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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
六章
131/208

ばらのはな、さきてはちりぬ 【3】

 この頃は夕方に買い物へ出掛ける。

 それは昼の暑さを避ける意味もあるが、日暮れのテーシェルはとても美しいのだ。

 鬱蒼と茂る草木が黄昏の薄闇に染まる頃、町は赤く映える。

 夜の深い青や紫と、昼の鮮やかな朱や橙や黄を少しずつ重ねてぼかしたような空の色。滲む空の向こうへ沈む太陽は赤く燃えて、照り返しを受けた雲は金色に輝いている。穏やかな水面はそれ等を合わせ鏡のように映す。テーシェル湖沿いの道は、思わず足を止めたくなるような景色が広がっている。

 美しい町並みを見られる湖沿いをゆっくり歩いて市場に向かうのが、クロエのささやかな楽しみだ。


何にしま(ク・デズィレ・)しょうか(ヴ・マドモワゼル)?」

「桃を三つと、さっき味見させてもらったものを二百グラム下さい」

「レーヌ・クロード二百グラムですね。他には?」

「それでお願いします」


 【ロートレック】に於ける市場とは、道端で開かれる青空市場(マルシェ・ウヴェール)と、屋内の常設市場(マルシェ・クヴェール)の二種類があり、クロエが訪れたのは前者だ。

 週三回開かれる青空市場は正午から午後五時まで開かれている。

 【ベルティエ】育ちで市場で買い物をすることに最初は戸惑ったクロエも今は楽しいと感じている。

 沢山の人々に、売り手の掛け声、フルーツの甘い香り。

 活気に溢れた市場は見ているだけでわくわくする。家の近くに屋根付きの商店街パサージュ・クヴェールもあるが、青空市場が開かれている日はそちらまで出掛けることが多かった。

 楽しい市場での買い物。その楽しさでついつい無駄遣いをしてしまうのが問題だ。今日も予定になかったレーヌ・クロードという果物を買ってしまった。


(美味しかったし)


 初めて口にしたレーヌ・クロードは爽やかな酸味と濃厚な味わいが美味だった。

 二百グラム購入したので半分はジャムに加工し、もう半分を生食にする予定だ。

 青果の売られている区画を過ぎると、惣菜店から甘酸っぱい香りが漂ってきた。興味を引かれて店を見てみると、牛肉のワイン煮だ。

 夕暮れ時というのは空腹を覚える頃だ。誘惑に負けて惣菜を買っていく主婦や、仕事帰りの男がいる。一人暮らしをしていた時の癖でクロエもつい誘惑されてしまう。


(美味しそうだけど、ちゃんと作らないと)


 夏場は惣菜や生物を買うのは控えた方が良い――暑さで傷んでいないとも限らない――とエルフェからアドバイスを受けたので、美味しそうな香りを楽しむだけにする。

 乳製品屋で羊乳のチーズを一塊購入したクロエは、それを買い物かごに入れると市場を後にした。

 ゆるやかな坂を下っていくと、湖沿いに出る。

 湖面を吹き抜ける涼しい風がクロエの髪を巻き上げた。

 この土地に越してきてひと月。クロエはテーシェルという町が気に入っている。

 【ロートレック】というと貴族が暮らす洗練された場所というイメージが強いが、爵位を持たない富裕層(プチブル)も多く、郊外へ出れば穏やかな時間が流れている。

 ここは綺麗なものだけに満たされているようだ。

 そんなことはないのだと心の底では分かっている。世界(ここ)には怖いことも、汚いものもある。

 だけど、澄みきった広い空も、家の明かり以上に眩しい星の光も、町中に飾られた花の美しさも、心を癒してくれる。日々頑張る力を貰っているようだとクロエは感じていた。


(あれ、誰かいる)


 湖畔の散歩を楽しみながらマルシェ広場まで帰ってくると、喫茶店の入口に人影があるのを発見した。

 この時間は普段でも店仕舞いをしている。何より、今日から暫く店は休業だ。

 その旨を伝えようと急ぎ足で向かったクロエは、ぎくりとする。


「こんにちは。ふた月ぶりですね」

「こ、こんにちは、先生」


 名を呼ばなかったのには理由がある。ファウストはヴァレンタインの従者の格好をしていたのだ。

 黒髪にダークスーツという出で立ちは従者に扮している時の姿だ。ただ、変装としての眼鏡をしていない辺り、いつもより杜撰な印象がある。何だかんだで物臭なところがあるエルフェの兄らしい、いい加減さだ。


