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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
108/208

番外編 愛が狂気に変わるまで ~side Diana & Vincent~ 【3】

※この話は流血、性表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。


「……ここ……どこ……?」

「俺の家。お前は撃たれたんだよ」


 目覚めたディアナは自分に何があったのかということを理解できないようで、暫く考え込んでいた。

 空色の瞳がゆっくりと瞬き、唇は何かを紡ごうとして、けれど戦慄いて閉ざされる。


「ああ……うん……うん、分かった……だから痛いのか……う――――っ」


 漸く状況を把握したディアナはベッドから起き上がる。その瞬間小さく呻き、身を折った。

 咄嗟に肩を押さえようとした手は腕を掴み、痛みに震えた。


「……麻酔、とか……ないかな。流石に痛いんだよねー……」


 ディアナは右肩に傷を負って三日間臥していた。日に何度も包帯を替えねばならず、その都度具合を見ているヴィンセントは傷の深さも知っている。本当なら、まだ寝ていなければならないくらいだ。

 麻酔代わりの向精神薬を打って暫くすると、苦痛も和らいできたのか呼吸も落ち着いてくる。

 ディアナは驚くべきことを言った。


「わたし、帰るね」

「まだ動かない方が良いよ」

「えー? だって、このまま君に世話になってる訳にもいかないじゃん」

「死んでも知らないよ」

「お生憎様。わたし、これくらいじゃ死なないもん」


 ディアナは人間を捨てた異形だ。

 貴族の責務として政府に協力しているエルフェはそこまでの処置は受けていないが、罪人として実験材料とされたディアナは違う。身体に流れる血の全てを外法のものと入れ替えられている。


「一応、ありがと。あと、ごめん」


 死人のようだと思った青白い顔には僅かに赤みが戻ってきている。だが表情は暗く、憂鬱な溜め息をつくディアナの横顔からヴィンセントは視線を外した。

 その日を境にディアナは姿を消した。

 連絡を入れても応じることはなく、ふた月が過ぎたある日、留守電にメッセージが一言入れてあった。

 チームを抜ける、と。

 たった一言だった。挨拶も釈明もなく、ただ用件のみでメッセージは終わっていた。

 エルフェはディアナがそうしたいならそうさせてやれと言わんばかりだった。ディアナに想われている癖に何たる反応だろう。ヴィンセントはエルフェに失望を感じながらも動いた。

 連絡は付かずとも、いずれは自宅へ戻るだろうと踏んでいた。

 ヴィンセントは五晩通い、漸くディアナを捕まえた。

 今まで逃げ続けていたディアナはばつが悪そうで、隙があれば逃げそうだ。

 アパートの古びた蛍光灯の所為か顔色は青白く映る。黒い外套が一層その白さを際立たせている。ヴィンセントは腕を掴んでみて、その顔色の悪さが錯覚ではないことに気付く。ディアナの腕は痩せ細っていた。


