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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
112/208

番外編 Kyrie Eleison ~side Louis~ 【4】

 ルイスは調べものをする為にヴァレンタインの屋敷へ戻った。

 貴族の邸宅には図書室(ライブラリー)がある。そこには長い歴史の中で溜め込んだ書物が収められている。ルイスが目当てにしているのはそういった書物で、昨晩帰宅してから今まで図書室に詰めていた。


顔色が(アウナブルッ)悪いぞ(タチェーラ)


 屋敷内ではシューリス語以外の言葉は禁じられているのに、何年経ってもファルネーゼ語での会話をしようとするグロリアに呆れ、ルイスは溜め息をつく。そこでその吐息の熱さに驚いた。

 ほんの数時間、雪に当たっただけでこうなるのだから忌々しい限りだ。

 早くしなければ、と思う。


「グロリアは外法と人間の間の子供だったな」

「ああ」

「傷を付けた箇所の血を止まらなくするようなことはできるのか?」

「できたら有効利用させて貰う」


 グロリアに訊ねたことをルイスは後悔する。

 人間の血が混ざった彼等の寿命は普通の人間と変わりない。ただ身体が少し丈夫であったり、実年齢よりも若々しい容貌をしているだけだ。ならば、あの傷は純血の外法のみが付けられる類いのものなのか。

 そうして考え込むルイスに、扉の前に陣取っていたグロリアは思い出したように言った。


「そういえば先刻、侯爵がお前を呼んでいた」

「そういうことは早く言ってくれ」


 グロリアの言う先刻というのがいつなのかは分からないが、呼び出しを無視する訳にはいかない。

 ルイスは扉へ向かい、グロリアへ頼む。


「グロリア、オレの代わりに探していてくれないか?」

「別料金だ」

「分かった。すぐ戻る」


 図書室の入り口を守ることと、書物を探すことは別料金だとしっかり金を請求する辺り、彼女はやはり飼い犬には向いていないのだろう。

 しゃらりと微かな金属音が静まり返った図書室に響く。音を立てたのは懐中時計の鎖だ。時刻は午前七時を回ったところだった。

 ゆっくりと蓋を閉じるとルイスは懐中時計を握り締める。

 懐中時計はアデルバートの形見だ。いや、正確にはエレン形見か。エレンがアデルバートに贈ったものをルイスは所持している。

 二人の墓に埋めるべきものと分かっていても、それができない。






 ひと月ぶりに私室に入ると、そこは何も変わっていなかった。

 小さな窓が一つだけの籠のような部屋。

 ルイスは机の上にある手紙には目もくれず、クローゼットから着替えを取り出した。

 帰宅してからずっと図書室にいたので頓着はしていなかったが、雪に濡れたような服装で侯爵に会う訳にはいかない。そうして着替えを進めていると、白髪の執事が現れた。

 執事は着替えを手伝おうと机の上にあるシャツを手に持とうとする。ルイスはそれを制した。


「下がれ。自分でやる」


 誰かに着せ替えられる趣味も傷を見られる趣味もない。


「畏まりました」


 侯爵よりも遥かに年配の執事は一礼し、部屋を出て行った。足音が完全に消えたところで今まで纏っていた衣を落とし、真新しいシャツに袖を通す。胸のボタンと銀色のカフスの袖を留めると、首にダークグレイのタイを締めた。長めの前髪と襟足が乱れないように整え、フロックコートを羽織ったルイスは窓の外へ目を向けた。

 空は暗く、今にも雪が降りそうだ。

 あと数日で四月になるというのに春は一体何処にあるのだろう。


『貴方に分かる訳がない……』


 暗い空を見つめていると、青い瞳を曇らせてしまったことが思い出されて胸が軋んだ。


(急ごう)


 紫色の瞳を伏せたルイスは部屋を出て廊下を進んだ。

 一階へ続く階段から北側にルイスの部屋があり、南側に侯爵夫妻と娘のエリーゼの部屋がある。書斎の前に立ったルイスは扉をノックする。すると、入れという声が掛けられるので、足を踏み入れる。


「お早う御座います」

「ああ。お前は相変わらず早いな」


 年が離れた兄と言っても通用するほど若い侯爵は、軽く肩を竦めてみせる。それから視線を動かした。

 濃淡はあれど黒一色で揃えられたルイスの服装を見て侯爵は顔を僅かに顰めた。

 濃紫色の上着に赤いクラヴァットという出で立ちの侯爵に比べれば、ルイスは控えめだ。

 クラインシュミット夫妻とアゼイリア夫人、三人の死を背負っているという意識がルイスに黒衣の袖を通させている。そのことを何処かで察している侯爵は咎める代わりに言った。


