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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
111/208

番外編 Kyrie Eleison ~side Louis~ 【3】

 待つのは嫌いではなかった。

 待てば待っただけ会った時の嬉しさが増す。昔はそう思っていた。

 けれど、【あの日】待った先にあったのは、首を斬られて事切れた父と、背を裂かれて虫の息の母と、脇腹を刺された兄の姿だった。

 自分が早く駆け付ければ、父と母は死ななかったかもしれない。あの日、出掛けなければ――早く戻っていればと何度考えただろう。

 約束の時間になっても現れないクロエを待ちながら、ルイスが考えてしまうのは十年前のことだ。

 二時間遅れてやってきたクロエを見てルイスが感じたのは、怒りではなく、寧ろ安堵だった。自分が安堵している事実に気付けないルイスはついきつい物言いをしてしまう。

 クロエはすっかり萎れてしまっていた。

 ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返すクロエを前に、ルイスは自分を呪う。

 野草園の代わりに連れていった街を見て回る最中もその罪悪感は消えず、内心では猛省していた。


「私、桜って初めて見ました。貴方は見たことありましたか?」

「【ロートレック】では珍しいものでもないよ」


 デ・シーカでいう桜よりもずっと紅の色が強い木が【ロートレック】の公園にはある。

 ルイスがそう答えるとクロエは感慨深げに相槌を打ち、それから「見てみたい」と言った。


「シューリスの桜も見てみたいです」

「レヴィと行ってきたら? ショコラでも奢ると言えば付き合ってくれると思う」

「じゃあ、三人でピクニックしましょう」

「……考えておく」


 クロエが変なことばかり言うものだから、ルイスは彼女に対して演技ができなくなってしまった。

 こうして外出に誘ったことを含め、自分の首を絞めることばかりしているような気がして脱力感に苛まれる。こちらの後悔を知らず、純粋に楽しんでいるクロエの様子に益々疲れを感じる。


「見て下さい。あのお店で蛙の姿焼きを食べられるそうです」

「食べたいなら一人で行ってきなよ。オレは蛙だけは絶対に嫌だ」

「た、食べませんよ。ルイスくん、蛙が苦手なんですか? 【アルカンジュ】の周りに沢山いたじゃないですか」

「だから嫌なんだ。うるさくて眠れなかった」

「うちの舎の子たちは平気で眠っていましたよ」


 【アルカンジュ】のある地区は郊外なので、夏の夜になると睡眠妨害としか言えない鳴き声に包まれる。

 喘息の発作でただでさえ眠れなかったというのに、公害に晒されては苦手にもなる。あの環境の所為でレヴェリーも虫嫌いになったのを思い出して、ルイスは嘆息した。


「本当に【アルカンジュ】にいたんですね。二人がどんな子供だったのかちょっと気になります」

「オレはキミがどんな子供だったかの方が気になる」

「私はお母さんに迎えにきてもらいたいなんて夢を見ている子供でした」


 捨てられた癖に可笑しいですよね、とクロエは苦笑した。


「迎えにきて欲しいと思うということは、本当の母親は優しかったんだろ。その思い出まで否定することはないんじゃないか」


 クロエは暫く不思議そうな顔をしていたが、やがてその頬にふわりと笑みを滲ませた。


「そう、ですね……。やっぱり私はお母さんが好きです。捨てられたとしても、好きです」


 明るくて強くて優しい母が好きだとクロエははっきりと言い切る。

 好きだと言ったその純真さにルイスは憧れた。






 ルイスはこれを最後にするつもりでクロエと今日の約束をした。

 約束や侘びなどと尤もらしい言い訳をしながらも、本当はもう少しだけ日常の空気を味わっていたかったのかもしれない。


「貴方は音楽が好きなんですね」

「多分、嫌いではないと思う。ただ、オレは音楽に向いていない」

「どうしてです。生まれは関係ないって言ったじゃないですか」

「だからこそだよ。音楽や絵や文……そういった創作物は自分の心を映し出す。醜い罪を背負っている人間に美しい芸術は生み出せない。人の価値は生まれではなく人生で決まるものだというのなら、そういう意味でオレはこの世界に向いていない」


