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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
第二部 序章
118/208

落ちる少女と追われる兎 【1】

 湖畔の町テーシェルの朝はミルク色の霧が辺りをしっとりと包む。

 パステルカラーの家々のテラスには植物が飾られ、花と霧に彩られた幻想的な光景はまるで童話の世界のようだ。

 湖畔に古風な家々が調和し、並び立つ美しい景観は【ロートレック】の七大風景として紹介され、近年では観光地として注目されている。

 とはいっても郊外の午前は静かなものだ。そんな静かな朝の町の一角が今日はざわついている。

 町に【余所者】が越してきたのだ。






「一先ずお疲れ様です」


 【アルケイディア】では、子供が親元から独立して家を持つ以外では引越しをするということがあまりない。

 そんな中、家族で越してくるというのは物珍しいようで――若干二名の容姿が目立ったのもあるし、明らかに血の繋がりがなかったのもある――近隣の家からは人が出てきた。それが朝の賑わいの理由だ。

 【余所者】ことクロエたちは、鉄道を使って運ばれてくる荷物を家へ収容するという作業をした。

 運搬業者(ムーバー)が荷物を運んでくれるのは、旧居から新居の駅までだ。駅から家までは多少距離があるので、荷車を使って数往復。明け方から作業を始め、全ての荷物を家へ運び込む頃には午後三時を過ぎていた。

 今回の引越しは【クレベル】から【ロートレック】への大移動ということもあり、家具を新調せざるを得なかった。その為、普段の引越しより荷物が少なく身軽ということだがクロエはへとへとだ。


「生き返るー」


 広場を挟んで家の向かいにあるパン屋で購入したレモネードとバゲットサンドで、少し遅い昼食を取る。

 レモネードは生ぬるい。そのぬるさが却って汗を引かせるようだ。

 クロエは空になったレヴェリーのグラスにレモネードを注いだ。


「動いた後だから飲み物が美味しいよね」

「今日は暑いからなー」


 五月ともなると気温は二十度になり、動けば汗ばむ陽気だ。

 今日は雲一つない快晴で、春というよりは初夏の気候だった。


「ルイは暑くねーの?」

「暑いけど」


 そう答えるルイスは実に涼しそうな顔をしている。レヴェリーは恨みがましい目を向けた。


「だったら、んな格好してんなよ。見てて暑苦しいんだよ」

「レヴィの格好の方が暑苦しい」


 片や袖無しのシャツ、もう片やカフスボタンまでしっかりと留められた長袖のシャツ。レヴェリーとルイスは見事に正反対だ。


「すかしてないで半袖着りゃ良いのに」

「男の半袖は見苦しい」

「それ偏見だろ」

「なら、キミは男の腕や足を見て楽しいのか」

「女なら見ていて楽しいから出せってこと?」

「そういう話をしているんじゃない。オレはマナーの話をしているんだ」

「へー」


 久々に弟をからかうネタを見付けた兄は楽しそうだった。


「兎に角、常識だよ。レイフェルさんだって着ないだろ」

「あれは貴族とか大人の常識っつーか、老けると暑さ寒さ感じない的なやつじゃね? ヴィンスだって夏大好きだし」

「年寄りは暑くないのか」

「ちょ、ちょっとふたりとも」


 暴言を吐く時だけ二人は結託する。

 双子の仲が良いのは結構なことだが、今の悪口を本人たちが聞いたら大変なことになる。


「ええと……、レモネードのお代わり要らない?」

「貰う!」

「じゃあ、貰う」


 食べ物で釣ろうとして、クロエはきょとんとする。


「何か問題でも?」

「ううん、お代わりするなんて珍しいから吃驚したの」


 ルイスが積極的に飲食をするのは珍しい。やはり暑さで喉が渇いていたのだろうか。

 そんなことを考えながらレモネードを注ぐクロエに、レヴェリーが種明かしをした。


「オレンジジュースとか好きだろ、こいつ」

「あ、そっか」


 ルイスが柑橘好きだということは最早周知だ。しかし、当の本人は他人に分かったように話されるのは不快らしく、面白くなさそうな顔をしていた。

 クロエは苦笑しながらレモネードを一口飲む。


「うん、このレモネードは美味しいよね。名物なんだっけ」


 この地方ではレモネードの屋台(レモネードスタンド)は夏の風物詩だ。

 檸檬の果実を絞ったものに蜂蜜とラズベリーシロップで甘味を付け、水で割っただけのピンクレモネードはすっきりとして飲み易い。


「なあ、ルイ。ここの名物菓子って何?」

「林檎のカイザーシュマーレンと、シュトルーデル、ハニーレモンパイだったと思う」


 カイザーシュマーレンというのは一口サイズに千切った甘いパンケーキのことで、街角の屋台でも買える。シュトルーデルは薄く伸ばした生地で詰め物を幾層にも巻く甘い菓子である。そして、ハニーレモンパイは檸檬の名産地ならではの菓子だ。

