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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
107/208

番外編 愛が狂気に変わるまで ~side Diana & Vincent~ 【2】

※この話は流血表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。

 世界が色付いてから三度の季節が廻った。

 三年という月日は外法の体感では一年程度にしか感じない短い時だったが、あの日からヴィンセントの感じる時間は酷くゆっくりと回っている。

 高が三年、然れど三年。変わらないものがあれば、変わったものもある。

 変わったものの中で一番大きなことはチームを組む二人との関係だろう。

 いつからかディアナはヴィンセントを避け、エルフェと二人で会うことが増えていた。


(ああ……、ディアナはあいつが好きなんだ)


 周囲に隠す気はないようで、二人はカフェで話していることが多かった。

 ディアナはどぎまぎと落ち着かない様子でエルフェに何かを話していた。

 一度や二度ならいつものことで済ませられた。食い意地の張っているディアナがエルフェを誘って食べ歩きをしているのだろうと思うことができた。だが、ディアナとエルフェが二人きりで会っているところを目撃することが頻繁にあった。

 人間の感情にも女心にも疎いヴィンセントでも気が付いた。ディアナはエルフェが好きなのだ、と。


「やあ、ディアナ、エルフェさん。二人で逢い引き?」


 ある時、好奇心から声を掛けたことがある。

 その時のディアナはらしくなかった。がさつな彼女らしくもなく顔を赤したり青くしたりして慌てていた。


「な、何でくるかなあ!」

「あからさまに嫌な顔だな」

「嫌に決まってるじゃん。折角エルフェくんで目の保養してたんだから、邪魔しないでよね」

「……あっそう」

 

 デートの邪魔して悪かったね、と嫌味を言いそうになるのをどうにか自制した。

 男の嫉妬など見苦しい。ヴィンセントは早々に身を引いたのだ。

 何故エルフェに譲るような真似をしたのか。その理由の一つに血のことがあった。

 外法と人間の寿命は違う。

 人間が天から与えられる命は八十年ほどだ。ディアナはあと五十年もすれば死んでしまう。ヴィンセントはディアナが死んだ後、二百年も生きなければならない。

 この恋の完結は永遠にはならない。儚い夢でしかない。

 だから、ディアナの夢を叶えてやることにした。

 ディアナが想うエルフェと一緒にしてやって、いずれ生まれるだろう命と更にその末を見守っていく。それがヴィンセントの求める夢そのものに繋がる。

 大切な二人が残した光が続いていくのを遠くから見守り、その輝きに見惚れているだけで良い。それだけでこの退屈な人生は色鮮やかなものになるだろう。


(あいつにはあの女がいる。あの女はあいつが好きだ)


 夢を叶える為にはメルカダンテの令嬢が邪魔だと思った。

 ディアナが恋を叶えるには、あのメルシエという女はただ邪魔でしかない。忌々しい魔女のようだ。


「ヴィンセントさん……でしたよね……?」


 突然訪ねたヴィンセントにメルシエは困惑した様子だった。

 ディアナとはそれなりの付き合いがあるようだが、ヴィンセントとメルシエはエルフェがいなければ関わらないような間柄だ。

 位の高い貴族の義務である端正な容姿を存分に駆使した憂い顔を不快に思いつつ、ヴィンセントは押し殺した声で用件を告げた。


「レイフェルに近付かないでくれるかな」

「え……」

「あの人には女がいるんだ。お前のことをとても迷惑に思っている」

「……は……い?」

「家の為にも彼に嫌われるのは得策じゃないだろう? だからメルシエ嬢、今後は彼と関わるのは止めなよ。俺は友人として、彼の邪魔になるものは取り除いてやろうと思っているんだ。この意味、分かるよな?」

「な、な、なんで、あなたにそんなこと」

「お前はディアナと違って美人だから、相手なんて腐るほどいるだろう」


 メルシエに異性として魅力を感じないヴィンセントから見ても、彼女は美しい容姿をしていた。彼女はディアナとは違い、恵まれている。

 ならば、ディアナから男を奪うことなどせずに潔く身を引くべきだ。


「これ以上ディアナの邪魔をするなら殺す」


 箱の中で大切に育てられた小娘の心を挫くことなど、鳥の首を捻るよりも容易かった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 人が苦しみ痛がる声を聞くと、すっきりする。

