ばらのはな、さきてはちりぬ 【6】
押し付けるだけの好意なんて誰も要らない。
こちらが関わりたいという気持ちも、あちらからすれば迷惑でしかないのかもしれない。
クロエはルイスを救いたいけれど、本当に彼を救うのは彼自身だ。
だから、その手助けがしたい。
例えばそれは暗い道を独り彷徨う彼の傍にランプを持って立つように。
導くことも未来を照らすこともできずとも、暗い道が怖くないようにほんの少しの慰めになれたら良い。
その為には自分は何ができるだろう。クロエは答えが見付からない。
暗く沈んだ意識の中で、ふと鼻腔を擽るものがあった。意識がすっきりするような涼しい香り――シトラスとオレンジのフレグランスの香りは、彼の傍にいると感じられるものだ。
そう、傍にいた。
クロエは彼に何もしてあげることができなかった。
支えになりたいと思うのに、この自分は悲しいほどに無力で空っぽだ。せめて目が覚めた時に寂しい思いをしなければ良いと考えて、今夜は傍にいようと思った。
月が高く昇って、少しずつ沈んでいった。空は濃い青紫色から淡い青紫に変わっていた。それなのに今はどうしてこんなにも辺りが真白なのだろう。
ぼんやりとしている間に意識がはっきりと覚醒してきて、クロエは飛び起きた。
視界は真っ白だ。頭からシーツが被せられていることに混乱する。どうにか抜け出したところで、窓から射し込む陽光が目を焼いた。クロエの色素の薄い瞳は光に弱い。夏場は眩しくて仕様がないのだ。
急に光を浴びたことで働かない目を閉じ、状況整理をする。
(……わたし……ねてたの……?)
ここはルイスの部屋だ。クロエはベッドに座った姿勢でいる。
昨晩、クロエはルイスをどうにか宥めて寝かしつけた。
過度のストレスは発作を誘発すると聞いていたので、少々強引に横にして休ませた。その内にルイスの意識が落ちてしまい、クロエは取り残されたのだ。
この状況で眠っていた己の神経を疑う。クロエは自分にうんざりしながらミュールに爪先を通す。
無理な体勢でいた所為で身体の節々が痛むが、そのようなことに構っている場合ではない。
ルイスの姿を探して玄関ホールに下りたクロエは、そこで声を拾う。
「どうして兄さんにまであれを見せたんだ!?」
それは、普段抑揚をつけずに喋るルイスらしからぬ抜き刃のように鋭い声色。
クロエは急いで向かう。レヴェリーの部屋の机には、ルイスが見たものと同じ書類が広がっていた。
(なん……で……)
あの書類を見たのはルイスだけだと思っていた。
ファウストが書類を直接手渡したのはルイスだけだ。しかし、あの人物は新居の内装を見たいと言って、家の中を見て歩いたのだ。
恐らく、親子鑑定の報告書とエレン・ルイーズの調査書はその時に置いたのだろう。
「不平等……? こんな結果を知るのはオレだけで充分だ」
電話を握る手は白く凍え、表情は青冷めている。
「あんたを信用したオレが莫迦だった」
この場に電話の相手がいれば数発殴っているのではないかというほどに、怒りと恨みを含んだ底冷えするような声だ。電話を切ったルイスの様子を窺うと、無表情だった。
クロエは背筋が震えた。
今のルイスから感じるのは初めて会った時に向けられた敵意だ。
ぞくりとするものを含んだ横顔を見ながら、クロエは訊ねる。
「あ、あの、どうしたんですか……?」
「……レヴィが何処にもいない」
「仕事場には?」
「行っていないみたいだ」
レヴェリーが手伝いに顔を出している砂糖菓子屋は数件隣だ。
向かう途中に事故に遭う可能性は低い。今顔を出していないとなると、自ら姿を消したということになる。
「そ……そうだ、電話は? レヴィくん持っているよね?」
ルイスは無言で首を振る。その視線の先には置き去りにされた携帯電話があった。
(どうして先生は……!)