「痛いよ。離してくれない?」

「離したら逃げるだろう」

「逃げないよ」

「嘘だ」

「あんまうざいと蹴るよ……」

「蹴りたきゃ蹴れよ」


 肋骨なら幾らでもくれてやるという気持ちでヴィンセントが告げると、ディアナは溜め息をついた。

 赤い唇が不機嫌そうに引き結ばれる。


「なら、上がる? コーヒーくらいなら出してあげる」


 ディアナは家の鍵を取り出すとヴィンセントを招き入れた。






 この部屋に足を踏み入れるのは二度目だ。何年か前に一度訪れている。

 室内は相変わらず必要なもの以外は置いていない、借り物のような様だ。

 二人分のコーヒーを持ってきたディアナはソファに腰掛けた。

 湯気と共に安っぽい香りが立ち上る。それに混じってベリーのような香りがした。

 がさつで身形にも拘らない癖に、ディアナはいつだって香水をつけていた。それは男心を掻き乱すに充分な甘ったるい香り。ヴィンセントは嫌で堪らなかった。

 食欲と睡眠欲しか持たず、言動も子供っぽい彼女に唯一女を感じさせる要素がその香水だった。

 白粉臭い母親を思い出させる、嫌な匂い。

 忌々しく思ったヴィンセントは隣にある横顔を睨む。ディアナはそんなことは構う様子もなくコーヒーを飲むと、ぽつりと語った。


「体調壊してひと月寝てたんだよ」

「まさか体調崩したから裏の仕事辞めるとか言ってるわけ?」

「そんなの許される訳ないじゃん。わたしは罪人だもん。死ぬまで働かなきゃ」


 組織を抜けるつもりではないとディアナは言った。

 コーヒーにざぶりと角砂糖とミルクを投入して、それでも不味いのかディアナは眉を寄せた。


「何処の誰かは言えないけど、わたしの雇い主の一人が飼い犬にならないかって誘ってくれてるの。【上】の関係者だから、組織を裏切る訳じゃないよ」


 つまり、専属の殺し屋になる代わりに生活を保証するということだ。

 斡旋所を通さずに動かすことのできる駒は誰だって欲しい。フリーランスの殺し屋と雇い主間では良くある取り引きだ。


「お前は今でも犬だろう。忠犬にでもなるつもり?」

「そう、わたしは犬だよ。野良犬から雌犬に昇格。貴族のお妾さんになるの」


 告げてくる厚い唇に笑みが浮かぶ。

 駒から愛人に昇格できるのだとディアナはうっとりと笑った。傍らでこぼされた笑みを、ヴィンセントはただじっと見つめる。


「貴族っていったら毎日美味しいものいっぱい食べられるんだろうなあ。天蓋付きのふかふかのベッドで眠れるなんて最高だろうなあ」

「ディアナ、意味が分かって言ってるわけ……?」

「何の?」

「妾になるという意味がだよ。男をろくに知らないようなお前に務まる役目じゃない」


 ディアナはきっと何も知らないのだ。何処の誰が無垢な子供を誑かしたというのだろう。菓子で釣るなど卑怯だ。聞き出して殺してやる。

 そうして真面目な顔をするヴィンセントの前でディアナは笑う。


「ふっ……あははははは!」


 吹き出したディアナは堪えようとした。だが、それでも堪え切れないように喉を鳴らして笑った。

 けたたましく笑う彼女は何かが壊れてしまったようだ。


「もしかして君、わたしのこと乙女か何かと勘違いしてたの?」


 うふふ、と笑うディアナの双眸に婀娜っぽい光が滲む。

 それは無邪気な童女の仮面が剥がれた瞬間だった。ディアナは仄暗いものをたっぷりと含んだ眼差しでヴィンセントを見上げた。


「わたしは、ただの女だわ」


 暗い色を湛えた目を伏せ、ディアナは甘えるようにしてヴィンセントの胸にしなだれ掛かった。

 出会ったばかりの頃のように、ふざけて抱き付いたものとは違う。頬を擦り付けるようにして寄り掛かってくる彼女は子供ではなかった。

 大きく開いた襟からは惜し気もなく肌が晒されている。血玉石の首飾りの揺れる胸元は艶かしい。

 明かりの中、自分が向き合っている相手が本当に【ディアナ】なのか、ヴィンセントは分からなくなった。


「誰が手当てしてくれたかは分からないけど、君もお腹の傷、見たでしょ? わたし、子供産んでるんだよ」


 肩の手当てをした時に見たものがある。

 ディアナの下腹部にはケロイドがあった。


「わたしが家族殺した発端は、わたしに子供ができたこと。わたしが殺したのは妹じゃなく、わたしの赤ちゃん」


 ヴィンセントはディアナが殺人犯なのは知っていた。本人から、継父と実の母親と妹を殺していると聞いた。


「どうしてそういうことになった?」

「お義父さんに手を出されて産んだの。お母さんは世間体とか言って、赤ちゃんを取り上げた。わたしの妹ってことにした。でも、上手くいかなくて殺しちゃった。お義父さんも赤ちゃんも殺されちゃったの」

