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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
二章
11/208

お菓子の家の甘い罠 【1】

 氷月の名前がある十二月は一年の終わりの月である。

 例年であれば雪によって一面真っ白に染め上げられている【アルケイディア】だが、今年は降雪が遅れている。異常気象からくる影響で最近の朝晩は毎日のように濃霧が立ちこめる。

 街は青く冷たい緞帳(どんちょう)に包まれ、陰鬱な空模様には気分が滅入ってしまう。

 だが、どんな空模様であろうと十二月の雰囲気というものは変わらないものである。

 街中が何処か慌ただしく、浮き足立ったような空気に包まれている。そんな十二月が明日と迫った十一月の末日、喫茶店【Jardin Secret】では改装が行われていた。

 閉店時間を迎えた店で行わている改装とはノエルデコレーションだ。店前の植木にイルミネーションライトを飾り、店内の窓にはウィンドウシールを貼る。モノトーンのリボンで飾られたリースはドアへ吊るす。

 クロエがジェルシールを貼る横で、レヴェリーは型紙の上からスノースプレーを吹き付けて窓にデコレーションをしている。ダリアや雪の結晶の模様が粉雪のようなスプレーによって浮き上がると、ぐっとノエルの雰囲気になる。


「エルフェさん、今年もノエルケーキの販売やるんだよな?」

「ああ、予約を何件か貰っている」

「去年はインパクト薄かったから、今年は苺が沢山乗ったやつが良いと思うなー」


 甘いものに目がないレヴェリーはエルフェにノエルケーキをねだっていた。

 施設育ちの者にとってケーキなどの菓子類は高級品だ。ケーキといったら誰かの誕生日に一欠片貰えるか貰えないかの超高級品で、滅多に有り付けない。クロエも自立をしてからは苦しい生活をしながらも、月に一度ケーキを買うことが密かな楽しみだった。


「エルフェさんのケーキ、もっと宣伝したらどうです?」


 エルフェの作る菓子は驚くほど美味しい。どうしてこんな小さな店で振る舞うだけで留めているのか、クロエは疑問でならなかった。


「この時期だからきっと繁盛します」


 すると、エルフェは首を振った。

 灰色とも水色ともつかない薄い氷のような色の瞳がクロエに向けられる。


「この時期に宣伝したところで大手に持って行かれるからあまり意味はない」

「大手といえば【ヴァレンタイン】ですか?」

「ああ、そうだ」


 【ヴァレンタイン社】とは国民なら知らぬ者はいない有名な製菓メーカーだ。

 貴族御用達のメーカーで店舗での販売が主だが、ストアでも扱う箱入りのチョコレートや、キャラメル、クッキーも製造しているので、一般市民たちにとっても【ヴァレンタイン社】の商品は馴染み深いものだ。

 かの店の菓子はクロエも好きだ。素材と質に拘っていることが分かる素晴らしい出来なのだ。


「ビターキャラメル食いたいなー」


 型紙に付着したスプレーの粉を拭き取りながらレヴェリーは言った。


「美味しいよね、ビターキャラメル」

「だよな! ストロベリーキャラメル出たらしいからめっちゃ食いたい」

「そういえば雑誌に載ってたね。行列できてるんだっけ」

「そうそう。店が休みになりゃオレも買いに行くんだけどなー」

「余所の店の儲けになるようなことはするな」


 咎められたレヴェリーは突き刺すような強さでエルフェを見る。


「んだよ、金なんか稼ぐ気ない癖に!」

「俺とて料理人の端くれだ。店の従業員が他の店の菓子に現を抜かしているのは気に食わん」

「現を抜かすって何だよ!? オレ、菓子如きに惑わされてねーし!」

「菓子如き……? 如きとは何だ」


 レヴェリーは怯えた様子で何度も首を横に振った。

 小耳に挟んだ話なのだが、エルフェは怒るととても怖いらしい。純粋に尊敬できる人物だからというのもあるだろうが、あのヴィンセントですらエルフェが相手だと多少の礼儀を尽くし、顔色を窺うのだ。レヴェリーも退き際を心得ていることからして、その怖さは凄まじいものなのだろう。


(エルフェさんって本当にお菓子作りが好きなんだな)


