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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
109/208

番外編 Kyrie Eleison ~side Louis~ 【1】

迷いの森の赤ずきん 【5】直後の話になります。

 望まない現実を、朝がくる度に受け入れて生きていかねばならないのはどうしてだろう。

 胸にあるのは、敵を殺したいという暗い願いと喪った後悔だけ。その思いに突き動かされるように漫然と生きる世界は色がない。

 復讐なんて自分を満たす為だけのただの気晴らしなのだと、理解した上で銃を取った。それなのにたまに虚しくて仕様がなくなる。

 人のぬくもりや愛情というものからは縁のない生まれをした所為か、慢性的に飢えているのかもしれない。同情は愛情にならないから嫌だとか、そんなどうしようもないことを口走ってしまうほどに渇いている。

 とんでもない暴言を吐いてしまったものだと冷静になった今は後悔していたが、その思いは本心だ。

 自分はそこまで哀れな人間なのかと思い知り、自己嫌悪にただでさえ安定を欠いていた心が乱れた。

 不安が半分で、残り半分は苛立ちと不信と自己防衛。そんな感情に突き動かされるまま連日のようにクロエと争い、自制心はあるが決して忍耐力が強い訳ではないルイスは疲れきっていた。

 そして、望まない現実の一つである【存在】は、今日も傍にある。

 色のない世界にいるのは自分だけのはずだったのに、その扉を無理に抉じ開けて居座ろうとする傍迷惑な存在。空や花を見て喜ぶことができる頭の中がお目出度いとしか思えない態度の裏に、うっすらと非凡な陰を纏う彼女はいつも傍にいる。

 大怪我をしたあの事件から妙に傍に寄ってくるようになって、肺炎で入院してからは不思議な目を向けられるようになった。

 義務感めいた態度は同情だろうと何度となく疑ってみたが、彼女の双眸にある色は嫌悪でも憐れみでもないものだった。その得体の知れない感情を彼女は友情だと言い張り、ルイスも「そうなのか」と納得しようとはしている。

 他人から受ける好意は苦手で仕様がない。どんなに突き放しても邪険にしても関わることを止めようとしない存在に、ルイスは焦りを感じ始めていた。


「一緒に行っても構いませんか?」

「……別に良いけど」


 その晩、ルイスはクロエと教会へ行くことになった。

 道中は会話もなく、気まずさを覚えたルイスはつい足を早めてしまう。

 歩幅の違いから必死になってルイスを追っていたクロエは、ふとこんな訊ね事をした。


「神様って信じていますか?」

「キミは?」

「それなりに信じてます。それで貴方は?」

「さあ、どうだろう。でももしいるとしたらこの世界で一番残酷な存在だから信じるかな」


 言うに事を欠いてそれはないだろうという話題に、いつか聞いたことのある台詞をなぞるように答えてみた。

 どんな気分になるかと思ったが、とても皮肉な気持ちになった。


『あなたは信じてるの? もしそうだったら何で?』

『神様はこの世界の誰よりも残酷だから、かな』


 悪意と敵意を込めたルイスの質問にそう答えたアデルバートは、最初の妻と子供を失っていた。

 何処か物憂い目をした人だと出会った時から感じていた。

 人生に癒し難い寂寥(せきりょう)を抱えた者の持つ雰囲気を幼いルイスは得体の知れないものと取った。


『私は守れなかったんだ』


 アデルバートは屋敷の礼拝室で祈っていることがあった。ルイスも今は分かる。彼は失った妻と子供が安らかにあることを祈っていたのだ。


(なら、祈ることすらしないオレは人非人(にんぴにん)か)


 ルイスは神を信じていない。祈りによる救いを求めていない。だから、アデルバートとエレンの安らかな眠りを祈ることもできない。

 祈りは偽善だという思いがある。

 彼等の為に祈ったところで、きっとその何処かに自分の救いを求めてしまう。

 誰かの為という目的を語り、手段を正当化させながら、本当は全て自分の為。人間はそういう生き物だ。醜悪で、けれどそれが【普通】でもある。そうして普通の生き方をできないルイスはまともな人間ではない。

 その時、手を掴まれた。

 悴んで感覚がなくなりつつあった手が強く引かれる。驚いたルイスは振り返った。

 白熱灯の光を受けて少しだけ宵の色に染まった青い双眸が向けられていた。クロエは同情とも嫌悪とも違う目でこちらを見る。


(キミはどうして平気で触れる?)