「なら、お前は冤罪なのか?」

「ふふ、まさか。わたしはお母さんのこと焼き殺したから立派な殺人犯。それに最初の赤ちゃんも堕ろしたもん。あれは痛かったなあ。麻酔なんかちっとも効いていなくて死ぬほど痛かった……。わたし、あれより痛いこと知りたいんだよね」

「ディアナ」

「あ、そうだ。君はわたしに幻滅したら殺してくれるんだっけ? だったら、もっと懺悔しようかな。そしたら思いっきり痛くして殺してくれるかもしれないし、ここで殺されれば先のことも考えなくて良いしね」

「……ディアナ」

「あとね、盗みも殺しも売りもやったよ」


 勢いを危うく感じたヴィンセントは名を呼んだが、ディアナは止まらなかった。


「恐喝もやったかなあ……。美味しいお菓子くれるっていうおじさんに付いて行ったこともあるし、金目のものが欲しくて貴族のおばさまの靴磨きをしたこともある。わたしのこと娼館にぶち込もうとした奴は半殺しにしてやって、お金を奪った。兎に角、お腹空いてたから何でもやったね」

「それで?」

「わたし、君が面白いと思う人間じゃないんだよ。飽きたでしょ? さっさと殺してよ」

「他には?」

「他にはって……?」


 熟れ過ぎた果実が崩れる寸前のような危うい空気に当てられていた。すっかりディアナに呑み込まれていた。


「他にはお前は何をしてきた?」

「この世の悪徳の限り、だよ」

「何を感じてきた?」

「わたしなんかのことを知りたいの……?」

「知りたい」


 この女の中に詰まっている全てのものを知りたいとヴィンセントは思った。

 過去が積み重なって今になる。過去というものが現在の彼女を作り上げている。

 弱味を知れば捕まえられると思った訳ではない。ただ、彼女という人間が知りたかった。

 ディアナは小首を傾げ、しなを作ると、赤い唇に情念を乗せた笑みを作った。


「じゃあ――あたしと一緒に死んでくれるなら教えてあげるわ」


 青い瞳を優しげに細め、微笑んだ彼女は夢を見るような眼差しをしていた。

 その凄絶な色合いに、ヴィンセントはただ釘付けになる。

 彼女は何事もなかったように離れてゆく。淡いグリーンのドレスが包む肩で髪がさらりと滑る。血玉石の首飾りが揺れ、黄金の髪のその向こうに首を垣間見る。

 頼りない白い首筋に手を伸ばし、捕まえる。

 彼女はすぐさま手を払おうとする。だから今度は肩を掴む。抵抗する腕を封じ、肩を抱き、吐息を溶かす。

 打算も建て前も消えた。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 全て壊すつもりでぶちまけた。

 ままならないものは壊してしまった方が楽だ。もう我慢はしたくなかった。

 ここで全てを終わらせ、貴族の愛人になる。

 殺し屋を囲いたいという悪趣味な願いを叶えてやってから、どん底に突き落とす。何でも思い通りになると考えている男は死ねば良い。そんな男に従っている女も同罪だ。

 ヴィンセントに幻滅されるのに具合が良い内容だったから、終わらせる口実に使った。

 ディアナは自分の中で何かが壊れ始めていることを感じていた。

 眠れないし、食べられない。何時間も眠れず、明け方にやっと眠りにつけば嫌な夢ばかりを見る。食欲がなく、食べると吐いてしまう。肩の傷が悪化して窶れた訳ではなかった。

 もう疲れたのだ。

 仕事に明け暮れる日々にも、叶わない想いを抱え続けることにも疲れた。もう殺されたいと思い、ディアナはヴィンセントに忌まわしい過去を教えた。

 この自分に莫迦な夢を見ていた純情な男を突き落とした。

 ディアナは顔を背け、目を閉じる。


(殺されるなら、何だって良い)


