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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
第二部 序章
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落ちる少女と追われる兎 【2】

 引越しの翌日、ヴィンセントはひと月振りに家へ帰ってきた。

 入院をしたことで身体の具合はすっかり良くなったようだが、その自己中心的で横暴な性格までが快方へ向かう訳もない。

 皆が引越しの荷解きに忙しく動く中、ヴィンセントは悠々と寛いでコーヒーブレイクをしていた。

 最早文句を言う者はいない。諦めた方が楽だと誰もが悟りを開いている。

 そんなこんなで一日が始まり、昼の休憩時間、皆は新しい【家族】を囲んでいた。

 長い耳の曲線とクリーム色の毛並みが美しい彼女は、片手に乗るほどに小さなうさぎの子供。メルシエが引越し祝いに連れてきたそのうさぎは皆の心を掴んだ。


「退院祝いにうさぎのシチューでも作ってくれるわけ?」

「何故そういう考えに至るのかが分かりません」

「食べることは生きていく上で一番大切なことじゃない」

「そんなに食べたいなら自分の腕でも齧っていたらどうですか」

「何なのかな、ルイスくん。構って欲しいの?」


 ヴィンセントはここ数ヶ月で同じ目線の高さになった子供の身長を縮めようと手を伸し、頭を押し込もうとするが、黙ってそうされるルイスでもない。するりと抜け出したルイスはクロエとレヴェリーの元へ行く。

 舌打ちしたヴィンセントはダイニングテーブルについてコーヒーを飲む。そしてカップを置くと、向かいの席に座るエルフェに愚痴をこぼした。


「あそこの空気が弟妹でもできた姉弟みたいで凄くムカつくんだけど、殺して良い?」

「ならば帰ってくるな。あんたがいると収集がつかなくなる」

「僕がいなくても収集なんてつかないと思うけどなあ」


 大人たちが物騒な会話が繰り広げられるすぐ傍のソファでは、子供たちがうさぎを愛でている。

 クロエは膝の上の小さくてあたたかい存在をそっと撫でた。


「クリームヒルト」


 うさぎの名前はクリームヒルトという。カスタードクリームのような毛色からそう命名した。


「手触り良いよなあ」


 レヴェリーはクロエの膝の上で寛ぐうさぎの頭を撫でる。

 うさぎが大人しいのを良いことにべたべたと触る二人に、ルイスは呆れたように言う。


「あんまり触るとストレスを与えるだけだと思う」

「お前知らないの? うさぎって寂しいと死ぬんだぞ」

「寂しいとではなく、寒いとだよ」

「だったら尚更構ってやらないと駄目じゃん。なあ、クリーム」

「クリームヒルトもお兄ちゃんに遊んでもらえて嬉しいよね」


 クロエも無理に触ろうとしている訳ではない。

 まだここへきたばかりで皆に慣れていないうさぎに、ここが安全な場所なのだと教える為に触れ合おうとしている。嫌がる素振りを見せればすぐにケージに戻すつもりだった。


「へえ、そのうさぎってクリームヒルトっていうんだ? 悪趣味な名前だなあ」

「何がいけないんです?」

「分からないなら良いや」


 ヴィンセントは意味深に子供たちへ微笑み掛けた。

 その笑みは一見穏やかだが、クロエには毒気にまみれたものに映った。

 目鼻立ちがどれだけ整っていても、幾ら猫被ろうとも、クロエにはヴィンセントが腹黒い人物にしか見えない。目の保養などとうっとりすることはできなかった。


「ヴィンセントさんも抱っこしてあげて下さい」


 極悪非道の悪魔でも、か弱い小動物に触れれば愛しく思わずにはいられなくなるだろう。

 しかし、彼は席から動くことはなかった。


「僕、爬虫類以外の動物って嫌いなんだよね」

「爬虫類って蛇ですよね」

「うん、あの知性を感じさせない虚ろな目と、しっとりとした手触りが堪らないよ」

「はあ……」


 意思のある円らな瞳とふさふさとした手触りの動物が好きなクロエは、ヴィンセントの語る爬虫類の魅力があまり分からない。


(お母さんも好きだったっけ)


 幼いクロエが猫を飼いたいとせがむと、ディアナは決まって「蛇にしよう」と言って怖がらせた。子供を黙らせる為の脅し文句だったのかもしれないが、本当に蛇が好きだったとしたらやはりヴィンセントとディアナは似た者同士だ。

 そんなことを考えていると疲れてくる。クロエは膝上のぬくもりに意識を集中させた。


(あったかい)


