番外編 赦しを得たい手で私はそれを拒む ~side Louis~ 【2】
「クラインシュミットの子供がよりによってあんな家に……」
久々に帰宅して侯爵夫人に呼び出されたかと思えば、その口から出たのは批難の言葉だった。
夫人はレヴェリーがレイヴンズクロフトの養子になったことと、そんな兄と関わっているルイスが気に食わないようだ。
そう、叱られている訳ではない。これは小言だ。
「兄弟は未だしも、友人ならもっと品性のある者と付き合えば良いではないですか。何もあんな穢らわしい家の者でなくても、あなたに相応しい相手は幾らでもいるはずです」
クロエのことまで言われると思っていなかったルイスは冷たい気分になる。
その気持ちを顔に出してしまわないように無表情の仮面の下に全てを押し隠す。
「あまり言いたくありませんけれど、あなたとあの者たちとでは住む世界が違うのです。オーギュスト様とこの家の名に傷を付けることがないよう、そろそろ自覚を持って貰わなければ困りますよ」
「……はい、申し訳ありません。私が軽率でした」
当家の格式とその大切さを認識していれば軽率な振る舞いはできないはずだと夫人は言った。
夫人の白い肌は青褪め、瞳はどろりと赤かった。
こちらを縛ろうとするその眼差しは何処かかの夫人とだぶって目眩がする。
「その辺にしろ、ヴィオレ」
酷い眩暈にルイスが咄嗟に机に手をついたその時、小広間へやってきた侯爵は仲裁を入れた。
夫人は紫陽花にも例えられる冴え冴えとした美貌を一層冷たく歪め、夫を睨んだ。
「オーギュスト様、あなたからもルイシスさんに言ってやって下さい」
「悪気があった訳でもないだろう。幅広い層と関わることは視野を広めることにもなる。そのことを喜んではどうだ」
「……わたくしの苦労を知らないで……」
「ヴィオレーヌ」
「わたくしがどれだけ家のことを考えているか、あなたは分かって下さらないのですか……!」
泣き出してしまう夫人をソファに座らせた侯爵はルイスに部屋を出るように示した。
律儀に扉まで送る侯爵にルイスは謝罪する。
「申し訳ありません……」
「構いはしないさ。あれがああなったのは私の所為だ。ヴィオレを許してやってくれ」
名家の生まれで気位の高い夫人は、嫁いだ家で跡取りの男子を産むことができなかった。周りから責められ続けた夫人の心は深く傷付いてしまった。
夫人は優しい人なのだ。以前の里親の墓に通いつめるような息子を咎めたりしない、心の広い女性。だが、跡取りを産むという責務を果たせなかった彼女は、ヴァレンタイン家の品格を保つことでしか己の存在意義を守れない。
ルイスにはそんな夫人を恨むつもりはない。寧ろ申し訳ない気持ちが消えない。
夫人に言われたことは尤もだ。尤もだから、反論もできない。
オーギュストはルイスより長生きするだろう。シューリスの貴族の襲名というのは、親が死んだ時に起きるものだ。だから、ルイスが本当の意味で家を継ぐということはない。
どうせ長生きできないのだ。
大人になることができないと言われて育ち、こうして大人になっても周囲は不安がり、侯爵にもう一人子供を作ることを勧めている。
話は常にルイスが死ぬことを前提で進められる。名ばかりの小侯爵という呼び名は皮肉でしかない。
ルイスは【立派な跡取りの息子】という人形であれば良い。それ以上でも以下でもない。
(頑張ってもどうにもならないんだ……)
クロエは前向きに生きていけるように共に頑張ろうと言う。実際、幼少期のルイスは努力しようしていた。
クラインシュミット夫妻の一度目の命日にルイスはヴァレンタイン家で生きていくことを決めた。生きていくからには恩に報いるようにしたいと考え、十代前半は勉学に励んだ。
けれど、皆がこちらにクラインシュミット夫妻の面影を重ねていることに気付いてしまった。
クラインシュミット夫妻の養子だから生かされた。この目立つ顔があるから慈悲を受けた。結局、ルイスは他人から与えられたもので生きてきた。
そうして徐々に心を腐らせて、ぐずぐずに崩れ掛けたところで漸く復讐という目的を見付けた。
生きることを望まれないルイスにとって、復讐という目的が生きる糧だ。
例え寿命が短くても、捨てられた子供だとしても、きっと何かできると――生まれたことに意味があると信じてくれたら何かが変わる気もするが、少なくともこの場所ではルイスは完璧な人形であることを求められる。
復讐という夢が叶えば生きる意味がない。自分は潔く自害して、残された者が幸せになれば良い。
その夢へ向けて進めもしない今は、ただ息苦しくて仕様がない。
例えば休日に皆で出掛けたり、アフターヌーンティーを楽しんだり。どの家にも団欒というものはあるものだ。
ヴァレンタイン家では夕食後に小広間に集まり、ボードゲームや歓談を楽しむことが家族の団欒だった。
