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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
106/208

番外編 愛が狂気に変わるまで ~side Diana & Vincent~ 【1】

この番外編は性描写が含まれるため省略版になります。個人サイトに全文(1~6)掲載しています。

 かつて地上で争いが起きた。

 核兵器、生物兵器、生体兵器、あらゆる兵器で地上は焼き尽くされ、人間の住めない土地になった。

 勝者など何処にもいなかった。敗者だけが残る無益な争いだった。

 地下のシェルターで暮らし始めた人間は新たな居住地となる希望の搭を築きながらも、再び地上で暮らすことを諦めてはいなかった。

 汚染された地上で活動をすることは困難を極めた。

 搭を効率良く建設する為、そしていずれは地上へ戻る為に人間は【進化】を求めた。

 新人類計画。そんな名前の計画だった。

 過酷な環境下でも生きられるよう遺伝子を改造した人間――後に外法と呼ばれる者の前身を生み出した。

 遺伝子改良種に地上の浄化及び搭の建設作業をさせ、また優秀な能力を持つ者を掛け合わせて、汚染環境の中でも生きられる子供を大量に生産する。その者と人間を組み合わせることでヒトは進化を遂げる。そこまでで充分のはずだった。

 しかし、彼等は更なる進化を求めた。

 人間よりも優れた種を創るのだという愚かな夢を見てしまったのだ。

 彼等は神になったようなつもりだったのだろう。そして続けられた研究によって化け物を作ってしまった。己の生命維持の為なら平気で仲間の肉を食らうような化け物を生み出したのだ。

 当然、廃棄処分を望まれた。

 だが、外法は人間の優良種(エリート・プラント)だ。身体能力も、寿命も、全てが人間を勝っていた。そうして今の今まで駆逐することもできずに最下層部に閉じ込めている。

 そのような事実を政府は何としても隠しておきたいのだろう。

 政府は国の運営に携わる貴族や、生きる値打ちのない罪人たちを使って外法狩りをさせている。そして、運悪く巻き込まれて生き残った人間は【死人】(アンデッド)として監視、または処分をしている。


「こんにちわ!」

「こんにちは」


 廊下で擦れ違った侯爵令息はディアナの挨拶に起伏の少ない声で応えた。

 黒いドレスに黒い外套という裏社会に属する者に相応しい衣を纏ったディアナは愛想良く微笑む。

 だが将来得意先となるかもしれない家の息子は、そんなディアナを冷たく睨み付けた。


「そんなに無愛想だと結婚できないよ、アデルバート・ジュードくん?」

「生憎、婚約者はいますよ」

「婚約者ぁ? 君ってまだ六歳くらいじゃなかったっけ」


 貴公子然とした澄まし顔に仏頂面しか浮かべないような愛想なしが、一輪の花と一編の詩と共に想いを告げたというのか。そうだとすれば六歳にして大した手管だ。

 ディアナはからかい混じりに婚約者のことを訊ねた。


「ねね、因みに婚約者って幾つ?」

「先日、三歳になりました」

「幼女趣味? ああ、君自体が幼いから良いのか。うん、ごめんごめん」


 女子が結婚できるようになるのは十六歳からだが、まさか三歳から婚約しているとは思わなかった。というよりも、三歳では婚姻の意味すらも分からないだろう。


「まあ、人を好きだって感じる気持ちに年齢は関係ないよね」

「? 貴方は何の勘違いをしているのですか? 私たち貴族の婚姻は政治です。私の妻は私一人が決めるのではなく、家が決めること。私はその政策に則って婚約したまでです」


 婚姻を結ぶことも、跡取りを残すことも貴族の仕事。仕事に個人の感情は持ち込まない。

 今年で齢七を数えるクラインシュミット侯爵令息は淡々とした口調で告げ、更に続ける。


「恋情などこの世で最も不要な感情です。そうは思いませんか、ディアナ女史」

「あはは、ばっさり切るねー。わたし、莫迦だから分かんないや」


 上層部に組する貴族は大概にして化け物のようだと思うが、その化け物の飼い犬である自分もまた化け物であることを理解しているディアナは内心低く笑う。


「では、失礼」


 ディアナの腹の中の気持ちをうっすらと感じ取ったのか、侯爵令息は踵を返した。

 愛想を捨てきった琥珀色の瞳は中々に恐ろしくてディアナは思わず腕を擦った。


「あーあ、可愛げのない子供だなあ……」


 顔は整っているのに中身が終わっている。

 あれは人を愛することを知らない目だ。油断のない良い目をしている。


(……どうなるか楽しみ)


 この自分の雇い主に相応しい頭がぶっ飛んだ人物に成長するか、何等かの切っ掛けで更生して情に厚い人物に成長するか。そのどちらかは分からないが、将来が楽しみだ。

 口許に笑みを乗せるとディアナは廊下を進み、突き当たりにある部屋へと入った。


「さて、今回は誰を始末すれば良いの? 侯爵閣下」


 今回の標的は修道女だった。

 聖職者の身でありながら外法と通じ、彼等を匿っている。それは聖職者らしい慈悲深さとも言えるかもしれないが、相手は異教の者だ。政府から、そして教会側から見ても彼女は悪だ。