 ふわふわとして、ほんのりとあたたかい。

 生後五週間だといううさぎは育ち盛りとはいえ、まだとても小さく頼りない。クロエは庇護欲が擽られて仕様がなくなる。


「クリーム、おやつだぞ」


 レヴェリーは餌付けをしている。

 ドライフルーツを小さな口で啄む姿がまた可愛らしくて、クロエは思わず涙ぐみそうになった。

 レヴェリーがどんどんフルーツを口許へ運ぶので、うさぎもどんどん貪っていく。クロエは感嘆の溜め息をつく……と、その時、横から手が伸びてきてうさぎを拐っていった。

 突然のことにクロエは目を(しばたた)かせ、レヴェリーは誘拐犯を睨む。


「っんだよ」

「食べさせすぎだ」


 ルイスは掌に掬ったうさぎの額を撫でてからケージに戻した。

 どうやら動物の味方の彼にとって、クロエとレヴェリーの構い様は気に食わなかったらしい。

 眦を吊り上げていたレヴェリーは、弟のその反応を受けて呆れた顔になり溜め息をついた。


「嫉妬してクロエのこと苛めんなよ……」

「しないよ」

「どうだか」


 クロエがうさぎに掛かりっきりになることでルイスが嫉妬をするはずがない。彼は嫉妬とは無縁の人間だ。

 だが、レヴェリーが言っているのはそういうことではなかった。


「子供は親のものではなく、社会のものだ。誰の傍にいようと構わないだろ」

「いや、それうさぎだから」


 それはつまり、うさぎを独占しようとする者に対してルイスが敵意を抱くということか。

 それなら有り得るだろう。ルイスは人間ではなく、動物の味方だ。クロエは脱力感に苛まれた。


(こういう人たちだよね……)


 ルイスに限ったことではなく、この家の住民はクロエの優先順位が限りなく低い。

 レイヴンズクロフト家の養女となったクロエにとってエルフェは義父、レヴェリーは義弟という存在だ。

 義父となったエルフェはあまりクロエに遠慮しなくなり、義弟になったレヴェリーは遠慮のなさに拍車が掛かっている。

 日々何かしらの悪意のない攻撃を受けているクロエにとって、癒しはうさぎだけだ。






 夜になり、皆は各々の部屋へと引っ込んだ。

 キッチンの後片付けを済ませたクロエはうさぎを構っていた。

 うさぎは夜行性なので夜こそ活発に動く。名を呼べば不思議そうな顔をして寄ってくるし、額を撫でれば心地良さそうに目を閉じる。その愛らしい様に一日の疲れを洗い流されるようだ。

 ご褒美に夕食で余った生野菜をやると、しゃくしゃくと美味しそうな音を立てて平らげた。


「クリームヒルト、美味しかった?」


 ルイスは過剰な餌付けは動物の為にならないというが、クロエは食べる楽しみは人間も動物も同じだと思っている。だから、こっそりと食べ物を与えてしまう。

 やはり動物は愛らしい。クロエが和んでいると、そんな気持ちをぶち壊す男がやってきた。


「赤ワインで煮込んだうさぎ肉のシチューって美味しいよね」


 第一声はそれか、と心が冷たくなる。

 クロエが相槌も打たずに黙していると、ヴィンセントは聞いてもいないことを語り出す。


(くび)り殺したうさぎの首から血抜きをして皮を矧いでさあ。ああ、生きたままの方が皮は剥ぎやすいんだっけ」

「ど、どうしてそういう酷いこと言うんですか!? この子の前で止めて下さい!」

「へえ……じゃあ、お前と二人きりなら話しても良いんだ?」

「そういう問題じゃありません。私の周りで物騒な話は禁止です!」

「お前だってうさぎの毛のコートを着ているじゃない。そういうのを偽りの博愛主義者(ぎぜんしゃ)って言うんだよね」

「……お肉買ってきますから、クリームヒルトを苛めないで下さいね……」


 肉屋に行けばうさぎ肉などすぐに手に入る。調理は赤ワインで煮込んで、塩を効かせた味付けをすれば肉の臭みは取れるだろう。

 このままではクリームヒルトの命が危険に晒されてしまう。クロエは我が子の為だと涙を呑んでうさぎのシチューを作ることにした。


(弱い飼い主でごめんね……!)