 この十年ずっと繰り返してきた、諦める為の言葉。それを動機として言語化するの初めてだ。

 自分と、そして他人を諦めさせる為に絶望を突き付けた。

 そう、これが本音だ。紛れもない本音。

 本音のはずだった。


「罪を犯したら人は終わりなんですか? 間違えたら終わりなの? 貴方は私がどんな生まれや育ちをしたのだとしても、頑張っているなら幻滅しないと言ったけどそれも嘘なの? 貴方の言い方じゃ、人はやり直せないように聞こえるよ」


 クロエは真っ直ぐとこちらを見た。


「不快だったのなら、謝る。オレは別にキミを莫迦にしたい訳じゃない……」

「あの……私は大口を叩けるような人間じゃありません。貴方のことも、音楽のこともろくに知りもしないで勝手な口を利いていると分かっています。でも、もう少しだけ良いですか?」


(どうして諦めない? 何を言っても無駄だと分かっているはずなのに)


 本当のところ、クロエのことは最初から苦手だった訳ではない。

 苦手に変わったのは、人殺しの罪を許さないという癖にルイスをそのまま受け入れようとした時からだ。

 真っ当な人間、もしくは偽善者ならばルイスを批判するか、人殺しの罪を許すと言う。ヴァレンタイン夫妻がそうだったように、罪を否定して愛してくれようとする。

 クロエの【許さない】という言葉はルイスにとって救いだった。

 人殺しの罪を肯定され、罪人として扱われる。それは償うことすらも許されなかったルイスにとっては何よりの救いだったのだ。それなのにクロエは、ルイスが望むこととは別の理解を示した。


「親に捨てられた私はどうしようもない人間なんだってずっと思ってきました。正直、今でも自信はないです。駄目な人間だからせめて目立たず、他人様に迷惑を掛けることがないようにって……。だけど、どん底まで落ちた人間にしか作れないものがあるんじゃないでしょうか? 芸術は形を問わないから、悲しみも憎しみもきっと受け止めてくれるはずです。私はこういう自分だからこそ、何かできることがあるんじゃないかなって思いたいんです」


 闇の中にいながら光を見失わない。

 闇を知りながらも、光を持ったあたたかくてやさしいひと。


「生意気言って済みません! 欺瞞だって言われても仕方ないかもしれません」

「いや……、欺瞞だとは思わない。辛い過去を自分の糧だと言えるならそれはもう進めている証だよ」


 尊敬する。心の底から憧れる。

 嫉妬したり羨んだりすることもないほどにルイスはクロエとは違うと感じる。

 だから、もう良い。

 こんな暗い世界まで踏み込んできて、こんなどうしようもない存在を引き上げようとしなくて良い。人殺しの為に心を砕いてはいけない。いや、砕いて欲しくない。これは個人的な願いだ。優しい人間には綺麗なままでいて欲しいのだ。

 だが、クロエはやはりルイスの思いを鮮やかに無視して言ったのだ。


「私は貴方の音楽が無価値だなんて思えないんです。勿論、悪いことはしたら反省しなきゃいけませんよ。怒られるのも当然です。でも、例え罪人だとしても貴方は貴方ですし、そのことで価値が変わるとかそういうのではなくて……」

「クロエ、さん」

「だから、その……貴方が自分の価値を信じられないなら、信じられるようになるまで私が信じますから、一緒に頑張ってみませんか」


 必死で閉ざしてきた籠の鍵を開けたのは、些細な一言だった。

 光の世界に無理に引き上げようとするのではなく、この暗い場所からでも共に頑張ろうというその言葉が、他人と自分との間に作ってきた扉を抉じ開けてしまった。


(頑張ったら、ここから抜け出せるのか?)


 暗くて、冷たくて、諦めたり、憎んだり、悔やんだりするだけのここから飛び立てるのだろうか。

 たった十年しか経っていないのに疲れていた。

 自分と他人を否定し続けて、恨み、憎み、いつか引き金を引く為だけの人生に堪らない空虚を感じていた。


(復讐以外でしても良いことが何かあるのか……?)


