落ちる少女と追われる兎 【4】
「シャワー浴びてきたら? 色々酷い」
目が覚めて、最初に様子を見にきた義弟がまず口にしたのはそんな言葉だった。
クロエは軽く落ち込む。
「レヴィくんってはっきり言うよね」
「オブラートにくるむだけ事実は残酷になるじゃん」
「今も充分残酷だよ……!?」
気配り上手なレヴェリーだが女心はちっとも分からない。ただ、酷い身形をしているというのは事実だ。クロエは勧められるままバスルームへ向かった。
ぬるめの湯を浴び、洗い立ての服に袖を通すと気分がさっぱりする。生き返った心地だ。
髪を乾かして部屋に戻ると、朝食が用意されていた。パンの甘い香りがふわりと鼻腔を擽る。
一昨日の夜から何も食べていなかったのだ。クロエは有り難くあたたかい食事を取る。
「まだ微妙に熱あんのな」
「そんなに無理したつもりはないんだけど……」
「オレも最初の時は疲れたし、仕方ないんじゃね」
荷造りに掃除に運送に荷解きにまた掃除。二週間の期間があったとはいえ、準備は慌しかった。何より、【クレベル】と【ロートレック】は環境が違う。レヴェリーは疲労は当然だとクロエを宥めた。
「今まで何回引っ越しているの?」
「んー、今回入れて三回かな」
「引越しで友達と離れるのは寂しいよね」
「いや? 寧ろ、悪い奴等と関係切れて良かったけどな」
レヴェリーが不良だった――ルイスと違う意味の――という噂は聞いているので、クロエは詮索をしない。
クロエの中でレヴェリーは可愛い弟だ。そのイメージをクロエは壊したくないし、レヴェリーも過去を掘り起こされたいとは思わないだろう。
「そういえば、お仕事始めるんだよね」
「来週からな」
レヴェリーは数件隣の砂糖菓子屋で手伝いをすることになっている。
菓子作りではなく店番で、小さな仕事なのだが、今まで自由に外に出られなかったレヴェリーは外の世界に出ることをとても楽しみにしている。
レヴェリーのそういうところを凄いとクロエは感じる。
クロエはどちらかというと新しい環境へは不安を覚えるのだ。馴染めるだろうか、上手くやれるだろうかと必要以上に心配して怖くなってしまう。けれどレヴェリーはそんなことはなく、期待に胸を膨らませている。
性格の違いと言ってしまえばそこまでだが、クロエは彼の前向きなところが羨ましい。
「私も何か探さないと」
「何やんの?」
「やっぱり花屋さんかな」
フラワーアレンジメントの本場と言われる【ロートレック】で働きながら学べたらどれだけ良いだろう。
職種を選り好みできる立場ではないと思いながらも、花に携わることがしたいという気持ちが消えないクロエだった。
「花屋って景気悪そうじゃね?」
「高級品だからね。【ロートレック】は良い方なんじゃないかな」
「ふーん?」
「ベルシュタインのお店は繁盛していそうな雰囲気あったもの」
クロエがいた【ベルティエ】では花は高級品で、庶民は手を出し難いものだった。【ロートレック】は自然が多く、花を愛でる文化もあるが、これより上は鉄の都市が広がっているような階層だ。
ディアナの収容されている施設の敷地内にある草木は人工のものだった。
緑の香りを付けただけの枯れない植物は、機械都市の理に敵った芸術品だ。【ベルティエ】や【クレベル】の中心部には既にその兆候があるが、いずれは全てそうなっていくのだろう。
花というものの文化は世界の景気とも関係している。この時代では難しい職業と言われてしまうのも仕方のないことだった。
「まあ、無理しない程度に頑張れよ」
「うん、ありがとう。無理はしないから安心して」
行動が極端だと指摘され、実際自棄になり易い性格だという自覚もあったクロエは焦るつもりはない。
クロエのはっきりとした返事を聞き届けたレヴェリーは席を立った。
「もう行っちゃうの?」
「オレいたら落ち着かないだろ」
