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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
六章
133/208

ばらのはな、さきてはちりぬ 【5】

 礼拝堂には冷たくもなく暖かくもない淡い光が降りてきている。

 祈りの場所という慰撫(いぶ)が形だけのものと知りながらも、クロエはそれに縋りたくて今日も訪れる。

 信徒席の最前列で懺悔と祈りを捧げ、ぼんやりと過ごす。

 今までのこと、これからのこと。考えることは沢山あった。

 親元で再び暮らすというのは嬉しくもあるが、やはり怖い。考え込んでいたクロエは、礼拝堂の中へ足を踏み入れた来訪者の存在に気付かなかった。

 来訪者は誰かを探している様子で礼拝堂内を一周する。

 祭壇の下まで探しても見付からずに肩を落とす。しかし、気を取り直したように身を翻し、席に腰掛けた。そこで漸くクロエは彼女に気付いた。


ごきげんよう(ボンジュール)

「ご……ごきげんよう」


 淑女は瞳をそっと伏せながら微笑む。小さな唇から鳥の囀ずりのように柔らかな声がこぼれた。


「またお会いできて嬉しいわ、青い瞳のマドモワゼル」


 長手袋をつけた手で口許を隠し、少しだけ首を傾げて笑う。その拍子に耳飾りが揺れると、同性にも関わらずクロエは思わずぼうっとしてしまった。

 ミルクティーのような淡い茶色の髪が光に透けると、春の日差しを集めたような金色に映えてとても綺麗だ。

 瑞々しく甘い香水の香りがふわりと漂い、胸を擽る。

 クロエがどぎまぎしていると、淑女は少しだけ菫の色が入った碧眼を細め、深く微笑した。


「あなた、いつもここにいるのね」

「そういう貴方はどうしてこちらに?」

「私はあの子を探しにきたのだけれど、先回りして逃げてしまったみたい」


 こうして言葉を交わすのは三度目。何度か敷地内で擦れ違ってもいるが、相手の身分や名前は知らない。

 クロエは彼女のことを薔薇の淑女(マダム・ローズ)と呼んでいる。というのも彼女は薔薇のコサージュを着けているのだ。

 白薔薇だったり、紫薔薇だったり、桃薔薇だったり。日によって種類は違うが、何処かに必ず薔薇の飾りを身に着けている。今日は紫薔薇のヘッドドレスだ。レースとリボンで飾られたコサージュは彼女の美貌を魅力的に彩っていた。

