番外編 喜びなさい、その幸運と不幸を ~side Faust~ 【1】
本編より九年前の話になります。
教会が擁する諜報員であり異端審問員でもある【死神】。
公にされていない異端狩りたちは都の闇の中を動く。しかし、今日はその僧衣の姿が太陽の下にある。
役職第三位に就くファウストは、己の場違いぶりに頭痛を感じながら庭園を歩いていた。
太陽の下で人々はお喋りや散歩を楽しみ、休憩所となっている建物のテラスには楽器を演奏する楽隊がいる。夜になれば仮面舞踏会や演奏会、花火などのイベントも開かれるここは、市民の憩いの場であるティーガーデン。
この場に集う人々は老いも若きも身分も様々。
憂さ晴らしをしたいのはどの階級の人間でも同じだ。男性だけが立ち入ることができるコーヒーハウスが衰退し、こういったエンターテイメント性の強い娯楽施設の人気が出るのも当然の成り行きだろう。
では何故、そのような娯楽施設に僧衣がいるのか。それは仕事の関係者が会談の場所をここを指定したからに他ならない。
休日を返上して働いている身にとっては悪意にしか感じられない。思わず舌打ちが出た。
某人物との約束の場所は庭園だ。「適当に寛いでいるから適当に探せ」と言われたものの、この広大な敷地で目当ての人物を探すのは一苦労だ。
薔薇の垣根の傍の円卓でカードゲームに興じる紳士たちに、クリームティーを楽しむ淑女たち。男女の別を問わず談笑している者たちもいる。
庭園には薔薇の花が咲き乱れ、甘い香りに肌を擽られる。
もうどれだけ探しただろう。初夏の太陽と人々の熱気に当てられて疲れを感じ始めた頃、四本柱の東屋に漸くその姿を見付けることができた。
降り注ぐ陽光が急に増したような錯覚を覚える。
爛漫と咲き乱れる薔薇の甘い香りの中、その花よりも美しく眩しい存在があった。
二十歳を少しばかり過ぎた青年と、蜜色のドレスを纏った娘。彼等は茶を楽しむ訳でも談笑する訳でもなく、寄り添っている。
二人で会話している様子もない。まるで共に風に吹かれているだけで満たされているといった雰囲気だ。
思わず声を掛けることを躊躇ってしまうような、一つの完成された世界。
躊躇するファウストに先に気付いたのは青年だった。
挨拶を交わした青年は、隣にいる娘とファウストをそれぞれ紹介する。
まだ二十歳に満たない彼女こそが、青年の妻であるクラインシュミット侯爵夫人だ。
『お初にお目に掛かります、マダム。ファウストと申します。お目に掛かれて光栄至極に存じます』
『エレン・ルイーズです』
柔らかな笑みを浮かべながら淑女は腕を差し出してきた。
膝を折り、右手の甲に口付ける。身長差を慮って膝を折ったまま顔を上げると目が合った。
蜜色のドレスは淡い茶色の髪と空色の瞳を品良く引き立てて、彼女の美貌を飾るに相応しい華となっている。類稀な美女だとは聞いていたが、あまり本気にしていなかった……というよりは侮っていた。
名門貴族ともなれば、恵まれた容姿は義務のようなものだ。自身も名門の出であるファウストは並の美形などは飽くほど見て、目が肥えている。美人を見て寒気めいた感情を覚えるのは初めてのことだった。
『キミ、不躾だよ』
そう指摘されて、はっとする。
『……申し訳ありません。奥方があまりにお美しいのでつい見惚れてしまいました』
『男ならではの過ちだな。最初だから特別赦すよ』
そう言いながらも嫉妬の炎は見えない。美しい妻を持つ苦労に慣れているのか、青年は気を害した風でもなかった。
くすりと笑んだ青年は建物の方角を示す。
『サロンで茶でも飲みながら話そうか』
『馳走して下さるのですか? でしたら喜んで付き合いますよ』
『女に現を抜かす上に金に煩い神父か。そんな風だから破戒僧と言われるんだ』
『エセ神父とは言われますが、生憎破戒僧とは呼ばれていません』
『……そう。どうでも良いけど』