 菓子に対する情熱というのだろうか。エルフェにはそういうものが見える。

 人知れず夜に仕込みをし、朝早くから菓子作りに打ち込むその横顔は真剣そのもの。エルフェと菓子という組み合わせはミスマッチなものがあり、ヴィンセントなどは呆れ顔の時もあるのだが、格好良いとクロエは思う。

 クロエにはそこまで真剣に打ち込めるものがない。

 絵を描くことも所詮は趣味で、自信もなければ、他のことを忘れるほど熱心に取り組んでいる訳でもない。だからこそクロエはエルフェを尊敬する。何かに確かな自信を持ち、熱を注げる姿勢を素敵だと思う。

 すっかりお休み状態になっていた手を動かす為、レヴェリーの手伝いをしようと振り向く。すると、外の清掃に出ていたヴィンセントが戻ってきていた。

 イルミネーションの飾り付け終わりましたか、と訊こうとするクロエ。それよりも先に彼は言った。


「神様の子供が生まれた日を祝うなんて誰が決めたんだか」


 ノエルケーキのチラシを見ているヴィンセントは下らないと言って、続ける。


「ノエルだとかショコラトルデーだとか、イベントを託けた企業の商法に引っ掛かっているよね。人間って本当に馬鹿馬鹿しいなあ」


 神を信仰する信者たち、恋人たち、そして家族。そんな者たちにとって特別な日であるノエルも、ヴィンセントに掛かれば下らないの一言で片付けられる。

 ヴィンセントといる限り、四季のイベントは悉く斬って捨てられそうだ。

 クロエはげんなりし、誰にも聞こえないようにそっと溜め息をついた。

 そんな態度が愉快だったのか、ヴィンセントは意味有り気に微笑み掛けてくる。クロエは表情を一層歪ませた。

 これは宜しくない兆候だ。

 今日はまだ大した攻撃を受けていないクロエは、内心だらだらと冷や汗を掻く。

 ヴィンセントの場合、朝一に嫌味を言ってくれた方がクロエとしては一日穏やかに過ごせるのだ。陽が傾くのと比例するように、この金髪の若者の揶揄は性質が悪くなる。

 そろそろ何かされそうだ。クロエは顔を真っ青にしながら、心が折れないように己を叱咤する。


「つーか、ヴィンス。文句言うならショコラトルデーにチョコ貰ってくんじゃねーよ」


 クロエが予感した今回の爆弾投下はレヴェリーによって阻まれた。

 ほっとするのも束の間、今度は二人の間に不穏な空気が流れ始めるのでクロエははらはらする。


「レヴィくんは残酷なことを言うね。人の思いを無碍に砕くなんて無情なことは僕にはとてもできないよ」

「甘いもん嫌いな癖に白々しい嘘吐くなよ。貰っても捨てちゃ意味ねえだろ」

「捨てる? 何を言っているのかなあ、レヴィくん。チョコは毎年有効利用させて貰っているよ?」


 良からぬ含みがあると気付いているのだろう。レヴェリーは嫌な予感がすると言いたげに目を見張った。

 すると、ヴィンセントが悠然と言い放つ。


「チョコを崩してエルフェさんにケーキにして貰えば店に出せるじゃない。材料費が浮くよね?」


 さも自分が良いことをしているといった風にヴィンセントは爽やかに笑んだ。

 この若者の笑みは含みがないほどに性質が悪い。クロエからするとヴィンセントが魅惑の美貌に刻んだそれは、悪辣とした意地の悪い微笑だった。


「お前が一番残酷じゃねーか。このろくでなし野郎!」


 レヴェリーは顔を真っ赤にして怒鳴る。その前で腕を組むヴィンセントは飽くまでも悠々として、その形の整った口許には悪戯めいた微笑がある。

 沈黙を貫きつつ、クロエも腹の底で怒りの炎を燃やした。

 今の答えはあんまりだ。同じ女性として胸が痛い。叶うのならばこの場でこの男を蹴り飛ばしてやりたい。けれど、願えどもクロエにそれを実行する勇気と度胸はない。


「あ、もしかして妬いてたりする? 嫌だなあ、男の嫉妬ほど醜いものはないよ」

「妬くもんか! オレだって……オレだってな……」

「小さな包みに入った明らかに余りものですってやつなら日常茶飯事貰うよね。好意でくれているというよりも、犬猫への餌付け感覚かな。まあ、君は本物のチョコレートの味なんて分からないだろうし妥当だよね。君には一ミラで買えるコインチョコレートでも充分だ」