「ルイスくんならさっき貸本屋さんキャビネ・ド・レクチュールに出掛けましたよ」

「はあ……、夕方は家にいると言っていたのですけどねえ。私のようないたいけな従者をこの炎天下の中、放置するなんて困った御方です」

「た、たまたま忘れていただけですよ。……多分」


 ルイスはファウストに対しては遠慮がないところがある。

 兄のレヴェリーと過ごした時間よりも、従者のファウストが傍にいた時間の方が長いのだ。きっと扱いの酷さは親愛の裏返しのようなものだとクロエは良い方向に解釈する。


「家に上がって下さい。冷たいお茶淹れますから」


 遠路遥々訪ねてきた客を放置して干からびさせる訳にはいかない。クロエはファウストを玄関に案内した。






「今日の貴女は一段と綺麗ですね」


 猫被りという擬態を特技とするファウストは世辞が上手い。クロエも真に受けたりはせず、軽く受け流す。


「煽てても何も出ませんよ」

「称賛を素直に受け止められない人は心が歪んでいると言いますね」

「ゆが……っ」

「というのは勿論冗談ですが、別に世辞という訳ではありませんよ。貴女は雰囲気が変わりましたから」


 ファウストの言うように、この二ヶ月でクロエは見違えるほどに成長した。

 十代半ばで停滞していた容姿は二十歳と言っても通用するほどに大人びたものになり、手足も伸びた。

 外見が実年齢より幼いのは外法の血の関係もあるだろうが、心が身体の成長を止めていたのかもしれないとファウストは評する。


「そんなに美人になったら男が放っておかないでしょう?」

「そんなことありませんよ。それに……これ以上はあんまり変わりたくないです」


 十九年の人生しか経験していないクロエには十年という欠落がある。それは短いようで長い時間だ。

 クロエはまだ子供の気分が抜け切れていないのに、周りは二十九歳の大人として見てくる。十代ならばまだ子供だからと容赦されることも、二十代ではそうもいかない。クロエのこれまでの無関心からくる世間知らずさは致命的だった。

 ただでさえ戸惑うことも多いのに、外見まで変わってしまったらどうして良いか分からなくなる。

 それに、レヴェリーやルイスと友人でいられなくなってしまいそうで怖い。

 性別が違うから親友になることはできないと、ただでさえ言われているのだ。少しだけ泣きたくなって、クロエは慌てて首を振った。

 暗くなってはいけない。自分に幻滅しないように――今までの自分をぎゃふんと言わせられるように、前向きに生きるのだと誓ったのだ。

 気持ちを切り替えたクロエは、作ったばかりのアイスレモンティーを出しながら訊ねた。


「どうして変装されているんです?」


 普段通りの格好でくれば良いのにファウストは何故変装をしてきたのだろう。

 他人を飾り付ける趣味だけでなく、己を飾り付ける趣味もあるのだろうかとクロエは疑ってしまう。

 だが、幸いなことに答えは違っていた。


「ヴァレンタインの別宅に用事があったのですよ」

「そういえば、この近くに別荘があるんでしたっけ」

「ええ、使えるように掃除の手配をしなければなりませんからね」


 身体の弱いルイスとエリーゼは夏の間、都会の空気の悪さを避けて郊外の別宅で過ごしているという。その別宅の一つがテーシェルにもあり、ファウストは様子を見にきたのだと語った。


従者(ヴァレット)のお仕事ってそんなことまでするんですね」

「一般的には主人の補佐ですよ。でも、あの方は気持ち悪いと言って私を傍に置いてくれませんから」

「それは……ご愁傷様です」

「お気遣い痛み入ります」


 邪険に扱われることを気の毒に思う反面、当たり前だとクロエは感じる。

 行動を観察して心理分析をされていたら怖くて仕様がない。こうしてたまに会うのでさえ緊張するのだから、主人としてファウストを傍に置くルイスの心は色々な意味で疲れるだろう。


(悪い人じゃないんだけど……)


