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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
六章
132/208

ばらのはな、さきてはちりぬ 【4】

※この話は過激な表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。

 その夜、レヴェリーの帰りはいつもより少しだけ遅かった。

 勤め先である砂糖菓子屋の娘と茶を飲んできたのだという。新天地での暮らしに馴染んでいる様子にクロエはほっとする。

 リビングから聞こえてくるテレビの音に耳を傾けながら、クロエは乾燥機から洗濯物を取り込む。

 他人が五人も同居しているということもあって、この家の洗濯事情は複雑だ。クロエが洗濯をするのは、いつも男たちが部屋に引っ込んでしまってからだ。

 洗濯機で洗えない衣類は手洗いをして、二階の納戸へ持っていく。

 壁から壁へロープの張られたこの部屋は、午前中に掛けて太陽光が射し込む。クロエは太陽の良い匂いがするから、陽の当たる場所にシーツを干すことが好きだった。

 済ませるべき仕事を終えたクロエはリビングへ戻り、レヴェリーに話し掛けた。


「レヴィくんの今の目標ってどんなこと?」

「また夢の話?」


 クロエの唐突な質問に慣れているレヴェリーは気を害することもなく答える。


「んー、もっと美味い菓子作れるようになりたいな」

「もう美味しいお菓子、作っているじゃない」

「まだ生地作りしか手伝わせてもらえねーし」

「ちゃんと進んでいるって凄いよ」


 レヴェリーはしっかり目標を持って生きているから偉いとクロエは思う。

 クロエは平穏を享受しているだけの人間と言われて何も反論できなかった。

 他人に素晴らしいと感じてもらえるような目的なんて見付からない。それが平穏を貪るだけの存在と言われる所以(ゆえん)のようで、一層悲しくなる。

 ぼうっと考えていると、傍にやってきたレヴェリーが顔を覗き込む。

 すぐ近くにある紫色の目をクロエはじっと見つめ返した。


「お前またルイに何かしたの?」

「え、私!?」

「メシの時、あいつこなかったじゃん」

「食欲なかったのかも」

「要らないって言いにくるだろ」

「それはそうだけど……!」


 また何かしたという言い方ではいつも何か危害を加えているようなニュアンスだ。

 もし何かしたとすればファウストだ。今回ばかりは濡れ衣だとクロエは必死で訴える。


「あとで声掛けてみるよ」

「んで、また問題が起きるって訳ね」

「レヴィくん」

「だって大体そのパターンだろ」


 レヴェリーは立場上、クロエとルイスのとばっちりを最も食うので警戒するのは当然だった。

 クロエが墓穴を掘るのはいつものことだ。自分なりに正しいと感じることをしているのに、そのしようとすることの大半が裏目に出てしまう。


「私ってお節介かな」

「そういう風に一々訊いてくんのはうざいけど、別に普通じゃね?」

「……うん」


 レヴェリーの遠慮ない一言に傷付きもする。けれど、悪意がある訳ではないので、寧ろすっきりするくらいだ。

 他人の顔色を伺う卑屈なところを直さなければと、クロエは反省した。


「ルイが神経質なだけだよ」


 ソファに寄り掛かったレヴェリーは首に下げた鎖を弄ぶ。

 随分昔に作られたもののはずなのに黄金のペンダントは艶やかさを失っていない。

 金は錆びないものとはいうが、湿気で変色したりはする。美しさを留めているのは、レヴェリーがそれだけ大切に扱っているからだとクロエは感じた。


「レヴィくんは本当のお母さんたちに会ったら何をしたいの?」


 産みの親に会えることなら会いたいと語るレヴェリーの真意を知りたい。


「オレさ……、ガキの頃にルイと喧嘩して酷いこと言ったんだ。【お前が病気だからオレまで捨てられたんだ】みたいなさ」

「本当にそう思って言った訳じゃないでしょう」

「当たり前だろ。ガキの喧嘩だし、勢いっつーの? カッとなると思ってないようなこと言ったりするじゃん。だけど、あいつはそれ真に受けて今でも気にしてるっぽいからさ、どうして捨てたのか本当のことが訊きたいんだよ」


