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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
第二部 序章
126/208

番外編 喜びなさい、その幸運と不幸を ~side Faust~ 【2】

 五月というのは一年の内で最も心地好い季節だ。

 暑くもなく寒くもない、とても過ごし易い時期。薔薇が咲き乱れるこの季節から社交シーズンは始まる。

 夜会へ出席したり、ティーガーデンに赴いたりと外出の機会も増えるので、主人の服装や振る舞いに気を遣わねばならない従者の仕事も忙しくなる。

 だが、生憎ファウストの仕える主は社交嫌いだ。親に催促されて渋々社交場に出掛けるような非社交的な性格な上に、着飾ってもくれない。

 他の使用人たちが主に付き添って出掛ける様子や、生き生きと働いている様子を見て、この自分の存在意義は紅茶を淹れるだけかと虚しい気持ちにならないこともない。

 久々に帰宅したかと思えば部屋に籠って延々とピアノを弾いているような主の所為で、手持ち無沙汰だ。

 仕方なく休憩室で紅茶を啜っていると、三台ある携帯電話の一つが音を立てた。休憩中の他の使用人から迷惑げな視線が向けられ、ファウストは部屋を出た。

 ディスプレイには珍しい名前が表示されている。ここで話すのは些か具合が悪い相手だ。

 急ぎ足で階段を掛け上がり、勝手口から庭へ出たところで通話キーを押した。


「はい、私です」

『――こんにちは』

「どうもこんにちは。貴女が掛けてくるなんて珍しいね」

『あたしもあなたに電話なんてしたくないんだけどね』


 電話の相手はメルシエ・メルネスだった。

 エルフェの兄の声に戻したファウストは、愛想笑いをその声に添えて話す。


「用件は何かな。ああ、レイフェルが靡かないから私に鞍替えとか? そうなら今夜どう? 退屈させないよ」

『その猫被り、気持ち悪いから止めろ』

「え、私は猫なんて被ってないよ?」

『被る猫を飼いまくってる【気紛れ猫】(チェネレントラ)の癖に白々しい』

「……やれやれ、つれないですね。貴女とは良い酒が飲めそうなのに」

『生憎、あたしは僧侶と坊主(ヤクザ)が嫌いなんだ。酒を飲みたいなら自分の部下を誘っとくれ』

「誘える部下がいると良いのですけどね」


 猫被っている女にはこちらの猫被りなど容易く見破られてしまう。

 被る猫の一匹をそっと横に退けたファウストは訊ねる。


「ご用の趣きは?」

『単刀直入に訊くけどさ……、前にあたしのこと襲ったの、あんたの部下だろ』

「何のことでしょう」

黒い(ビアンカ)白雪姫(ネーヴェ・ネロ)……【黒雪姫】(ノワール・ネージュ)だっけ。ふた月前、あたしがクラインシュミットのことを調べている時に襲ってきたのはそいつだ。こっちも昏倒させられたけど、黒髪赤眼の顔は見間違えないよ』

「どうして彼女が貴女を襲う必要があると?」

『あれはクラインシュミット家の私兵だったはずだ。それがどうしてあなたといる? まさかとは思うけど、あれがあの事件の関係者で、あなたが匿っているということはないよね』

