番外編 Kyrie Eleison ~side Louis~ 【6】
扉を開くと、彼女は傷付いた羽根を休めるように小さくなって横たわっていた。
窓辺は月明かりが射し込んでくる為、明るいものの部屋自体は明かりがないので真っ暗だ。
月溜まりのベッドに横になったクロエは、部屋に踏み入ったルイスに警戒心も拒絶も露な目を向ける。声も身体も震えているその姿は、周囲の者も腫れ物扱いをせざるを得ない哀れさがあった。
「これを飲めば腕の傷は治る」
目線を合わせる為に膝を折ったルイスは、外法の血液から作った薬の入った瓶を手渡す。
月明かりの中で青い遮光瓶は深く輝いた。
ぼうっとそれを見るクロエは傷付いたかのような表情をしたかと思えば、笑い出す。
「毒ですか」
「……毒? 何が?」
「私を殺しにきたんですよね」
酷く幸せそうで、酷く苦しそうに。
クロエはまるで心が壊れた少女のように笑った。
「クロエさん……?」
「私が用済みだから、始末するんですよね」
「違う」
「違わない!」
何を言うのだと切り返そうとした瞬間、強い力で振り払われ、腕に激痛が走る。
縫合したとはいえ、乱暴に扱えば傷が開く危険がある。それでもルイスが先に心配したのは自分の身体のことではなく、遮光瓶が割れていないかということだ。
クロエの手に収まる薬を確認したルイスは押し殺した声で問う。
「どうして……どうしてそういうことを言うんだ」
「だってそうでしょう!? 私はお母さんの身代わりで、お母さんを捕らえる為の道具なんだもの! お母さんが見付かったら私は用無しじゃない!」
クロエの口から出たのは濁流のような言葉だった。
「私、嬉しかった。ずっと独りだったから、皆と出会えて……家族みたいに過ごせて嬉しかった!」
クロエは【赤頭巾】の娘で、ヴィンセントやエルフェはそれを知って囲っていた。
【赤頭巾】は外法狩りの魔女として恐れられる存在だ。そんな危険な存在に対しての人質で、見付けるまでの身代わり。それがクロエという存在だ。
大人たちは全て知っていた。彼等は皆でクロエを利用していたのだ。
「私はただの人形だった……いつか壊れる、ただの道具だった……! それを知ってて、私を利用した。道具として必要としていたから、優しくしてくれた! 道具じゃなくなった私を見てくれている人なんて誰も――」
「違う!」
声を張り上げ、ルイスは否定する。
「オレはそんな風に思っていない。キミの母親なんて知らない。どうだって良い。オレは、キミに死んで欲しくないから……、生きて欲しいだけなんだ」
ヴィンセントもエルフェもメルシエもファウストもどうでも良い。彼等の意思も願望も関係ない。興味もない。クロエ以外の全てが無意味だ。
同じ虐待と孤独の過去を背負いながらも、自分にはない優しさを持った彼女に幸せになって欲しかった。彼女に幸福になって欲しいというこの思いに偽りはない。
自分のような人間に関わらず、平穏に生きて欲しい。ルイスの願いはそれに尽きた。
やがてクロエは泣き出してしまった。
どうして自分が生きているのだと呟いて、嗚咽もなく涙を流した。
(慰められたら惨めになる。少なくとも、オレはそうだ)
クロエに掛ける言葉は幾つかはあったが、ルイスはそれを口に出さなかった。
他人にさも分かっているように言われるのは不快だ。クロエの心を理解しているなんて自惚れることは万が一にもない。
だから、ルイスは慰めの言葉を口にしない。その代わりに自分の望みを口にする。
生きて欲しいのだという、唯一の望みを。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
薬を煽ったクロエは眠りに落ちた。
それは安らかな眠りという訳ではなく、苦痛を伴う眠り。
外法の体液は人間にとって猛毒だ。劇物を摂取したクロエは一晩中苦しんだ。
体温ですぐに温くなってしまうタオルを取り替え、熱を冷ます。空が白む頃になると熱も大分下がり、クロエの顔からも苦悶の表情が消えた。
傷の経過を見たら去るつもりでいたルイスはクロエが目覚めるまでの間、傍に付き添っていた。
クロエが目を覚ましたのは太陽が沈み始める頃だった。
「良かった」
まだ傷こそ塞がってはいないものの血は止まっていた。
このまま身体を休めていれば傷は治っていくだろう。クロエが死ぬことはないのだ。
(本当に良かった)
自分でも驚くほどに安堵した。
