双子は平等(おなじ)ではない。天秤は傾いていた。


「幻滅だ」


 哀れみ、咎めるような眼差しはそっと伏せられる。未練がましく掴んでいた手は振りほどかれた。

 ぼろり、と涙が落ちた。

 睫毛を濡らすものがぼろぼろと零れる。

 泣いてはいけないと嗚咽を懸命に押し殺しても、勝手に涙が溢れ出る。

 建前を捨て、本音を叫びながら縋りつくことができたらどれだけ楽だろう。クロエはそんな自分を許せない。自省の刃は胸に深く突き刺さった。

 失望の言葉を告げた彼がどのような表情をしているのか、確かめられない。

 クロエは涙を拭って顔を上げるだけの気力が持てなかった。






 午前三時を過ぎる頃、壁を隔てた先から鋭い咳が聞こえた。

 飛び起きて隣室に向かうと、ルイスはベッドヘッドに寄り掛かってぐったりとしていた。

 発作を起こし掛けている当人よりもクロエが混乱した。

 咳止めが効かず、吸入ステロイド薬を使ったことで漸く症状は落ち着いてきた。クロエは念の為に医者を呼んだ。ルイスは深夜に呼び出すのは非常識だと言ったが、クロエはその医者こそが発作の原因だと感じていた。


「疲労からきたのでしょうね。明日はゆっくり休みなさい」


 ルイスの傍らに立つ人物は医者ではなく、使用人の仕着せ姿をしていた。

 あれだけ不信感を抱いていたのに、結局頼らざるを得ない。

 本人が言うようにファウストはクロエより余程有能かつ親身な【味方】だ。そのことが歯痒くてクロエはショールに包まれた肩を小さく震わせた。


「別宅に行きましょうか。ここは騒がしくて療養にならないでしょう」


 ルイスは数日分の着替えと何冊かの本をトランクケースに詰め、それを従者に運ぶように命じると家を出た。その間、クロエは蚊帳の外だった。

 胸は焦げるようにじりじりと傷む。

 薄明かりの玄関ホールでクロエは黒ずくめの相手を見上げ、呼び止めた。


「先生はルイスくんとレヴィくんのお母さんのこと、知っていたんですか?」

「知っていましたよ。でもそれが何だというのでしょう。あの方は養親であるクラインシュミット夫妻を愛している。そのことに変わりはないのですから」


 あまりにも容易く認めたことにクロエは背筋が震えた。

 喉の奥が閉じて、声が出ない。悪寒ではない、恐怖からくるものとは違う寒気が背筋を流れた。

 行き場のない憤りと哀しみをファウストにぶつけてはいけない。それでは八つ当たりも同然だ。胸に蟠った感情をどうにか切り離そうとするものの、芽生えた疑惑は消えてなくなることはない。


「酷いことをしていると思われるかもしれませんけれど、私なりの善意なのですよ」

「意味が……分かりません……」

「十年……いや、八年掛けても無理でした。私の力不足と言われればその通りですが、どれだけ正しい道を説いても聞いて貰えない。あの方の中にはもう唯一の神様がいるのです。あの方はその信仰を守りたいと思っている。ならば私は信仰の道に立ち塞がる者を排するのみ。――貴女は特別なのですよ」


 本来ならば、問答無用で切り捨てるところを特別に逃がしたとファウストは語る。


「私の善意を受け取って下さいませんか?」

「先生がしていることは独善じゃないですか」

「では、誠意を」

「私は言葉遊びをしているんじゃありません……!」


 善意も誠意も言葉にすれば胡散臭いことこの上ない。気紛れな猫と遊ぶつもりはないのだ。

 この自分がルイスに向けている感情も独善と大差ないということを理解しながらも、クロエは抗議せずにはいられなかった。

 反論したクロエをファウストが見つめる。その表情に普段の和やかな笑みはない。


「私も戯れのつもりはありません。貴女の幸福を考え、忠告しているのです」

「……と……さい……」

「何と仰いましたか?」


 ひくりと喉が震えて、息苦しさを感じる。

 クロエは必死に声を絞り出した。


「私のこと……勝手に決めないで下さい。前にも言ったはずです」


 ファウストは出会った時からそうだ。クロエを不幸な子供だと決め付け、同情しようとする。

 他人の痛みを感じ取り、涙を流す。それは人間的な優しさだ。けれど、この人物は哀れみを受ける側の気持ちを分かっていない。


「自分の幸せくらい自分で見付けます。他人に指図されたくありません」


 心のままに叫んだクロエを、盲目の正義を宿した双眸が真っ直ぐ射る。

 そして、言った。


「月夜の晩ばかりではありませんよ」


 恐ろしい脅しの言葉を残して黒髪の従者は身を翻す。

 低く冷めたその一言を聞いたクロエはファウストが壊れていると感じた。大切な人を喪ったルイスと同じように、その心は固く閉ざされている。いや、だからこそ固執しているのだろうか。

 ファウストがルイスに向ける目は、ヴィンセントがディアナに注ぐ執着とも、ルイスが両親に抱く憧憬とも別のものを内包しているように見える。その感情をクロエは理解したくないと感じた。

 きっとそれは、クロエがルイスに寄せる願いと似たものだから。


「何をしている、クロエ」

「……エルフェさん」


 お帰りなさい、とクロエはエルフェを向かえた。

 ヴィンセントより一日遅れで仕事に出たエルフェは本来なら、朝に帰ってくるはずだ。何かあったのだろうかとクロエが見上げる先で、エルフェはファウストが消えた方角を見た。


「今のはヴァレンタインの使用人か?」

「ええ……、ルイスくんが体調を崩してしまって」


 別宅へ行くということを伝えるとエルフェはそうか、と短く応えて続けた。


「レヴィはメルシエのところにいるから心配しなくて良い」


 エルフェが予定より早く戻った理由を察したクロエは泣きたくなった。大人たちは既に知っているのだ。双子が負った傷のことも、クロエが留守番一つできないほどに無力だということも、全て知っているのだ。

 クロエが震える唇を噛み締めると酷く乾いていた。


「そういう格好で出歩くな」


 エルフェは玄関を潜り、廊下の奥へ消えてゆく。

 男所帯で暮らしているのだから気を付けろと義父の彼は言う。今になってそのようなことを言うエルフェはやはり何処かずれているが、この今はそういうことではないのだろう。

 暗いホールに残されたクロエは扉を閉じようとして、ふと空を仰ぐ。

 灰色の雲に隠された月は朧で形が良く分からず、辛うじて沈み始めていることだけが分かる。

 肩から掛けているショールが風に揺れた。薄雲はゆうるりと流れ、合間に金とも銀ともつかない月がぽっかりと浮かんでいた。

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