ばらのはな、さきてはちりぬ 【1】
からりと晴れた空と、強い陽光に映える青い草木。
六月といえば初夏。一年の半分が冬の世界では皆が待ち望む恵みの時期だ。
テーシェルは湖から吹き上げてくる冷たい風がある為に都心よりは過ごしやすい。
とはいえ、夏は夏。
家の中でじっとしている分には暑さは感じないが、少しでも動けば肌は汗ばむ。屋外にいれば尚更だ。
そのような陽気でも広場や公園には人が絶えないし、涼しい店内でなく屋外の席で熱いコーヒーを啜っていたりする。その辺りが屋外好きのシューリス人らしいところだろうか。
快適な屋内の席よりも、臨時で屋外に設置した席の方が繁盛していることに、喫茶店の店主であるエルフェは物好きだと言わんばかりの様子だ。
広場の景色を自室から眺めていたクロエはというと、夏は少しだけ苦手だった。
夏は華やかな季節だ。突き抜けるような空の青色も素敵だけれど、夜になれば至るところで夜会や祭りが開かれ、上げられる花火が美しい。アイスクリームや綿あめも美味しい季節である。
けれど、暑さがいけない。
日焼けが気になるという女性特有の悩みもないでもないが、一番の問題は食べ物が腐ることだ。
すぐに傷んでしまうので食材の買い置きなどはできないし、料理を作り置きをして保存ということもできない。それは主婦からすると由々しきことだ。
(そういえば、もうすぐ林檎の季節も終わり)
林檎の花は中心花と側花に別れていて、見頃の五月を過ぎれば側花は落ちてしまう。
「お母さんに持って行けるかな」
今なら落ちた花弁を拾えるはずだ。
そうと決まれば早速行動に移るのみだ。
「ルイスくんルイスくん」
「嫌だ」
部屋に踏み入ったクロエを半分伏せた目で一瞥したルイスは即言い放つ。
「まだ何も言ってないです」
「言っていなくても分かる。キミがそういう顔をしている時はろくなことがない」
「気の所為ですよ」
クロエは己が人畜無害なことを主張する。しかし、ルイスの反応は鈍かった。
猫というものは人間が猫撫で声を出して構おうとすると警戒するものだが、それと同じでルイスはクロエが企みを持っていることに逸早く察して逃げようとする。
逃げられることが想定の範囲に入っているクロエは、年上として大人の余裕を以て切り出した。
「今から【ベルティエ】の林檎の森に行くんですけど、一緒に行きませんか」
「……理由は?」
「お出掛けがしたいです」
「この前、出掛けたばかりじゃないか。オレは勉強がしたいんだ」
先日、クロエとルイスはこのテーシェルにある薔薇の丘で行われている薔薇の日という祭りを見に出掛けた。
そこでは薔薇の蜜だけを集めて作った蜂蜜や、珍しい苗を見たりというクロエは充実した一日を過ごした。男性のルイスからすれば買い物に引き摺り回されるのは堪ったものではなかったらしい。
だが、それはそれ、これはこれだ。
「もう三週間前ですよ。たまには息抜きも良いと思います」
「遊びたいならレヴィと行けば良い」
「レヴィくんはお仕事中です」
「オレも勉強中なんだけど」
ルイスは本から目を外さずに吐き捨てる。
友人とはいえ、一定の距離は置いている。ルイスはクロエを突き放し続けていた。
「大体、林檎の花の見頃は過ぎているよ」
「ええ、だから落ちた花弁を拾ってお母さんに見せたいんです」
「だったらオレは無関係だ。キミの母親のことならあの男を誘えば良いだろ」
消極的な拒絶が途端に鋭利になる。
尤もな台詞だった。尤もすぎて、クロエは反論できない。
「じゃあ、ヴィンセントさんに声を掛けてみます。お邪魔しました」
考えてもみれば、他人の母親の見舞いなどに付き合っても面白くない。軽率だったとクロエは反省する。
部屋を立ち去ろうとドアに手を掛けるクロエ。その背に声が掛けられる。
「……別に、怒っているとか機嫌悪いとかじゃないから」
「分かってますよ」
振り返ると、夜空の色が飛び込んでくる。