青年は他人に興味が薄い代わりに後腐れもないので、言葉遊びも悠々と楽しむ。
冗談を交わす程度の付き合いのあるファウストも彼のさっぱりした性格は知っているので、根には持たない。
夫と知人が軽口を叩く隣で妻は首を傾げる。サテンのリボンで薔薇を模したヘッドドレスから垂れたレースがひらひらと踊り、サファイアの耳飾りが微かに揺れた。
『エレンさん、キミはどうする? 仕事の話なんてつまらないだろうし、ご婦人方とお喋りしているか?』
『……いいえ、私もそちらに』
『折角、外に出たのに良いのか?』
『どうせ社交界の噂話ですもの。聞いても反吐が出そうな話ばかり。だったら、貴方の傍にいたいわ』
柄の悪い言葉にぎょっとするファウストとは反対に、青年は淡く笑い返す。
言葉はない。ただ君を眺めていたいとでも言うように微笑むだけだ。
平凡で凡庸な幸福を体現していた家族。
雪の結晶のように美しいものがないと知りながらも、器を作り上げようとしていた彼等。
彼等の傍で感じた世界は永遠と紛うような美しい夢だった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
時刻は午前四時を過ぎた頃、目覚まし時計の音で夢から浮上する。
近侍であり従僕でもあるファウストの朝は早い。地下室に窓はなく、爽やかさとは程遠い目覚めだ。
半分眠ったままベッドから這い出して、部屋の隅にある洗面台で顔を洗ったところで漸く覚醒する。
鏡に映るのは黒い髪。特殊な染色剤で染髪しているので、専用の薬を使わない限り水で落ちることはない。勿論それだけでは変装にならないので目に色の付いたレンズを入れ、声も変える。
【死神】時代、潜入任務で培ったことがこんなところで役立つとは皮肉なことだ。
ホワイトシャツに、色を外したタイを締め――使用人は主人を立てて、敢えて流行遅れのものを着る――仕着せの背広とスラックスを合わせる。そうして身支度を完璧に済ませたら、部屋を出て広間へ向かう。
屋敷の一階より下にある階下――地下には様々な部屋がある。
厨房に食器室、ワインやビールの貯蔵庫、作業場、休憩室、男性使用人たちの寝室など。使用人の領域である階下には主人は立ち入らない。そんな場所で睨みを利かせているのは執事と家政婦だ。
広間へ行くと既にその姿があり、彼等から仕事の指示が出される。
仕える主人の異なるファウストにとってはあまり意味のない指示であるのだが、雑用はきちんとこなす。
新聞のアイロン掛けに、郵便物の仕分け。教会の下働き時代を思い出させる仕事だ。五歳で教会に預けられて十年下働きをして、十五歳で得物を持った。勤め上げて漸く解放されたと思えば、また下働き。中々愉快な経歴だ。
雑用をこなしている間にも時間は進み、他の使用人たちは主人を起こしにいく。
朝七時に侯爵夫妻を起こし、身支度を手伝う。それから九時に朝食の給仕をするのだ。
その間の八時には、下級使用人と上級使用人とに別れて食事を取る。
朝食後は一般的な貴族の屋敷では礼拝をするのだが、ヴァレンタイン家は新教派だ。来たばかりの頃、個人礼拝をしようとしたところ執事に睨まれた。よって、ここでは聖書すら読めないファウストは、この時間に主人を起こしにいく。
紅茶を淹れる道具一式をワゴンに乗せ、二階の吹き抜けの廊下を奥へと進む。
部屋に入ると、ひんやりと冷たい風が肌に触れる。
暖炉に火を入れ、カーテンを開ける。窓から入ってくるのは陽光ではなく雪の眩しさだ。
「お早う御座います。お目覚めの時間ですよ」
まるで雪の中に埋まるように布団の中に埋もれていた者の睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。
半分伏せられた目が宿しているのは明らかな不快感。ファウストが仕える小さな主の朝の機嫌が最悪なのはいつものことなので、気にする必要はない。