 絶望に歪む顔を見ると、胸に空いた穴が塞がるような気がする。

 仕事をして血を浴びた夜は心が満たされてぐっすり眠れる。

 自分が本格的にいかれていることを知りながらも、ディアナはどうすることもできない。

 今日も命じられるがままに得物を振るい、命を狩る。そして非日常から抜け出した後はどっぷりと日常に埋没して、普通の人間の振りをして過ごしてゆく。


「ねえ、このケーキも頼んで良い? ホットキャラメルを掛けるなんて素敵だと思うの!」

「好きにしてくれ。俺は知らん」


 太るという忠告を軽く突っ跳ねて、ディアナは追加注文をした。

 ディアナはエルフェと共にオープンカフェでアフタヌーンティーを楽しんでいた。

 ディアナにとって食事という行為は日常そのもので、非日常から日常に戻る為の禊なのだ。

 人は犯って食って寝るだけの生き物だとこの二十年の人生で知った。

 己の欲を満たす為だけに弱い者を蹂躙して生きていくのが人間という生き物だ。ディアナは人間らしく欲を満たす。飢えを凌ぎ、安眠を得る為に仕事をする。


「んー、美味しい。幸せー!」


 幸福を噛み締めるように感嘆を漏らしつつケーキを味わっていると、そのディアナの食べっぷりを呆れたように見ていたエルフェがこんなことを訊ねた。


「最近こちらに顔を出さないな」

「あー、斡旋所の仕事が忙しいんだよ。新教派(クラルティ)だっけ? 教会が揉めてるじゃん」

「嘆かわしいな……」

「こちらとしては儲かるから良いよ」


 人間狩りの仕事が忙しいということもあるが、近頃のディアナは外法狩りとしての職務が怠慢だった。

 怠慢の理由に勘付いているエルフェの視線から逃れるように、ディアナは咀嚼に専念する。


「……ん?」


 ふと、足首を擽る感触に気付いて目線を下げる。御零れに預かりにきたのか、二匹の猫が足元にいた。上層部で愛玩動物を見るのは久々で、ディアナはつい構ってしまう。


「お前たちもケーキ食べたい? そっか、食べたいかー」


 周りの客や店の給仕は不快そうな顔をしたが、ディアナは切り分けたケーキを地面に置いた。

 キャラメルのたっぷりと染み込んだスポンジ生地を一舐め二舐めした後、親猫と思しき猫はケーキをくわえ、子猫を連れて逃げるように去った。


「あーあ、わたしのケーキ、なくなっちゃった」


 仕方ないと割り切ったディアナはコーヒーで口を潤した。


「ディアナがいないとヴィンスが遣り辛くて適わない。たまには顔を出してくれ」

「えっ、わたしが手綱係なの?」

「あいつを黙らせられるのはディアナくらいだ」

「うわ、化け物の調教師みたいな扱いですか」


 エルフェは当然だと言わんばかりの様子だった。

 その当然の関係が辛くて、ディアナはぼやいてしまう。


「でもさ、わたしがいるとヴィンスくん、怒ってばっかりだし……」


 ディアナが外法狩りの職務が怠慢になっている主な理由はヴィンセントのことがある。

 言ってしまえば、辛くなった。

 ヴィンセントは口を開けば暴言を吐く。対抗してディアナも悪口を返す。手を上げられればやり返す。

 最初の内は良かった。喧嘩をしても、対等にやり合っていることが心地良かった。

 だけど、この一年は違う。

 風邪で臥せった時に恩を売ってしまったからか、こちらがらしくもなく弱った姿を見せてしまったからか、ヴィンセントは加減するようになった。

 普通の友人同士ならそれは良いことなのかもしれない。だが、ディアナとヴィンセントは普通の関係ではない。

 互いに幻滅することがあったら殺し合おうという正気の沙汰を越えた賭け事をしている仲間だ。


「嫌われてるって分かっているのに傍いるほど、わたし、図太くないよ」


 自分が彼を幻滅しないか、彼がこの自分に失望していないか、そのことが怖かった。

 不安を感じた時点でディアナもヴィンセントを対等の相手と見なしていないことになる。だから、逃げたのだ。

 これ以上自分たちの関係が崩れるのが嫌で、ディアナはヴィンセントとの距離を置いた。それから半年が経って、こうしてエルフェから心配されている始末だ。我ながら情けないと自嘲する。