「帰ってきたのなら帰ってきたと言え。驚いたぞ」

「申し訳ありません。夜遅かったもので」

「何だ、眠っていないのか? 顔色が悪いぞ」

「今日は曇り空ですからそのように見えるだけでしょう」


 熱の所為で視界が滲む。その先にいる侯爵に精一杯の笑みを向ける。


「私に用とは何でしょうか? 心なしかお父様の顔色も良くありませんが、体調が優れないのでしたら――」

「私の気を揉ませているのはルイシス、お前だ」

「……私が、ですか?」

「もうすぐ十九にもなろうというのに婚約者の一人も見付けないから、周りは不安がっている。ヴィオレから小言を聞かされる私の身にもなれ」


 帰ってくるなりそのような咎めを受けると思っていなかったルイスは途方もなく疲れる。


「そんなことですか」

「そんなことではない。貴族にとって婚姻は避けられぬ問題だ」


 思わず声のトーンが下がるルイスに、侯爵は真剣な口調で言う。


「妙な噂を流され、お前の品位が下がりでもすれば我が家の恥だ」

「申し訳ありません。ですが、私に下がるほどの品位があるとは思えません」

「己を卑下するのは止めよ、ルイシス」

「……はい」


 貴族の娘の婚姻は大抵、二十歳を迎える前に決まる。男の場合はそれよりも僅かに上とはいえ、婚約者の一人も決めずにいるというのは家の体面に関わる。

 ルイスは養子だ。侯爵家の跡取りといえど社交界での立場が弱い。侯爵は、そんなルイスの足場をしっかりしたものにさせようとしているのだ。

 けれど、辛い。胸が詰まるような感覚が押し寄せてくる。

 今はそのようなことを考える気分にはなれずルイスが生返事をしていると、侯爵は写真を取り出した。


「ロセッティーナ家の姫君だ。どうだ、美しいだろう?」


 金の指輪を着けた左手で顎を軽く撫でながら侯爵は楽しげに笑った。


「月の姫君の妹君ですね」


 朝の陽射しを集めたような白金色の髪に、サファイア色の瞳。シンプルな形のドレスから窺える白い肩の滑らかさが儚げでありながらも、咲き誇る大輪の薔薇のような目映い少女。

 ロセッティーナ公爵家には三人の娘がいる。一女は王家に嫁ぎ、二女はアルヴァース公爵家の次男と婚約している。そして三女は齢十六を迎えたばかりだ。

 一等公爵家の娘は王女に次ぐ高貴な姫君だ。貴族たちは末の姫を得ようと必死になっている。


「何年か前にアルヴァース家のシュオン様の前でピアノを弾いただろう。その時のお前の演奏を聴いていたらしい」


 ロセッティーナの令嬢はベルシュタインの音楽学校に通っているからお前とも話が合うだろう。

 そう言って侯爵は頻りに公爵令嬢を推すので、ルイスは弱ってしまう。


「文を出し、オペラでも観に行ってくると良い」

「できません」

「出来ない? 何故だ、容姿に不満がある訳ではないだろう?」

「容姿なんてどうでも良いです。というより、婚約者もどうだって良いです」

「いや、待て。どうでも良くはないだろう」


 侯爵は姿勢を正すとルイスを見た。鮮やかなブルーアイが真っ直ぐに見据えてくる。


「では、その人でも良いです。一編の詩と一輪の花と共に想いを告げろというのならそうします」

「なっ……! だから待て。ろくに会ったこともないというのに話を飛ばすな。そもそも、お前はそういう気障……というか奥ゆかしい……いや、古風な求婚をするつもりなのか?」