ベッドから起き上がる気配のない主の傍で紅茶の準備を始める。
ティーキャディから正確な量の茶葉を掬ってポットに入れる。ケトルからポットに湯を注いだら、砂時計で正確に時間を計る。この間にカップを温めておくことも忘れてはならない。
一日の始めに飲むアーリーモーニングティーはミルクをたっぷりと入れた濃い紅茶だ。
ミルクを入れることを計算して普段よりも熱めに淹れた紅茶を、漸く身を起こした主に差し出す。
「良いお目覚めですか?」
「……いいえ」
素っ気ない返事に愛想笑いを返す。これもいつも通りの朝の風景だ。
ファウストがクラインシュミット家の遺児である少年ルイシス――ルイスに仕えて半年が経った。
十一月の暗い空からは今日も白い雪が落ちてきている。
雪は醜いものも汚れたものも分け隔てなく包み込んでしまう。それは神の愛に似ているかもしれない。
例え、あなたがたの罪が緋のように赤くても雪のように白くなる。
聖書の一節にそんな言葉がある。これは人類全ての罪を背負って十字架に架けられた御子の愛が、信じる者の全ての罪を雪のように聖めるということである。
けれど、神は人に罰を与えない代わりに救いも与えない、というのがファウストの持論だ。
「あれはどうしている?」
「普段通り、部屋でピアノを」
午前の仕事を終え、昼食の給仕をするまでの自由時間に呼び出されたファウストを屋敷南の書斎にいる。
目映いばかりの金髪碧眼の青年はオーギュスト・エクトル。齡十八にして九歳の子供の父親になった男だ。
ファウストはヴァレンタイン侯爵である彼より、義息子の様子の報告を命じられていた。
「そうか。それなら良い」
簡潔極まりない報告を受けたオーギュストは、大人しくしているなら問題ないといった様子だった。
「恐れながら、旦那様。大変不躾なことをお伺いしても宜しいですか」
「何だ、言ってみろ」
「何故彼を引き取られたのです? 来月にはお嬢様がお生まれになるではないですか」
「アデルバート様には借りがある」
「それだけの理由ですか」
「他に理由が必要か?」
「…………いいえ」
恩返しという自己満足の為だけに引き取られた少年も迷惑なことだろう。
純粋に、跡継ぎにする為という理由だけの方が良かったかもしれない。
侯爵夫妻は少年にあるクラインシュミット夫妻の面影を見ているだけだ。本当に彼個人を見ている存在など何処にもいない。そしてそれはファウストも例外ではない。
(これもまた貴方の為に何かをした……という自己満足ですよね)
書斎を出た後、温室の庭師から花を貰ってきたファウストは使用人たちの使う勝手口から屋敷に入り、螺旋階段を上る。
少しでも慰みになればと花を見繕ったが、少年のそういった感性が凍り付いていることは知っている。
それでも世話を焼くのは、アデルバートとエレンの息子を見守っているのだという事実を作る為だ。
そう、これはエレンとの約束を守ろうとするファウストの自己満足に過ぎない。
鍵の掛かった部屋の扉を開けると、中にいた少年はざっと顔を強張らせた。
「なんで……勝手に入ってくるんですか……」
「私は侍従だからルイス殿の許可を取らずに部屋に入っても良いのですよ」
にこりと愛想笑いを向けてみても強張った表情はまるで消えない。
花瓶の花を入れ替え始めるとルイスは逃げるように扉の前へ行く。そこで意地悪な大人はこう訊ねる。
「人間が怖いのですか?」
彼は身体が弱く、あまり外に出ず、人とも関わらないので社交能力が低い。
けれど、彼の怯え方は母親の背に隠れていた時のものとは違う。
「醜いと思っていますか?」
「……人なんて……弱い存在から奪うだけの生き物じゃないですか」
「そうですね。貴方が見たものも一つの世の真実です」