だが、自分の所為でクロエが傷付いた事実に変わりはない。ルイスは自分の心に触れようとした優しい人を、これ以上傷付けたくなかった。
(キミの幸せを願ってる)
人殺しの自分が去ったとしても、大人たちが彼女を傷付けるかもしれない。けれど、彼等が彼女に幸福を与えられるかもしれない。
自分がここを去っても何の解決にもならないことを知りながらも、ルイスは気付かない振りをしてクロエの前から去ることを選んだ。
「じゃあ……さよなら」
胸の痛みを捩じ伏せ、別れを告げる言葉を一言だけ告げた。
扉を閉め、一人に戻るとその痛みは益々強くなる。その痛みによって自らの有り様を思い知る。
救えるものなら救ってやりたい。
彼女のような人間は救われなければならない。叶うことならこの手で救ってやりたかった。
『キミは辛い思いをしている分だけ他人の痛みを感じられるし、それだけ他人に優しくなれるよ』
『皆が大丈夫でも平気ではない人はいるもの。貴方はそういう人に気付ける優しい子になってね』
嘘でも良いから、そのようになりたかった。
【普通】だったらそうできたはずなのに、【普通】ではないルイスはそうすることができない。何もできない自分は去るのが最良だ。
「……まって…………」
か細い声が背に掛けられる。
後ろ髪引かれるものがないと言えば嘘になる。ルイスは振り返らない。
もしクロエの言葉を素直に聞けるようになったら、夢を見られるかもしれない。復讐以外に何かを望んで良いのかと莫迦な夢を見ることができるかもしれない。
けれど、要らない。許されない。
優しい人間の傍にいることはできない。
例えまやかしでも寄り添おうとしてくれたものを手離すのは惜しかったけれど、クロエが平穏に過ごせるならそれで良い。自らにそう誓ったはずなのに今更何を迷い、躊躇うのか。
「待って……!」
すぐ後ろで声が響く。それと共に服を掴まれていた。
上衣の裾を掴まれて動けず、拒絶の言葉も出てこないルイスは振り返った。
「……やだ…………いやだ……っ」
クロエは俯いて震えていた。その姿は誰かに傍にいて欲しいと願い、その願いを叶えられなかった過去の自分と重なった。
『傍にいてよ……』
『永遠にさよならだ!』
辛くて、悲しくて、誰でも良いから傍にいて欲しかった。
だけど、誰も傍にいなかった。
信じていた兄にも裏切られてルイスは一人になった。そして、死すら願った。
自分がされて悲しかったことを他人にするのか。
手が伸びていた。
ルイスは雪の上に座り込むクロエの膝と肩に手を掛けて抱き上げると、部屋の中へ戻した。
(何をやっているんだ……? オレがいたって何にもならないじゃないか)
こうして寄り添ったところで何の解決にもならない。
あるのは、進みことも戻ることもできない停滞だけ。心地好いぬるま湯も徐々に冷めて身体は凍えてゆく。傷の舐め合いとはそういうものだ。
認めたくはないが、ルイスはクロエが自分と似たところのある存在だと思っている。似ているが故に、分かりたくないことまで分かってしまう。そしてそれは同調に繋がり、一歩間違えれば同情という慰め合いになるだろう。
(オレだから求められた訳じゃない……)
クロエから向けられた優しい言葉の数々は、彼女の寂しさが内包されたものだった。
一人が寂しいから傍にいるとか、信じられるまで共に頑張ろうとか。それはクロエが孤独を恐れているから、近くにいたルイスを巻き込もうとしたまでのことだ。
そう、まやかしだったのだ。
甘い言葉の誘惑に負けたら、友人でもない自分たちの関係は本当に傷の舐め合いになる。
自分と、何より彼女の為にも離れなければならない。愚かな考えを持つ前に終わらせなければいけない。
(でも、この人は立ち止まることを望んではいないはずだ)
ルイスが悩んでいるとクロエは可笑しなことを言った。
「あの……本当に、済みません……。さっきの……冗談です、ただの甘えです……。寝惚けていたから、つい寝言を言ってしまいました。今までありがとうございます」
何故礼を言われるのか分からず、ルイスは顔を上げる。そこには微笑みがあった。
昨晩見た壊れそうな笑みでも線引きする為の曖昧な笑みでもなく、屈託ない笑みだった。
「色々ありましたけど、貴方と会えて幸福でした」
「しあわせ……?」
「今まで私の話を聞いてくれようとする人はいなかったから、つい浮かれてしまうくらい嬉しかったです。――だから、ありがとう」
(……なにが?)