「可笑しいよね……、あんな奴のことを気にするなんて。嫌われるのが怖いなんて莫迦みたい」


 信じられないと自分でも思う。

 あんな最低の暴力男をどうして気にしてしまうのか分からない。

 暴力を受けて育った子供は知らずに親と似た相手を好きになるというが、そういうものなのか。冷静に自己分析ができるほど頭が良くないディアナは思考を止める。


「でも、ほっとけないんだよね。どうしようもなさ過ぎてほっとけない」


 そこでディアナはあることに気が付く。


(そっか。ほっとけなかったんだ)


 ヴィンセントは家族の話をしない。女を冷めた目で見ている。

 ああいう人間は、親にまともな愛情を受けずに育つと出来上がる。

 親に偏愛されたか蔑ろにされたかは知らないが、もしかすると彼は自分と似ているのかもしれない。そうして彼を気にしてしまったのが始まりだった。

 恐らく、こういう気持ちを好きというのだろう。そう理解してディアナは鬱いだ気分になる。


(……駄目なのにね)


 自分の子供を見殺しにしたような母親がどうして恋をできるというのだ。金の為に身体を売ったような売女が人を愛して良い訳もない。


(駄目なんだよ、ダイアナ)


 泣きそうになる己を殺し、ディアナは乾いた目をエルフェに向けた。


「ごめんね、エルフェくん。最近愚痴ってばっかりで」

「謝るな。槍が降る」

「でも、ごめん。あと、ありがと。今度ヴィンスくんにモーニングコールでもしてあげようかな。深夜三時くらいに」

「ディアナ」

「あはは、冗談だよ。常識的な時間にね」


 エルフェはディアナの気持ちを知っている。

 相談に乗ってくれることに有り難い気持ち半分、申し訳ない思いに駆られながらディアナは話を変える。


「うん、まあ、わたしのことは良いけどさ。そっちはどなの?」

「どうとは?」


 ディアナの急な話の転換に慣れているエルフェは動じることなく受け止める。


「メルちゃんと仲良くしてるの?」

「あいつなら最近は忙しいとかで会っていないな」

「忙しい? ご飯行った時、暇だって言ってたよ?」


 エルフェにメルシエを紹介されてからディアナは良く彼女と会っていた。

 ディアナが強引に電話番号を聞き出して市街散策に誘っている内に、メルシエの方からも連絡してくれるようになった。友人として彼女の事情もある程度聞いているディアナは、エルフェを胡乱な目で見る。


「ははーん、暗闇に乗じて可笑しなことしたんでしょ。それで警戒されたわけ」

「それは何処のディアナだ?」

「えー、わたしだってそんなことしないよ? お触りされたら社会的抹殺する前に男として終らせてあげるけど、逆は絶対ないし。あ、でも可愛い女の子と男の子がいたらちょっと危ないかもなあー」

「そういうことはヴィンスとやっていてくれ」


 エルフェをどっぷりと疲れさせる物言いをする一方で、ディアナは首を傾げる。

 メルシエ他人の誘いを断ることはしない。しかもその相手が慕っている兄貴分だとすれば尚更だろう。


(あとで電話してみようかな)