「そんなことないよ。レヴィくんがいてくれると楽しいし」
「つーか、オレがめんどい」
「えー……」
「ちゃんと寝てろよ。部屋から出ちゃ駄目だからな!」
ルイスは辛い時は頼っても良いのだと言ってくれた。
しかし、頼った結果がこれだ。ある意味リアルな身内らしい反応と言える。
姉に尽くす弟なんて現実にはそうそういない。一人っ子のクロエは兄弟というものに憧れを抱いているが、現実の兄弟とはそういうものだ。
引越しから三日が経ち、荷解きは順調に進んでいる。
クロエが眠っている間にリビングやキッチンといった生活の中心部の整理はすっかり終わり、旧居と変わらない団欒の空間となっていた。
眠っていることにも飽き、部屋を出たクロエは仕事を求めて歩き回る。向かったのは店だ。
店へと足を踏み入れたクロエは感嘆の声を上げる。
以前の店は広さもあり、カフェのような開放的な洒落た空気があったが、今度の店はこぢんまりとしながらも重厚感ある空間だ。客席もカウンター席の他に、三組のテーブル席があるだけと規模が小さい。
都会と田舎では客層も違う。また、個人で切り盛りをするとなるとこれくらいの規模が丁度良いのだろう。
新しく生まれ変わった店を見て回っていると、扉が開いた。
店へ入ってきたのは外に出ていたエルフェだ。彼は灰色に近い碧眼をクロエへ向ける。
初めて出会ったのも、こんな状況だった。
あの時、鋭い眼光に当てられたクロエは死神に出会ったようだと怯えたが、エルフェがあたたかい血の流れる人間だということはもう知っている。
「お帰りなさい、エルフェさん」
「ああ」
クロエの出迎えに応じたエルフェは、手に下げていた紙袋をテーブルへ置くと中身を出した。
エルフェは取り出したコーヒー豆を密封瓶へと移し替えていく。
美味しいコーヒーを淹れる条件の一つに、新鮮なコーヒー豆を使うということがある。コーヒー豆は生鮮食品と例えられるほど鮮度が重要な素材だ。焙煎したての豆が一番だというのは勿論だが、保存にも気を遣わねばならない。
言葉少なに作業をこなす彼は仕事人間だ。そして、仕事をする男性というのは魅力的に見えるものだ。
ケーキ以上に彼目当ての女性客がいることも頷ける、とこっそり思ってしまうクロエだ。
ただそれは年長者に対しての憧れであって、異性に対する陶酔などではない。クロエにとってエルフェは不埒な感情を向けようがない存在だ。
「何か手伝うことはありませんか?」
「大人しく寝ていろと言っただろう。休むことが仕事だ」
「充分休みました」
「駄目だ。明日の夜まで部屋にいろ」
「明日まで休めば起きても良いんですか?」
「熱が下がっていればな」
「じゃあ、休みます」
意地を張らないで素直になろうと最近クロエは考えている。
大人しく部屋に戻ったクロエは膝にブランケットを掛け、読書をして過ごすことにした。
風に当たりながら物語の世界に想いを馳せていると、つい時間を忘れてしまう。
本を読み終える頃には空は夜の藍を混ぜたような色へなっていた。
クロエは部屋の明かりを点ける。それから暫くすると、部屋の扉が唐突に開いた。
「調子良さそうじゃない」
「お陰様で元気になりました。……というより、ノックする気はないんですか?」
「明かりが点いてるから入ったんだよ。それにお前がくたばっていようが人に見られて困ることをしてようが僕には関係ないしね」
ヴィンセントはそのにこやかさが却って毒々しいような笑みを浮かべていた。
この男に人権を訴えても無駄だとクロエは隠すこともせずに溜め息をついた。
「僕が折角看病してやろうっていうのに全然嬉しそうじゃないよね」
「ヴィンセントさんが食事を持ってくるなんて怖いです……」
ヴィンセントの手にはオートミールが入っていると思しき鍋があった。
妙なものを餌付けされていた経験と、毒林檎を勧められた記憶から、クロエはヴィンセントが持ってくる食べ物は信用できない。