 外敵から隠すようにケージの周りに毛布を掛けたクロエは敗北感に打ち拉がれつつ、ヴィンセントを見上げた。

 ヴィンセントは、最近生意気になったクロエを黙らせられたことを嬉しそうににやにやと笑っている。


「息子の面倒を看るのに加えて下等動物の世話なんて大変だね」

「そうですね。貴方みたいに大人げない人もいるので大変です」


 クロエは微笑みながら答えた。声は北風のように冷たい。

 ヴィンセントはあからさまに嫌な顔をしたが、クロエは構うことはない。この男を悦ばせるような反応をしてなるものかとクロエは心に決めているのだ。


「この子の名前が悪趣味ってどういうことなんですか? ああいう言い方されると気になります」

「僕なんかに訊かないで仲良しのルイスくんに訊けば良いじゃない」


 どうしてここで引き合いに出すのだろう。この二人の仲の悪さはどうしようもない。

 ヴィンセントは、ふと笑みを悪辣としたものに変える。


「家主の義娘の立場を利用して隣同士の部屋にするなんてお前も大胆だよね」

「はい……?」

「まあ、ご主人様の見舞いを切り上げてまで逢い引きするくらいだしね。あの子もお前みたいな女に目を付けられて可哀想だ。そういう意味では同情するよ」


 いつぞや見舞いを切り上げたことを根に持っているヴィンセントは粘着質だ。

 こうなると飽きるまで延々と揶揄するのだろう。ヴィンセントはクロエの話など聞いていない。自分の言いたいことだけを一方的に吐いているだけだ。


「ご期待に沿えなくて申し訳ないんですけど、好きでああいう部屋割りになったんじゃありませんよ」

「彼は虚弱そうだし、眠っているところを襲えば一発だよ」


 寝込みを襲って息の根を止めろとでもいうのだろうか。

 生憎、クロエが息の根を止めてやりたい――ぎゃふんと言わせたい――と度々思うのは目の前にいる男だ。


「ええ……はい、そうですね……」


 聞き流す方が良いと諦観したクロエは適当な相槌を打って遣り過ごした。

 そんな様子を弄り甲斐がないと判断したのか、ヴィンセントは背を向ける。


「退院したばかりなんだから夜更かしは駄目ですよ」

「うるさいよ」


 ヴィンセントと上手く付き合うには母親のような広い心で見守るのが最良だ。

 理解しようと無理に足掻くのではなく、そういう人なのだと彼という存在を丸ごと受け入れる気持ちで接すれば心の余裕は出てくる。

 (わだかま)りが完全に消えた訳ではないが、以前よりまともな付き合いができているとクロエは感じている。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 新居で迎える二度目の朝。

 クロエはベッドから起きられずにいた。


(……あたま、いたい……)


 頭痛がして、身体が怠い。昨晩は少し疲れを感じたので早めに休んだものの起きてみればこうだ。動きたくない。このままもう一眠りしてしまいたい。

 けれど、クロエには朝の仕事がある。

 弛んだ身体と精神に鞭を打って起きたクロエは寝間着を脱ぎ、水色のワンピースに袖を通す。

 目の覚めるような色の服を着れば気持ちも切り替わる。それに朝の光を浴びれば気分も良くなるはずだ。

 支度を済ませて一階に下りたクロエは、玄関ホールで思わぬ人物と遭遇した。


「ヴィンセントさん、お早う御座います。珍しく早いですね」

「珍しくって何?」

「いつも部屋の外に出てこないじゃないですか」

「エルフェさんが隣だと音楽なんて聴けないからね。仕方なく起きたんだよ」


 ヴィンセントは早起きだが、部屋の外へ出てくるのは遅い。その彼が珍しく部屋から出てきた理由は、朝のクラシック鑑賞ができないからだという。

 朝に音楽を流したら迷惑だという常識と、他人を思い遣る気持ちを一応持ち合わせているらしい。その思い遣りをエルフェとディアナ以外にも向けて欲しいものだと、クロエは内心溜め息をついた。


「今からパンを買いに行くんですけど、一緒に行きませんか?」

「何で買い物に付き合わなきゃいけないのさ」

「好きなパンを買って良いですよ」

「食べ物で釣ろうってわけ?」

「美味しいパンとコーヒーで朝食取りたいですよね?」


 食べ物で釣ろうということを否定しないクロエはにこにこと笑みを向ける。

 このような笑みを浮かべる時のクロエは聖母のように心が広く、大抵のことを聞き流す。そして押し切る。

 やらかし魔と称されるディアナの血を間違いなく引いていることを窺わせる頑固さに、ヴィンセントはげんなりとした顔をする。勝った、とクロエは勝利を確信した。


「ほら、行きましょう。広場の向かいですからすぐですよ」


 玄関を出た先はマルシェ広場。その名の通り、店々の並ぶ町の中心地である。ホテル、レストラン、パン屋(ブランジェリー)砂糖菓子屋(コンフィズリー)アイスクリーム屋(グラスリー)といった市民から観光客まで様々な層が利用する店が並んでいる。広場の奥にある階段を上った先には教会もある。

 クロエは噴水を挟んで向かいにあるパン屋へ行き、その前で首を傾げた。


「……あれ? まだ開いてない」


 もう六時を過ぎているというのに店は開いておらず、広場の人通りも少ない。

 今日は定休日なのだろうか。悩むクロエに、遅れてやってきたヴィンセントは言った。


「【ロートレック】の朝は遅いよ」

「そうなんですか?」

「看板に六時半からって書いてるじゃない。お前はこんなのも読めないわけ?」

「シ、シューリス語は苦手なんですっ」


 テーシェルはドレヴェス、ファルネーゼ、シューリスの文化が混ざった町だ。ここの公用語がシューリス語だというなら、これは序の口でしかない。出歩く時は暫くレヴェリーに供を頼んだ方が良いかもしれないとクロエは考える。


「うーん……、なら店が開くまで散歩しましょうか」


 開店の時刻までは小半時ほどだ。高台の教会まで行って帰ってくれば丁度良い時間になるだろう。

 越してきたばかりなのだから失敗もあって当然だと気持ちを切り替えたクロエは歩き出した。

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