 もしかすると、結婚相手を見付けろと親にせっつかれていることで鬱いでいるのかもしれない。

 貴族にとっての婚姻とは政治が絡んだ駆け引きだ。利益と愛情の二つが満たされた結婚など夢物語でしかない。


「エルフェくんもさ、人を愛することも知らないんじゃ、ろくな人生にならないよ」

「唐突に何だ?」

「朴念仁だといつか刺されるんだから。他人よりまず自分でしょ?」

「意味が分からないんだが……」

「薔薇色の人生を歩んでいるディアナさんが言ってるんだから、エルフェくんも頑張りなさいよねー」


 メルシエのことを大切にしてやれ、とは言わない。

 若さ故に夢を見て抗っているメルシエも、いずれは貴族に嫁がなければならないのだろう。侯爵家の末子として甘く育てられてきたエルフェも、いつかは妻を取るはずだ。

 いずれ別れる運命なら傍にいない方が良い。

 その気持ちはディアナも分からないことはないので、自分のことのように胸が痛んだ。

 エルフェと別れた後、ディアナは一人で酒を飲んだ。

 ディアナにとって夜は苦痛の時でしかない。酒を飲んで気を紛らわすことが頻繁にあった。

 空にぽっかりと浮かぶ月はいつもこちらを見下ろしている。

 穢れた情事も覗き見していた。

 月の光が強い晩は継父に暴力を振るわれた記憶が蘇る。もう男に好き勝手にされないほどに強くなったはずなのに、心には弱い女のままの自分がいる。


『傍にいて』


 月夜に逆行再現が起きることと同じように、病で弱った時もまた誰かに痛め付けられるではないかという恐怖が込み上げてきて、得物が手放せなくなる。

 柄にもなく病を貰ってしまったあの日、ディアナはヴィンセントを頼った。

 彼は願いを聞き入れ、朝まで付いていた。見返りとして身体を求めずに、ただ傍にいてくれた。

 それだけのこと。

 たったそれだけのことがディアナの心を揺さぶった。

 あれは、弱ったところを見せて気を引いたようなものだ。

 自分と彼は対等ではない。そして、その引き金を引いたのは間違いなく自分だ。


「莫迦みたい」


 過度の飲酒をすると醒める性質のディアナは自嘲し、冷たい足音を響かせて裏通りを進んだ。

 人通りの少ない道には月の光が燦々と降り注いでいる。

 いっそ気味が悪いほどに眩い夜。その明るさがディアナにあるものを見付けさせた。


「……死んじゃったんだ?」


 蛍光灯の下に、猫の死骸があった。

 上層部にはたまにいる。試し撃ちといって野良猫を撃ったり、犬にバッドを振りかざしたりする輩がいる。


「ねえ、死ぬ?」


 腸を溢れさせて事切れた猫の傍には小さな猫が寄り添い、寂しげに啼いていた。


「親がいない子供は苦労するものね……。死んだ方がきっと楽だよ」


 ろくでもない親でも、子供にとって親は唯一なのだ。そんな存在を失えばどうなるか。


「……ううん……ごめん。あたしにあなたの幸せを決める権利はないよね……」


 親の死を乗り越えて成長した先に撲殺されるのも、ここで餓死するのも運命だ。

 生き物はいずれ死ぬ。遅いか早いかの違いだ。

 命の砂時計が全て落ち切るまでどう生きるかはそれぞれが決めることだ。

 親猫の遺骸にハンカチーフを被せたディアナは立ち上がり、その場を去ろうとする。その背に声が掛けられた。


「哀れむ癖に埋めてやることはしないのか?」

「わたし、良い人じゃないから」

「そうか。なら、私が偽善者にならざるを得ない訳か」


 男は草臥れた上着を脱ぐとそれを猫の遺骸に被せ、抱き上げた。そして騒ぐ子猫を追い払い、ディアナの先を歩いてゆく。

 自分の前を歩くものだからディアナは声を掛けずにはいられなくなる。


「ねえ、おじさん。善人なら子猫のパパになってあげれば良いのに」

「生憎、私はそこまでの善人ではない。見苦しいから始末するだけだ」

「ふーん、偽善者なんだ……? わたしも偽善に協力しよっかな」

「何だと?」

「死体埋めるの、手伝ってあげる」


 自称偽善者の男を面白く思ったのもあるが、猫を埋葬してやりたいという気持ちもあった。

 主語を省くなと言わんばかりの厳しい眼差しを受け止めたディアナはにこりと笑い、男の隣に寄り添った。






「ねえねえ、聞いて。フロックハートさんっているでしょ。あの人――」


 ひと月振りに顔を出せば、即座にちくちくとやられる。

 口を利いたこともない相手に何故悪口を言われなければならないのだろうと考えながら、ディアナは荷物を鞄へ仕舞う動作を続けた。


「それって恋人?」

「違うよ。あの様子だとお金貰ってる」

「えー、有り得ない」

「金髪碧眼だと美人じゃなくても男は寄ってくるからね。本人も勘違いしてるんじゃない?」


 くすくすと笑いながら噂話をして彼女たちは去った。

 軽やかながらも刺々しい語り口は、本人に聞こえるように話していることは明らかだった。


(ああ、見られちゃったんだ。年上の男と歩いているだけでそう考えるなんて短絡的じゃない?)

 