「いけませんか」

「いけなくはないが驚くだろう。常識的に考えてみろ」

「何故です? 真摯に想いを伝えることの何が悪いのですか」


 時代錯誤感を漂わせつつも今風の感覚も持っている侯爵は、何が問題か理解していない息子の様子にぎょっとする。そして探るように見る。

 だが、どれだけ探ろうとその顔には偽りの色はなく、有言実行の気配が濃い。


「と……兎に角、待て。待ちなさい! これはお前の人生なのだぞ。簡単に決めて良いことではない」

「人生、ですか」

「そうだ。人生は一度しかないのだから悔いることがあってはならないだろう」

「その一度の人生は私の好きにして良いと?」

「お前の人生だ。可能な限りの自由はやろう」


 自分の人生を好きにして良いというなら考えがある。

 ルイスは無表情のまま口を開いた。


「恐れながら、オーギュスト様」

「……何だ?」


 ヴァレンタイン侯爵――オーギュストは切れ長の碧い瞳を細め、ルイスを睨む。


「この際だから言います。この十年育てていただいた恩は忘れたことはありません。そしてこれからも変わることはありませんが、私はこの家を継ぐことはできません」

「何だと?」

「跡取りなら、エリーゼが十六になるのを待って婿を取らせて下さい。もしくは皆が言っているように貴方がもう一人子供を作れば良い」

「聞いていたのか」

「聞こえてきますよ。私は耳だけは良いですから」


 養子のルイスも、実子のエリーゼも身体が弱い。侯爵に仕える者たちは不安なのだ。

 侯爵がもう一人子供を作るように周りから責付かれていることは知っていた。身体の丈夫な男子を産ませろ、と。それはルイスが十になる頃には出ていた話だ。

 ルイスが侯爵へぶつけたのはこの十年、ずっと抱えてきた思いだ。


「私はもう子を作る気はない。ヴィオレはあの身体だ。無理はさせられない。他の女に産ませる気もない。また、お前とエリーシャをとも考えてはいない」

「ならばエリーゼに継がせて下さい」

「ならん。お前が継げ」

「では、一時的に私がその位に就いても良いです。その代わり、エリーゼの子を養子に貰います」


 実子を持たず養子を取るという答えを聞いた侯爵は青冷めていた顔を僅かに紅潮させた。


「お前が気にしているのは血のことか?」

「私は人殺しです」

「まだそれを言うか! お前のそれは正当防衛だ。罪にはならない。百歩譲って罪だとしても、お前は充分苦しんだ。それをどうして責められると言うのだ」

「高が十年、後悔したところで罪は許されるのですか?」


 もう十年ではない。まだ十年なのだ。


「それに……罪ならこれから犯す」

「ルイシス」

「私はアデルバート様とエレン様を害した者を殺したいのです」


 呼ばれる本当の名を別の誰かのもののように聞きながら、ルイスは醜い本心を告白した。


「殺してやりたい。そいつの身内を含めて皆殺しにしないと気が済まない……」

「そのようなことをしたところでアデルバート様もエレン様も喜ばない」

「私が喜ぶんです」

「身も蓋もないな」

「含みを持たせたって仕方ありませんから」


 復讐など自己満足だ。両親は望んでいなくとも自分が望んでいるから行う。

 救いを求めている己を捩じ伏せたルイスは生彩のない顔をしていた。


「それがお前の本音なのか……?」

「はい」


 ルイスの表情は冷たく硬く、着ている喪服のような衣装も合わせて人形めいて見える。

 穏やかに微笑んでいるか、憂えるように目を伏せているか、義家族に振り回されて戸惑っているか。息子のそんな表情しか知らなかった侯爵は、金の指輪を嵌めた指を隠すように手を組んだ。


「敵は分かるのか?」

「いいえ、オーギュスト様は何かご存知ありませんか?」

「私でも分からないから厄介なのだ。察せ」

「外法、若しくは教会絡みなんですね……」


 政府に邪魔に思われて刺客に消されたか、中立の立場を疎まれて教会の【死神】(モルト)に始末されたか、外法に恨みを買って殺されたのか。【上】が揉み消そうとするからには相応の理由があるのだろう。


(だったらあいつに訊くより先生に……いや、レイフェルさんの方が良いか)


 ヴァレンタインは政府側だが、教会側に明るいのはレイヴンズクロフトやメルカダンテといった家。教会の元【死神】――諜報員のようなもの――のファウストに訊ねた方が何が出てきそうだ。

 だが、ファウストは怖い。

 怖いというよりは、たまに倫理観を疑うような言動をするから信用ならない。ヴィンセントを見殺しにしようとしたこと、そして消沈するクロエに寿命を伝えたこと。ファウストは悪意がない代わりに善意もない男だ。

 ルイスが銃を教えて欲しいと弟子入りしたのは彼がアデルバートの友人で、かつては【死神】だったという噂を聞いてだが、その出会いの時点で彼は驚くようなことを言ってみせた。


『銃を使いたいのは人を殺す感触が手に残らないからかな。だとしたらそれは欺瞞だ。まあ、そんなことは良い。銃で穏やかに死なせてやるより、刃物で滅多刺しにする方が苦しみを与えられるよ』


 復讐を緩やかに止めつつ、苦しむ殺人の仕方を教えようとする。

 まるで平和主義者を自称する者が人身売買や恐喝を生業としているようなちぐはぐさを感じた。

 穏やかな顔の裏で何を考えているか分からない【気紛れ猫】(チェネレントラ)。彼を下手に探ればこちらも何かしらの痛手を負うだろう。だから、ルイスはファウストには訊ね事をしたくない。


(それにしても、この人は復讐を止めようとしないのか?)


