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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
第二部 序章
120/208

落ちる少女と追われる兎 【3】


「わあ、綺麗……!」


 狭い路地と階段を通って高台にある教会へとやってきたクロエは感嘆の溜め息をつく。

 周りに菜の花(アブラナ)が群生していて、教会はまるで黄金の芝生に浮かんでいるように見えた。

 空の青さも見る見るうちに濃くなって、気持ちまで晴れ渡っていくようだ。


「お目出度い色をした花だね」

「ヴィンセントさんの髪の色ですね」

「へえ、雑草と同じ色か。お前、喧嘩売ってる?」

「菜の花からは油が取れますし、立派な植物ですよ。莫迦にしちゃ駄目です」


 興味のない人から見れば菜の花は道端の雑草だが、種からは油を取ることができる。また、その色鮮やかな花は春の訪れを告げるものだ。

 菜の花が何たるかを語るクロエにヴィンセントは冷めた目を向ける。


「枯れる花なんて意味がないじゃない」

「花は枯れるからこそ美しいんだって言いますよ」

「それはお前の価値観だ。押し付けるなよ」


 ヴィンセントにとって、枯れてしまう花は儚くなってしまう人の命を思わせるのかもしれない。彼の青緑色の双眸はクロエを通してディアナを見ているようだった。

 この問題に関して自分と彼は決して相容れることはない。クロエは彼の心を傷付けないように口を閉ざす。

 菜の花畑から離れたクロエは高台から望める景色に目を向けた。

 湖面が陽光を受けてきらきらと輝いている。空の青と湖の青のコントラストが何とも美しい。

 テーシェルは周囲長約二キロメートルの湖を囲むように作られた町だ。自然豊かな田舎町は観光地であり、保養地でもある。外から訪れる者たちは湖上遊覧を楽しんでいく。

 人々を癒すテーシェルの湖。けれど、人造湖に生物は存在しない。


「私、端の町に行ったことないんですけど、どうなっているんです?」


 三千万の人間が暮らす【アルケイディア】は、塔に寄り添って作られた世界だ。

 クロエは今まで支柱の中央塔(シャンバラ)の比較的近くで育った。ここテーシェルは都心からは離れているが、これより遠い場所はまだ存在する。

 ここが塔の上の世界というならば、最端はどうなっているのだろう。そんな素朴な疑問が沸き上がった。


「端はウォール街って言われていて、名前の通り壁があるんだよ」

「壁、ですか」


 【アルケイディア】の構造は例えるとピザだ。

 中央塔を軸に、間隔を空けて八枚の生地が重なっているようなもの。つまり、(はし)の部分には何等かの柵がなくては人が危険に晒されてしまう。

 壁があると聞かされてクロエは納得したが、そのようなものがあっては住民が窮屈ではないかと感じた。


「誰でも行ける場所ですか?」

「端の町は貧乏人と家畜が住む場所だから好き好んで行く奴はいないし、基本的に表に出さないね」


 そう語ったヴィンセントはクロエの無知を咎めるようなことはなかった。

 嫌味の一つや二つを言われると思っていたクロエは意外に感じる。だが、このような時の彼は比較的まともだ。年若の者に何かを教えようとする時の態度は年長者のものだ。普段は大人げない言動ばかりのヴィンセントは、クロエよりも長い時間を生きている大人だった。


(対岸の町の向こうにライゼンテールがあって、その向こうにウォール街があるのかな)