一日の終わりの穏やかな時間はルイスが心の隅で望んでいる家族と過ごす時間だ。けれど、この家族の幸福を壊している異端が己だという自責に息苦しくなる。
結局堪えられなくなり、ルイスはいつものように一人先に部屋に戻って過ごしていた。
暇潰しにと何とはなしに捲った雑誌にスズラン祭りの特集記事があり、クロエの誕生日が明日だということを思い出した。
先月の誕生日に贈り物を受け取ってしまったルイスは、礼をする為だと己に言い聞かせ、贈り物を考える。
しかし、そんなルイスの欺瞞を十年間傍らに存在し続けた従者は容易く見破る。
「――ルイシス様。平凡なんていうちっぽけな幸福を享受して留まってはいけませんよ」
本当の名を呼ばれ、その声の冷たさに背筋がぞくりとした。
「貴方には目的があるのだから、まだ立ち止まってはいけない。慈悲深い女神様に誑かされてはいけません。……誰にでも平等な愛というのは結局、誰も愛していないのと同じことです。貴方はそんなものに満足できないでしょう? 普通の生活を楽しむのは良いですが、そちらの生活は所詮夢です。のめり込んではいけませんよ」
頭の上から浴びせられる氷水のような言葉にルイスは内心笑いたくなった。
当たり前のその言葉に傷付き、我に返るそんな自分がいることに絶望した。
「時々、先生が悪魔のように見えますよ」
「神に仕える私が悪魔なんて笑えませんね。……いえ、でも私が貴方を甘やかしたことはありましたか?」
「ありませんね」
「そうでしょう。昔から私の姿勢は変わっていませんよ」
黒髪黒衣の従者は喉の奥で笑った。
他人を煙に巻くところがあるので掴み辛いのだが、ファウストという人間の頭には躊躇も容赦も存在せず、同情や憐憫も一切混同させずに目的を果たす為の合理的な回路がある。
例えばそれは、生きる為に腕を切断してしまえと幼気な女に言うようなところ。
「私は貴方に幸福になって頂きたいのです。いずれ貴方が柵から解き放たれ、幸福になる為なら私は聖人でも悪魔にでもなりましょう」
教会に於ける異端。教会の敵を法ではなく、力で排除する首輪付きの猟犬。
そういう人物だからこそ、ルイスは彼から人殺しの術の学ぶことを望んだ。
「……大丈夫です。オレは……オレを許す気はありませんから」
釘を刺されずとも、ルイスは復讐を止めるつもりはなかった。
例えちっぽけなものでも幸福を壊したからには、相応の報復を受ける覚悟があるべきだ。この身にはそういうどす黒い感情が詰まっている。
雪のように潔くも清くもなれない、醜い存在だ。
己の醜悪さを確かめながらルイスはカップの中の赤いブランデーをじっと見つめる。
どれだけ苦しめれば彼等の不幸に足りるのだろう。あの痛みに釣り合うだけの苦しみは何だろう。首を掻き切って窒息させる程度では足りない。背を切り開いて臓腑を引き摺り出せというのか。
喉を切られたことで窒息して死んだアデルバートも、心臓を潰されて即死した者も幸せだった。
エレンは背を裂かれても無惨なことにまだ息があった。
致命傷を受け、助かる見込みはない。それでも死の苦しみと、愛する者を失った絶望を胎んで過ごすその時間はどれほどの苦痛だっただろう。
何をしても足りない。八つ裂きにしたって足りない。
あの最期を見たら許せるはずがない。
(忘れない……許さない……)
抱き締めてくれた腕のぬくもりも、名を呼び諭してくれた声も、見守ってくれた優しい眼差しも時が掻き消していく。記憶に焼き付いたのは血まみれの冷たい掌の感触と、泣き濡れた顔だけだ。
許さないと全てを呪いながら逝ったのが本当なのか、嘘のように綺麗に微笑みながら逝ったのが本当なのか、今のルイスは分からない。
だが、良い。復讐は自分を満たす為の行いだから、そんなことはどうでも良い。
「死ぬことより辛い罰は何ですか?」
「私の主観なら、裁かれることもなく生かされることですかね。勿論、罪の意識がある場合の話ですよ」
「経験でもあるような言い方ですね」
「年寄りに野暮なことを聞かないで下さいよ」
誰よりも多くの血を見てきた男は自嘲を滲ませ、この話は仕舞いだと言うように壁際に戻った。
踏み込んで訊くこともできたが、下手に藪を突けばこちらが痛手を負う。ルイスは詮索することを諦め、代わりに命じる。
「調べて欲しいことがある」
「何なりと御命じ下さい」
光が作り出す陰の下、影のように佇む従者は演技染みた動作で恭しく頭を垂れた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
例の調査は結果如何によってはルイスは縋り続けていた縁を失うことになる。
結果を求めたのは退路を断つ為だった。
真実を知れば後戻りができなくなる。敵を許さないと――殺すという目的から逃げられなくなる。これはただの自害的な望みだ。