自分を諭してくれた聡明な父親の喉が裂かれた姿と、自分を守ってくれた優しい母親の背中が割られた姿を見て、檻の中で人の命が売り買いされるのを見た。
ファウストは今までの人生でルイスが見た光景と同様の――それ以上に凄惨な現場を見てきた。
だからこそ断言できる。人間は醜悪な生き物だ。美しい者も醜い者も一皮剥けば、目を覆いたくなるような汚れが詰まっているのだ。
「悔しかったら強くなりなさい」
もう背中に守ってくれる親はいないのだから、とファウストはルイスを窘めた。
「どうして強くなる必要があるんですか」
「大切なものを奪われないように、何も奪われないように強くなるしかないのです」
「もう大切なものなんか何もないのに何が……?」
「ご自分の命は大切ではないのですか?」
「……父さんも母さんも兄さんもいなくなったのに……今更どうしろと言うんですか」
そう吐き捨てて背を向けるルイスをファウストは止めなかった。
大切な人たちの息子だから愛しいけれど、大切な人たちの愛し子だからこそ憎たらしい。
アデルバートとエレンに救われた命を粗末に語るなど不愉快だ。思わず握り潰した花が床に散る。
(私は向いていないのかもしれません)
約束を守る為だけに傍にいるのだから、それは本当の愛情とは言わない。
別の理由を見い出せば何か変わるのかもしれないが、あの様な自殺志願者に魅力を感じるのは無理だ。
今追えば余計なことを言ってしまう。だから、追わない。
静観したファウストがルイスの姿が消えたことを知ったのは、辺りが闇に包まれてからのことだった。
暗い空から降りしきる雪。
闇に溶けるような黒衣の肩に白い雪を積もらせ、血が染み込んだ手に白い花を持っている。その滑稽さに苦々しい気持ちになりながら、ファウストは町外れの墓地を歩く。
義息子が姿を消したことに侯爵は取り乱したりはしなかった。ただ何処か諦めたような顔をして、ファウストに迎えに行くように命じた。
今日はクラインシュミット夫妻の命日だった。
雪の降り頻る暗い夜の墓地に人影はない。
雪上に残された小さな足音を辿るように進んで行ったファウストは、三つ並んだ墓標の前で足を止めた。
一年目の命日だというのに供えられた花の少なさ。これが現実だ。
クラインシュミット夫妻は慈善家でもあったが、【上】の汚れ仕事を引き受けていた代行者だ。人々の感謝以上に恨みを買っている。そんな彼等に皆は関わりたいと思わない。何より、彼等の死は既に過去だった。
「花を持ってきました。お父様とお母様にお祈りして帰りましょう」
ファウストは片膝をつくと、雪の上に座り込んだルイスに花束を差し出した。
ぼんやりと墓標を眺めていた紫の目に白い薔薇の花が映る。
涙の代わりに、溶けた雪が頬を流れた。
やがて少年は白く冷たくなった腕に花を抱くと、小さく頷いた。
時刻は十一時を過ぎていた。使用人たちはまだ起きているらしく、階下から声が聞こえてくる。
ファウストはずぶ濡れの捨て猫のような主を浴槽に落とした。
服のまま浴槽に落とされ、湯を飲むことになったルイスは激しく噎せる。風呂の支度をしていた使用人たちは狼狽えるが、この程度で首にするのなら侯爵もそこまでの存在だ。ファウストは風呂の世話を命じた。
「その腐りきった生ゴミのような根性も綺麗に洗い流して貰いましたか?」
「あんたみたいな心が淀んだ奴の命令で洗われて綺麗になる訳がない」
「ははは、その通りですね」
主に対しての暴言をまるで気にしていない従者の様子に顔が歪む。ルイスは他人に世話をされるのが屈辱だったようで、普段の肩肘張った態度が見事に崩れていた。
子供は素直なことが一番だと感じるファウストは気分が良かった。
「はい、髪が乾きましたよ。今日はもう遅いですし、身体が冷える前にお休み下さい」
人が眠気を感じるのは風呂で上がった体温が下がってくる頃だ。