 正しい人間の侯爵が復讐を止めようとしないのは驚きだった。

 止めても無駄だと諦めているのかもしれない。ルイスの元にジルベールを遣わしたのは侯爵だ。彼からルイスの望みを伝えられているとすれば、もう諦めているのかもしれなかった。

 このまま失望されて家を出されれば良いと思う。そうすればエリーゼが家を継げる。復讐をしても家族に迷惑を掛けず、死んだって誰も悲しまない。

 いや、悲しむと言っている者が若干一名がいる。


(オレが傷付けたんだ)


 傷付けて、泣かせた。

 救われて欲しいと思っていたのに、傷付けていた。

 彼女のことは救わなければならない。あんな傷で死なせる訳にはいかない。


「分かりました。直接上層部に行こうと思います。失礼します」


 あるか分からない書物を図書室で探すより、アンジェリカ本人に訊いた方が良い。

 ルイスは一礼し、侯爵に背を向ける。そうして金の取っ手に手を掛けると硬い声が背にぶつかった。


「待て」

「…………」

「待つのだ、ルイシス」


 溜め息混じりの言葉は命令に等しかった。

 咎めるというよりは窘めるようだったが、その名はルイスを縛るものだ。

 ルイスは仕方なく扉に伸ばした手を下ろした。


「お前はいつもこの時期になるとそうだな……」


 誕生日まであと半月という頃、ルイスは不安定になる。

 アゼイリア夫人を殺したのは、九歳の誕生日だった。ルイスは誕生日が近付く度に生きていることを疑問に思う。産むだけ産んで身勝手に捨てた親を憎らしく思う。

 名前だけ付けて捨てるくらいなら殺して欲しかった。そうすれば失う悲しみも、奪う苦しみも知らずに済んだ。こうして際限なく何故と問うこともなかった。


「今のお前を外へ出す訳にはいかない」

「聞けません」

「何故だ」

「私の所為で死に掛けている人間がいるのです。ここで時間を浪費する訳にはいきません」

「ならば尚更だ。大人しく寝ているのだ」

「何故ですか」

「自分を疎かにする奴に他の誰かが救えるか、莫迦者」

「……そんなのただの綺麗事じゃないか」

「綺麗事を言っているのはお前だ、ルイシス。己を蔑ろにするような奴に助けられて誰が嬉しい? そのような自己満足で救われて生き長らえたとて、お前のその独善がその者の心を切り裂くのだ」


 侯爵はルイスの言葉を容赦なく切り捨てた。


「復讐は自分を喜ばせるものだと言ったな。ならば、お前の自己犠牲も所詮はただの自己満足だ。そんな心積もりの者には何も守れない」

「…………」

「もう一度問おう。お前はそのようなことで他の何かを救える気になっているのか」

「…………だったら……何かを失う気持ちがあんたに分かるのか?」

「あ、あんた?」


 あんまりな言葉に侯爵はぽかんとする。

 この言い回しに相当する上等な表現は貴公だろうか。だが連日に渡る人格否定の嵐に、感情を押さえ付けていた堤防が決壊してしまったルイスは止まらない。


「さっきまで話していた人が喋らなくなって、言いたかったことも聞いてくれない。渡したかったものも渡せない。もう二度と笑ってくれない、返事もしてくれない。死んだら全部終わりだ」


 幸せにしてくれて有難うという言葉も、二人を祝う為の曲も渡せなかった。

 憧れる気持ちが強過ぎて、父さん、母さんと気軽に呼ぶことができなかった。そう呼ぶと二人が嬉しそうにするのを知っていたのに、他人行儀に呼んでばかりだった。

 ルイスはクラインシュミットの両親に与えられるばかりで、何も返すことができなかった。


「手に入れたと思っても奪われて、また一人になる。弱かったら……奪われる。オレはもう失うなんて御免だ」


 何も持っていない人間は欲深い。何も持っていないからこそ、何かを与えられた時に執着する。執着して、求めて、自分だけのものにしようとする。

 かつて家族というあたたかなぬくもりを与えられ、今でもそれに引き摺られるように復讐に生きているルイスは自分の欲深さを知っている。

 ぬくもりが欲しいとか、声を聞いていたいとか、傍で微笑んでいて欲しいとか。

 そんな望みを再び持っては自分の在り方が崩れる。

 怖い。怖くて仕様がない。

 夢を抱き、何かを願うことが怖い。信じて、裏切られることが怖い。執着して――けれど、そこに永遠など存在せず、また一人になることが怖い。叶わない未来に絶望するくらいなら最初から諦め、夢など見ない方が良い。奪われるくらいならいっそ自分から捨てた方が良い。