 ただ、叶うことなら心臓を潰されて死にたい。

 首に掛かる手を払うと肩を掴まれた。それさえも振り払うと髪を掴まれ、引き寄せられる。痛いと感じる暇もなく、ディアナは唇を塞がれた。

 唇が重なった。

 口付けられた。

 自分の身に起きたことを理解したディアナはヴィンセントから離れようとその頬を撲とうとする。

 だが、行動を読んだように手を掴まれる。


「や……っ、やだ、やめて……いや……!」


 どれだけ力を付けたって、男が本気になれば女は敵わないと分かっていた。

 破れかぶれになって暴れる。

 がりっ……と皮膚を傷付ける感触に、ディアナは我に返った。


「……あ…………」


 時に武器として使う尖らせた爪がヴィンセントの手の甲をざっくりと傷付けていた。

 抵抗すれば殴られる。気絶して、縛られて、無理矢理抱かれる。


「……やだ……いやだ……! いや、こんなの、わたしじゃない……!」

「ディアナ」

「わたしじゃない!」


 継父に乱暴されて子供を産んで、子供を見殺しにし、母親を殺したのは【自分】ではない。


「わたしじゃないわたしじゃない……、あたしじゃ……」

「お前のこと、知りたい」

「……な……ん…………」

「ダイアナ」


 名を呼ばれ、ディアナは失う。

 抵抗も思考も奪われ、凍り付く身体をそのまま抱き締められた。

 ディアナは動けない。振り払うことも忘れて、彼の腕の力に甘んじる。

 ずっとこうして貰いたかった。

 女である自分を封じ込め、幼い振りをしながらも心は常に求めていた。自らの浅ましさに涙が出そうになる。そして、涙よりも先に言葉が溢れる。


「……だったら、忘れさせて」


 笑って話せるように忘れさせて。

 その名を呼ぶのなら、痛みを忘れさせて欲しい。名前と共に封じ込めたこの身の悪徳を消して欲しい。






 夢のような時だった。

 口付けをしたのは生まれて初めてだった。

 身体は開いても、唇だけは綺麗なままでいたい。そんな乙女染みた思いがある訳ではなかった。

 ただ今までディアナを抱いた男たちが口付けををするような甘ったるい情事を望む者ではなかっただけだ。

 息継ぎの仕方も分からず、陸に打ち上げられた魚のように無様に喘いだ。

 手を伸ばして、髪に触れる。中途半端に長い髪に触れ、結い紐を解く。

 鈍い光を放つ髪が胸元を滑り、その擽ったさに身を捩れば首筋に歯を立てられた。

 痛みに生理的な涙が浮かぶ。

 このまま咬み殺されるのではないかと半ば本気で考えていると、やっと解放される。このような無体なことをする男はどのような顔をしているのだろうと瞼を開くと、すぐに目が合った。

 餓えた獣のようにみっともない顔をした彼は赤い眼をしている。それは母を焼き殺した炎と同じ色だった。

 沈められたものは、口付けよりも遥かに熱い。

 身を焼かれるようだ、と他人事のように思う。けれど、その思考はすぐに止まる。

 狂おしい予感ばかりが四肢へ伝わってきて、ディアナは声を濡らした。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 涙を止めたいとか、慰めたいとか、そんな感情はなかった。

 建前も打算も消えた。下心さえも消えて、ただこの女が愛しいと――欲しいという想いしかなかった。

 悲惨で美しい彼女が好きだった。汚い過去を知って想いが更に強くなった。もっと知りたいと願った。

 友を裏切ることすらも考えず、彼女と繋がった。


(……ああ、嫌な女)


 女の身体がそういう風にできていることは知っている。それでも、好きでもない相手に抱かれてよがっているのは何なのだろう。もしや、義理の父親を誑かした魔女というのが彼女の本性なのか。

 理性の消えた頭の片隅で、毒を飲まされたようだとぼんやりと思う。

 けれど、その思考すらもすぐに消されてしまう。

 最奥まで身を沈め、身体を反って嬌声を上げる彼女の喉に食らい付くと、食い殺されそうな恐怖にか身体は硬直し爪を立てられる。爪が肩に食い込んで痛い。彼女が自分に与え、残すものは全て心地良い。

