ばらのはな、さきてはちりぬ 【7】
ルイスは両親の死を見たのかもしれない。
既に息のない人間を見ることと、息のある人間が死ぬところを見ることでは違いが大きい。復讐をするというのはルイス本人の性質もあるだろうが、両親の最期に立ち会った者としての責任からくるものもあるのではないだろうか。
耳鳴りがする。
目眩がして、手足が凍える。
陽射しは強く、気温も低くないはずなのに寒気めいた感覚が襲ってきて、クロエは腕を抱くようにした。
先をゆくルイスは廊下の奥の角を曲がる。そして突き当たりの扉を開けた。
中庭に突き出すように立っているサンルーム。後から増築されたと思しき、独立した部屋だ。
天井と壁が硝子張りの室内はとても明るく、床がウッドデッキなのであたたかみがある。鳥籠のような半球状をした部屋には観葉植物の鉢が並び、その中央には背の低いテーブルとチェアがあった。ここは子供部屋だ。
「レヴィ」
壁に寄り掛かるようにして座っていた。
目は赤く腫れている。泣き疲れた様子のレヴェリーは掠れた弱々しい声で呟く。
「あの日……お前が出掛けた後に客がきて、奥で遊んでろって母さんに言われたんだ。全部終わった後にそいつがここにきた。思い出したよ」
「ああ……」
「でも、そいつの顔覚えてねえわ。何で勘違いしてたんだろうな……」
クラインシュミット虐殺事件の犯人は赤眼の男だとレヴェリーは語っていた。だがそれは勘違いで、本当の犯人の顔が思い出せないと唸る。
「犯人、生きてるのか?」
「それを調べている」
「どういう奴だと思う?」
「あの人たちが家に入れるくらいだから、顔見知りだろうとは思う」
「へー、そう……」
兄弟の淡々とした遣り取りが恐ろしくて、クロエは踏み込めない。
降り注ぐ陽光がふっと陰る。
レヴェリーは赤く腫れた目でルイスを見上げた。
「仮にそいつが生きていたとして仇討ちに意味があんのか? ねえだろ?」
「少しは胸が空くかもしれない」
「空いたって、満たされないだろ……っ」
「だから何だ? 復讐はそういうものだろ」
「オレたちは最初から母さんに怨まれてるのにどうなるってんだよ!?」
茜空からぼたぼたと大粒の雨が落ちた。
「オレ等の顔を見る度に思い出してたんだよ……!」
「そうだね。あの人はオレたちに触れる度に、自分に酷いことをした奴も思い出したはずだ」
「……それでも、笑ってた……」
ルイスはまるで他人事ように淡々と話し、レヴェリーを突き放す。
クロエは見ていられずに駆け寄った。
背中を擦ろうと肩に触れたところで服を掴まれた。クロエはそのまま両方の腕でレヴェリーを抱き込んだ。胸にじんわりと涙が染みてくる。
傷付き怯えきった子供は震えていた。クロエよりもしっかりとした背中と胸板は震えている。痛いほどの力を腕に込めながら、レヴェリーは慟哭した。
今できるのは、ただ抱き締めること。
縋りつく身体を優しく抱き返してやる。クロエはそれくらいしかできない。
ただの気休めにしかならない抱擁でも、幾らかはぬくもりは伝わる。役に立てずとも、ほんの僅かにでも慰めになることはできないものか。
震える背中に手をしっかりと回しながら、クロエは涙を堪える為に目を閉じた。
ひんやりとした風が日没が近いことを知らせている。
空に浮かぶ雲は黄昏の色に染まって仄かに輝いていた。
レヴェリーが落ち着いたところで、クロエはルイスの姿が部屋からなくなっていることに気が付いた。
きっと中庭にいるだろう、とレヴェリーは言った。子供部屋から中庭へ出たクロエはルイスを探した。
中庭には沢山の種類の花があったが、庭師によって手入れをされていない花の多くは枯れていた。残っているのは常緑の生け垣と、比較的強い品種の薔薇だ。
六月の風に薔薇の葉と花が揺れる。
風の匂いはほんのりと甘く、肌を擽る。
青草を踏み締めて庭を歩く。
いばらの茂みに囲まれた小道を抜けると、蔓薔薇のアーチがある。その向こうに黒衣が見えた。
クロエは蔓薔薇のアーチを潜った。
そこの薔薇は爛漫と咲いていた。とろけるような甘い香りも色形も見事だ。
探し人の姿を見付けたクロエは、声を掛けることを躊躇った。
ルイスは何かを探すように白薔薇の庭を歩いていた。
地面とその上に咲いている花を見比べ、途方に暮れたように息をつく。立ち止まった彼は蔓薔薇の生け垣に手を差し込み、花を一輪摘まんだ。