 マダム・ローズの言う【あの子】とは、恐らく養子候補の子供だろう。

 施設の子供たちの中には引き取られて幸せになりたいと願う者もいる。だから、こういう夫婦がくると子供たちは周りを取り囲むのだ。

 少しでも気に入ってもらえるように――引き取ってもらえるように――笑顔で迎え入れる。

 マダム・ローズは見るからに上流階級の人間といった風貌だ。彼女に引き取られたら、きっと何不自由なく生きていくことができるだろう。


「聖書ってどうしてこんなに分厚いのかしら」


 クロエの膝にあった聖書を掴むマダム・ローズ。その手付きは何処か乱暴だ。


「た、高いんですから」

「あら、聖書を乱暴に扱うなんて罰当たりとは言わないのね」

「そ、そちらも大切ですけど……!」

「この分厚さと書かれている有難いお言葉を考えたら安いものよ。流石、世界一のベストセラーだわ」

「あの……お値段の話ではなくて……」

「大丈夫よ、罰なんて当たらないわ」


 聖書を置いたマダム・ローズは口許だけで笑った。

 口調は軽やかでも言葉には棘がある。クロエは指先を刺されたような感覚がした。


「貴方は神様を信じていないんですか?」

「いいえ、そんなことはないわ。良心という神様は人の心にいるとは思う。聖書の中にも【背教者は良心に焼き印を押されている】と書かれているもの」

「はい、私の中にも貴方の中にも善悪を弁えられるようにして下さる神様がいます」

「ええ……だから、神様は残酷よ。私たちの中の良心(かみさま)は自分の都合の良い相手にだけ優しくすることもできるもの。結局、私は神様というよりは人間が嫌いなのね」


 もし全ての人の心に神がいるとしたら、クロエはこのような場所にはいない。

 良心があれば父は子供を捨てなかった。いや、良心があったから捨てたのだろうか。

 クロエは己の抱える欺瞞と矛盾に気付いている。


「あなたのご家族は?」

「私は……お母さんと、お父さんがいます」

「私は夫と子供がいるわ」


 実子がいるのにどうして養子を探しにきたのだとクロエの中に疑問が湧くが、詮索は法度だ。

 きっとマダム・ローズは慈善家で、沢山の子供たちを引き取って暮らしているのだろう。


「やっと見付けた宝物なの。もう絶対に離さないわ」

「そうですか……」


 意識せず、応える声が鈍った。

 あたたかい家庭。それはクロエには縁のないものだ。

 クロエは幸福だった記憶よりも不幸だった記憶が多い。

 そのことを察してくれたのか、マダム・ローズは寂しげに目を伏せる。


「幸せ自慢をしていてむかつく?」

「え……、いいえ!」

「別に、私も誰かに自慢できるような生い立ちという訳ではないのよ。お母様は死んでしまったし、お父様は私のことを恥だって言ったもの」


 恥というその言葉はクロエの胸にも痛かった。

 クロエは、お前のような子供は恥だと父に撲たれたことがあった。その時、自分の存在が無価値ですらなく、負の存在だということに胸が凍った。

 クロエが施設に容れられた時に安堵を覚えたのは、負の存在を捨ててくれたからだ。


「不幸とは自分が不幸だと思うことであるという言葉があるわ。つまり、自虐したり大きなものを望んだりしなければ幸せは落ちているものなのよ」

「……そう、ですか?」

「例えばご飯。お皿の上に好きなものが出たら嬉しいじゃない。あなたの好きなものは?」

「えと……桃と、蜂蜜とか」

「まあ、桃の蜂蜜漬けなんて素敵。紅茶もあればもっと素晴らしいわ」


 桃の蜂蜜漬けなるものは知らないクロエだったが、その響きには心惹かれるものがあった。


「美味しい紅茶を飲みながらお菓子を食べるなんて至福だわ」

「外でお茶を飲むと美味しいですよね」

「庭で育てた花をテーブルに飾るのも良いわね」

「それは素敵です」


 林檎の森へ散歩に行った後、母と一緒に作ったアップルケーキを食べながら紅茶を飲んだことを思い出して、クロエはあたたかい気持ちなった。

 綺麗なものに満たされた何の悲しみも苦しみもない世界で、優しい記憶だけを持って生きていく。

 優しい思い出だけを反芻していられたらどれだけ幸せだろう。

 クロエのそんな願いをまるで読んだようにマダム・ローズはこう言った。


「過去には何もないわ。厄介な自分の亡霊がいるだけ……」

「…………っ」


 成就するべき理想も、遂げるべき悲願もない。ただ平穏堅実に生きたいと考えているクロエは過去から抜け出そうとしていない。マダム・ローズのいう亡霊そのもののクロエは頭を殴られたような気分になった。

 刹那、心の中の棘がわあっと尖る。

 唇が震える。思いもしない言葉を吐き出してしまいそうだ。

 クロエは祈るように手を組みながら懸命に堪えた。


「でもね、こんな風に生まれたからこそ私は世界の嫌なところを知っている。当たり前のものなんてないと知ったから、今あるものを大切に思える……。私は十八年生きてきた日々の内で最も無駄に過ごしたのは、笑わなかった日だと思っているわ」


 恵まれない生まれたからこそ世界の残酷さや人間の醜さを知り、それ故に美しさも知る。

 それは、クロエが考えもしない逆説的な発想だった。


「あまりにも大きな幸福を期待するのは幸福の妨げ。ささやかなことが幸せなの」


 マダム・ローズ――まだ年若い娘は静かに微笑んだ。

 自らの不幸を嘆くのではなく、今を心から安堵している。そういうことが伝わってくる表情だった。

 彼女は強い人間だ。けれど、それは少しだけ寂しいことだとクロエは感じた。


「湿っぽくなってしまったわね。私はそろそろあの子を探しに戻らないと。――――それじゃあ、またね(ア・ビヤント)


 マダム・ローズはまるで蕾が綻ぶかのようにゆっくりと微笑むと席を立ち、礼拝堂を出た。

 独りに戻ったことにクロエはほっとする。

 やはり、独りでいることが楽だ。他人と関わるのは苦手で仕様がない。

 たまに寂しくなることもあるけれど、傷付くよりは余程良い。

 そう考えてしまう己の寂しさに気付かない振りをして目を閉じる。眼裏の闇は相変わらず優しかった。

 それから長い時間を礼拝堂で過ごしたクロエは、舎に戻ろうと腰を上げる。


「これは……」


 夕日の射す通路にきらりと光るものが落ちていた。

 深い青の石――サファイアの耳飾り。マダム・ローズが着けていたイヤリングの片方だ。

 クロエは慌てて彼女の姿を探したが、施設内の何処にも見付けることができなかった。

 持っていることもできず、仕方なく施設の教師に渡した。

 それから数日後にクロエは施設を去ったので、マダム・ローズと話したのはそれきりになった――――。

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