自分を救ってくれた家族を幸せにするのが夢だった。いつか恩返しをする、それだけが生きる目的だった。
家族が死んでその夢は永遠に断たれた。
(幸せって、何が? どうして?)
どうしてそのような台詞を軽々しく言うのだろう。
どうしてこちらを揺さぶるようなことをするのだ。
大切な人を不幸にしかできないのに、高が数ヶ月共に過ごしただけの存在にどうして幸福だったなどと言うのだ。
こんな自分の為に必死になるから、苦手だと思った。似ていると感じたから、怖いと思った。泣いたりするから――莫迦なことばかりするから、優しくしたいと思った。
震える眼差しを真正面に捉えて、手を伸ばす。
壊してしまわないようにそっと触れて、頭半分ほど背の低いクロエを抱き寄せた。すると、すぐに怯えが伝わってきた。ルイスは震える肩をそっと抱きながら髪を撫でた。
「……どう……じょう…………?」
「オレはキミに同情できるほど、まともな人間じゃない」
ルイスはクロエへ同情は感じていなかった。
ただ、放っておけないと感じただけ。優しくしたいと思ったから触れただけだ。
寄り添い合っていると、僅かに乱れた蜂蜜色の髪が触れる胸元にあたたかなものがじわりと伝わってきた。涙が染みてきたのか、胸が酷く熱かった。
「平気になるまで、いるよ。キミが望むなら、傍にいるから」
泣いている人を慰める術など知るはずもなく、ルイスはクロエの髪を撫でるしかできない。
傍にいるという何の保証もない言葉を告げて、抱き締めているしかない。
ふと、先ほどまで上衣を掴んで震えるばかりだった掌がうなじをそっと包み、髪に触れた。
「……ここに、いて……」
クロエは潤んだ声で何度も傍にいてと言った。
あまりにも切なげなその響きに、ルイスは惑わされるよりも先に殺される。
もう逃げられないかもしれない。抱き締めたこのぬくもりを離せる自信がない。
ルイスは孤独の寂しさに耐えられない訳ではなかった。ただ、何かを得てしまった後にいずれ訪れるだろう喪失が怖かった。
だが、そんなあるかないか分からない未来への恐怖よりも、こんな彼女を一人にしておく方が余程怖いと感じた。
自分の知らない場所で毟られて傷付けられるくらいなら、いっそ自分だけのものにして、その花を見守っていった方が良いのではないだろうか。そこまで考えて、ルイスはその考えを否定する。
そんなものは愚かな夢だ。非現実的な状況に浮かされて見た、下らない幻想に過ぎない。寄り添うことで一時の安らぎを与えられたとしても、本当の意味での幸福は与えられはしないのだ。
身の程知らずにも傍にいたいと思ってしまったが、やはり彼女は別世界の人間だ。彼女が平気と思えるまで――この一時、ほんの少しの支えになれたら良い。
それ以外は何もない。
今だけと自らにきつく言い聞かせ、ルイスは蜂蜜色の時間の中に意識を埋没させた。