表情はとても色や香りを楽しんでいるという風ではない。けれど、半分だけ目を伏せた雰囲気は写真で見た薔薇の淑女とそっくりだった。
その時、クロエの服の裾が垣根に触れて、かさりと音を立てる。
クロエの存在に気付き、振り返ったルイスは表情を硬く強張らせた。
「あ……えっと、ここの薔薇……見事に咲いてますね」
そんなどうしようもない言葉しか出てこなかった。
この状況で薔薇が綺麗などと目出度いことを言う自分に呆れる。
クロエは言葉が見付からない。どんな慰めも気休めにしかならないような気がして、何も言えない。
ルイスはすぐに顔を背け、薔薇の生け垣に視線を落とした。
「あの人は白い花が好きだったから、良く白い薔薇を植えていた」
「……お母さんが……育てたんですか?」
手ずから育てたのだというなら、この薔薇はとても大切なもののはずだ。
クロエは薔薇を見ようと生け垣に近付いた。
「庭仕事を手伝うと笑ってくれた。喜んでくれていると思っていた」
ルイスは花に興味がないと言いながらも、多くの花を知っていた。
きっとそれは幼い子供なりの母親の気を引く為の行動だったのだろう。レヴェリーのように素直に気持ちを表すことのできないルイスは、そうやって母親であるエレン・ルイーズと過ごしていた。
「……下らない」
小さく吐き捨て、ぐしゃりと握り潰した。
花の形を失ったものがばらばらと地に落ちた。
「ルイスくん!」
花を手折って飾ることを悪いとは言わない。だけど、こうして潰してしまったら可哀想だ。
批難を込めて、腕を掴む。クロエは息を呑んだ。薔薇の甘い香りに染まったルイスの掌は血こそ出ていないものの、棘で無惨に傷付いていた。
「どうしてこういうことをするの……?」
「花は折った時点で死んでいるんだ。これは生首みたいなものだよ」
「そういうことじゃないよ!」
クロエが言いたいのは花の命を奪ったことではない。言いたいのは、彼が彼自身を傷付けたことだ。
ルイスは自分を大切にしない。自ら心と身体を抉るようなことばかりしている。
「どうして……あなたは……」
これほど辛いのに、どうして泣かないのだ。
痛みを感じていないはずがないのに、何故平気な顔をしているのだ。
精彩の欠けた彼は眼孔に硝子玉を嵌め込んだ人形のようだ。
夕陽を受けてその髪は金色に輝いている。目の前にいる彼は写真で見た薔薇の淑女と似た面立ちをして、けれど全く異なる表情をしている。
吹き付ける風に髪が乱される。
乱れた髪の間に垣間見えるその耳にアクアマリンのピアスはない。そのことに、クロエは今気付いた。
『どうして片方だけなんです?』
『尊敬する人を忘れない為に、かな』
『真似ですか?』
『ああ。こうでもしないと忘れそうになる。オレは薄情だから』
何故、片方だけに耳飾りを着けるかと訊ねたことがある。
あまり装飾品に拘りを持たなそうな人物だけに気になった。クロエのそんな興味本位の質問に、ルイスは尊敬する人を忘れない為だと教えてくれた。
これはクロエの想像に過ぎない。その尊敬する人が両親だとすれば、あの耳飾りは彼の心を凍らせる破片の一つのようなものだ。
「どうして……!」
「キミには関係ない」
最早悲鳴となったクロエの問い掛けは、冷たく切り捨てられた。
「オレがどうだろうと、関係ない。キミには関わりのない世界のことだ」
言い含めるように告げたルイスは己の腕を掴む手を振り払う。乱暴な手つきにクロエが怯えようとも構わないという様子だった。
噎せかえる薔薇の香りを薙ぎ払うように黒い上着が翻る。
「レヴィが大丈夫なら帰ろうか」
クロエはただ失う。
言葉も思考も失って、取り残される。花の甘い香りが頭の芯を深く侵した。
じわりと歪む視界の端を白い欠片が転がった。
形を失った白い花は無惨に風になぶりものにされていた。クロエは思い出す。
枯れた白薔薇の花言葉は【純潔を失い死を望む】。そして、折れたものは【純白を失ったため死を望む】だ。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
クロエはエレン・ルイーズを知っているということを双子に言うつもりはない。それを伝えても、何にもならないことが分かっているからだ。
悪い人ではなさそうというのはクロエの勝手なイメージだ。たった数度しか口を利いたことがなく、その内容さえ覚えていないのに何が分かるというのだ。