 思わず溜め息をつく。すると、背後から声が降ってきた。


「お前が溜め息なんて珍しいね。雪でも降るのかな」

「夏の雪も乙だねえ。てゆーか、構内で話し掛けるなって言わなかったっけ」

「お前がさっぱり顔を見せないから、くたばってないか見にきたんだよ」

「ふーん、それはどうも。ヴィンスくん」


 ディアナが悪口を言われるのは主にヴィンセントの所為だ。

 評判の美青年だか何だかは知らないが彼が傍にいると目立つ。そして、目を付けられる。

 的外れの噂を流されるのも自慢の金髪碧眼を悪く言われるのは面白くない。それに不美人という評価も腹立たしい。


「食中毒にでもなったわけ?」

「ここぞとばかりに反撃するねえ、君」

「お前が大人しいと気持ち悪いんだよ」

「へええぇぇ……? 幾ら温厚なディアナさんでも怒っちゃうかも」


 減らず口が叩けないように頬でもつねり上げてやろうか。平手打ちより痛くする心積もりで振り返ると思いの外、真面目な顔があり、ディアナは気持ちが萎むのを感じた。

 ヴィンセントは咎めるような、何か返事を求めるような目をしてこちらを見つめてくる。

 一体何を求めているというのだろう。

 人が他人を理解しようとして理解できることなど高が知れている。だから、ディアナは必要以上に考えない。

 理解できないものは理解できないのだ。無理に自分を曲げて共感するよりも、受け入れる方が賢い。


「用がないなら帰るよ。わたし、眠いんだ」


 ここ連日、仕事が続いていた。

 最近は薬を飲まないと眠れない。夜も仕事で潰される――暗殺は夜間に行うものだ――ので、更に睡眠時間が不安定になる。

 女性として有るべきものがなくなるほどに心身は磨り減っていたが、睡眠不足の所為ということにしてディアナは頓着しない。

 食べて、寝て、働く。そんな当たり前の人生に埋没して余計なことは考えない方が良い。

 席を立ち、鞄を肩に掛けたディアナは歩き出した。

 そのまま自宅へ戻って眠るはずだったのに、こういう時に限ってヴィンセントは付いてきたりする。


「何でこないわけ」

「仕事が忙しいって言わなかったっけ」

「聞いてないよ」

「あれ、エルフェくんってば伝えてくれてないの」

「へえ、エルフェさんには伝えていたんだ」

「うん、だって無断欠勤はいけないでしょ?」

「あっそう」


 ヴィンセントが面白くなさそうな顔をしているので、そんなにつまらないならこちらに構わなければ良いのにとディアナは思った。


「仕事って花売り?」

「まさか。斡旋所の仕事だよ。花なんか売りたくないよ」

「花なんか、ね。林檎の木を植えてくれる奴が良いとか言ってなかった?」

「花が好きな男って軟弱そうじゃん。上手く使ってやれるかなあって」