 もっと強くと胸元を唇で食むと、彼女は目から涎を垂らし、口からは涙を溢した。

 喘ぎよりも嗚咽が堪らなくこの身を煽り、欲情させる。劣情を掻き立てられて歯軋りをする思いだった。

 どうしてこの女は自分を愛してくれないのだろうと内心慟哭しながら抱いた。






 唇に残るのは触れた肌の柔かさ。舌が覚えているのは肌の熱さと甘さだけだった。

 心は満たされるどころか、途轍もない後悔が残った。

 背後からは健やかな寝息が聞こえる。その息遣いを拾う度にじわじわと罪悪感が増していく。

 このまま殺してしまおうか、と思った。

 ここで彼女を殺せばこれが永遠になるかもしれない。旅立っていく前に足を手折ってしまえば、残酷な夜明けなど見ずに済む。

 彼のものを奪ったのだという事実も、彼女が目覚めれば去っていくという現実も消したかった。

 全てを終わりにする。

 ヴィンセントは実行しようと振り返る。寝乱れた髪を掻き分け、彼女の顔を露にする。その瞬間、意思が挫かれるのを感じた。

 彼女は穏やかに眠っていた。その安らかな寝顔を見ている内に考えは消え失せた。

 初めから殺せる訳がなかったのだ。彼女という存在を失うのは耐えられなかった。

 ヴィンセントは必死で考えた。彼女を繋ぎ止める方法を考え、全てなかったことにすることにした。それが彼女にとっての最善で、何より自分にとっても最良だと判断した。


「ダイアナ」

「なあに?」


 身支度を済ませたヴィンセントは名前を呼ぶ。

 ベッドの上に気怠げに横たわっていた彼女は起き上がり、背にしなだれ掛かってくる。情念の含まれた纏わり付くような抱擁だ。

 離れ難かった。

 彼女がどのような存在でも愛していた。彼女の悲惨な鮮やかさに焦がれていた。

 けれど、背後から覆い被さってきた彼女をヴィンセントは振り払う。


「意地張ってないでエルフェさんのところへ行きなよ」

「え……?」

「お前はあいつが好きなんだろう。昨日のことはもう忘れたから好きにしなよ」

「…………なに……それ……」


 愛してもいない男の妾になるなんて莫迦なことを言わずに彼のものになれば良い。貴族の生活に憧れるのならば彼のものになれば良い。そうすれば、愛も利益も叶う。

 彼のものになることが彼女の幸福であり、この自分の夢にも繋がっている。


「彼とお幸せに」


 好きでもない男に抱かれた事実に今になってショックを受けたのか、彼女は大粒の涙を零した。

 澄んだ瞳がみるみるうちに濁ってゆく。やがて双眸は完全に閉ざされた。

 空が覆われた様を見届けたヴィンセントは彼女に背を向け、立ち上がる。後ろ髪引かれる気持ちもあったが、これ以上ここにいる理由はなかった。


「……わたしは、あなたが……好きだったのに…………」


 去り行くヴィンセントに声は届かなかった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 それは、【ディアナ】の世界が崩れた瞬間だった。

 夜にかけられた魔法は朝の陽射しと共に解けてしまった。いや、解ける魔法など初めからなかった。

 たまたまそういう気分なってそうしただけ。手近な相手でフラストレーションを解消しただけ。良い年をした大人なのだから、大したことではない。犯って、食って、寝るという人間の本能に則った当たり前のことだ。

 ただそれがディアナにとって堪え難かったというそれだけのこと。


「ダイアナ……?」

「…………あん、せむ……さん」

「何故、お前は泣いているんだ?」

「さびしいの……」


 酒場へ行くと、アンセムはいつものように酒を飲んでいた。

 幾ら飲んでも酔えず、意識ばかりが冴えていくという難儀な男は、戸惑いながらもディアナを受け止めた。

 ディアナは差し出されたハンカチーフの優しさに甘えて泣いた。そして、請うた。


「あたしを買って。アンセムさんなら安くしてあげる」


 それからディアナは自棄になって何人もの男と寝た。

 彼に触れられた感触を消したくて、残されたものを掻き出したくて、昼も夜もなく交わった。アンセムとは毎日のようにそうした。寂しい者同士、慰め合った。

 男に抱かれている時だけは全てを忘れることができた。

 彼に抱かれた記憶を消したかった。その癖、愛する男に抱かれているという妄想をしたくてディアナは瞳を閉ざす。彼に使い捨てられたのだという事実から目を閉ざし、目の前の男に縋り付くことで現実から逃げた。