「うわあ、逞しい想像力ですねえ。貴女は劇作家になる才能がありますよ」

『ふざけてると今度会った時に撲つよ』


 つまりメルシエが言いたいのは、グロリアが主人であるクラインシュミット夫妻を殺害したということ。

 クラインシュミット家惨殺事件のことを調べられることを良く思わなかったファウストが、グロリアを使ってメルシエを襲わせたということだ。

 何とも片腹痛い推測である。笑い過ぎて内心、涙が出ているくらいだ。


「あれは、かの侯爵夫人(マダム・ローズ)が好きだったのですよ。愛した女性の幸せを壊すことはしません」

『あれって女だよな……?』

「ええ、そういう趣味の持ち主なのです。だから、彼女が犯人ということはあり得ませんよ」


 ファウストと同様に、グロリアはエレンを――あの夫妻を愛していた。

 雇い主を失って自暴自棄になっていたところをファウストは拾い、駒とする代わりに生活の面倒を看てやった。その間に立ち直った彼女は今はエリーゼにご執心だ。

 本気のような冗談のような内容を聞かされたメルシエは暫く沈黙し、その後、硬い声で言う。


『あの事件、教会側の担当はあなただろ。本当は何か知っているんじゃないの?』

「真実は自分で知ってこそでしょう。まあ、小鳥に餌くらいはあげるかもしれませんけどね」


 勿論、呑み込ませるものに毒を仕込んでいない保証はないけれど。

 悪趣味極まりないファウストの答えを聞いたメルシエは、深い溜め息をついた。


『【死神】って変な奴等だよね』


 【死神】とは教会の諜報員で異端審問官。その実態は十三の貴族家から集められた人質だ。

 家族から隔離され、人質と言い聞かせられて育つ子供が与えられるのは聖書だけ。その時点でまともな子供なら頭のネジが少々緩む。

 教会に行ってからは、教会に逆らう者がどれほど愚かかということと、その者を罰することがどれだけ尊いことかという思想を刷り込まれる。この辺りでネジは抜け掛けている。

 狂った教育の極めつけは、自分の手で育てたうさぎを殺して食べることだろうか。

 教会に預けられてすぐに育てることを命じられたうさぎを、ある日殺すように言われる。

 それは兵士を作る過程で良くやらせること――心を切り離す訓練というやつだ。ファウストもルイスに犬の一匹でも殺させようかと考えていたが、そうする前に彼は外法を射殺したのでその必要はなくなった。


『……可笑しい奴等だけどさ、そういう奴等も【可笑しく】なって出てこられなくなる』


 教会の狂育でネジを外されたとはいえ、元はただの人間だ。

 審問(ごうもん)とは行う側も精神力を使うもので、繰り返し行っていると加害者も可笑しくなったりする。

 大抵の【死神】の末路は任務中に死ぬか、精神異常を来して教会の地下牢に幽閉されるかだ。

 確かメルシエの兄は発狂したのだったな、とファウストは他人事のように思い出す。


『そういう場所からシャバに戻ってきたあなたは間違いなくやばい奴だよ』


 同期の十三人の中で唯一、外の世界へ戻ってきたファウストをメルシエは痛烈に批判した。


『……言い返してこないわけ?』

「ええ、その通りだと思いますからね」


 血と涙と汗と涎と反吐と糞尿とあらゆるものが撒き散らされた部屋に、唸り声と叫び声と命乞いと殺してくれという嘆願が絶えず響く。

 あの地下室で骨を砕いたり、皮を剥いだり、釘を打ったり、水に沈めたり、火で炙ったり、人体を切断したりしていれば可笑しくもなる。

 では、この身にある【破綻】はそこで生まれたものなのだろうか。

 答えは否だ。

 人間という醜悪な存在を抉ることが特に苦痛ではなかった。寧ろ、人間の中身を抉ることが楽しかった。

 つまり、ファウストという人間は生まれながらにいかれていたという訳だ。


「ただ一つ、誤解がないように言っておきますとね、私はあの双子の幸福を望んでいるだけなのですよ」

『その幸福とやらの為なら他は犠牲にするのかい、仮にも神父のあなたが?』

「生憎、私は【死神】というエセ神父ですからね。信仰するのは人間なのですよ」


 救いも罰しもしない神よりも人間が尊い。

 自分勝手かつ他人想いで、狡くて、汚くて、醜くて、矛盾しているどうしようもない人間を愛している。


『ああ……ほんと、あなたって反吐が出そうな奴だよ! どうしてこんなに気色悪いんだろうね!』

「はははっ、自覚有りますから安心して下さい。あ、断っておくと私はノーマルですよ? 別にあの双子に手を出そうとかいう妙な方面の趣味はありません。あれが可愛い女の子だったら良かったのですけどねえ」