 ファウストはエルフェの兄だ。悪人でも不審者でもない。

 そのはずなのにどうしてこれほど苦手になってしまったのだろう。クロエはこの人物が怖くて仕様がない。

 そうしてクロエが真っ青になっていると、ファウストは喉を鳴らすように笑った。


「嫌われましたかね」

「ご自分の胸に手を当てて訊いて下さい……」

「心当たりがない訳ではないのですが、そこまで酷いことをしたという認識はありませんでした。一応、謝罪しましょうか? 何なら土下座して差し上げますよ」

「結構です」


 一応などという謝罪をされても不信感が増すばかりだ。

 慇懃無礼というよりは人を食っているとしか思えない態度に、クロエは眉を寄せた。


「先生はあの人の味方ですよね……?」

「貴女よりは親身な味方だと思いますよ」

「だったら、どうしてああいうこと言ったんですか?」

「ああいうこと、とは」

「公園で話したことです」


 美しい花の下にある醜いものを見たくないのなら近付くなと、近付くのであればいっそ彼の手足を潰して中身を抉り出してみようかと。

 クロエがファウストへ抱く不信感の最も大きな原因となったのは心を暴かれたことではなく、あの発言だ。


「貴女の身の安全の為ですよ。私は子供たちが傷付く姿を見たくないのです」

「先生のその言葉は私の為に言っている訳ではないような気がします」

「はあ……、中々敏い。侮っていると怖いな」


 ファウストはクロエの青い瞳をうるさいと言いたげに視線を逸らす。それからゆっくりと机の上に肘をついて、手を組んだ。


「正確には貴女の言う【あの人】が、でしょうか……。感情豊かになるのは良いことです。しかし人間らしくなればなるほどに傷付く。ならばいっそ人形のままでいた方が幸福ではないかと最近考えたのです」


 クロエもファウストが言いたいことは分かる。

 ルイスの目的は両親の敵を殺すことだ。だが、己の望みの為に他人を傷付けることを彼は許せない。

 ルイスは諦観で心を麻痺させることによって自分を護ってきた。痛みを感じる心を封殺することで【普通】に振る舞うことができている。彼の考えを否定することは、酷寒の地で裸になれと言うようなものだ。


「中途半端はろくなことにならない」

「中途半端の何がいけないんです?」

「それはあの方の嫌う弱さですから、刈り取らねばなりません」


 望むままに生きたいと思う心が他者を傷付け、他者を傷付けたくないと思う心が自身を責める。そういう割り切れないものが人間の心というものだし、ルイスという人間だ。

 クロエが尊いと――愛しいと感じるルイスの人間性を、ファウストは肯定しながら否定していた。


「私も若くないのです。死ぬ前にやれることはしてやりたいのですよ」

「他にできること、あるんじゃないですか」

「憎悪を取り上げたら他に何が残りますか? あれは一つの欲です。欲とは即ち願い、生きる意味。それをなくしたら行き着く先は自己の破壊です。――――下手に触れば死にますよ」


(でも……あの人は……)


 先にあるものが自己破壊だというなら、それは復讐という目的を果たしても同じではないのだろうか。

 復讐は最終的に彼自身を裁くだろう。

 そんなことは嫌だと心が悲鳴を上げる。

 ルイスがあのような絶望的な考えを持っているのは嫌だが、死んでしまうのはもっと嫌だ。我が儘だと思うけれどクロエはもう彼に傷付いて欲しくないのだ。


「そうだとしても、私は正しいとは思えません。先生もあの人も間違っています」

「では、貴女に何か生きる意味はありますか?」

「え……」

「自分の生を正当化し、他者を納得させられるような過去または未来の展望はありますか?」


 小難しい言い回しをしたファウストは、まるで考える時間を与えるというように首を傾げてみせた。


(生きる、意味?)