引き摺り出すものがどんな悪魔でも知らないとファウストは警告したが、毒は元より飲むつもりだ。
ルイスはただ結果を待っていた。
それから数日経ったある日の夕刻、クロエが買い物へ付き合って欲しいと頼んできた。
数日前の夜に少々きつい言葉で反論した為にクロエの態度は硬化していたが、やっと戻ってきた。
ルイスが絶交するなどと子供染みたことを言ったのは、あの手の意地悪を言えばクロエが距離を置くと考えたからだ。
嫌われる方法が幾らでもあるというのは嘘ではない。本当に嫌われたいのなら、ただ一度殴れば良い。信頼を裏切ればそれだけでクロエは心を閉ざすだろう。
傷付けたくないのなら突き放してしまえば良いのに、適度に相手をされたいから突き放しきれない。結局は甘ったれなのだ。
そんな汚れた心を打ち明けたというのに、クロエは逃げるどころか近付いてくるのだから変わっているとルイスは呆れている。
「映画館で映画ってみます?」
「たまに」
赤く照らされた湖沿いの道を歩きながら、世間話を交わす。
「友達と行くんですか?」
「観たいものがある時は一人で行くよ。隣に人がいると気が散るから」
「レヴィくんと一緒ですね」
「あいつは低俗なものばかり見ているから、付き合ってくれる人がいないだけだ」
「ホラー系は好き嫌いありますもんね」
やはりというか会話は止まってしまう。
だが、いつの間にかにクロエは不安な顔をしなくなったので、ルイスもそれで良いかという気分になった。
水でぼかしたような淡い空色の瞳を横から窺う。視線が合うと、クロエは微笑んだ。
彼女は何も語らず、夕焼け空を眺めているだけで満たされているような顔をしている。
優しい沈黙に癒されるのを感じながら、ルイスは昔のことを思い出す。
施設の小さな窓から見られる世界しか知らなかった幼い頃、綺麗なものと優しいものだけに満たされた世界があれば良いと思っていた。
常に苦しくて、悲しくて、怖かった。何処か遠い場所へ行ってしまいたいとずっと願っていた。
消えてしまいたかったのだ。
だけど、優しい人たちに引き取られて沢山のものを貰った。
ここにいたいと、そう思った。
他の何もなくても良いから、ただこのあたたかい人たちとずっと一緒にいたかった。
『ささやかなことというのは何でもなさそうに見えるけれど、安らぎをもたらす。どんなささやかなことの中にも天使がいる』
『幸福の妨げになるのはあまりにも大きな幸福を期待することだと言うものね』
何かの詩の言葉らしいが彼等はいたく気に入っていた。
沢山のものを持っているはずの彼等は何故か他人の言葉を借りることが多かった。
まるで不足したものを補うように芸術に触れ、寄り添い合っていた。彼等は、例え何も持っていないとしても、ない中で分かち合えば良いと言った。
ならば、自分が彼女に出せるものは何だろう。
「暇ならまた何処か行こうか?」
「でしたら行ってみたいところがあります!」
ルイスが映画くらいなら付き合おうという気持ちで提案すると、クロエは思いの外、乗り気になった。
「この近くに薔薇の丘ってありますよね。そこで薔薇の日というお祭りをやっているようで行きたいと思っていたんです」
「薔薇の日?」
「花摘みとか、お茶したりできるみたいで」
この様子だとこちらから誘わずとも連行されていたかもしれない。墓穴だったとルイスは己を呪う。
「そうそう、あとローズハニーというのも買いたいです。紅茶やレモネードに入れたら美味しいですよ」
「オレはキミと違って蜂蜜に拘りはないから」
「でも紅茶とレモネードは好きでしょう?」
外出の誘いを掛けたのがこちらだけに、押し切られると断れない。
ルイスが逃げるように足を早めると、クロエはすぐに追い掛けてきた。
「薔薇の香りのする蜂蜜を入れた紅茶を朝に飲んだら、きっと素敵な気分になれます」
「暢気で羨ましい」
「平和呆けしていて済みません」
「……別に、莫迦にしてないよ」
ささやかなことを幸福だという心を貶す気持ちはない。
クロエが求めている幸福というのは平穏な人生だ。だから、ルイスが何かを与えようなどと考えずともクロエは沢山のものに満たされる。
そんなことは知っていた。
クロエは本当にささやかなことで喜んだりする。
朝にこちらから挨拶をしたり、名前を呼ぶとやけに嬉しそうに微笑むのだ。
分かっているから、認めたくない。
(平穏が得難いものだとしても……)
何の変哲もない日常の羅列はこの上もなく優しい時間だ。
家族はもういなくなってしまったけれど、手を伸ばせば手に入るものはある。
ささやかな幸福は傍にある。
だが、こういう平穏こそが昔から切望しているものなのだと、そのことを受け入れてしまう訳にはいかない。
復讐という目的を果たせないのなら生きる価値すらないルイスには諦めるという選択しかない。
――――結局のところ許せないのは他者ではなく、自分自身だ。