『黙れ変態』

「失礼な。私はいつだって紳士的です」

『はいはい、変態紳士ね覚えとくよ』


 相手を怒らせ、本性を吐き出させる。相手を疲弊させ、手玉に取る。

 草食動物の本能、そして同じ猫被りとしてファウストの厄介さを嗅ぎ取っているメルシエは電話を切った。

 ファウストはクリアキーを押して電源を切ると、何処へともなく話し掛けた。


「ビアンカ、私の得物を勝手に持ち出すなと言ったはずですが」

「何故? 使ってやらないと可哀想だ」

「そういう抽象的な答えを求めてはいませんよ」


 木陰から出てきたグロリア(ビアンカ)はスタンドカラーの仕着せ(ドレス)を纏っているが、眼差しは銀器のように鋭い。

 外法の血を半分引くグロリアは生粋の戦闘家だ。己の戦闘技術への誇りも、得物への愛着も持ち合わせないファウストと違い、武人としての戦闘美学を持っている。


「あの女はクラインシュミットのことを掘り返している。神聖な死を汚す奴……、目障りだ」

「好きに泳がせておきなさい。どうせ何もできないのだから」

「それは命令か?」

「命令です」

「分かった。今は殺さない」


 ファウストはグロリアの言葉に物騒な意味が込められていることを認識しながらも、咎めなかった。


(……猫被りは何も私だけではありませんよ、ご令嬢)


 綺麗な顔の下にどんな穢れが隠れているのか、白い肌の内側にどれほど赤い腸(はらわた)があるのか、太陽に照らされない星はどれだけ醜い姿をしているのか、美しい花の下にどのような死体が埋まっているのか。

 人間なんて、蓋を開けるまで分からないのだ。

 ファウストは悪人ではないから握り潰すことはしないが、善人でもないから傷付けないこともない。

 傷付いた小鳥を優しく介抱してやりながら、その美しい羽を数枚毟ることだってする。

 この身は間違いなく破綻している。そんな自分自身を客観視した上で完全に理解しているからこそ、ファウストは性質が悪い。






 とても月の綺麗な静かな夜。ファウストは主の部屋の壁際で黙している。

 ひと月振りに屋敷へ戻ってきたルイスは紫陽花の母娘に絞られてすっかり弱っていた。

 義母には早く結婚して孫の顔を見せろと責付かれ、義妹には傍にいろと乞われる。

 多感な時期は過ぎたとはいえ、ルイスも精神的にはまだまだ子供だ。家族からそんな重い感情を向けられたら息苦しくもなるだろう。

 自由を許されたのは二十歳までの一年。これから一年、彼は益々追い詰められていくだろう。

 ファウストからすると、これからルイスが置かれるだろう状況はとても望ましいものだ。

 ぎりぎりの環境に置かれてこそ、人間は矛盾する本性を吐き出すのだから。

 机の前にいるルイスはブランデーを垂らした濃い紅茶を飲んでいる。それを飲み終えるとブランデーだけをカップに注ぎ始めるので、ファウストは取り上げる。

 適度な飲酒は心を安らかにするが、度を越せば悪心に繋がる。眠気を促すどころか逆効果だ。

 カップもボトルも取り上げられたルイスは無表情のまま一瞥すると、机の上の雑誌に目を戻した。


「スズラン祭りは終わったはずですが、どうなさったのです?」

「……五月五日の誕生花はスズランのようだから」


 ルイスの眺める雑誌にはスズランに関連した商品が載っていた。

 雑誌を横から覗くと、花言葉は【幸福の再来】と出ている。ファウストは首を捻った。

 五月五日とは誰の誕生日だろう。エレンの誕生日は五月十八日だし、アデルバートは十一月だ。ヴァレンタイン夫妻とエリーゼの誕生日も五月ではない。ヴィンセント、エルフェ……と考えていき、漸く思い至る。

 頭がすうっと冷たくなった。


「帰宅している時に考えるほど大事なことなのですか」

「先月の誕生日の礼をするだけだ」

「何かプレゼントを貰ったのですか?」

「置き時計を」

「置き時計ですか。すっかりそちらが帰る場所のようですね」


 やはり、【あの存在】はファウストにとって都合が悪い。ルイスの目を曇らせるだけだ。

 思わず皮肉を言ってしまうほどに面白くない。


(わざわざ警告したのにまるで効果がありませんね。どうしたものか……)