 つまり存在価値を示せということだろうか。この世界に存在するに値する人間であるのかを、過去か未来かで証明しろというのか。

 何かを成し遂げた訳でもなく、これから成し遂げようということもない。昔も今もクロエの中にあるのは、林檎の木を植えた家に住むという夢だけだ。

 家族と暮らすというのはきっと当たり前のことで、夢ということすらできないだろう。

 非凡なクロエだからこそ持ってしまうような、取るに足りない夢。

 クロエには他人を納得させられるような高尚な目的などなかった。


「蝶のようにひらひら舞いながら、平穏を享受しているだけの貴女にあの方に何か言う資格はありませんよ。もし何かしたいのであれば、同じ場所まで堕ちないと」

「じゃあ、蜘蛛の巣に掛かれば良いんですか」


 様々な花の蜜を吸うことが駄目なのなら、単花の蜜を吸うしかない。もしくは蜘蛛の糸に捕らえられて餌食になるかだ。

 クロエが意地で言葉を返すと、ファウストは大仰に溜め息をついた。


「ですから、そうならないで下さいと私は申し上げているのです」

「それは……部外者だから口を挟むなということですよね……」

「いいえ、貴女は関係者ですよ。だからこそ大人しくして貰いたいのです」


 関係者というその響きは得体の知れないものを内包しているようだ。

 クロエは瞬きすらも封じられて、その場に縫い止められる。


「あの喪服は心の傷が今も尚、深く残っている証。私は【あの方】の泣く姿をもう見たくない。どうか邪魔をしないで頂きたい。……貴女の幸福の為にも」


 喪服というものは、喪に服しているということを他人に示すものだ。だから、死者を想う心を持っていればそのような格好をし続けなくても良いのだ。

 彼がそれを知らないはずがない。だとすれば、あの喪服は誰の為のものなのだろう。

 知りたくないとクロエは理解を拒絶する。

 ファウストは穏やかに微笑み、まるで今までのことはなかったように和やかに語った。


「この話は仕舞いにしましょう。折角可愛い姪と二人きりなのですから、楽しい話をしたいものです」


 クロエは夕飯の支度をしたい。

 身も蓋もない言い方をすれば、この場から離れたい。今日はもうファウストと関わりたくない。


「そんなに怖がらなくても取って食いやしませんよ?」

「あ、当たり前です!」

「貴女が構わないのでしたら味見くらいはさせて頂きますけど」


 腕を掴まれ、クロエは身を硬直させる。胸に抱えていたトレイが床に落ちた。

 その落下音にクロエ自身が驚いて、腕を振り払う。


「――っと。突然暴れないで下さいよ。女の子は大人しい方が可愛いですよ」


 ファウストは暴れるクロエの手を易々と掴んで捕まえた。両手を拘束されるという絶体絶命の状況だ。

 しかし、クロエの心は覚悟で固まっていた。


「可愛くなくて結構です!」


 これは、いびりだ。

 今のファウストは父親のようなもので、手塩に掛けて育ててきた息子に手を出されるのが嫌なのだ。

 気持ちは分からないでもない。クロエが母親でも息子が得体の知れない相手と関わっていたら心配に思う。だが、その相手を排するのは行きすぎた愛情だ。

 勿論、道を間違えそうになったら正すけれど、安全な籠に囲うことだけが愛情ではないはずだ。


(そっちがその気ならこっちにも考えがあるんだから……!)


 クロエがそうして闘志を燃やしていると、がちゃりと音を立ててリビングのドアが開いた。


「あ……お、お帰りなさい……」


 貸本屋で借りてきた本を片腕に抱えたルイスは、クロエとファウストを素っ気なく一瞥する。

 もっと早く帰ってきて欲しかったとクロエは嘆く。待ちわびた主人の出現にファウストの声は途端に機嫌良さげなものに変わった。


「いけませんねえ。こういう時は【お帰りなさいませ、ご主人様。御風呂になさいますか、御夕食になさいますか。それとも私?】という感じで出迎えるのが理想の女使用人というものです」


