お菓子の家の甘い罠 【3】
十二月も中旬に入るという頃、クロエは乾いた咳をしていた。
鼻が詰まっていて食べ物の味が良く分からないし喉も痛い。身体の節々が強張り、何より寒気が酷い。風邪を引いてしまったのかもしれない。そういえば少し前から寒気や関節痛があったし、料理の味付けも上手くいかなかった。
皆に感染したり、迷惑を掛ける訳にはいかない。きっとそんなことになったらクロエは売り飛ばされるだろう。
風邪のことを気取られたくなくてクロエは今日も外で時間を潰していた。
(早く治さないと……)
この北風が熱も持っていってくれれば良いのに。
そんなことを考えながら夕焼け空を見上げていると、最近馴染みとなった声が横から掛けられた。
「またいた」
「またいて済みません。退けますね」
「別に責めた訳じゃない」
退けなくて良いと言ったのはアッシュブロンドの髪を持つ少年だ。
羨ましくなるほどに長い睫毛に、完璧な人形のように整った容貌のルイス。彼はワイシャツにネクタイ、紺のパンツに同色のチェスターフィールドコートを合わせるという何処かの商社マンのような格好をしているが、習い事帰りである。
貴族なら家庭教師を付けるのが一般的だが、ルイスはわざわざ下町に降りて学んでいた。
良く言えば気さくで気取らない、悪く言えば貴族としての自覚が足りない彼はクロエの隣に座る。
「キミはどうしてこんな所にいるんだ」
「寄り道です」
「こんな寒い中で寄り道か。変わった趣味があるようだね」
「帰りたくない気分の時もあるんです」
「昨日も一昨日もその前もいたけど」
「そういう気分なんです」
「……じゃあ、オレと同じか」
同年代の気安さと風邪のだるさも手伝ってクロエは突っけんどんに返した。流石にルイスも眉を寄せるかに思われたが、彼はそう零すだけだった。
クロエには風邪を移したくないという理由がある。では、貴族のルイスにはどんな理由があるというのか。
「ヴァレンタインさんには立派なお家がありますよね? お父様やお母様も待っているのではありませんか?」
「立派過ぎて息が詰まる。それに誰も待っていない」
望郷感を掻き立てる夕焼けの景色を拒むようにルイスは目を伏せた。
その様は雨の中でうなだれた子猫のようで、人の庇護欲やら母性本能やらを擽る。施設では年長者が小さい子供たちの親のような役割をするので、こういった見るからに弟妹タイプの人間にはとことん構ってしまうクロエなのだ。
一緒に子犬の飼い主を探した程度で友情が芽生えると思わなければ、懐かれたとも思わないけれど、ルイスはそこそこクロエに気を許している。クロエもルイスをあまり遠ざけようとは思わない。
「キミも気とか遣わなくて良いよ。オレのような下賤育ちには不要だ」
「自分を卑下しないで下さい。私だってろくな人間じゃないんです」
クロエがルイスと共にいて落ち着くと感じるのはきっと同族だからだ。
二人は物事に対する姿勢が同じだ。常に一歩下がり、そんな自分に自信がないところが同じなのだ。
前髪を長く伸ばして視線を下げて、自分のことよりも他人のことを優先に考えて、貧乏クジばかり引いて、日陰にいて、でもそれで良いとか自分には妥当だとか思ってしまったりして。要約すれば【幸福】が怖い。
クロエは施設育ちをしたような自分が幸せになれるとは思っていない。継母と上手くやれなかったような悪い子が幸せになってはいけないと思っている。
だからこそ、せめてもと平凡を望んでいた。
辛い過去は心の奥底に沈めて、誰にも話さず、頼らず、ただ静かに平凡に生きられれば良い。
施設育ちというだけで不足した人間のように扱われ、愛情を知らないように言われ、不幸だと同情される。クロエが【アルカンジュ】の性を名乗らないのは、変に哀れまれたり同情されると心の中の棘が一斉に尖るから。言ってしまえば、腹が立つのだ。