やっと目を合わせてくれたことにクロエはほっとする。
以前ならクロエが怒ろうが出ていこうがルイスは呼び止めなかった。
親しくなることができたのだと少しは自惚れても良いのだろうか。
下らないことを考える自分を叱り、ルイスの部屋を後にしたクロエは階段を下りる。玄関ホールからリビングを目指し、そのまま通り抜けて奥の廊下に出ると、ヴィンセントがトランクケースを持ち出しているところだった。
「今からお出掛けです?」
「僕は今から仕事だから遊んであげられないよ」
「いえ、別に遊んで欲しい訳では……」
ヴィンセントの遊ぶという言葉は得体の知れない物騒さがある。
きっと遊ばれたら命の保証はない。クロエはゆるゆると首を振った。
「じゃあ何の用?」
「お母さんに林檎の花を届けたくて、林檎の森まで一緒に行って頂けたらと思っていたんですけど……お仕事なら無理ですよね」
「へえ、林檎の木から花を毟り取るんだ? 残酷なことをするね」
「落ちているものを拾うつもりですから安心して下さい」
「ふうん。花狩りデートがしたいならルイスくんを誘えば良いじゃない」
「……はあ……」
最初に誘ったのがあちらだということが知れたら、ルイスに並々ならぬ対抗心があるヴィンセントは怒り狂うだろう。勿論、逆も然りだ。その癖、何かと互いに互いを引き合いに出すのだから良く分からないとクロエは悩む。
そうして悶々としながらヴィンセントを追っている間に、玄関ホールに辿り着く。
「一週間くらい家を空けるけど、逃げたら殺すからね」
「怪我しないで下さいね」
「誰に言ってるのさ」
「もう一人の身体じゃないんですから」
「それ女に言う台詞だよね、主に妊婦に」
クロエはヴィンセントの細かい指摘を笑顔で聞き流す。
ヴィンセントの物騒な言葉をクロエなりに訳せば、一週間気を付けて留守番していろ、ということだ。
履き違えない程度には付き合いも長くなってきた。
「ああ、そうだ。今ディアナのところに行くとうるさい奴いるよ」
「うるさいやつ?」
「あれ邪魔だからどうにかして欲しいんだよね」
そう不機嫌そうにぼやいて出て行くので、クロエは思わず行ってらっしゃいの挨拶を忘れてしまった。
せめてもと背が見えなくなるまで見送る。
ヴィンセントは何だかんだでディアナの見舞いに通っている。
週に数度見舞うだけのクロエより余程真面目に、三日にあげずディアナの顔を見に通う。クロエは眠っているディアナを見ることが辛くて、ずっと傍にいることができない。
ヴィンセントは目覚めないディアナを見ることが辛くないのだろうか。
(ううん……、辛くても行っているんだよね)
ヴィンセントの口から、これからどうしていくのかということは語られないが、少なくともディアナが目覚めるまでは今の生活を続けるのだろう。
今の穏やかな生活も勿論大切だけれど、ディアナには早く目覚めて欲しい。
クロエは林檎の花を目指して家を出た。
「ダイアナ・アシェリー・フロックハートの面会にきました」
ドクロの紋が刻まれた銀貨と、十字架の刻まれた金貨を提示する。
以前メルシエに貰った銀貨と、先日エルフェに渡された金貨。これは検問をパスする通行証のようなものだ。上層部下部【フェレール】に入るのなら、硬貨が二枚あれば良い。
【フェレール】という場所は国の運営に関わる者たちの階層だ。クロエのような一般人には関係ないその場所に、ディアナの収容されている施設はある。
面会は監視付きだが、時間に制限はない。許可を取れば私物や花の持ち込みも可能だった。
ディアナの部屋までやってきたクロエは扉を開けたところで件の人物を発見した。
「アッシェンちゃん……?」
「アンジェリカです!」
灰かぶり娘ことアンジェリカ・グラッツィア・カールトン。
艶やかなストロベリーブロンドの髪に、マリーゴールドのように鮮やかな橙眼。クロエの記憶にある姿と外形が少し異なっているものの、彼女はあのアッシェンだった。