机に置かれた鍋の蓋を恐る恐る開ける。すると、甘い香りが立ち上ってきた。
「何ですか、これ……」
「ココア風味の兎粥だよ」
「嫌がらせですよね……!?」
ライスにココアパウダーを掛け、兎肉と煮込んだものを突き付けられたクロエは息が詰まった。
どうして誰もこれを阻止してくれなかったのだろう。これは食という文化を冒涜している。食材に対して失礼だ。
「安心しなよ。お前の大切な子供はもっと肥えさせてから食べるから」
「そ、そういう問題ではなくて、これはどのような曰くのある料理なんです……?」
「ディアナに教えてもらったんだよ」
「お母さんはこんな変な料理は作りません。莫迦にしないで下さい!」
「確かに肉を入れたのは僕のアレンジだけど、ココア粥なんて巫山戯たものを作ったのはディアナなんだから全部こっちの責任にしないで欲しいなあ」
「だからそのアレンジが可笑しいんですっ!」
「ごちゃごちゃ言ってないで食べなよ。鍋ごと口に捻り込まれたくないだろう」
ココアパウダーだけならまだデザートとして通用したというのに、どうして肉を入れるのだろう。
大体ふざけたものだと感じる心があるのなら何故作るのだ。これは嫌がらせ以外の何物でもない。
「うわあ、歓喜で震えるほど美味しいんだ? 明日の朝も作ってあげようか」
「お気持ちは嬉しいですけど、遠慮します。これなら何も食べない方が良いです」
「随分な言い様だね。僕が折角作ってあげてるのに」
「悪意しかないじゃないですか!」
「あははは! 何でお前に善意を向けなきゃならないわけ」
「……はあ……」
クロエは双子に料理を手伝わせつつ教えてもいるのだが、ヴィンセントには手伝わせる気にもなれない。
生臭さと甘さがコラボレートしたこの料理は世の中に存在してはいけないものだ。ある意味、ヴィンセントという人物の内面を体現した素晴らしい作品かもしれない。
人の礼儀として黙って食べ進めていくクロエをヴィンセント嬉しそうに見つめる。
「見られていると食べ辛いんですけど……」
「飼い主としてお前という人間を観察してるんだよ」
飼われているつもりはないクロエは表面上は聞き流しながら内心呆れた。
外法のヴィンセントにとって人間は、人間にとっての動物のような存在なのかもしれない。それでも人間を観賞するのは歪んだ趣味だ。
だが、公言して堂々と行うだけ良いのかもしれない。
少なくともヴィンセントは【あの人物】より自他へ素直だ。
ひと月前に言われたことを思い出して、クロエは胸がもやもやするような不快感を覚えた。
「あの……ちょっと気になることがあるんですけど、ファウスト先生ってどういう人ですか?」
「うわ、お前ってああいうのがタイプなんだ。悪趣味だね」
訊ねた瞬間、ヴィンセントの笑みが凍った。
笑んだまま表情が固まるのでとても怖い。クロエはつい癖で首を竦めてしまう。
「そうではなく、どういう人なのか知りたいんです。エルフェさんのお兄さんなら、私にとって義伯父さんですから」
「だからって、何で僕に訊くわけ? ルイスくんに訊けば良いじゃない。僕やエルフェさんに訊くより客観的な意見返ってくると思うよ」
「訊ける訳ないじゃないですか」
「何でさ?」
「何でもです」
ファウストのことを訊くならルイスへ、ルイスのことを訊くならファウストへが一番良いだろう。何せ十年来の付き合いなのだから、良いところも悪いところも知っているはずだ。
だが、理由が理由だ。
月の美しさに見惚れていたいだけなら近付いてはいけない。裏社会に属し、闇に身を浸すような者には関わってはいけない。あの警告は、ヴィンセントやルイスへ干渉するなと言われたようなものだ。
何故、交友関係に口出しされなければならないのだろうとクロエは感じた。あの小馬鹿にするような態度には少しばかりかちんときている。