「誰がコインチョコで充分だ! 莫迦にすんな!」


 がやがやと口論が続き、カウンターで売上金の計算をしていたエルフェは嘆きの溜め息をつく。彼の顔がぴきぴきと引き攣ってきているのをクロエは見てしまう。


(……食べないようにしないと)


 ショコラトルデーの後にチョコレートケーキ、もしくはチョコレートが乗った菓子が出てきたら疑った方が良いかもしれない。

 クロエはそんなことを考えながら、イルミネーションを確認するという名目で逃げるように外へ出た。






 その晩のこと。


「ねえ、ちゃんと味見して作った? 味覚崩壊が起きそうなほど不味いんだけど」


 意地の悪い笑顔もなく、淡々と紡がれた言葉がぐさりとクロエの胸に刺さる。

 ヴィンセントと大きな円卓を挟んで座るレヴェリーは、敵意を滲ませた尖った声を上げた。


「お前が作るものより数万倍マシだよ!」

「俺は食事の味に拘らん」


 レヴェリーの隣、エルフェの正面、そしてヴィンセントとは斜め向かいの位置に座ったクロエは落ち込む。

 普段何も言わないエルフェが反応を示し、美味しいと言って食べてくれるレヴェリーが「ヴィンセントの料理よりマシ」などと言葉を濁すということは、つまり不味いということか。

 スープをスプーンで掬って、恐る恐る口に含む。どれほど粗悪な味なのかと覚悟した。しかし、ジャガイモのポタージュスープは悪い味ではなかった。

 クロエからすると全くいつも通りだ。自慢ではないが、クリームスープは得意料理の一つである。それなのに微妙な反応を返され、ほとほと弱ってしまう。


「ほら、早く作り直して」


 そう言うヴィンセントは本気の笑顔だ。愛想笑いすらなく淡々と責められるのも怖いが、明らかに目が笑っていない笑顔も怖い。


「はい、分かりました。ローゼンハインさん」

「だから何度言えば分かるのかなあ」

「……う……」

「前も言ったよね。同じこと何度も言わせないでよ」


 ファーストネームで呼べと言われたことは覚えている。

 だが、得体の知れない相手と距離を置きたいという思いが無意識下に存在するからこそ、クロエの中でヴィンセントは【ローゼンハインさん】なのだ。

 親しい間柄でもなく、寧ろ人の人生を滅茶苦茶にしてくれたというただひたすらに憎たらしい相手を、どうしてファーストネームかつ敬称を付けて呼ばなければならないのか。

 この場を乗り切る為には仕方がない。クロエは決心し、屹然と向き直る。


「ではヴィンセント様、お皿を貸して下さい。すぐに作り直してきます」

「やっぱり良いや。部屋で酒でも飲むことにするよ」

「そうですか」


 クロエの声の高さががくりと落ちる。故意にそうしようとした訳ではなく、自然と低くなった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 街の賑わいから少し外れた公園に冬の淡い陽光が射す。

 ある日の昼下がり、買い物に出掛けたクロエは日溜まりの中で陰鬱な溜め息をついた。

 噴水を中央に眺めるここは、以前レヴェリーとアイスクリームを食べた公園である。

 今日は彼の姿はクロエの隣にない。最近クロエは一人で買い物に出ている。必要以外で出掛けることは禁じられているが、買い物や使いでなら出歩くことを許されていた。

 クロエが座るベンチにはショップで買った食材などが入った紙袋がある。そう、もう買い物は済んでいる。


「はあ……」


 寄り道がいけないことは分かっている。分かっていても気が重い。

 クロエが帰宅を渋っている原因は、主にヴィンセントとのことだ。

 食事に文句を付けられるのは辛い。皆の前では気丈に振る舞ってみても、クロエは酷いショックを受けている。

 同じ施設の出であるレヴェリーはまだしも、見るからに貴族といった二人の口に合うものは作れない。育ちによって食文化は違う。クロエと彼等では美味しいと感じる味覚が違うのだ。