 このどうしようもない存在を、何か価値があるものだと信じて貰えるのは嬉しかった。呪わしい命も、過去も、罪も、それ等を何か意味があるものだと信じてもらえるのは、生きる支えになることだった。

 だけど、怖かった。

 自分の周りにいる者はいつも不幸になる。ずっと昔、可能性を信じてくれた両親は死んでしまった。

 怖いと思った。

 こんな自分を理解しようとする存在をそう思ったのか、失うことを恐ろしいと思ったのか、そのどちらかは分からない。それでも壊れ掛けの心が全力で拒絶した。


(駄目だ。懐柔されたら駄目だ)


 このまま呑み込まれるのは不味い。呑み込まれたら、ずっと諦めてきた十年が意味のないものになる。

 救われたいとか、認められたいとか、一人が嫌だとか、そんな下らない願いは諦めたはずだ。

 期待することも望みを抱くこともせず、全てを拒み、心を閉ざすことだけが唯一の自由。そうやって全てを諦め、心を殺して人形になったのにこれでは本当に出来損ないだ。


「……オレはキミが怖い」


 十年前に殺した心に触れようとするクロエが怖い。そしてこんなことで揺れる脆弱な心を抱えた自分が怖い。

 その思いは無意識に口から出ていた。

 もしかしたらまた泣かせてしまうかもしれない。言った後で後悔したが、謝ることはもっとクロエを傷付けてしまうような気がして、ルイスはそれ以上のことが言えなかった。

 暫くすると、クロエは泣き笑いのような顔をして「そうですか」と呟いた。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



「先生、彼女に何を言ったんですか?」


 返答によっては凶器を向けかねない危うさを内包した目でルイスはファウストを睨んだ。

 窓から雪の降る外を眺めていたファウストは、はあと溜め息をつくと答えた。


「過去の無理な治療から長生きができないこと。あとは……」

「あとは?」

「彼女ね、ひと月前の傷が塞がらないみたいなんだ」


 それは深々と降り積もる雪のように重く、冷たい現実だった。


「傷は小さいから失血死することはないよ。だけど、傷が開いたままというのは不味い」


 あの時のアンジェリカのけたたましい笑い声が思い出される。

 アンジェリカはクロエが傷を負ったのを見て、様を見ろと笑ったのだ。

 あれから一ヶ月半が経っている。その後起きた事件があまりにも大きくて、皆は腕の傷のことを忘れていたが、その間にもクロエは苦しんでいた。

 クロエは己の塞がらない傷を見て何を考えていたのだろう。


(あれは傷が塞がらなかったからなのか?)


 寂しいから傍にいるとか、大丈夫になるまで自分が信じるとか、一緒に頑張ろうとか。その言葉は己の死を見つめた上で出た言葉だったのか。もしや傷の舐め合いを望まれたのだろうか。

 そうではないと、心が告げている。


「あんな傷があったら、骨までしゃぶり尽くされて死ぬようなものだよ」

「だからって不安を与えてどうするんですか。酷だと思わないんですか」


 腕を切り落とすと言われたらクロエでなくても落ち込むはずだ。医者ならもっと言い方があるだろう。

 極論すぎると批難するルイスに、ファウストは善意も悪意もない目を向けて言う。


「君も知っているだろう? 外法の体液は人間にとっては毒だ。あれだけの異常で済むとは思えない」

「ならば何故もっと早くに処置をしなかったんです」

「それは彼女が……いや、私が至らなかっただけだ」


 ファウストが声を切ると同時に、ルイスは眉を顰めた。

 大人たちは何を隠しているのだろう。

 クロエはヴィンセントの狩りに巻き込まれて重症を負い、延命治療を受けたという。そのことで多額の費用が必要になり、ルイスは娼館に売り飛ばされた。


(何故、そこまでしてあの人を生かす必要があった? どうして年を取っていない?)