医者の仮面を被っている時は和やかな態度で隠されているが、素で喋っている時のあの人物はえぐみが強い。
悪意しかないヴィンセントと違い、あの人物の場合は悪意がない代わりに善意もない。
悪意も善意もないというのは、人が踏み留まる境界線を躊躇いなく越せるということではないだろうか。正直、クロエは次に会った時に色眼鏡で見ない自信がなかった。
「猫被りだよ」
「はい、それは前にも聞きました」
三味線を弾いている――相手に合わせて適当に話しているのだと本人も白状している。
実際、ファウストの言動は社交辞令と冗談が殆どだ。軟派な貴族というのも人間関係を円滑にする為の演技だろう。
「医者でも兵士でも命の遣り取りをしている奴って精神が強靭か、何処かいかれてるの二タイプじゃない? あれは後者で、頭のネジが外れている危ない奴。でも、首輪付きだから上には忠実だよ。主人の命令なら自分の宝物も平気で捨てるだろうね」
ファウストも致命的にネジが緩んでいるヴィンセントには貶されたくないだろう。
(ヴィンセントさんとルイスくんと先生が月側なんだっけ)
基本的には優しい人なのだとは思う。他人の幸福を共に喜んで微笑み、悲嘆を哀れみ涙するような人物。不公平で残酷なヴィンセントや、公平で冷淡なエルフェよりも余程人間らしい人だ。
そうなのだと理解していてもクロエはファウストが苦手だ。そうだと感じてしまった。
「もっと知りたいならディアナに訊いたら? ギルドの仕事で関わりあったみたいだし、何か聞けるかもよ」
「ギルドって何です?」
「裏社会の斡旋所だよ。殺人とか人身売買とかいう方面の仕事のね」
「そう……ですか」
また物騒な事実が出てこないだろうなとクロエは構えてしまう。
ヴィンセントたちとディアナのことについて、クロエはこれでもショックを受けているのだ。
今はディアナが眠っているから小康状態を保っているだけで、彼女が目覚めれば事態は動いていくだろう。
これ以上、母親と自分のことで何かあったらクロエは耐えられる自信がない。
今が底辺だからこそ、這い上がって見返してやろうという気持ちになっているのだ。これ以上のどん底は有り得てはならない。
「あいつ、ディアナの居場所も知ってたようだし捻り潰したいよ」
「……え? 知っていたんですか?」
ヴィンセントの低い呟きに、クロエは顔を上げた。
「僕たちがディアナのこと探してるって知っている癖に知らん顔してたんだよ。陰険だと思わない?」
仲の悪い相手に情報を渡さないだろうと思いながらも、命が惜しいクロエは口には出さない。
(もしお母さんが見付かっていたら……)
もしも、クロエが眠っている間にディアナが見付かるようなことがあったらどうなっただろう。
無抵抗のまま始末されていたかもしれないと考えると背筋が冷たくなった。
(でも、先生が私を庇う理由も、お母さんを見逃す理由もないよね)
ファウストが反逆者のディアナを野放しにしておく理由はない。きっとヴィンセントに協力したくなかっただけだ。
「兎に角、物騒なことは止めて下さいね。ヴィンセントさんに何かあったらお母さんも悲しみますから」
「お前は悲しんでくれないの?」
食事を再開するクロエをじっと見ていたヴィンセントは不愉快そうな面持ちで訊ねた。
「貴方に真っ当に生きて欲しいって常々思っていますよ」
「お前は何様だよ」
問い掛けには答えず微笑むクロエを前に、ヴィンセントは益々苦々しい表情になる。
クロエはヴィンセントに生きて欲しい。生きることが彼の償いにも救いになると考えている。
彼には真っ当に生きて、彼女とやり直すにしろやり直さないにしろ、きちんとした決着を付けて欲しい。
できれば、皆が幸せになれる未来があれば良い。
その未来へと続くこれからの日々が平穏でありますようにと願わずにはいられない。