その日の晩は、レヴェリーもルイスも早々に部屋に引っ込んでしまった。
クロエは一人きりの夕食を取ることになるが、食事をする気分にもなれなくてハーブティーだけを飲んだ。翌朝になってもそれは変わらず、レヴェリーもルイスも部屋から出てこようとしなかった。
昼近くになり、漸く姿を現したレヴェリーは肩から荷物を下げていた。
「待って! 何処に行くの?」
「外行ってくるわ」
「こんな時に出掛けなくても……」
「ここじゃ落ち着かないんだよ!」
鋭い怒声にクロエは肩を竦める。
怯えた様子を見たレヴェリーははっとしたように目を見開き、それからばつが悪そうに俯いた。
「お前等に……ルイに酷いことしない自信ねえんだ」
「そんな……」
「あいつの顔見てると、母さん思い出すんだよ……」
ストレスの捌け口として当たってしまうことが怖いと言う唇は微かに震えている。
レヴェリーが昔、悪さをしていたというのは噂で聞いていた。
儘ならない日々で堪った鬱憤を、破壊行動によって晴らしていたのだ。そんなレヴェリーが落ち着いたのは弟が傍に戻ってきたことが大きいのだろう。兄としての自尊心が彼の心に自制を掛けていた。
同じ母親の肚から生まれた、同じ境遇の片割れ。だが、その半身と痛みを共有することはできない。血の繋がった兄弟だからこそ、今は傍にいることが辛い。
「オレのことはどうでも良いけどさ……、ルイのこと嫌わないでやってくれねえかな」
クロエの目を見返したレヴェリーは血を吐くような声で言った。
「オレにはエルフェさんもメルシエさんもいるけど、あいつには誰もいないんだ……」
レヴェリーには家族と呼べる存在がいる。今は苦しくとも、少しずつ傷を埋めていくことはできる。
だけど、ルイスはヴァレンタインの家族に心を開いていない。何処にも心の寄す処がない。
「だったら尚更レヴィくんがいるべきだよ」
「オレがいるとあいつは駄目なんだよ……!」
レヴェリーはルイスを嫌わないでやってくれと――傍にいてやってくれと乞うが、クロエは戸惑う。
クロエはルイスの家族ではない。
どうしてレヴェリーが自分が傍にいることが駄目だと言うのか、それが分からないクロエは首を振る。しかし、レヴェリーが折れることはなく、そのまま家を出てしまった。
取り残されたクロエは無力感に打ち拉がれながらルイスの元へ向かった。
「レヴィくん出て行ってしまいましたよ……」
ルイスは銃を分解掃除しているようだった。ガンオイルの匂いが鼻を突いて気分が悪くなる。
クロエが頼んだ、銃を持たないで欲しいという願いをルイスは聞いてくれていた。護身用の銃は忍ばせていても仕事用の銃は仕舞い、こちらの目には触れないようにしていた。
その銃をこうして持ち出したというのはどういうことなのか。クロエは考えることが恐ろしい。
「何に、使うの?」
「使い道なんて決まっているだろ。あの人たちを冒涜した奴を殺すんだ」
そんな形でしか命の価値を見い出せないことが悲しい。
そんなことをしなくても――失った両親に依存しなくても、ルイスを認める人間は沢山いるだろう。
けれど、ルイスは気付かない。いや、気付いたとしても認めない。忌み子で人殺しだという彼の意識が彼自身を殺してしまっている。出生の真実を知ったことが余計に彼を復讐という行為に駆り立てていた。
「そんなことをしても何にもなりませんよ……」
「キミには何も分からない」
「貴方が辛くなるだけだってことくらいは分かります」
復讐を悪だと思う心がなければまだ救われるのに、ルイスには人間的な良心がある。脆弱な心は、復讐を成し遂げた後に残る血塗れの腕と虚無感に耐えられないだろう。
それでもクロエは【許す】という言葉を掛けることができない。
人を殺めたルイスをクロエは許さないと告げている。罰を受けたがっている彼からそれを奪うことは、別の意味で彼を苦しめることになる。クロエにはルイスを救済する術がない。
「オレは救われたいんだ」
「嘘です……!」
クロエは否定した。ルイスは自分自身を救おうなどとは毛ほども考えていない。復讐によって己が救われるのだと信じ込ませる為に言葉にしているに過ぎない。
クロエがどれだけ訴えようともルイスは言葉を聞こうとしない。目も合わせない。
思い知ったのは底無しの悲しさ。
身を焦がす痛みは涙さえも焦がして、クロエはただ震えるしかなかった。