「お前、性格悪いよ」

「あはは、ありがと」


 何とはなしに空を仰いでみても夏の空はあまり星が見えない。

 空を見ていることにも飽き、傍らに立つ人物の顔を見上げると、相変わらずの不機嫌顔だった。目を伏せている所為でピーコックグリーンの瞳には闇の帳が降りていた。


「お前でも付き合えるんだ?」

「え……付き合う? 何それ?」

「年配の男と宿から出てきた。そんな噂を聞いたんだよ」

「あー、さっきの聞いてたの? 悪趣味だなあ」


 その場で言わないのも、こうして後になって訊ねてくるのも悪趣味だ。


「何処のどいつだ?」

「言わなきゃならないこと?」


 ささくれた気持ちになったディアナは意地の悪い笑みを唇に乗せて言い返した。


「君だって女の子と遊んでるんでしょ……? わたしが誰と付き合おうと君と関係ないし、ごちゃごちゃ言われる筋合いないよ。そういうの、凄くうざい」

「関係あるよ。仲間が金で誰彼構わず寝るような奴なんて最悪だ」

「――してないったらっ!」


 突然声を張り上げたその剣幕にはヴィンセントも驚いたようで、ばつが悪そうに顔を逸らした。そこで漸くディアナは自分が泣いていたことに気が付く。

 涙を流したのは何年振りだろう。

 普通でなくなってからは一度も泣いていない。実の娘(エリカ)が死んだ時にも泣かなかった。ディアナは最後に泣いたのがいつなのかも分からなくなるほどに泣いていなかった。

 ぼろりぼろりと零れ落ちる忌々しい涙を乱暴に袖で拭ったディアナは、努めて平静な声で語った。


「ただの飲み友達だよ。革命家のお友達。ホテルの三階にあるバーで飲んでたの」

「革命は流行遅れだよ」

「それが格好良いんだってさ。君みたいに痛々しいから放っておけなくてね、たまに付き合ってあげてるの」


 血を血で洗う革命はディアナが子供の時に終わったものだ。それでも夢を捨てきれない者もいる。

 革命の火花に魅せられた男――あの日、猫を埋葬した彼の名はアンセムという。


『あれ、猫のおじさんじゃん! 久し振りー!』

『……お前は……』

『ほら、わたしだよ。覚えてない? 一緒に死体を埋めた仲間だよ』

『誤解を招くような言い回しをするな、金髪の……』

『あ、わたしはダイアナ。そういえば、名乗ってなかったね。おじさんのお名前は?』


 猫の埋葬をしてから一ヶ月後、ディアナは酒場でアンセムと再会した。

 彼は酒を煽って日々を過ごすような生活をしている男だった。

 一言で言えば、ろくでなし。そういうどうしようもない存在を見ると世話を焼きたくなってしまう性分のディアナは、アンセムにも構った。今ではあちらも気を許してくれて、酒場で会えば共に飲む仲だ。