 善意もない警告に靡くはずがないと思いながらも、小癪だと感じてしまう。

 だが、良い。あの存在もどうせ諦める。ルイスを救うことなど無理だとすぐに気付く。

 関われば関わるほどに無力感が募り、いずれ離れていくはずだ。

 いや、離れて貰わなければ困る。

 あまり不用意に近付かれると、消してしまうかもしれない。

 ファウストはエレンからルイスを裏切るなと言われている。それは即ち、彼の目的を遂げさせること――邪魔になるであろうあらゆる存在を排除すること。

 平凡に生き、凡庸な幸福を求めるような存在に感化されては困る。

 ちっぽけな幸福を享受して、ただの人間に成り果てたら駄目だ。

 幸福を覚えて停滞するなんてあってはならない。


「――ルイシス様。平凡なんていうちっぽけな幸福を享受して留まってはいけませんよ」


 本当の名を呼ぶと、彼はびくりと肩を揺らした。


「貴方には目的があるのだから、まだ立ち止まってはいけない。慈悲深い女神様に誑かされてはいけません。……誰にでも平等な愛というのは結局、誰も愛していないのと同じことです。貴方はそんなものに満足できないでしょう?」


 神はルイスを受け入れるように他者も受け入れ、他者を許すようにルイスを許すだろう。

 あれはそういう存在だ。そして、そういう存在である限り、彼女には彼は救えない。


「普通の生活を楽しむのは良いですが、そちらの生活は所詮夢です。のめり込んではいけませんよ」


 ルイスも気付いていない訳ではないだろう。ファウストは矛盾――破綻している。

 人道を語りながら非道な殺人技術を仕込み、神へ祈りを捧げることを勧めながら神を信じるなと釘を刺す。挙句に、幸福になれと言いながら復讐を果たせと諭す。

 ファウストは上辺で復讐を止めながらも、実際はルイスの背を押しているような存在だ。


「時々、先生が悪魔のように見えますよ」

「神に仕える私が悪魔なんて笑えませんね。……いえ、でも私が貴方を甘やかしたことはありましたか?」

「ありませんね」

「そうでしょう。昔から私の姿勢は変わっていませんよ」


 自らの技術と知識を分け与え、手に血豆ができるほどに訓練させたのはファウストだ。

 彼は苦しめば苦しむほどに磨かれてゆく。あらゆる苦痛その全てが彼という宝石を研磨する。

 恨まれようとも、憎まれようとも、蔑まれようとも、信用されずとも構わない。この身はただの磨ぎ刃で良い。


(私にできるのはそれだけなのですから……)


 結局、(キズ)の縫合などできなかったのだから、目的を遂げさせてやるしかない。

 己の外道を確かめたファウストは宣誓を口にする。


「私は貴方に幸福になって頂きたいのです。いずれ貴方が(しがらみ)から解き放たれ、幸福になる為なら私は聖人でも悪魔にでもなりましょう」


 ファウストは人間だった。他者を慈しみ、悲運には涙する。そんなあたたかい心を持つ人間だった。

 声高らかに謳った誓いの言葉は何の虚偽もなく、紛れもない本心であるからこそ、ルイスの胸は凍る。


「……大丈夫です。オレは……オレを許す気はありませんから」


 人間は忘却という残酷なシステムを持っている。だからファウストは何度も彼等の話をルイスに聞かせる。

 彼の為に、彼が両親のことを忘れてしまわぬよう耳許で囁き続ける。

 彼等がいかに素晴らしい人間で、敵がいかに愚かな人間なのかを呪いのようにずっと繰り返す。

 彼が惑わされるのなら、夢から醒めるように冷水を浴びせてやる。

 彼の邪魔となるなら何だって刈り取る。

 嘆きも喜びも全て、この刃で刈り取ろう。

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