 檸檬の収穫時期は五月の下旬だ。その時期にオレンジデーというパイ投げイベントが開かれる為、町では大量のパイが焼かれる。

 噂によると、エルフェも菓子屋の端くれとしてパイを焼く役目を請け負っているらしい。クロエも蜂蜜と檸檬をたっぷりと使ったパイは楽しみだった。


「折角だし今度の休みに食べ歩き行かね?」

「賛成。私も町を見てみたい」


 これから暮らしていく場所なのだから、地理を覚える意味でも一度町を回った方が良いだろう。クロエはレヴェリーの提案に乗った。


「ルイも案内してくれるだろ?」

「悪いけど、できない」


 ヴァレンタインの別宅があることからルイスはこの町に詳しいのだが、首を横に振る。


「だったら私は留守番していますから、レヴィくんと二人で――」

「そういうことではなく、次の休日はヴァレンタインの家に帰るから、別の日にして欲しい」


 自分は同行しないと身を引こうとするクロエに訂正を入れるルイスは、疲れた顔をしていた。

 友人となったこの半月で両者が変わったといえば、譲歩を覚えたということだろう。

 クロエとルイスは基本的に性質の似た人種だ。自己価値が低くて己より他人を優先する。似ているからこそ、互いに相手のことを深読みする。

 その深読みという名の思い込み(かんちがい)をした挙げ句に拗れるというのがこれまでの諍いだ。

 譲らなければ余計に疲弊するということを学んだルイスは、最近は仕方なく折れている。クロエもルイスを困らせたい訳ではないので、引くべき時には潔く引いている。

 結果として致命的な口論はせずに済んでいるのだが、周りからすると穏やかなことの方が奇っ怪に映るようで、レヴェリーなどは嵐の前の静けさだとあからさまに言っていた。


「暇な時なら良いんですか?」

「ああ」

「じゃあ、その時に」


 そうして話を纏めたところで、燐宅へ挨拶に行っていたエルフェが帰ってきた。

 引越しの挨拶へと粗品を持っていったはずだが、その手には重そうな荷物があった。


「お帰りなさい。それはどうしたんです?」

「裾分けだそうだ」


 エルフェが貰ってきたのは野菜や果実といった食材だった。

 挨拶へ行った先でものを貰うとは思っていなかったらしく、エルフェは困惑気味だ。

 田舎は都心よりも近所付き合いが深いのだろう。人のぬくもりに触れたような気がして、クロエは心がじんわりとあたたかくなる。

 その横で早速とトマトにかじりつくレヴェリーをルイスは窘め、それからエルフェに訊ねた。


「また何処かへ出掛けるのですか?」

「ああ、一度あちらに戻る。あいつに任せている訳にもいかないからな」


 【クレベル】の家ではメルシエが後片付けをしてくれている。エルフェは一旦そちらへ戻るようだ。

 【ロートレック】から【クレベル】へ行くとなると、帰宅は夜になるだろう。


「夜には戻る。お前たちは休憩が済んだら荷物の整理をしていろ」

「はい、キッチンを使えるようにしておきますね」


 エルフェを玄関まで送り、キッチンへ戻ったクロエは食器類と書かれたカートンの封を開けた。食器が割れないように広告紙に包んだので、まずはそれを剥がす作業だ。


「レヴィくんとルイスくんも食べ終わったら手伝ってね」

「はいはい」

「分かった」


 そうして三人はてきぱきと荷解きをしていった。






 窓から赤い夕陽が射し込む頃、大時計が夕刻を知らせる。

 クロエは一日の疲れもあって、夕陽に映えた新しい家具を見ながらぼんやりとしていた。

 そんなところへレヴェリーが玄関ホールから荷物を持ってくる。


「ここはこれくらいにするとして、部屋割りはどうなってるんだ?」

「あ……そっか。部屋を決めないと荷物出せないよね」

「エルフェさんとクロエの部屋は決まってるんだろ?」

「うん、エルフェさんが一階の奥の部屋で、私が二階の角部屋。あとは好きにして良いって」


 この新居で寝室として使えるようにしてあるのは一階に三部屋、二階に二部屋だ。

 二階のバスルームは女性のクロエ専用となったが、どうしても共有する部分は出てくる。その辺りは半年の同居生活で慣れているので、クロエとしても問題はない。

 自分の荷物の入ったカートンを床に置いたレヴェリーは、ルイスを呼んだ。


「――だそうだけど、一応お前の希望は?」

「居候だから特に拘りはしないけど、あの男とレイフェルさんの近くは嫌だ」

「んじゃ、ヴィンス隔離の方向でエルフェさんの隣に押しやって、オレが一階で、ルイとクロエが二階か」

「オレが一階で、レヴィが二階だ」

「何でオレがクロエの隣なんだよ。つーか、めっちゃ希望言ってんじゃん」

「レヴィが希望は何だと訊いたんだろ」

「一応訊いたんだよ!」

「オレは壁越しに話し掛けられたら鬱陶しくて眠れない」

「そ、それはヴィンセントさんです!」


 ヴィンセントの隣の部屋を使っていた時はそれは悩まされた。