 健全な関係をあのように疑われたら気分が悪くなって当然だ。【前科】があるディアナは尚更だった。


「ところでディアナ。醜い顔で泣くのは結構だけど、付けられてるよ」

「え…………ああ……うん、そうみたいだね。素人ではないけど、逆に怪しいかな」


 世間話をするように伝えられて、漸く事態に気付く。

 ぴたりと付いてくる気配を後方に感じながらディアナは嘆息する。ここまであからさまな尾行に気付かなかったとは不覚だ。


「因みに、いつから?」

「昇降機を降りてからだよ」

「……はあ……」

「俺は手を出すつもりはないから」

「じゃあ、鞄持ってて」


 ハンカチーフを差し出して涙を拭うつもりも、代わりに敵を討つつもりもないらしいヴィンセントの声を慰めのように聞きながら、ディアナは足を止める。


「そこに隠れている人、出てきなよ」


 足を止めると同時に動きを止めた気配に呼び掛ける。

 だが、反応はない。


「覗き見なんて悪趣味だよ。いや、覗き見じゃないのかな。もしかして付けてはみたけど、どうしたら良いか迷っていたのかなあ?」


 いかれている奴として名の通っている【赤頭巾】と【名無し】に関わろうとする時点で命知らずだが、そうなると相手は自ずと知れる。

 上層部下部に立ち入れる時点で彼等は一般人ではないのだ。ならば、殺されても文句は言うまい。ディアナは相手を哀れに思いながら得物に手を掛けた。


「君たち、何かな? いい加減、姿見せなよ。わたし、気分悪いんだ」


 出てこないならこちらから攻める。そう脅しを掛けると、路地から男が現れた。

 足音から十人以上はいるとは思っていたが八人だ。少ないな、とディアナは唇だけで呟く。


「【赤頭巾】だな?」


 男が一人、前に出る。


「そだよ。わたしに何か用? ナンパならお断りだよ」

「青月がシャオ先生の敵、取らせて貰う……!」

「ランユエ? 何かの地下組織かな。ごめんね、覚えてないや」

「舐めやがって!」

「…………ああ、うざいな」


 踏み出した男の胸にスティレットが沈み込む。男は一瞬、何が起こったのか分からないというような表情をした。

 鋭利な刃は痛みを感じる暇すら与えずに心臓を貫いた。

 ディアナは刃先を捻り、心臓に空気を入れるようにしてスティレットを抜き取った。

 男は崩れ落ちる。反り血を浴びることもない完璧な刺殺だ。


「これでその何とか先生に会えるかなあ」

「貴様……ッ! やれ!!」


 若い男たちの後ろに控えていた手袋を着けた男――リーダー格だろう――は号令を掛けた。


「雑魚は数を揃えなきゃ駄目だよ? わたしを殺したいなら少なくとも十五人」


 ディアナは腿に括り付けたベルトからもう一本のナイフを抜き様に振るう。

 血が飛び散る。

 男たちにどよめきが広がる。それを機にディアナはスティレットで男たちを薙ぎ払っていく。五人目の男の首を斬り付けた瞬間、撃鉄を起こす音を拾う。ディアナは身体を反って頭を狙った一発をかわし、代わりに胸に一太刀受けた。

 刃を胸に受け止めたまま、男の心臓を潰す。そして振り向き様にナイフを投げ、銃士も仕留める。


「あーあ……勿体無い。銃弾高いのに……」


 首に突き刺したナイフを引き抜き、ディアナはドレスの裾を翻す。

 コーラルピンクのサマードレスは緋色に染まっている。返り血もあれば、自身の胸部から流れた血もある。

 決して軽症ではないはずなのに顔色を変えずに迫ってくるディアナの異常さに、男は唇を戦慄かせた。


「お、おまえ……」

「ヤるならもっと楽しませてよねええ!?」


 あまりに歯応えのない相手に堪った鬱憤をぶつけるように首を断ち切った。

 短い刃では落とすまではいかない。ぱっくりと開いた傷口からは勢い良く血が噴き出した。


「いぎゃがああああああ――――!!」


 意識を失うまでの十八秒間、男の断末魔が響いた。

 頸動脈を切ってもすぐに死ぬ訳ではない。完全な失血死までには二分程度の時間を要する。

 やがて血の勢いは収まり、心臓の鼓動に合わせるようにじわじわと周囲に広がっていった。


「ふふっ、あはははは……っ! 最高だわっ!」


 お気に入りのミュールで地面を踏み締めると、軽やかな音の代わりにばしゃりと湿った音が出る。ディアナはその場でくるりと一回舞ってみせた。

 まるで母親を見付けた幼子のように満面の笑みを浮かべて駆け寄るディアナに、ヴィンセントは信じがたいという目を向けた。


「ディアナ……」

「ん、なあに?」

「お前、わざと斬られただろう?」

「えー、わたし、マゾじゃないよ? どちらかというと虐める方が好きだし、こんなのどうせ二、三日で塞がるでしょ? そんな深刻そうな顔することじゃないよ」


 痛みを感じていない様子でにこにこと笑うディアナを前にヴィンセントは絶句していた。

 いつもの皮肉が飛んでこないほどにこの状況は気持ちの悪いものらしい。ディアナは可笑しくて一層笑う。本物の化け物に恐れられるなんて光栄だ。


(これで終われるかな)