 柵に手を掛け、身を乗り出す。丁度その時、湖からの照り返しが目を突き刺す。強い目眩に襲われ、クロエの身体はぐらりと傾いた。


「……当て付けで飛び降りなんて良い趣味だなあ」


 高台から落下しそうになるクロエの襟首を掴んだヴィンセントは悪人めいた笑みを唇に乗せる。

 しかし、クロエは当て付けで身投げをしたりはしない。ヴィンセントもすぐに異常に気付き、笑みを消した。


「死に掛けの魚みたいな顔だね」


 首根を掴まれたクロエはぐったりとしていた。






 高台で体調を崩したクロエはヴィンセントに引き摺られて帰ってきた。

 引越し疲れだった。

 高が引越しで熱を出すなんて情けないとクロエは恥じるが、引越しというものは本人が考える以上に心身に負担を掛けるものだ。

 ベッドに横になったクロエの額に、レヴェリーは気遣わしげに濡れタオルを置く。


「大丈夫かよ?」

「迷惑掛けてごめんね……。朝ごはん作らなきゃいけないのに……」

「家事は適当にやっとくから気にすんなって。エルフェさんもまだ店開ける気ないっぽいしさ」

「折角の連休なのに……」

「まあ、今日はあったかくして寝てろよ。元気になったら出掛けようぜ」


 落ち込むクロエに、レヴェリーは別室から持ってきた毛布を被せていった。

 この季節に毛布三枚というのは暴挙に等しかったが、暖かいに越したことはないとクロエは自分に言い聞かせ、眠りについた。






 目が覚めると辺りはうっすらと赤らんでいた。

 視界はぼんやりと霞んで、頭の中もはっきりとしない。身体は熱い。

 クロエはベッドに横になったままぼんやりと考え、視界が赤いのは部屋に夕陽が射し込んでいるからで、熱さを感じるのは毛布に包まれているからだと理解する。


「あついよ……」


 寝汗で服も髪も濡れていて気持ちが悪い。

 過剰に掛けられた毛布を剥ぎ取ると幾等か気分が良くなり、クロエは額の上の生ぬるいタオルを取った。そこで喉が渇ききっていることに気付く。これだけ汗を掻いたのだから喉も渇くだろう。

 熱があり、頭がすっきりしない。水分補給と着替えをしたいと思うものの、身体が怠くて動く気が起きなかった。


(風、浴びよう)