 人殺しに触れるなんて正気とは思えない。

 クロエが何をしたいのか、この行為に何の意味があるのか、分からない。

 手を繋ぐことが友情の証とでも言うのだろうか。だとすれば、そんな幼い情などルイスは要らない。


「冗談だよ。家の習慣でやっているだけだから、神なんて信じていない」


 手を振り解いたルイスは冷めた気持ちでクロエを一瞥すると、また道を歩き始めた。

 重い空気が二人の間に落ちた。

 会話がないことを気まずいとは思わない。しかし、そのことを気まずいと思っているクロエの顔を見るのが苦手なルイスは反省する。そうして態度を改めてからはどうにか会話も続き、クロエの表情も和らいできた。

 帰り道は、行きよりも会話も弾んだ。

 賛美歌の話をするのでルイスが施設で聴いたことがあると答えると、クロエは大きく目を瞬かせた。


「施設の礼拝堂に行ったことあるんですか?」

「神を信じてない奴が行くのがそんなに不思議かな」

「いえ、そういうことじゃなくて! 私も通っていたので……」

「オレはキミみたいな人は見たことはない」


 その先に続くだろう言葉をルイスは聞きたくなかった。

 咄嗟のことにきつい口調で切り返すと案の定、クロエの細い肩はびくりと揺れた。

 クロエは花が萎れるように笑みを消してしまった。

 しょんぼりと落ち込んでいる背を見ながら、ルイスはとても苦い心地だった。

 正直に言えば、記憶にない訳でもなかった。

 いつも礼拝堂の最前列でうなだれていた年上の女性。顔を見たこともなかったが、それがクロエだったのかもしれない。


(もしあれがこの人だったとしてそれが何だっていう?)


 考えるまでもない。クロエがそれを知ることはないだろう。ルイスはあの頃と外見が変わっている。施設にいた頃は明るい金髪だった髪も、今は薄茶色になっていた。あの蜂蜜色の髪の女性がクロエだったとしても、クロエはルイスを思い出さない。

 そんなことを考えたルイスは己にうんざりする。最近はどうにも流されてしまう。

 半月前のあの時も、あの男を殺す絶好の機会だったというのに結局引き金を引けず、命を救ってしまった。傷付けられたはずのクロエが、加害者を救おうとなどするものだから意味が分からなくなった。

 意味が分からない存在は恐ろしい。ルイスはクロエが苦手で仕様がない。






 家に着いたのは午後十一時を回ろうという頃だった。

 帰宅したということをエルフェに報告してからバスルームを使い、部屋に戻ると人影がある。ルイスは訊ねた。


「何の用ですか」

「良い酒が手に入ったんだ。飲まない?」


 ここにあってはならないはずのその人物は、悠々と寛いだ様子で椅子に腰掛けていた。


「誰かと飲みたいならレイフェルさんを誘ったらどうですか」

「たまには変わった人と飲みたくなるものだよ。それに君だって僕と話をしたいだろう?」


 ヴィンセントから出されたものを口にするほどルイスは命知らずではない。また、自分を娼館に売った相手と親しく酒を飲み交わすなど沙汰の外だ。

 ルイスは不快感を無表情の裏に押し隠して、テーブルの上のボトルに視線を向けた。


「アプサントなんてまだ出回っているんですね」

「この退廃的な魅力に取り憑かれる人間は多いよ。ちょっと前まではアブサンパーティーも開かれたものだけど、最近は規制が厳しくなって偽物しか出回ってないんだよね」


 手に入れるのは大変だったと語ってヴィンセントはボトルを指で撫でた。

 アプサントとは薬草酒のことで、高いものではアルコール度数が七十近くある。

 他の酒では味わえない独特の味わいと妖しい色合い、そして脳をアルコールに漬けられたような深い酔い。アプサントは改革の嵐が吹き荒れた時代に芸術家や革命家を虜にし、破滅へと導いた魔の酒だ。