 レヴェリーはどうしようもない理由だろうと言いたげに肩を竦めた。それから立てた膝に突っ伏すように背を曲げ、深い溜め息をつく。


「知ったってオレの言ったことは消えねえけど……、やり直す切欠が欲しいんだ」

「レヴィくんの気持ち、きっと伝わっているよ」

「そうかなあ……」


 もしかしたら当時のルイスは真に受けてしまったかもしれない。だが、もう大人だ。レヴェリーが本心からそのようなことを言ったのではないと分かっているはずだ。


「一緒に花火、するんでしょう?」


 本当に嫌いなら共に星を観たりするだろうか。

 一緒に花火をしようという提案に、ルイスは了承しているのだ。

 クロエはルイスなりにレヴェリーの気持ちを汲んでいるように思う。

 少しずつ、しっかり進んでいる。きっとそのはずだ。


「線香花火、買ってこなきゃな」

「うん」

「昔みたいに競争して、負けた方が勝った方の言うこと聞くんだ」

「うん…………って、そういうのは駄目だよ……!?」


 思わず流れで肯定してしまったクロエは慌てる。

 そのような花火は物騒だ。折角の兄弟水入らずが台無しになってしまう。

 クロエの隣で、レヴェリーはしてやったりの顔で笑っていた。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 ランプシェード越しの薄明かりが部屋をぼんやりと照らしている。

 部屋の空気はまるで凍り付いているように静かだ。


「あの、ルイスくん。大丈夫……?」


 部屋を訪ねてきたクロエの顔をルイスは見ない。心なしか彼の表情は強張り、青褪めている。

 床には書類が散らばっている。神経質なルイスがこのような状態を良しとするはずがない。つまりこうなるだけのことがあったのだ。


「どうかしたの?」


 クロエは怖ず怖ずと訊ねる。しかし、返事は返ってこない。

 ルイスがたまに心を閉ざしてしまうことがあるのは知っている。

 何かを諦める時、彼は心を封殺する。そういう時の彼はこことは別の遠い世界に立っているようで、クロエはどうすることもできなくなる。

 ベッドの縁に座り、床を睨んでいるルイスは何も話さない。


(私は……)


 何かに苦しんでいる彼の助けになることはできないのだろうか。

 胸が痛くて仕様がない。

 何故こんなにも苦しいのだろう。考えて、クロエは震える。かの人物に言われたことが少なからず堪えていた。

 誰かの傍にいることに資格なんて必要ない。居場所は己が決めるのだと思うようにした。だけど、そう言い切る自信がなくなった。

 クロエは空っぽだ。そんな空虚な存在がどうして他人の傍にいようというのだろう。


(可笑しい、よね)


 もしも、だ。クロエが自分の欲望の為に他人に尽くしていたとする。優しくしてあげた他人の不幸を見て満足感を得て、自分の幸せを確かめているのだ。それは身勝手で恥知らずだ。

 彼を助けたいというのは、つまり己を救いたいという欺瞞なのだ。


(私には何もないのに……)


 現にクロエはルイスに掛けるべき言葉も見付からない。

 結局は上部だけの優しさだったから――醜い本心を、友情という体の良い言葉で隠していたからではないか。そう考えると、この得体の知れない痛みも何もかもが辻褄が合うような気がして、クロエは絶望感に凍えた。