クロエはファウストに対して怒りを覚えた。
ファウストがしたことはルイスの意思を無視した振る舞いだ。信頼を裏切っているに等しい。
ある程度の覚悟を以て調査書を見たルイスとは違い、レヴェリーにとってその内容は不意打ちだっただろう。
突然知らされた真実にレヴェリーがどのような行動に出るか予想がつかない。
「レヴィくんの行きそうな場所、探してみましょう」
「……キミに手間を掛けさせる訳にはいかない……」
「何言ってるんですか。早く見付けないと心配です!」
「それはそうだけど、キミは無関係だ」
「私はレヴィくんが心配なんです! 人探しなら人手は多い方が良いはず。違いますか!?」
ルイスの態度に何処となく消極的なものを感じたクロエはつい怒鳴ってしまう。
壊れ物を扱うような態度から一変したクロエを前に、ルイスはぐらりと瞳を揺らす。
クロエはルイスとレヴェリーを秤に掛けたつもりはなかった。ただ、今傍にいない方が心配なだけだった。
頭の中が不安で一杯だったから、気付かなかった。
「私は【クレベル】に行ってみますから、貴方はこの辺りを探して下さい」
「……分かった」
妙に乾いた目でクロエを一瞥したルイスは短く応えた。
それからクロエはレヴェリーの行きそうな場所を考えた。
今は空き家となっている以前の住居、買い物をした商店街にショッピングモール、アイスクリームを食べた公園。クロエはレヴェリーと共に行ったことのある場所を一つずつ当たったが、その何処にも姿を見付けることができなかった。
(レヴィくん、何処に行っちゃったの?)
レヴェリーは明るく見えて精神的に脆いところがある。
ルイスと共に暮らし始めてからは兄として強く在ろうとしてか、荒れるようなことはなかったが、レヴェリーも心に傷を抱えている。
周囲に気配りができるレヴェリーのことだから、笑顔でふらりと帰ってきそうな気もする。
しかし、今回は内容が内容だ。
産みの親の問題はその場限りの傷ではない。生きている限り、付き纏ってくることだ。
クロエはエルフェとメルシエに連絡をするべきかと悩む。
留守を預かっている身として問題が起きた場合は、解決もしくは報告をしなければならない。だが、騒ぎ立てることはレヴェリーを却って傷付けることになってしまいそうだ。
クラインシュミットの犠牲者として冷遇されていたレヴェリーが、やっとエルフェという義親を得たのだ。メルシエやヴィンセントだってレヴェリーを幼少から知る家族のようなものだ。
やっと育ての親と本当の家族として進んでいけるという時に、産みの親の問題が浮上した。
ルイスが言うように、あの真実はレヴェリーに伝えてはいけないことだった。少なくとも、今は。
街の中心部を回り、セントラルタワーのエントランスにやってきたクロエ。そこで連絡用に渡された携帯電話に着信が入った。
まごつきながら通話を開始する。相手はルイスだった。
『レヴィは見付かったか?』
「済みません……」
『一度合流しようか』
「そうですね。何処に行けば良いですか?」
『オレは今から墓に行くつもりだけど、場所は分かるか?』
「はい、覚えています。すぐに向かいますね」
クロエは【クレベル】から【ロートレック】へ移動した。
ディアマン通りの西に位置する大聖堂、そこから北に墓地はある。
双子の両親が眠る墓地は、クロエとルイスが出会った場所だ。
その時に感じた怖いという印象は彼という人間に触れる度に薄らいでいった。
けれど、クロエは怖い。
今のルイスには棘がある。
打たれた手よりも、心がじくりと痛んだ。
クロエは天使の像がある庭園を抜け、墓地を目指した。
目映い光が降りてくる午後の墓地には散歩に訪れる者たちの姿がある。シューリスの墓地は、とても穏やかな空気に包まれていた。
記憶を辿り、クラインシュミット夫妻の墓まで行く。墓の前にルイスはじっと佇んでいた。
墓には花が手向けられている。枯れた白薔薇と、真新しい白薔薇だ。
「この花束は貴方が?」
「いや……、これはオレじゃない」