そんな風に卑屈になる自分をクロエは恥じ、変わらなければいけないと思っている。
けれど、現実はそれほど優しくない。
変わったとしてもクロエにまともな人生はない。もう夢も希望もないのだ。
「私なんか……生きながら死んでいるようなものです……」
こうなる以前から継母に人形のようだと言われていた。
病の所為で気が弱くなっているからなのか、普段以上に色々考えてしまう。クロエは咳き込んだ。
「キミ、もしかして風邪を引いているのか?」
「風邪気味なだけですから、どうぞお構いなく」
「お構いなくって、そんな咳をして何が? キミは莫迦か? 大体、他の奴等は何を考えているんだ……」
虜囚も同然か、とルイスは苦々しく吐き捨て、いつか見た憎しみに揺れる暗い目をした。
レヴェリーを批難し、ヴィンセントへ向けた憎しみで磨かれた紫水晶。それを間近で見てクロエの中での予想が確実なものになる。ルイスはレヴェリーを恨んでいる訳ではない。ヴィンセントを憎んでいる。
これほどの目をする何があったというのか。そう問おうとしても喉が掠れて声にならない。
「知っている医者がいるから診て貰おう」
「平、気……です」
「【平気】でも【大丈夫】じゃないだろ」
そうだ、昔から【大丈夫】なことなんてなかった。
ただ耐えられるから【平気】なだけで、そう言って本当に【大丈夫】だったことはあまりない。
けれど、大丈夫かと訊かれて大丈夫ではないと答えられる人がいるのだろうか。クロエは自分が痩せ我慢をしているとは思わない。
そうこう考えている内に本格的に気分が悪くなってきて、クロエはどろりと重い瞼を下ろした。
屋敷の中庭では季節の花が色とりどりに咲く。
今美しいのは冬薔薇、ビオラ、ローズ、スノードロップだ。中でも冬のガーデンに欠かせないビオラは様々なサイズと色合いのものが揃えられていた。
貴族の屋敷に相応しい華やかな庭。その傍らに建つティーサロンでオイルランプの薄明かりが揺れている。
「嗚呼、三十七度も熱がある。無理をするからこうなるのですよ」
「……オレのことはどうでも良いです。彼女のことを診てやって下さい」
ゆったりとした耳当たりの良い男の声と、何処か神経質そうな雰囲気のある少年の細い声。対照的な声色の二人が何かを話している。
「とは言いましても、手の施し様がないんですよ」
「貴方は噂通り藪医者ですか」
「いや、君ね。涼しい顔して毒吐かないの。こちらも傷付きますよ?」
抜き刃のような鋭利さを持つ声で少年は言う。男は眉を顰め、それから大きく息を吐いた。
「一応、私の名誉の為に言っておきますが、彼女は本当にただの風邪です。暖かくして滋養のあるものを食べれば治りますよ」
「本当に今流行ってるやつじゃないんですか?」
「そうですよ」
「済みません。てっきり先生があの金髪が言うように藪医者かと思いました」
「私の前であの陰険男の名を出さないでくれますかね、ルイス殿」
聞き覚えのある名が二つばかり聞こえたような気がする。
目覚めたばかりの頭は覚醒しきらず、深く考えることはできない。何よりシューリス語での会話だったので正確に聞き取ることは不可能だった。クロエはぼんやりと耳を傾ける。
「それにしても、陽が沈んでから女性を連れ込むなんて、幾ら旦那様がいないからとはいえ羽目を外し過ぎではありませんか?」
「滅多なことを言わないで貰えますか」
「滅多なことをしているのはそちらではありませんか」
「だったら先生は病人を捨て置けというのですか」
「もう少しお考え下さい。御身とこの家の為にも」
穏やかだけれど厳しさの滲んだ声。対する者の息を呑む気配が感じられる。
「……分かりました。以後気を付けます」
「今日はもうお休み下さい。あとは私が引き受けますので」
それからさして間を置かずに固い足音とドアの開閉音が静寂の中に響いた。
どうやら彼は行ったらしい。漸く目が覚めてきたクロエは身を起こした。