 そんな生活が終わったのは、ふた月が過ぎた頃だった。


「なんで……何でよ! 生まれてこないでよぉ……っ!」


 新しい命が宿った嬉しさなどなかった。

 愛してもいない男の子供をまた宿してしまったのだという、自業自得による現実にディアナは絶望することすらできずにいた。


「……お願い……だから……」


 まだ膨らみの目立たない腹をディアナは何度も叩く。時に鈍器を使って撲った。

 消えて欲しい、生まれないで欲しい――死んでしまえば良いと心の底から願った。

 化け物の肚に宿った子供は【上】にとってこれ以上ない実験材料だ。酷いことになるに違いない。辛い思いをするくらいなら生まれてこない方が良いとディアナは願い、それから不意に口に笑みを作る。


「あはは……、あたしって莫迦……」


 子供の為にというのは建前だ。

 そう、綺麗事だ。ただ子供が邪魔だった。

 ディアナは盛大に笑った。己の醜悪さに声を上げて笑った。そうして一頻り笑うと、今まで悩んでいたことが可笑しなほど頭が冴え渡るような清々しい気持ちになった。


「あなたの子よ、アンセムさん」


 利用するなら男であれば誰でも良かった。一番惑わし易い相手を選んだ。

 アンセムは父親になってくれると言った。疲れきっている彼を落とすのは、子供を騙すよりも簡単だった。

 罪悪感に胸が焦げるような感覚があった。僅かな良心が燃え切らずに燻っている。その小さな火を守る為にディアナは全てを捨てることにした。

 これからは生まれてくる子供と、父親になってくれる男の為だけに生きる。それがアンセムを利用することを対するディアナのせめてもの義理だった。


「わたし、お母さんになるの」


 夏は既に終わっていた。秋も深まり、雪が降ればもう冬という頃だった。

 ディアナは自分がこれから組織を裏切り、普通の人間として生きていくのだということを宣言した。

 エルフェが止めることはなかった。ただ身体を大切にしろと――達者で生きろという言葉をくれた。

 エルフェと別れたディアナはヴィンセントを探し、伝えた。

 例の飲み友達と結婚すること、組織を抜けて裏社会とも手を切ること、そして腹に子供がいること。その全てを聞いたヴィンセントは案の定、怖い顔をした。


「子供を守りたいなら別に組織を抜けなくても良いだろう。寧ろ【上】にいるべきだ」

「わたし、もう嫌なの。戦いとか殺しとか、嫌なの」

「【赤頭巾】が戦いに臆しただって……?」

「外法狩りの魔女は死にました。わたしはそういう奴です」

「ディアナ……」


 ヴィンセントは捨てられた子供のような顔をした。それは何とも哀れで愛しい気持ちになる眼差しだった。


(狡いよね……)


 どうしてそんな顔をするのだろうと不思議に思った。捨てたのはそちらの癖にと腹立たしく思いさえして、ディアナは振り切るように言う。


「美味しいもの食べて、花でも育てながらあの人とこの子と生きていくの。それが、わたしの夢」


 縋り付く幼子の手を振り払うようにディアナが告げた言葉に、ヴィンセントは失望を窺わせる暗い目をしたかと思えば突如笑い出す。

 とても歪な笑いだった。目はまるで笑わず、口だけが笑みの形を作っている。

 くつくつと喉を鳴らして一頻り笑ったヴィンセントは、底冷えするような冷たい目でディアナを見下ろした。


「売女」

「…………っ」

「そういえば花売りってそういう意味もあるんだよなァ。忘れていたよ。お前はそうやって雇い主も義父親も誑かしたんだろう? つまり義父親は可哀想な被害者って訳だ。お前は最悪の女だよ」