 思い返してみれば、クロエの料理は継母にも不評だった。

 継母は幼い頃から苦労なく育ったようで、家事ができない人だったから必然的にクロエが炊事をした。だが食事を出すと「こんなものが食べられるか」と皿をひっくり返し、時にはこちらへ向かって投げ付け、いつも外食をしに出掛けた。

 クロエの料理は誰かに楽しませる為に覚えたものではない。ただ、施設の弟妹の腹を満たす為だけに――人が食べられるものにする為だけに調理したものだ。


(認めてもらうなんて、できないよ)


 ただの揶揄ならまだ我慢できる。だが、料理はトラウマがある。継母と同じ金髪緑眼の彼に責められる度にクロエは胃が縮む思いだった。

 それに、もう一つ悩みがある。

 墓参りの日以来、レヴェリーとヴィンセントの様子が可笑しいのだ。表面上は普通に接しているが、二人の間にはぴりぴりとした空気が流れている。何かと二人と関わることが多いクロエはとばっちりも受ける。

 両者の間で板挟みになったクロエは本人たちにもエルフェにも相談できず、こうしてひとり鬱いでいた。

 公園を吹き抜ける風は冷たい。

 クロエは寒さを感じた。身体の芯の方から寒気がやってくる。どうしてだろう。そうぼんやりと考えるクロエの耳に、固い足音が入った。


「エクスキュゼモワ・マドモワゼル」


 声に気付いて視線を上げる。クロエの目が大きく見開かれた。

 滑稽なほどに目を剥いたクロエの前に、礼服姿の少年が立っている。

 綿毛のように柔らかな薄茶色(ティーローズ)の髪に、紫色の瞳。身体の細さを強調するような仕立ての黒い衣装が更に際立つような白く透き通った肌。良く言えば繊細、悪く言えば神経質な印象の容姿だ。

 ストラップで肩に掛けられた丸型ケースの中身は、恐らくヴァイオリンかヴィオラだろう。

 稀に見る礼服姿で、見るからに育ちの良い御曹司といった少年を、クロエは知っている。そう、先日ヴィンセントに凄まじい罵倒を投げ付けていた少年だ。確か名前はルイスだったか。


「え……と、済みません。すぐ退けますね」

ちょっと待って(アタン・アン・プー)


 荷物を持ち、慌てて立ち去ろうとして腕を掴まれたクロエはびくりとする。

 会うのは二度目。ろくな会話などしていないので初対面に等しいが、クロエはルイスが苦手だ。ヴィンセントとは別の意味で、この鋭利な抜き刃のような雰囲気を持つ少年は怖い。

 血の巡りが悪そうな手で手首を掴まれたクロエは逃げることが適わない。


済みませんが(エクスキュゼモワ・メ)……、今少し(ジュ・プ・ヴー・)良い(パルレ・アン・)ですか(ナンスタン)?」


 勿忘草色の瞳がじわっと揺れたのを見た少年は掴んでいた手を離すと、静かな口調でそう言った。

 あの罵倒から、ルイスに血気盛んで乱暴な人という認識を持っていたクロエは俄かに驚く。彼の声は秋風のように涼やかで、薔薇の棘のようなものはなかったのだ。


「あの、何て言いました?」

シューリス語は(ヴー・コンプレ・)分かりますか(シューリス)?」


 ゆっくりと紡がれる言葉。今度はどうにか聞き取ることができた。


「多少聞き取れますけど、話せません」

「じゃあ、今話している言葉は分かる?」

「はい、分かります」


 彼は公用語が苦手らしく、何処かぎこちなさの残る砕けた話し方だったが、クロエはほっとした。

 【アルケイディア】には様々な人種が暮らしているので、その人種の数だけ言語もある。

 公用語を使うのがマナーであるが、【彼等】は違う。塔に移住しても尚、誇り高い西洋の民は頑なに自分たちの言語を守ろうとしたらしい。そんなシューリス人の末裔が、現在【ロートレック】で暮らす大貴族たちだ。彼等は公用語を品のない言葉として嫌い、自分たちの言葉こそを至上としている。

 きっとルイスはシューリス人の末裔なのだろう。彼の容姿や立ち振る舞いはいかにも貴族という風だった。

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