 ルイスの背に何も言葉を掛けられないクロエはしゃがみこむ。床に散乱している書類を掻き集め、そして動きを止めた。


「え…………」


 飛び込んでくる文字に、胸が凍る。

 目を逸らすことができない。綴られている内容は嫌でも頭の中に流れ込んできた。

 書類を手に戦慄(わなな)くクロエの背に掠れた声が掛けられる。


「どう思う?」

「どう……って……これ……」

「オレの産みの父親と母親のことだよ」

「そ、そんなの見れば分かります!」


 書類にあった名前はクロエが知らないものではなかった。

 背後で立ち上がる気配があった。クロエは動けない。


「オレは産みの親を知っても平気だと思っていた。親はあの人たちだけだと決めていたから、どんな反吐が出るような奴が実親でも……」


 実親がろくでもない人間であればあるほどに養親への感謝は深まっただろう。

 どのような人物が産みの親でも素晴らしい育ての親がいる限り、誇り高く在ることができた。ルイスのその覚悟を崩したのは、調査書に書かれている内容だ。

 双子の母親は十二歳の時に複数の男から暴行を受けて身籠り、十三歳で男子を出産したとあった。

 その女性の名は、エレン・ルイーズ・アップルガース。

 そう、双子を施設から引き取ったクラインシュミット家の侯爵夫人だった。


「どうなんだ?」


 クロエの手から書類を奪ったルイスは、石ころでも眺めるような乾いた目で【事実】を見つめて問う。


「……やめて……」

「オレは分からないから、教えて欲しい。女性からするとどんな感じだ?」

「お願い、やめて……」

「知りたいんだ。好きでもない奴に襲われて、望みもしない子供を孕まされて、その子供を産んで育てることがどんな生き地獄だったのか――」

「ルイスくん……ルイスくん!」


 堰を切ったような勢いを危うく感じたクロエは手を伸ばす。肩に触れて宥めようとした。

 だが、指先が触れる直前で振り払われた。


「触るな!」

「……っ」


 痺れるほどに強い力で弾かれ、クロエは悲鳴を上げる。

 手を押さえるクロエを見たルイスの表情が数瞬、歪む。

 打たれた手の甲には傷があった。

 冬の日、破片が突き刺さったことによって負った手の傷は残ってしまった。

 ルイスは責任を感じているようで、それを見ると苦しい顔をする。クロエは袖の長い服を着ることで傷を隠すようにしていた。


「ろくでもない男の血が流れているんだ。他人に優しくできないのも当然か……」

「……自分を、卑下しないで下さい」


 吐き出される言葉は彼自身を傷付けるものばかり。

 クロエはルイスの上衣を掴む。正気に戻って欲しくて揺さぶる。

 けれど、正気でいることなど分かっていた。彼は正気だから傷付いていた。

 塞がらない傷口から血が流れ続けている。

 身体の傷はいつかは癒える。心の傷はいつまでも癒えない。

 時が経てば痛みが風化していくこともあるが、一層強まる痛みというものもある。彼が抱えている傷はそういうもの。彼が彼である限り、永遠に残り続ける。

 されるがまま揺さぶられる彼の耳許で青い石が涙のように光った。


「どうやって詫びたら良い……?」

「ルイスくん!」

「あの人にも、キミにも……罪人が、どうやって…………」


 ルイスは答えを求めてはいなかった。

 死にたくて仕様がない、と硝子玉のような目が言う。

 ルイスはじっと身動きをせずに身体を強張らせ、冷たくなっていた。雪よりも冷たくて、氷の塊になってしまいそうな冷たさだった。


「――――」


 何かを言おうとして、クロエは唇を空回りさせる。

 母親が売春をしていてその結果に自分が生まれたのだと知った時、クロエは目の前が真っ暗になった。

 父親の知れない子供という意味でクロエとルイスは同じ立場だ。

 だが、それとは違うのだ。

 クロエの母親は自業自得で罪を受胎した。ルイスの母親は他人の罪によって絶望を孕んだ。

 同じ場所に堕ちてもいない者が何かを言う資格はない。いや、そんな資格は関係ない。クロエは慰めの言葉が何も出てこなかった。






 窓辺から射す月光のように青白い顔をして眠るその頬に手を添える。

 頬に掛かる髪を退け、幼子をあやすように撫でてやる。深く閉ざされた瞼も、重たげな睫毛も動かない。

 眠ったというよりは意識が落ちたという方が正しいだろう。

 眠るルイスの傍らに座り込んだクロエは、あれからずっとこの場を動けずにいた。


(どんな気持ちかだなんて……)