 化け物になりたかったディアナとしては良い結末だ。か弱い人間の女であるダイアナを殺したくて仕方がなかったのだからこの結果は上々だ。

 莫迦みたいに笑っていると、ヴィンセントは手を伸ばしてきた。

 笑い声が耳障りだと撲たれるのだろうか。けれど、望む衝撃は訪れなかった。


「醜いよ」

「え……」


 血ではなく涙を拭われる意味が分からなくて、ディアナは放心する。

 不意に金属音が聞こえた。

 ピストルの撃鉄を起こす音を捉えたディアナは、殺気のする方角に躊躇わずに前に出る。

 ダイアナ、と呼ぶ声と銃声を確かに聞いた。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 血の臭いの充満した室内に黒衣の青年が足を踏み入れる。

 黒衣の肩に流れるのは銀色の髪で、胸には十字架の首飾りが揺れている。


「私は医者ではないと何度言わせれぱ分かるのでしょうね」

「銃創は厄介だ。偽医者(アナメドサン・マロン)だろうと利用させて貰うよ」

「誰が毬栗ですか」

「ああ、似非神父だったか。これからはファウスト神父と呼ぼうか?」

「黙りなさい。お前の声は一々癇に障る」


 ヴィンセントを黙らせ、自らの仕事に取り掛かる黒衣の青年はエルフェの一つ上の兄で、名はファウストという。ただならぬ気配を纏う彼は、教会の【死神】――諜報員兼処刑人――だ。

 教会は貴族家から子供を預かり、手足として教育する。言ってしまえば人質だ。力ある貴族は教会に逆らわないように次男を人質に取られているのだ。

 レイヴンズクロフト侯爵家も子供を差し出している。逆らえばヴァレンタイン侯爵家のように都を追われる。教会の力というのはそれほどに強く、政府も迂闊に手を出せないでいる。

 ヴィンセントが見守る中、ファウストはベッドに横になった娘の傷の処置をしている。

 透き通るように青白い顔をして横たわるのはディアナだ。

 あの時、ディアナは銃弾を受けた。

 路地に隠れていた青月の残党が銃を撃った。狙われたのはヴィンセントだった。ディアナを殺すことを不可能と判断した彼等はヴィンセントを狙ったのだ。

 咄嗟のことに加減してやるのを忘れた。

 生きながらにして心臓を引き摺り出された人間の顔というのは中々愉快なものだった。


『あー……ダムダム……ホローポイントってやつかな。ヴィンスくん、抜ける?』


 敵を殺して戻るとディアナは意識を取り戻していて、傷口から銃弾を抜くように頼んできた。

 見ると、普通の弾丸の傷ではなかった。傷口で炸裂するタイプの弾丸だろう。


『麻酔は?』

『なくて良いよ。さっさと掻き出して』


 血の止まらない肩を手で押さえたディアナはけろりと言った。

 麻酔もせずに肩から弾を摘出するなど正気の沙汰ではない。ナイフで傷口を掻き回すことになるのだ。

 ヴィンセントはディアナを担ぎ上げ、自宅へ連れてきた。そしてファウストを呼んだ。

 面倒だの金がないだの騒いでいたディアナも今は麻酔が効いて眠っていた。


「ディアナを嫌らしい目で見ないでくれない? 殺すよ」


 銃弾の除去という処置を終えてもファウストは上半身裸のディアナを見つめていた。


「お前と違って、私はこの手のがさつな女性には興味はありませんよ」

「は……? 俺だってこんな奴には興味ないよ」

「興味のない存在の為に幼気な女性の夢を潰すのですか。外法とは野蛮な生き物ですね。意気地無しのお前の所業を知ったら彼女はどうするのでしょうね」


 メルシエの夢を潰す癖に己の夢を叶えるのか。そう言ってファウストはヴィンセントを蔑みの目で見た。


「私は外法も、外法狩りをしている奴も気に食わないんだ。出来ることなら関わりたくない」

「奇遇だね。俺も教会の狗は嫌いなんだ」

「もう呼ばないで頂きたいものですね」


 ファウストは、ディアナの右手が使い物になるかは分からないと言い残して帰った。

 ディアナは外法に近い身体になっているとはいえ、神経が傷付けば腕が動かなくなることだってある。傷の完治が早いというだけで、怪我をすれば痛みもあるのだ。


「ダイアナ……」


 青白い顔をしてこんこんと眠るディアナは美しく、いっそこのまま目が覚めなければ良いのに、と思った。

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