 末端でも【上】に属していれば、調整を受けて加齢が止まってしまう者がいることは知っている。

 調整とは身体の自己回復力を高める為に受ける処置だ。エルフェ、ファウスト、メルシエはその処置によるショックで外見上の加齢が止まり、寿命は伸び縮みしている。

 もし、クロエがそれと同じことをされていたとしたら。

 何年経っても容姿が変わらなければ周りが不審に思うから、住む場所を変えなければならない。つまり平穏な生活など永遠にできないのだ。


「寿命の話は今することだったんですか……」

「隠しておけというのかい?」

「少なくとも、今話すことではないはずです。生死に関わる傷があるなら尚更です」

「病は気からと言うね。生きたいという感情――未来への希望がなければ病も治らない。君と同じだよ」

「今しているのは彼女の話です」

「なら君は夢の中を生きるのが彼女の幸せだと思うのかな。悪いけど、私はそう思わないよ」

「死を突き付けられたらどんな気持ちになるのか考えてみろ!」


 長くは生きられない。どうせ死ぬ奴と関わっても意味がない。そうやって周囲に諦められながら育ったルイスはもう慣れてしまったが、クロエはそうではない。

 クロエはこれから外の世界へ出ていくはずだった。

 それなのに、終わりを突き付けられた。

 未来に影を落とされて平気なはずがなかった。


「泣いてたんだ……」


 今は教えるべきではなかった。クロエがしっかり立てるようになってからでも良かったはずだ。

 ルイスはこのことに関してファウストを許すつもりはなかった。


「…………が泣かせた」

「ルイス?」

「人を殺したから……オレがこんな奴だからあの人が傷付いた。そうだろ?」

「ちょ、ちょっと落ち着きなさい」

「この状況で何を落ち着けというんだ」

「あの件は君に責任はない。君は仕事で外法を狩っただけだし、ヴィンセントが彼等を煽ったり、彼女を利用しなければあんなことにはならなかった。君の所為じゃないんだよ」

「……それで? 責任をあの男に転嫁したところで何かが変わるのか?」

「ルイス、私の話を聞きなさい」

「理由はどうあれ、あの人が傷付いた。その事実は変わらない……何も変わらないだろ……!」


 勢いを危うく感じたファウストは宥めようとしたが、ルイスはその腕を振り切った。


「いつだって、周りが不幸になるんだ」


 苛立ちと怒りと嘆きが混ざった濁る感情のまま一気に捲し立てる。

 ルイスは椅子の背に掛けてあったコートを取ると、そのまま戸口へ向かった。


「ルイス、待ちなさい。少し落ち着いて話を聞きなさい。大体、そのまま外に出たら本当に風邪引く……って、聞いてないか。全く、血が上り易いんだから困ったものだ……」


 扉の開閉する音を聞いたファウストは一度息をつく。

 冷静なようでいて向こう見ずなところがあるルイスは、ああなるとどうしようもない。十年間、従者として傍に仕えてきたファウストはそれを知っている。

 ファウストはそのまま立ち尽くす。視線の先の庭には白い雪中花の蕾があった。


「本当に心のない人形ならそうやって怒鳴ることも、復讐なんて言うこともないというのに」


 感情的で情熱的だからこそ、復讐という莫迦なことができるのだ。

 誰よりも深い情がなければ復讐はできはしない。

 もう目の前にいないのに、それでもずっと一人で想い続けている。もう抱き締めてもくれない相手を想い続けるのは、並大抵のことではない。

 いい加減しつこいと、女々しいと呆れられるのが分かっているから、ルイスは絶対に認めない。


「他人のことには心を砕く癖に、どうして自分のことは分からないのですかね」






 霙とも雪ともつかないものが真っ暗な空から降っていた。

 先ほどまでは星も見えていたというのに、今は射干玉色の闇が広がるだけだ。

 ほとりほとりと重たく積もる雪に髪や頬を濡らしながらルイスは夜の街を進んでいた、

 もう泣き喚くほどの気力はなく、誰かの胸に縋るほど子供でもない。甘くて優しいものに懐柔されはしない。そう決めた矢先のことだった。


(またオレの所為で他人が傷付くのか?)


 クラインシュミットの両親を見殺しにし、アゼイリア夫人を手に掛け、クロエに命に関わる傷を負わせた。


(……思考を止めるな、考えろ)


 絶望して思考を止めるのは誰にだってできる。心を殺して全てを受け入れるのはあまりにも簡単だ。

 思い出に浸る感傷が必要ないように、嘆き悲しむ感情など不要だ。どれほど想おうとも死者は蘇らない。嘆くだけでは何も変わらない。だから、足を止めてはいけない。

 停滞など元より望んではいない。自分は進むしかない。


「死なせない」


 もう自分の周りで誰かが傷付くのは嫌だ。

 ルイスは熱の所為で痛み始めた喉に気付かない振りをして、路地を奥へと進んだ。

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