 クロエは身体を起こして窓を開けると、そのままベッドに突っ伏した。

 夕方の風は涼やかで気持ち良い。風は仄かに甘い香りを含んでいる。

 何処かの家庭の夕食か、それとも屋台のパンケーキの匂いか。何にせよ、幸福な香りだ。

 家族と囲む食事も、友人と楽しむ茶も、クロエの望んで止まない平凡な日常だ。

 このままもう一眠りしてしまおうか。そう考えた時、不意に扉が叩かれる。誰だろう、とベッドに突っ伏したままクロエは扉を見る。


「起きてる?」


 扉越しに聞こえたのは低過ぎもせず高過ぎもしない曖昧な音程で、けれど良く通る声。ルイスだ。

 安堵して手足の力を抜き掛け、すぐに身構える。クロエが毛布を被るのと扉が開くのはほぼ同時だった。


「な、なん……っど、どうして貴方は勝手に入ってくるんです……?」

「ノックはしたけど」

「入って良いですよって返事してないじゃないですか」


 堪えようと思いつつも声は刺々しくなってしまう。すると、溜め息が混じりの声が返ってきた。


「いつかのように引き籠っている可能性だってあるだろ」

「そう何度も立て籠りません」


 これでもマシな方だと――ヴィンセントとレヴェリーはノックすらしない――分かっていても、気持ちは収まらない。なまじ礼儀のあるルイスだからこそ、言いたいことがある。

 クロエはずるずると毛布を被ったまま、眼差しだけで訴えた。


「別にキミを取って食おうという訳ではないし、冷やかしにきた訳でもない。水を持ってきただけだよ」


 警戒も露な目を向けられたルイスはサイドテーブルにグラスを置き、水差しから水を注いだ。

 水差しの中で揉まれた氷がカランと涼しげな音を立てる。

 干からびているクロエにはグラスの水が何よりも素敵なものに見えた。だが毛布から出る訳にもいかず、ただじっとするしかなかった。

 ルイスは毛布から顔半分を出したまま固まっているクロエを見て極々平淡に訊ねた。


「それで息ができるのか?」

「察してくれませんか……」

「何を? 言われなきゃ分からない」

「ですから、その……酷い格好、しているので」


 寝汗で身体は汚れ、髪も服も散々なことになっている。最低の姿をしているのだ。他人にあまり見られたくはなくて、せめてもと目の下まで布団を被っていた。


「何を今更」

「今更じゃないです」

「オレの方がキミ以上に酷い姿を晒しているんだ。気にすることでもない」


 肺炎を患った際、ルイスは数日間夜も眠れないほどに苦しんだ。それ以外でも度々寝込むことがある。

 自分に比べれば遥かに良いとルイスは慰めるようなことを言うが、クロエはちっとも救われない。

 どれだけ酷い身形をしていたとしても、最低は最低なりに少しでもまともな姿を見せたいというのが女心だ。

 けれど、意地を張る意味がないことも重々承知している。

 観念してベッドから這い出したクロエはグラスを受け取った。

 一口飲むと口の中に檸檬の香りが広がる。

 心地良くて、心が落ち着く。この涼やかな味のする水を口にするのは何度目だろう。檸檬の香りがやけに胸に沁みて、下らない意地がぽろぽろ剥がれていく。


「こうして世話を焼いてもらうの、三度目ですね」


 クロエが【棘】を出したのは理由がある。平常時なら部屋に踏み入れられたくらいで怒りはしない。

 堪えられなかったのは、また彼に迷惑を掛けたということだ。


「いつも済みません」

「嫌ならこないから気にしなくて良い」

「そういう訳にはいきません」

「どうして?」

「可憐でもないお前が臥せってもつまらないって言われちゃいましたし」


 看病し甲斐のない存在だとヴィンセントははっきり言ってくれた。

 クロエは自分に可憐さが備わっているとは思っていないが、そこまで言われると傷付くものがある。ただ、素直に礼を言えず、卑屈な謝罪ばかりをする自分は可愛げも構い甲斐もない、面倒な人間だという自覚はあった。


「表面上の美しさなんて目を曇らせるだけのものだろ」


 どうしてそういうことを平然と口にするのだろう。下手をすれば、嫌味にしか聞こえないというのに。

 胸がもやもやとする。嬉しいようなそうではないような気分になる。

 ルイスが何をしたという訳でもないのに泣きたい気分になった。クロエはベッドの中へ戻って壁を睨む。


「ここ、座るよ」

「……どうぞ」


 固く蕾を閉ざす冬の花フルール・イヴェルナルようにすっかり頑なになってしまったクロエ。

 ベッドの縁に腰を下ろしたルイスは暫く悩むような素振りを見せてから口を開いた。


「本当に迷惑を掛けたくないなら、一時的に他人に頼ってでもさっさと治せ。下らない意地を張って病んでいられる方が余程迷惑だと言われたことがある」

「……あの……それ、誰に言われたんです?」

「クラインシュミットの父親」

「わりと厳しいこと言いますね。ちょっと傷付くかも……」

「性格悪いんだ」


 子供にそのようなことを言うのだから性格が悪い、とルイスはつまらなそうに言う。

 彼が慕うクラインシュミット夫妻は心優しい人物だと想像していたクロエは意外に感じた。

 レヴェリーからも仄めかされていたが、ルイスから語られる父親はシニカルだ。父親と共に過ごしたのが幼少の一時期とはいえ、ルイスの人格形成が分かるような気がする。

 双子は甘やかされただけではないようだ。叱って(あいして)くれる親がいて良かった、とクロエは安堵する。


「つまり、意地を張って余計に体調を崩したら元も子もないと言いたい訳ですか」

「ああ」


 要は体調が悪い時は素直に他人に助けを求めろ、と言っているのだろう。

 自分の傷を見せた上で、話を聞こうとする姿勢にクロエは絆される。

 良い意味でも悪い意味でもルイスはこうなってしまった時のクロエのあやし方を知っていた。


(不謹慎、かな)


 密かな本音を言えば、クロエはルイスに世話を焼かれるのが好きだ。構ってもらうことというよりは、こうして二人で話をすることが好きだ。

 楽しいとかそういうものではない。ただ安らぐ。心に空いた穴が塞がっていくような気がする。

 クロエは他の皆といる時のルイスが少し苦手だ。

 演技をしているようで、怖い。肩肘張った態度は出会った時も感じた。あの怜悧さにクロエは心の底から怯えたのだ。クロエといる時は穏やかということでは必ずしもではないが、少なくともこうして話している時は棘はない。