 侮蔑にまみれた言葉は胸を切り裂いた。

 視界がぐらりと揺れる。ディアナは一瞬、呼吸が止まる。

 泣くことも怒ることもできない。聞き流すこともできない。売女というのは紛れもない事実だ。それを指摘されて反論することができる訳がなかった。

 ディアナは胸元で手を握り締め、震える。酷く目眩がして、世界が歪んでいく心地がした。

 すっかり血の気の引いたその様をヴィンセントは冷ややかに笑った。

 目の奥が熱っぽく傷んだ。だが、なけなしの自尊心で堪えた。


「さよなら」


 ディアナは顔を上げ、別れの言葉を口にする。

 震えないようにと必死で絞り出した声は掠れきっていた。その余韻を、冷たい風が浚っていった。






「わたしはあなたを愛しているわ。あなただけよ。本当にあなただけを愛してる」


 酔い潰れ、眠ってしまったアンセムにディアナは何度も言い聞かせる。

 この数年でアンセムはすっかり壊れてしまった。彼を壊したのは自分だという自覚がディアナにはあった。だから、殴られても恨むことはしなかった。

 ディアナは夫の肩にそっと上着を掛けてやった。

 部屋を出ると、扉の前には幼い少女が立っていた。


「どうしたの、クロエちゃん」

「クロエがわるいこだから、おとうさんはおこるの……? クロエだから、だめなの……?」

「クロエちゃんは何も悪くないの。あなたはわたしとあの人の子供だもの」


 分厚い前髪の向こうで意思の弱そうな瞳が揺れている。

 謝罪の言葉を飲み込んでディアナはクロエを抱き締めた。柔らかな髪に頬を寄せ、きつく目を閉じる。

 生まれた子供は金髪碧眼をしていた。髪も瞳も色素が薄かったが、年々自分そっくりに成長していく子供の傷が治るのが早いのを見てディアナは悩んだ。


(あたしは【アルカナ】に追われている。あいつ等は外法を狩って、外法は選ばされる)


 【下】を出た外法は死ぬか、【上】へ忠誠を誓うかを迫られる。ならば、人間の親を持って生まれてきた外法の子供はどうなるのだろう。


(あたしが傍にいるとこの子は……)


 今まで住む場所を転々と変えてきたが、そうやって遣り過ごすことにも限界がある。

 自分の存在がクロエを危険に晒すことになるかもしれないと判断したディアナは家を出ることにした。


「絶対に迎えにくる。だから、待ってて」


 いつかクロエを幸福にしてやれるその時まで自分は離れていよう。そう決めて、幼い我が子と別れた。

 ディアナはクロエを守る為の力を求めて最下層部へ降り、外法と通じた。

 外法狩りの魔女として悪名高いディアナを彼等は受け入れようとしなかったが、カールトンという村の長が【上】の情報を渡すことと引き換えに受け入れた。

 カールトンの地でディアナが任せられたのは他の村からの侵略を防ぐことと、村長の娘の世話だった。

 ディアナは略奪にきた外法を殺し、その血に濡れた腕で赤子を抱き、乳をやった。

 外法の人生は寝て食べて子孫を残すということに尽きる。娯楽といえば他の村を侵略して女子供を食らうことだ。そのシンプルな生き方は、ディアナの持つ考えと実に良く馴染んだ。

 太陽の光も月の光も滅多に届かない【アヴァロン】は、ディアナにとって楽園のような場所になった。


「アンジーちゃん」

「気安く呼ばないでくれます!?」


 アンジェリカは、馴れ馴れしく話し掛けるディアナをきつく睨む。

 ディアナは幼い頃からアンジェリカの世話をしていたのに、二十年が経った今ではすっかり嫌われてしまった。我が子に注ぐべき愛情を全てを注いだはずなのに何故だろうと、ディアナは疑問でならなかった。


「出発はお昼だったかしら」

「そうです」

「外の世界は危険よ? 箱入りのお嬢様のあなたに何ができるのかしら」

「……わたくしはこんな地下に閉じ込められているのはうんざりです。今は無理でも、いつかわたくしたちが人間と同じように暮らせるよう、その為の働きがしたいのです」

「政府もテロリストと交渉はしないと思うけどねえ」


 彼等は先日も門前で騒ぎを起こし、門番を何人か殺したようだ。殺すだけならまだ良いが、それを食い殺したというのだから始末が悪い。それでは外法が危険だと知らしめているだけだ。