新しい方の花束は自分が置いたものではないとルイスは首を振る。
枯れた薔薇は誰が手向けたものか、新しい薔薇は誰が供えたものか、それを想像することが苦しい。
クロエは心を痛める。ルイスは感傷に溺れることは不要だというように背を向けた。
「行こうか」
「え……あの……」
「クラインシュミット屋敷、まだ見ていないんだ」
恐らく、花を手向けたのはレヴェリーだ。彼が両親の縁の土地に向かったというなら、一番可能性が高いのは家族との思い出がある家ということが考えられる。
先を行くルイスに従いながら、クロエは一度だけ墓を振り返る。
生ぬるい風に枯れた白薔薇の花弁が寂しく揺れていた。
尊敬、憧憬、約束といった意味の花言葉を持つ白薔薇は、墓に供えるものとして別段可笑しくはない。ただ、枯れたり折れたりした白薔薇の花言葉はとても皮肉だ。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
上層部上部への検問は下部に入るものよりも更に厳しくなる。
本来ならば半日掛かる手続き――二大公爵家の者に話を通さなければならない――をパスできる通行証が、この貴族の家紋が刻まれた硬貨だ。
ルイスが持っているものは、ヴァレンタインとクラインシュミットの金貨。クロエが持っているものは、レイヴンズクロフトの金貨と、メルカダンテの銀貨。
上層部上部【レミュザ】に入る為には三枚が必要になる。ルイスがクロエと合流したのは、クロエの持つ硬貨を借りる為のようだった。
【レミュザ】に初めて立ち入るクロエは街全体を包む空気に胃の辺りが痛くなった。
良く言えば閑静、悪く言えば寂しい。無機的で人の営みがあまり感じられない鋼の都市だ。
ルイスに連れられて訪れたのは街の中心部を避けて佇む邸宅だ。
門は立ち入り禁止の表札が掛けられ、堅く閉ざされていた。
ルイスは手と足を掛けて乗り越えてしまう。そしてそのまま先に進んでいってしまうので、クロエは慌てて門をよじ登った。
「ま、まって……」
門から邸宅の入り口までの長い道を挟むようにして庭園が広がっている。
この時期の薔薇は一年で一番美しい。青空に輝く太陽が大地を照らし、庭中に咲いた薔薇が爛漫と香る。甘く艶やかな香りは風に乗ってクロエの元にもやってきた。
芳しい香りを振り切るように早足で歩くルイスを追って、クロエは玄関口を目指した。
ルイスが玄関扉の横にある装置に目を翳すと施錠が解除される。網膜認証システムだ。どうやらこの邸宅は、家族以外の者が侵入できない仕組みになっているようだ。
邸宅内は空気が重たく溜まっていた。クロエは背筋がぞくりとする。
白い壁と白いタイルの敷き詰められた床は清潔感がある一方、人の気配が感じられないと酷く寒々しい。二人分の足音が響くと一層寂しく感じられた。
「レヴィくんは何処にいるんでしょう」
「いるとしたら子供部屋か中庭だと思う」
貴族の屋敷というのは大体決まった形があるが、クラインシュミットの邸宅は独特な造りをしている。
玄関ホールがなく、通路が真っ直ぐと伸びていて、その左右に扉があった。左の扉は応接室、右の扉は大広間に繋がっている。ルイスは正面の扉を開け、画廊に出た。
「……ルイスくん……?」
左右に長く伸びた広い廊下を、ルイスは何故か壁を沿うように歩く。
まるで何かを避けるような様子を訝しむと、彼は低く押し殺した声で吐き捨てた。
「人が死んだ場所なんて踏みたくないだろ」
「――――ッ」
膝から崩れ落ちそうになり、クロエは壁に手をついた。
クロエはルイスとレヴェリーの両親へ対する考え方の違いを疑問に思いながらも、深く考えてこなかった。ここで一つはっきりしたことがある。
ルイスは襲われた者たちを――その死体を直接見ている。
自分が早く帰っていれば両親は助けられたかもしれないとルイスは言った。それはつまり……と考えて、クロエは悪寒と目眩が強くなるのを感じた。
ここは家族の思い出が詰まった家などではない。この場所は、双子が負っている傷そのものだ。