 クロエがあの角部屋を使っていたのはヴィンセントがまだ本性を表していない頃だが、それでも酷かった。散々精神の衛生状態を乱され、クロエもルイスも懲りているのだ。


「私、眠るまでお喋りしようとか言いませんよ?」

「例え話し掛けられなくてもキミの傍は嫌だ」

「壁だって蹴りませんし、盗み聞きもしません」

「当たり前だろ」

「う……、独り言も言わないように努力を……」

「そんな努力をするくらいならレヴィを隣にしろよ」

「……そこまで嫌いますか……」


 悲しくなるよりもまず怒りが湧く。友人なのだから少しは気遣って欲しい。

 クロエは選択肢があるようで少ない。最初から双子のどちらかしか選べないのだ。


「オレ、遅くまで起きてるしクロエの睡眠妨害になると思うわ」

「大丈夫だよ。私は一度眠ったら朝まで起きないから」


 レヴェリーは深夜の騒音被害があることを心配するが、朝っぱらから大音量でクラシックを流されることに比べれば可愛いものだ。

 クロエは遠慮せずにくることを勧める。だが、レヴェリーも渋い顔をする。


「でもさあ、クロエも曲がりなりにも女だし、オレも気を遣うっつーか……」

「曲がりなりにも?」

「うん、だからさ、ルイの方が良いって!」


 女として認識されていたのかとクロエは内心衝撃を受けるが、虚しくなるので表には出さない。

 レヴェリーの無邪気な暴言も、ルイスの無自覚な暴言も無視が良い。聞き流せる時は聞き流すべきだ。

 クロエは意識して笑顔を顔に固定する。


「レヴィくんもこう言ってますし、妥協してくれませんか?」


 独り言なんて言いません、と誓うようにクロエは真っ直ぐとルイスを見上げる。

 言葉で伝わらないのなら心で訴えるまでだ。

 しかし、空色の瞳に見つめられたルイスはうるさそうに視線を外した。


「オレはここへは療養にきているんだ。心穏やかに過ごさせて欲しい」

「こんな時だけ病人ぶらないで下さい!」


 そして、いい加減腹の立ってきたクロエはぴしゃりと言い放つ。


「そんなに文句言うなら二人が同じ部屋になれば良いじゃない。そうすれば私の隣にこなくて済むでしょ!」

「今更こいつと一緒なんて嫌だね」

「冗談じゃない。気持ち悪い」

「おい、お前そこまで言うことないんじゃねーの?」

「本心を言ったまでだよ」

「ああ、もう……なら、じゃんけんロックペーパーシザーズで決めて。これなら平等でしょう?」


 クロエはどちらでも良いのだ。レヴェリーもルイスも無害だ。ヴィンセント以上の非常識は存在しない。


「恨みっこなしの一回勝負な」

「チェスにしないか?」

「時間掛かるだろ。男なら潔くじゃんけん一回勝負だ」

「……分かった」


 ロック・ペーパー・シザーズ・ゴーの掛け声の後に出される掌。

 出された二つの掌は右手がペーパーで左手がロック。つまり、レヴェリーの勝利だ。


「よーし、オレの勝ち!」


 赤紫色の瞳が夕陽の中で明るく煌めき、青紫色の瞳は暗く陰った。

 こういう運要素のある勝負は嫌だとルイスは嘆くが、もう全てが遅い。レヴェリーは機嫌良さそうに荷物を新たな私室に運び始めた。

 ルイスの落ち込み様を見たクロエは申し訳ない気持ちで一杯になる。

 声を掛けようにも、彼を落ち込ませている当事者だけに慰めの言葉が見付からない。そうしてクロエが悩んでいると、ルイスがとんでもないことを口にした。


「オレがレイフェルさんの隣で我慢すれば良いのか……」

「ちょ、ちょっと待って下さい。私を生け贄にするんですか?」

「オレがレイフェルさんで我慢して、キミもローゼンハインで我慢する。オレたちが妥協すれば全て解決するじゃないか」

「いえ、何も解決していませんよ。そんな変な妥協しないで下さい。寧ろ私で我慢して下さい、お願いします」


 ルイスがエルフェの隣の部屋に行くことになったら、ヴィンセントが二階にやってくる。それだけは勘弁してくれとクロエは泣き付いた。


「分かった……分かったから、そういう顔をしないでくれ」


 ルイスもヴィンセントをクロエに押し付けるつもりはなかったようで、すぐに折れた。

 精神の衛生が保たれたことにクロエは一先ず胸を撫で下ろす。そんな様子にルイスは面白くなさそうに目を眇めたが、目を伏せているクロエは気付かない。


「あいつがここで暮らすかは分からないんだろ」

「そういえばそうですね。どうなるんでしょう?」

「……どうだろう。オレはあいつがいない方が平和だとは思うけど」


 ルイスはそう言い残してリビングを出て行った。

 ひとり残されたクロエは赤い日溜まりの中で思案する。

 ヴィンセントの退院は明日だが、彼がここで暮らすことを選ぶかはまだ分からないのだ。

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