「人間になりたいなら、もっと頭を使わなきゃ。それじゃ獣と変わりがないわ」

「だ、黙れ……っ!」


 獣扱いを受けたアンジェリカは屈辱に顔を青冷めさせた。

 爛々と輝く赤い双眸は殺意に濡れ光る。その眼差しを受けてディアナは微笑んだ。


「気を付けて行ってらっしゃい。生きて帰ってこられるかは知らないけど、屋敷の掃除はしておくわ」


 アンジェリカとその兄、そして村の精鋭たちをディアナは手を振って送り出した。

 若者が旅立ち、村に残ったのは年寄りと力の弱い者だけになった。


「……さてと、掃除しないとね……」


 その夜、ディアナは村の住民を殺めた。男も女も子供も一切関係なく、斧で一人残らず叩き殺した。

 契約を交わした村長は息子に殺されて既に亡く、その息子も門を越えずに死ぬだろう。例え越えたとしても、もう二度とここへは戻ってこられない。ディアナはそうと知りながら送り出したのだ。ディアナにとって男も外法も利用するだけの存在だった。


「ふふっ、これでここはわたしとクロエちゃんのお庭。ぴかぴかにしないと」


 邪魔な家屋は壊して跡地へ花を植える。外法の死肉を肥料とすれば、素晴らしい花が育つだろう。

 きっとクロエも喜んでくれるはずだと考え、そこでディアナは重大なことに気付く。


「あ……、お洋服作って貰うの忘れてた!」


 クロエのドレスを作って貰う予定だったのに、うっかり仕立て屋まで殺してしまった。

 広い庭と屋敷があってもドレスがなければ台無しだ。

 これではクロエは喜んではくれないだろう。ディアナは悲しい気持ちで一杯になり、泣きたくなる。


「……うーん、クロエちゃんがきてから用意して大丈夫かな……。採寸もしなきゃ可愛いお洋服は作れないし、きっと喜んでくれるよね」


 ドレスは後回しにして、まずは屋敷の整備をしようと思った。

 お気に入りの赤い外套を頭から被ったディアナは重たい斧を引き摺って暗い森を歩き出す。


「クロエちゃんを幸福にするのはわたしだもの」


 心の中で幾度唱えたか知れない願いを口ずさみ、ディアナはうっとりと微笑む。

 もうすぐ夢が叶う。もうこれからはクロエに寂しい思いはさせない。二人で幸福に生きるのだ。

 クロエを幸福にすることが今のディアナの全てだった。

 そうしてディアナは愛しい子供を向かえに行った。

 居場所は既に突き止めていた。クロエはヴィンセントとエルフェに保護されて暮らしていた。


(まだ友情を感じている訳じゃないよね。どうせ悪どいこと考えているんでしょ?)


 彼等がクロエを囲っているのは、この自分を捕らえる為の囮としてだろう。


「迎えにきたよ、クロエちゃん」


 二十数年ぶりに再会した娘は自分とそっくりな顔になっていた。そして、彼も変わっていなかった。

 忌々しいくらいに整った顔立ちも、作り物のような瞳も記憶にあるまま変わっていない。ただ髪の長さだけがあの頃とは違う。髪が短い彼は精悍さが増して、若返ったようにさえ見えた。

 惚れ直すかもしれない、と莫迦なことを考えた。


(……あたしって本当に莫迦ね)


 あれほど悲しい思いをして別れたというのに、まだ彼のことを好きだという自分がいたのだ。

 そんな愚かな女である自分を殺し、一歩前へ出る。


「今までクロエちゃんを守ってくれてありがと。わたし、すっごく感謝してる」


 綺麗な口付けを捧げることができない己を呪いながら、けれど顔にはとびきりの笑みを浮かべ、【ダイアナ】は愛する男の胸に刃を突き立てた。

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