 もしかしたら、こちらと接する時の態度こそが偽りなのかもしれないけれど。

 そうだとしても、この時間に癒されている。気付いた時には寄す処と感じていた。最近クロエは、自分がこんな可笑しなことを考える人間だったのかと思い知ってばかりだ。


「貴方は私と違って優しいから、羨ましいです」

「……オレはキミが羨ましい」

「私に羨ましがるようなところなんてないじゃないですか。凡才で何の取り柄もないです」


 クロエは非凡でありながらも凡庸だ。唯一誇ることのできる頑丈さもまるで役に立っていない。ルイスが望むようなものなど何もないはずだ。


「普通なら……凡庸なりの平和な人生を手に入れられる」

「貴方の言う平和な人生って?」

「家族と一緒に暮らすこと」


 クロエは言葉を返せなかった。

 ルイスが家族と認めているのはクラインシュミット夫妻とレヴェリーだけだ。

 そのクラインシュミット夫妻はもうこの世にはおらず、唯一の肉親のレヴェリーは新しい家族を見付けてしまった。ならばルイスは一体何を寄す処にすれば良いのだろう。

 家族と共にいるという夢を奪われ、人生を諦観した彼にできることは敵討ちをするくらいだ。


「キミにはレヴィにレイフェルさん、母親、それにローゼンハインがいる」

「どうして貴方が含まれていないんですか」


 振り切るように咄嗟に発した言葉にクロエ自身戦慄(わなな)いた。

 何を言っているのだとルイスは戸惑うような哀れむような目をする。クロエは慌てて別の話題を探す。

 今の言葉は最悪だ。訝られて当然だ。

 熱で頭がやられているとしか思えない。何ということを口走ってしまったのだろう。


「オレはキミの親でも兄弟でもないよ」


 そんなことは分かっている。それでも。

 溢れ落ちそうになるその一言を、クロエは必死に胸の奥へと押し戻す。

 辛い時に優しくされたからといってその相手に縋るのは間違えている。それでは寂しさを埋める為に近付くようだ。傍にいたいというのはエゴでしかない。

 これ以上、自分に失望するようなことを考えたくないクロエはきつく目を閉じる。

 窓から吹き込んでくる風が頬を撫で、髪を揺らす。

 赤い夕陽を受けてクロエの蜂蜜色の髪は蜜柑色に染まっている。輪郭を伝い、肩から流れ落ちる髪を見つめるルイスは手を伸ばした。

 額へひんやりとした手が触れる。クロエは驚いたが、辛くも目は開けない。

 熱があると疑われているのだとしたらそれが良い。病で弱気になったから出た言葉なのだと聞き流し、立ち去ってくれることを祈る。

 額に触れていた手はやがて髪を撫でた。

 思い掛けない反撃にクロエは心臓が跳ねる。ルイスは素知らぬ顔で髪を梳く。

 汗を掻いているのに気持ち悪くないのだろうか。クロエは不安になるが、彼は気にした風でもなかった。


(……なんでこんなこと)


 どうして彼はいつもこのような触れ方をするのだろう。強くなりたいと願う気持ちを掻き消すようなことを。

 それに、とクロエは考える。

 誰にでもこのように優しくして、相手が勘違いでもしたらどうするのだろう。

 彼にとってはうさぎを構うことと同じこと。そう理解はしていても思うことはあるのだ。

 友人だから優しくしてもらえるのだと、いっそ勘違いしてしまえたら幸福になれるのだろうか。

 見上げてみても彼は話さない。眼差しで問うてみても何も答えない。ただ、表情は穏やかだ。

 さやさやと風が吹き抜けていく。

 窓の外にはきらきらとした夕焼けの空が広がっている。

 会話がなくても時の経つことが苦にならなかった。沈黙は優しく、クロエの心を満たす。

 幸福の甘い香りをすぐ傍で感じたような気がした。

 つい微睡みそうになる。そんな感傷を断ち切るかのように窓の外から鐘の音が聞こえる。時を知らせるその音は五度鳴り響いた。


「……今日はあちらの家へ帰るんですよね。早くしないと暗くなりますよ」


 教会の鐘の余韻が消えない内にクロエは口を開く。

 ルイスは休日に合わせて屋敷に戻るということを先日語っていた。このテーシェルからベルシュタインまでは鉄道で一時間掛かる。ここで油を売ってる時間はないはずだ。


「私に捕まった、という口実で時間稼ぎなんて止めて下さいね」

「キミは性格が悪い」

「お陰様でしぶとくなりました」

「面白くないな」


 そう言って顔を顰めたルイスは悪巧みが見付かった子供のようだった。

 もしかしたら、そんな意図はないのかもしれない。何だかんだでいつも折れるルイスのことだから、善意でここへきたのかもしれない。

 けれど、クロエが敢えて生意気な口を利いたのは、これ以上は互いにとって良くないと判断したからだ。

 歩み寄りすぎれば、互いの領分を侵すことになる。

 ルイスは腰を預けていたベッドから立つと窓を閉め、カーテンを引いた。部屋が闇に染まる。


「オレは行くけど、大人しく休んでいること」

「貴方も気を付けて帰って下さい」


 扉は閉まり、足音も淀みなく遠ざかっていく。

 薄闇の中に残されたクロエはそろりと起き上がる。


「ちゃんと休もう」


 ルイスが言うように、意地を張って長引かせる方が皆に迷惑を掛けてしまう。寝間着に着替えたクロエはもう一度水を飲むとベッドへ潜り込んだ。

 カーテンを隔てた先では漸く太陽が沈んだ頃だった。

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