「おまえ、生きていたのですね。しぶとい奴です」
「アンジェリカちゃんが助けてくれたって聞いたよ」
「助けた? 全く、あいつはふてぶてしい奴ですぅ」
「えと……あの、ありがとね。私が生きているのは皆のお陰だよ」
あの事件は様々な理由が入り組んだ結果に起きたことだ。アンジェリカ一人を恨むことはできない。元よりクロエは誰も恨むつもりはなかった。
それにしても、四ヶ月ぶりに会ったアンジェリカは華やかさに磨きが掛かっているように見える。肌も髪も羨ましくなるほどに艶々として、赤と黒を基調としたドレスも着負けることなく見事に着こなしている。
クロエはアンジェリカの囚われの身という立場を心配していたのだが、彼女は元気そうだった。
「この人、私のお母さんなんだけど、知り合い?」
荷物を窓際に置き、席についたクロエはアンジェリカに訊ねる。
外法狩りの魔女と呼ばれたディアナと、外法アンジェリカの関係がまるで分からなかった。
「こいつは親みたいなものです」
「……どういう、こと?」
「パパとママはこいつにアンジーの世話をさせたのです。こいつはアンジーの育ての親です」
姿を消したディアナが最下層部に潜伏していたということをクロエは思い出す。
(お母さんが、アンジェリカちゃんのお母さん代わり)
クロエが寂しい思いをしている間、ディアナは子育てをしていた。クロエがディアナと一緒にいた時間よりずっと長い時間をアンジェリカと。
その事実に少なからずショックを受ける。
産みの親よりも育ての親という言葉があるように、子供は親の影響を受けて育つ。
ふわふわの巻き毛もひらひらのドレスもいかにもディアナの好みといった風で、クロエよりもアンジェリカが本当の娘のようだった。
「わたくしは……おまえから母親を取り上げていたのですね」
低く抑えた声でアンジェリカは呟いた。
彼女の視線はディアナに注がれている。そのひたむきな眼差しを見て、クロエは泣きそうになった。
「……ううん……気にしないで。アンジェリカちゃんがいることでお母さんが寂しくなかったなら、私は良いの」
「お人好しですね」
「そこまで良い人じゃないよ」
傷付かなかったと言えば嘘になる。
だけど、アンジェリカという存在がいることでディアナが癒されていたならそれで良い。またその反対に、ディアナの存在がアンジェリカの何かになっていたのならそれは幸せなことだ。
少なくともディアナは【向かえにくる】という約束を守ってくれた。
母の愛情を奪っていたアンジェリカを恨みはしない。寧ろ、兄弟というものに憧れのあるクロエは彼女が気になってしまう。
(何か持ってないかな)
飴でもないだろうかとバッグの中を探ってみる。
都合良く菓子が入っている訳もなく、出てきたのは雑品だけだった。
「それ、何なのです?」
「あ……これはね、林檎の花」
アンジェリカが興味を示したのは、林檎の花弁を包んだハンカチーフだ。
クロエは手の上で布を開き、林檎の花を見せる。
「バカ林檎です!?」
「ううん、普通の林檎」
どうやら最下層部の民にとって林檎という果物はセフィロトの奇天烈な木を指すようだ。
知恵の木と生命の木。双子の木には白と赤の果実が実り、虹色の葉が付いていた。
(もしかして、下の人は林檎を食べないの?)
毒のある果実を好んで食べたりはしないように思えた。クロエは素朴な疑問に行き着く。
アンジェリカは警戒するようにじっと林檎の花を睨み付けていた。
こうしていると本当に普通の少女のようで、クロエは微笑ましく思う。
「アンジェリカちゃんは、アップルクーヘンって食べられる?」
「林檎のケーキです?」
「うん、お母さんに教わったお菓子で、甘くて美味しいの。今度作ってくるね」
毒の林檎しか知らないアンジェリカは尚も警戒していたが、甘くて美味しいという言葉に心惹かれたのか目がきらきらと輝いた。
やっと見ることができた笑顔に、クロエもにっこりと微笑み返した。