 子供が女として生まれていればまだ救われたかもしれない。

 乱暴された女の辛さも、腹の子を殺せない母親としての気持ちも、身近なものとして理解できる。本人の痛みを完全に推し量ることはできなくとも、同性なら共感することはできるはずだ。

 けれど、男は分からない。

 優しい彼はそれでも母親の心を理解しようとするだろうが、それは己を責める方向の理解だ。自分が産まれてこなければ良かった、という。


「知っていたの?」


 髪を撫でながらクロエはひとり問う。

 ファウストから調査書を受け取ったルイスの様子を見る限り、想定はしていたのかもしれない。

 エレン・ルイーズが自分の産みの親ではないかと、そのことは予想できていた。だからこそ彼は、子供を作る行為自体は否定しないと言ったように感じる。

 愛の延長線にあるまぐわいは構わない。そして、不注意で子供ができてしまったのなら堕胎すれば良い、と。

 だが、父親のことは想定外だっただろう。愛し合った相手なら未だしも、誰とも知れない男たちに弄ばれたなんて想像できるはずがない。

 神様がもしいるなら、どうして彼ばかりにこんな辛いことを押し付けるのだろう。

 残酷な神は乗り越えられない試練も与えると昔誰かが言っていたが、これではあんまりだ。

 羽根を一枚ずつもがれていくように少しずつ弱っていく。

 ルイスを取り囲む世界はまるで茨棘のようで、心を凍り付かせなければ生きていけない。

 そっと手を引いたクロエは、ベッドサイドのテーブルに投げ出されていた写真を拾う。

 映っているのは、薔薇のコサージュが襟元についたドレスを纏っている年若い女性の横顔だ。

 視線の先に何があるのか、写真の中のエレン・ルイーズはやわらかく微笑んでいる。その穏やかな微笑みは、木陰に射し込む光を思わせた。

 性差はあれど、ルイスの面立ちは母親である彼女と似ている。意思の強そうな瞳を伏しがちにしている辺りがとてもそっくりだ。

 きっと彼が笑んだらこんな風なのだろう。

 ずっと見たいと思っている、笑顔。

 こんな形で見たくなかった。

 胸が痛い。風に散る雪片のようにばらばらになってしまいそうだ。

 身体の震えが止まらず、胸は痛いほどに騒いでいる。そして、その痛みは悲しみの為だけではない。

 自分でも説明のしようがない怒りや哀しみが込み上げてきて、クロエはきつく目を閉じた。


(この人のこと、知ってる)


 クロエは彼女に見覚えがあった。

 他人に関心がなかったあの頃、それでも記憶に残った花のような女性。

 施設の礼拝堂で一度か二度、口を利いたことがある。話した内容は殆ど覚えていない。ただ、見た目に反して過激な物言いをする人物だったような気がする。


『例え他の人は大丈夫でも、平気ではない人は必ずいるもの……』


 クロエは泣き疲れて眠る弟妹を抱き締めて眠ったことがある。

 甘やかしてはいけないと教師には怒られたけれど、辛い時は瞳を閉じて眠ってしまうのが一番だと感じたから、朝がくるまで寄り添っていた。そうして兄妹で傷を重ね合わせて、満たされたような気になっていた。

 実際は何も救われなかった。クロエは今も昔もひたすらに空虚だ。

 他人を抱き締めるこの腕の無意味さに気付いてしまったから、クロエはルイスに触れられない。申し訳程度に頭を撫でてやることしかできない。

 カーテンの隙間から光が射す。雲間から現れた月は大きく明るく輝いていた。

 その月をクロエは長い長い夜の中、眺めていた――――。

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