主がベッドに入る姿を見届けたファウストは暖炉の炎を消し、サイドテーブルのランプに手を伸ばす。
その時、それを遮る声が掛けられた。
「もう少し点けておいて」
「畏まりました」
普段このようなことを言わないので驚いたが、命日という日からくる不安定さもある。ファウストはルイスの言うようにした。
アデルバートの形見の懐中時計を握り締めたルイスはランプの明かりをじっと見つめている。
ファウストは壁際に控え、黙する。
この場にあるのは雪を乗せた風の音と、時計の針の音。その中に細い声が響く。
「……人は死んだらどうなる?」
「死んでみないと分かりませんね。ただ、霊になるとかいうのは死者に縋りたい人の願望だとは思いますが」
「夢にいつも父さんと母さんが出てくる。母さんが泣きながら、許さないって言ってる」
「夢ですよ、そんなもの。貴方の母親が息子を許さない訳がない」
「知ってる」
他人の罪を自分の罪のように苦しんでいた彼女は「雪のように清く在りたい」とずっと言っていた。
彼女が恨むとすれば、自分たちの幸福を壊した相手だけだ。
「知ってる……あの人たちはオレのことを恨んでない。だから……忘れない」
ルイスはファウストを呼ぶと、その手にあるものを押し付けるように差し出した。
「これは貴方の大切なものではありませんか?」
「だから……オレが平気になるまで預かって欲しい。オレはあの人たちのことを忘れない為に生きる」
歪な潔さにぞくりと寒気がする。ファウストはこの少年に対して初めて好感を懐いた。
けれど、ルイスは感動するファウストにこう釘を差す。
「誤解がないように言っておくと、花を持ってきたことは感謝するけど懐柔された訳じゃない」
「懐柔ですか」
「あんた、むかつくから」
「……ああ……そうですか。嫌われようが呪われようが祟られようが私は別にどうでも良いですけどね、どうでも。どうでも良いのですけれど、公の場では言葉遣いをお改め下さい。また、そういう本心は口にしてはいけません。貴方の品位が下がりますし、お父様の品格も疑われます」
「ここは公の場所じゃない」
「ルイス殿、それは屁理屈です」
「明日から起こしにこないで下さい。お休みなさい」
言いたいことだけ言って気が済んだらしいルイスは布団を頭まで被ってしまった。
都合が悪くなると笑顔で聞き流すアデルバートと、聞こえなかった振りをするエレン。どうやらルイスは彼等と同じ素質があるようだ。
(……これからどうしましょうか)
考えるまでもない。ルイスがアデルバートとエレンのことを忘れず、それでもヴァレンタイン家の義息子として生きていくのならファウストは助力するつもりでいる。
このこまっしゃくれた餓鬼を完璧な紳士に仕立てるのは大変かもしれない。
彼が【平気】になるまで――ヴァレンタイン侯爵家の跡取りがとして問題なくなるまで、道程は遠そうだ。
部屋を出たファウストは廊下の薄明かりの下、懐中時計を眺める。
銀鎖の付いたアンティーク時計の蓋には繊細な花の模様が彫刻されている。
これは、あの家族が作り上げようとしていた器の欠片のようなものだ。
いつか返す日がくる時まで大切に仕舞っておこう。
結果的に懐中時計を返したのは二年後だった。ファウストはその時、誓った。
「私がお仕えするのは貴方様のみ。貴方からの命令であれば全てお受けします。自らの命も惜しみません」
確かに初めはエレンの頼みに従っただけだった。
けれど、今は違う。
この人間らしい矛盾を抱えた――アデルバートの気高さと激しさも、エレンの優しさと切なさも持ちながらも、それとはまた別種の弱さを持つ――彼を傍で眺めていたいという思いがある。
レヴェリーの歪みも興味深いものはあるのだが、間近で鑑賞できるという意味ではこちらが面白い。
どんな歪な花を咲かせてくれるものか期待している。
だからどうか、期待に応えて欲しい。