オイルランプの明かりで照らされた室内は薄暗く、ここがどういった場所なのか読み取ることはできない。分かるのは自分が天蓋付きのベッドに寝かされていて、身体が物凄くだるいということ。
クロエはベッドから這い出すと声を掛けた。
「あの、済みません」
「ああ、起きていましたか。気分は如何ですか?」
枕辺にやってきた男はそう言い、ゆっくりと瞬く。淡い草色の瞳がクロエを見た。
「失礼ですが、貴方は?」
気分はあまり良くなかったので答えず、まずは疑問を解決することを優先するクロエ。
「初めまして、私は医者です」
「……初めまして」
クロエは礼儀として最低限の挨拶をし、医者と名乗った人物をじっと見た。
太陽の下に在ったとしても透けそうにない見事な黒髪に、銀縁の眼鏡を掛けた彼は二十代後半ほどか。特別な華や険はなく、温厚で親しみ易い顔立ちだ。声の高さから男性だとは分かるが、撫で肩なのでそれほど男臭さもない。医者に適した柔らかさを持つ人物だとクロエは感じた。
「点滴と言いたいところですが生憎ないので注射をしましょう。すぐ良くなりますよ」
「私、お金持っていません」
クロエが医者に診てもらわなかった理由の一つとして金の問題があった。
「金ならもうヴァレンタイン小侯爵から頂いてますよ」
ヴァレンタイン小侯爵というのはヴァレンタイン侯爵の息子――ルイス。
彼にそんな世話になる訳にはいかない。クロエは困ると言おうとした。
「好意は頂いておきましょうよ」
「いえ、あの……でも困ります」
クロエは世の中はギブ・アンド・テイクだと思っている。無償の優しさが存在するのは家族だけだ。
無料ほど高いものはないとヴィンセントとのことで学習したクロエは竦み上がる。
「人の想いは移ろい易いもの。貰えるものは貰える時に受け取った方が良いですよ」
「でも……」
「藪医者という汚名を返上する為にも私は貴女を治さなくてはなりません。分かってくれますね?」
至極穏やかなのに、この男の物言いには有無を言わさないものがあった。
銀縁眼鏡の奥で細められた双眸は慈愛に満ちている。それなのにその優しさが一方的なものに感じられるのは、薄闇が男の顔に陰を作っているからだろうか。
「貴女はヴィンセント・ローゼンハインのところのお嬢さんですよね。だったら私から連絡しておきますよ」
クロエが怖じ気づきながらも決めかねていると、男は心中を読んだようにそう言った。
クロエは知った名前が出てきたことに驚く。
「あの……ええと」
「あ、私のことでしたら先生、若しくはお兄さんで構いませんよ?」
自分から【先生】や【お兄さん】呼びを強要する医者というのも胡散臭いものがあるが、ルイスの知り合いなら恐らく大丈夫だろう。複雑な気分になりながらもクロエはこの男を先生呼びすることに決める。
「先生はローゼンハインさんとお知り合いなんですか?」
「一応そうなります。まあ、どちらかというとレイフェルと知り合いですけどね」
(レイフェル?)
それは誰かと訊き返そうとして、もしかするとエルフェの本名かもしれないとクロエは思い至る。
ヴィンセントはヴィンス、レヴェリーはレヴィ。そんな風に彼等は互いを愛称呼びしている。【エルフェ】という名が愛称や通称の可能性は充分にある。
自分が彼等の何も知らないことを思い出し、再び疎外感のような寂しさを覚えたクロエだったが、それは顔には出さなかった。
少し離れて冷静になった方が良いかもしれない。
自分と彼等は仲間ではなく、従僕と主人の関係だ。クロエは男の言うように好意に甘えることにする。
「ただの炎症性疾患といっても最近の風邪は厄介で死人すら出ますからね」
今年は【ベルティエ】を含む下層部の方で熱病が流行っていると聞いた。もしかするとルイスはその心配をしたのかもしれない。
抗生物質の注射を受け、瞼を下ろすとすぐに意識は暗い闇に沈んでゆく。クロエは微睡みに身を委ねた。