 よくもこのタイミングでふざけたことが言えるものだ。

 場を和ませる為の冗談かもしれないが、空気は見事に凍り付いた。

 嘆息して本を置いたルイスは、ファウストの腕を捻り上げる形でクロエを逃がした。


「何やっているんです。怖がってるじゃないですか」

「い……っ……痛いの、ですが……」

「質問の回答以外のことを喋らないで下さい。彼女に何をした?」

「……失礼ですね。私はまだ何もしていませんよ」

「つまり、これから何か仕出かすつもりだったということか」

「可愛い女の子を前にしたら口説きたくなるのが男の本能です。女性を見たら取り敢えず褒めて煽てて惑わせろと言うでしょう」

「偽りじゃないか」

「社交辞令とはそういうものです。下手な鉄砲も数撃てば当たると言いますし」


 軽口を叩いた瞬間、ルイスは表情を変えないまま腕を更に捻った。


「申し訳御座いません。どうかお許し下さい」


 珍しく慌てた顔をするファウストの腕を解放したルイスは、クロエを背に庇ったまま一歩下がる。

 クロエは無意識の内にルイスの上着を掴んでしまう。


「どうしてそう警戒するのですかね……。私ほど紳士的な男はいませんよ?」

「この世界で性犯罪を犯す者の三大職は医者、教師、聖職者だと聞いたことがあります。貴方は全て満たしている。警戒せずにいろというのが無理な話です」

「うわあ、酷いですねえ。そんな疑いを掛けられたら、いたいけな私は泣いてしまいますよ」

「では言動を改めて下さい」


 捻られた腕を擦り続けるファウストをクロエは心配するが、ルイスは全く意に介さず肩越しに振り返る。

 振り向き様に耳許で青いピアスが揺れた。


「それで、これは何しにここへ?」


 ぴたりと背に張り付いていたことから、至近距離で向き合うことになる。

 言葉も瞬きも忘れて、呆然とした。

 夜空をそのまま閉じ込めたような瞳があって、その宝石に自分の顔が映り込んでいることに得も言われぬ気分になる。

 けれど、意識はすぐに冴えた。

 クロエは知らず知らず掴んでいた上着から手を離し、慌てて距離を取る。


「あ……え……ええと……別宅のお掃除と言っていましたけど、ここへきたということは貴方にも用があるんじゃないですか?」


 そう、と短く応えたルイスは客人に向き直った。

 早鐘を打つ胸が、痛い。

 動揺しすぎだ。これでは今以上に変に思われてしまう。

 今の今までクロエはルイスのことでファウストに食い掛かっていたのだ。タイミング良く本人が帰ってきたことで争いは止まりはしたが、胸の中で(くすぶ)っているものはまだ静まっていない。きっと、まともに顔を見られないのは気まずいからだ。


(私は私のことばっかりだから……)


 クロエには悪いことをしているという背徳感めいた感情がある。

 別世界の人間だときっぱり言われてしまったのに、無理にでも彼に関わろうとするのはエゴだ。自分の善意を押し付けているという意味で、クロエはファウストを批難できない立場だった。

 胸がひりひりと痛んで苦しい。

 クロエは床に落ちたままのトレイを拾い、いつの間にかに空になっていたグラスを回収する。

 二人の会話の一部は自然と耳に入った。


「もしも、この中にあることがオレの想像通りだとしたら、貴方は何処まで知っていたんですか?」


 ファウストから分厚い書類封筒を受け取ったルイスは聞き取り辛いほどに低く押し殺した声で問う。


「貴方がどのような想像をしていたのか分からないので答えようがありません」

「……話す気はないんですね」

「詳しい話は旦那様を交えてにしましょう、ルイシス様」


 言い訳くらいはしますよ、と慇懃無礼に告げたファウストは徐に立ち上がった。


「そろそろ悪者は退散することにします。お姫様を怖がらせてばかりだと懲らしめられそうですから」


 ファウストはルイスの詮索を断つように従者として頭を垂れた。そしてそのまま廊下へ出る。

 クロエは洗おうとしていた食器を置き、その背を追う。


「見送りは結構です」


 エプロンを外して見送りに出ようとするとファウストは片手で制した。

 やはり、いけ好かない小娘だと思われているのだろうか。クロエは恐る恐る見上げる。

 見上げた先でファウストは悩める者を導く聖職者のような穏やかな顔をしていた。その清涼感と包容力のある笑みに、クロエは却って肝が冷えた。


「まだ会ったばかりの頃でしたか、存在意義(レゾンデートル)を見付けたいのなら恋をしてみたらどうかと言いましたね」

「……はい。それがどうかしましたか?」


 そういえば、そんなこともあったとクロエは思い返す。

 存在理由が分からずに不安定でいた者が他人に与えることで落ち着く場合があるのだという。

 娘が不安な面持ちで見上げる先で、聖職者であり従者であり自称医者でもある人物は微笑み、あたたかみのある声のままで言った。


「他にもっとまともな男がいるでしょう。平穏に過ごしたいのなら賢く生きましょうよ」

「な…………」

「色々言ってしまいましたが、未来ある子供に幸せになって欲しいというのは本心です。貴女のお母様が一日も早く目覚めることを祈っていますよ」


 言いながら、ぽんぽんと頭を撫でられた。完全に子供扱いだ。

 凍り付いたクロエの耳を言葉は通り抜けていき、ファウストはそのまま玄関を出た。

 夕方の冷たい風が吹き込んでくる。扉が閉じられると共に風は止んだ。

 残されたクロエは信じられない気持ちで扉を凝視する。


「なに……それ……」


 他にまともな男がいるとは何だ。それではまるでクロエがルイスのことを好いているようではないか。

 好きか嫌いかと問われれば好きだ。だが変な意味の好きではなく、友達として好きなのだ。

 レヴェリーもエルフェも好きだ。ヴィンセントとも仲良くなれたら良いと思っている。皆のことが好きだ。ルイスのことだって……とそこまで考えて、クロエは俯く。

 自分が皆に向けている好意と、彼に向けている好意は同じものなのだろうか。

 他人に言われなければ考えもしなかったことだ。当然答えも分かるはずがない。


(だって……友達だもの……)


 友達だから傍にいたいと思うし、助けにもなりたい。他人から友達のことを悪く言われたら嫌な気持ちになる。それは当たり前の感情のはずだ。

 全うな愛情を受けて育っていないクロエはたまに世間と自分の考えの違いに混乱することがある。これもそういうものなのだろうか。考えども答えはまるで得られない。

 けれど、友達だからという理由を差し引いても誰かの傍にいたいと思ったのは初めてだった。

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