 だから、復讐しかない。


「自分でも代価にしないとオレは何も得られないし、取り戻せない。何もないんだから仕方ないだろ」


 何も持っていないのなら、ない中で分かち合えば良いとかつて両親は言ってくれた。

 だけど、その貧困を分かち合う相手が何処にいるというのだろう。周りは恵まれた人間で、自分は出来損ないの人形だというのに。

 いつだってルイスは与える側ではなく、与えられる側だ。


「オレの何も知らない癖に勝手なことを言うな……!」


 綺麗で優しい人間にこの気持ちが分かる訳がない。こんな惨めな気持ちは分からないはずだ。

 ルイスの口から出たとは思えない激しい怒りの声に、侯爵は呆然としている。

 自分が何をしたのかというそのことに気付いたルイスは吐息を震わせ、目を伏せた。


(……何を……やって……)


 自分の何も知らない癖に、なんて言葉は子供の吐くものだ。未熟な人間性が丸出しだ。それだけならまだしもルイスは侯爵に暴言を吐いた。

 ルイスはこの十年間、積み重ねてきたものを全てぶち壊すようなことを言った。人形なら何を言われても歯向かうべきではなかった。どのような屈辱にも耐えるべきだった。

 猛省する息子の前で侯爵は涙を流した。父親を泣かせたのは初めてのことで、ルイスはぎょっとする。


「あ……あの、オーギュスト様……」

「感動している」

「……はい?」

「私はお前とこうして喧嘩をしてみたかった」

「意味が分からないんですが……」

「私はな、正直言うと嬉しいのだ。お前は男だというのにちっとも反抗しない。これでも私は父に殴られて育っている。私も息子を持ったらそうやって厳しく育ててやろうと楽しみにしていた。だというのにお前は軟弱というか模範生というか、付け入る隙をちっとも見せないではないか。子を叱ることもできない親か、私は」


 折角の男子だというのに、ルイスは品行方正すぎた。叱ることも、殴り合いをすることもできずに悲しかった。侯爵はそう語って肩を震わせる。

 アデルバートも「神は残酷だから信じる」などと言ってルイスを怯えさせたが、殴り合いをしたいというオーギュストも別の方向性で危険だ。

 訳の分からない理屈で近付いてくる人間は苦手だ。

 ルイスが言葉を失っていると、席から立った侯爵がすぐ傍にきていた。

 悪い子供だから撲たれるのだろうか。ルイスは罰を受けようと顔を上げる。

 けれど、求める姿はその視界から消える。


「ルイシス」


 名を呼ぶ声と共に抱き締められる。

 ルイスは驚いた。一瞬、身体が固まる。


「この十年、私はちっともお前の話を聞いてこなかった。父親失格だな……」

「……オレが……話さなかっただけです」

「だが、私に聞く姿勢がなかったのも事実だろう。私たちはお前を繋ぎ止めることに躍起になっていた」


 両親を失い、暴力を受けたような子供を侯爵夫妻は安全で快適な籠の中で囲うしかできなかった。


「済まなかった」


 撲たれるよりも余程胸に沁みる気がして、ルイスは肩を震わせる。

 このように家族として抱き締められるのは初めてだった。ルイスが拒んでいたこともあれば、侯爵夫妻が腫れ物に触るような扱いをしていたこともある。その境界線を踏み越えて触れられるとは思わなかった。

 父親の腕に抱かれ、安心して泣いていられた子供の頃の記憶というものはないが、この安堵感がそうなのだろうか。そう感じたルイスは自らその感情を否定する。


(オレの父親はアデルバート様だけだ)


 でも、と考える。

 思い出の中で美化され、二人は父母ではなく、神様のような存在になっていた。

 神に祈らない代わりに彼等を盲目的に信仰するようになっていたことをルイスは否定できない。

 では、復讐は神の為の自己犠牲だというのか。自分の為だけにやってきたはずなのに、神に許しを得る為に血による弔いを行おうとしていたのか。


(……違う……オレは、そんな……)


 神に縋るほど哀れな存在でもなく、他人に寄り掛かるほど子供でもない。


「違う」


 自分に言い聞かせるように声に出す。その途端、ぐらりと目眩がした。

 支えられているので倒れることはなかった。だが酷い悪寒にルイスは目を開けていることができない。


「熱があるな。部屋で休むと良い」


 瞼裏の闇は決して優しいものではない。

 けれど、今のルイスはその深い闇の中に沈んでいくことしかできなかった。

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