 アプサントは、原材料に含まれる成分に幻覚等の精神異常を引き起こす作用があり、多くの中毒者を出したことから今では製造・販売が禁止されている。


「貴方は飲酒を禁じられていませんでしたか?」

「ルイスくんとメイフィールドさんに救われた命を大切にしろって? 冗談じゃないね」

「貴方みたいな人でも何かあれば悲しむ人はいるんです。少しは考えて行動して下さい」

「その言葉、丸々返したいんだけど」

「オレが死んで泣く人なんていませんよ」


 失って立ち行かなくなるほどに自分を思ってくれる人など何処にもいない。

 自分が他人に向ける感情がそうなのだから、他人から自分に向けられる感情も淡白なもののはずだ。


「貴殿は恵まれた存在なんですよね? ならばそれ相応の振る舞いをなさっては如何です。それが持てる者の義務ではありませんか」


 笑みを張り付けたままルイスの話を聞いていたヴィンセントは興が削がれたというように嘆息し、アプサントを机に置いたまま席を立つ。


「エルフェさんが良く言うノーブル・オブリゲーションってやつかな。まあ、考えとくよ。……盗み聞きをしている鼠がいるようだし、話の続きは今度かな」


 ヴィンセントは【鼠】に聞こえるようにそう言って、部屋の扉を開ける。

 青い目をした鼠はびくりと身を震わせ、まるで天敵である猫を見るように彼を見上げる。


「じゃあ、お休み。お人形(ルイシス)くん」


 ヴィンセントは傲然と笑むと部屋を出て行った。

 本名を呼ぶところに限りない悪意と揶揄が込められていた。疲れきっているルイスはそれに何かを思うこともできず、ただその場に残されたクロエを一瞥した。


「何の用?」

「お水を持ってきました」

「ああ、そう。わざわざ有難う」

「え……と、ここに置いておきますね」


 アプサントのボトルを見たクロエがヴィンセントと向き合っている時以上に青冷めていることに気付きながらも、ルイスはその理由に触れようとはしなかった。

 クロエも空気を読んだのか、何も言わずに立ち去ろうとする。

 けれど、扉が閉じられようという時にとても小さな声が聞こえた。


「私はルイスくんに何かあったら悲しいです……」


 偶然その話を聞いてしまったのだろうクロエはそう言い残して、部屋を辞した。


(キミが優しい人間だからだよ)


 親しくもない他人が傷付いて悲しいと感じるのは、クロエの感受性が豊かだからだ。

 クロエのような人間は、童話の登場人物の不幸にも心を痛めるのだろうなとルイスは思う。それはきっと美徳と言えることなのだろうが、この世界を生きていくには危ういものを感じる。

 優しい人間に世界は残酷だ。

 彼等は無慈悲な人間に傷付けられて、弱っていくのだ。


(オレは結局あの人を傷付けるのか?)


 例え底なしのお人好しの彼女の慈悲に預かったものだとしても、傷付けることになるのは事実だ。

 殺人の罪を許さないなどと言い、死を悲しんでくれるらしいクロエをルイスは傷付ける。

 そう、誰も何も感じないというのはただの自惚れだ。

 自分がいずれ起こす行動の裏で誰かが傷付き、不快な思いをする。命を絶つ自分はその者に補償などはしないのだ。

 ルイスは復讐が反社会的行為と理解した上で望んでいるが、他者を傷付けたい訳ではない。目的の邪魔となる存在は排除し、利用できるものは全て利用する。そう考えはしても例外はどうしてもある。

 兄や義家族を巻き込みたくはないし、できれば彼女も傷付けたくはない。

 ここで暮らすのも潮時かもしれないと思った。

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