「た……た、たす……たすけ、て……」

「ごめんねー、こっちも仕事だから」


 生きる為には働かなければならない。その仕事がディアナにとって殺しというだけだ。

 かつてのような底辺の生活をもうしたくない。だから、人を殺して金を得る。

 力も素早さも反射能力も、化け物になった時点で格段に上がっている。非力な女の身でも裏社会で生きていけるだけの力はあった。


「……さて、と。一応首を落としとかないとね」


 彼等の死は上層部を騒がせる切り裂き魔の仕業にしなければならない。

 切り裂き魔。それは上層部が都合の悪い相手を消す為に作った、架空の敵。それを構成する一人でもあるディアナは女の首を狩り取った。

 生肉を裂く触感も、骨を断つ感触も、血脂の饐えた臭いも慣れてしまえばどうということもない。

 ただ、どくどくと溢れて床に広がる赤い血はいつかの日に見た炎のようで、少しだけ胸がちりっとした。






 仕事を終え、私服に着替えたディアナは【フェレール】にある【アルカナ】のビルへと向かった。

 先ほどの仕事は斡旋所の殺し屋としてのもので、外法狩りとは全くの別物だ。

 門番という仕事がない時の騎士に求められるのは社会の秩序に則った行動と、肉体のコンディションを保つことだ。身体を鍛えるかとトレーニングルームへ向かおうとしたところで、ディアナは知人の姿を発見した。

 ゴールドブロンドの髪と、忌々しいくらいに派手な顔は嫌でも目につく。

 徹夜明けなのか顔を不機嫌色に染めたその人物にディアナは声を掛けた。


「やっほー、ヴィンスくん。今日のご機嫌はどう? 食中毒になってない?」

「その挨拶もそろそろ飽きたよ」

「だって君は病気とかならないだろうし、くたばるとしたら食中りの危険性が一番高いかなあって」


 半年前、風邪に掛かるという珍しい姿を見たが外法は身体の抵抗力が強く、病気をしない。

 殺しても死なないようなヴィンセントをいつものようにからかいながら、ディアナはある発見をした。


「てゆーか、その顔、どしたの?」

「見て分からない? 殴られたんだよ」

「うわー、派手にやられたね。それって外法にやられたんじゃないよね? 女の子に振られた?」

「五月蝿いよ」


 外法が平手打ちのような生易しい攻撃をしてくるはずもない。

 【名無し】(アノニマス)などと呼ばれる化け物が非力な女性に殴られている様を想像すると何とも可笑しい。ディアナが思い切り笑ってやると、すぐに拳骨を落とされた。


「……ったいなあ! 殴るな!」

「お前、本当に五月蝿いよ」

「だったら口で言いなよ。暴力反対!」

「何でお前に指図されなきゃならないわけ?」

「友達からのありがたーい忠告だよ。そんなことしてると一人になっちゃうんだから」


 暴力的な男だった。顔が優れていれば何をしても許されると思っている最低の男。

 ディアナはヴィンセントと出会った日に髪を引っ張られるという屈辱を味わわされている。こちらに悪意もあったからあまり強くは言えないものの、あれは不快だった。

 あの時――黒いドレスを纏い、赤いショールを被ったディアナは誘おうとした。

 外法狩りを始めてから夜の仕事から足を洗ったが、相手の顔は良いので買われても良いと思った。

 花に法外な値段を付け、「たまにはゲテモノに手を出してみない?」と呪いめいた笑みを向けた。

 顔が良いから女に不自由してはいないだろう。簡単に靡くことはないはずだから他にも台詞を考えていた。例えそういう意味でなくとも、花さえ買ってくれればこちらとしては助かった。

 だが、ヴィンセントは花を踏み潰した。挙げ句に髪を引っ張ってきた。

 自慢の金髪が、ぶつ……っと不快な音を立てて数本抜けた。

 義父親を思わせる身勝手な男尊女卑ぶりとその優男口調に苛ついて、思わず足が出た。

 腹に決めた一撃は確かな手応えがあった。

 ディアナはそれきりヴィンセントのことは忘れていたのだが二年前、妙な場所で再会することになった。それから今までずっとこんな調子だ。


「どうせ、こういうことして振られたんでしょ? わたしに当たらないでよ」


 二年も傍にいれば嫌でも分かるようになる。

 ヴィンセントはすぐに手が出る。言葉で伝えることを知らない。結果、長続きしない。


「こっちの顔しか見てない癖に何が冷たいだよ。勝手に熱を上げたのはそっちの癖に……」

「ふーん……」


 愚痴を溢されているのに無視をしては可哀想な気もして、ディアナはヴィンセントの話に耳を傾ける。


「俺は興味ないって言ったのに、それでも良いって言ったんだ。身勝手だと思わない?」

「それだけ君のことが好きだったんじゃない?」

「俺に近付いてくるのは顔しか見ない、莫迦な奴だよ」


 その言葉を聞いた瞬間、生暖かかった心が急激に冷えるのをディアナは感じた。


「ねえ、一回死んだら?」

「は……?」

「莫っ迦じゃないの。君はその程度なんだよ。見た目しか良いところないのに、何が中身見ろよ。そんなこと言って、君だって散々食い散らかしたんでしょ? 傷付けるだけ傷付けといて、自分は本当の姿を見て貰えない可哀想な奴って? 孤独な被害者ぶるのもいい加減にしなよ。凄くうざいから」


 やることはやっている癖に、自分が一方的に被害者のように言うのは気に食わなかった。


『違うよ。ダイアナが俺を誘ってきたんだ』


 母親に包丁で刺される前、義父親はそうやって言い訳をした。自分は誘惑された被害者だから罪はない、と。


「文句を言うなら少しは誠実に――」

「五月蝿いって言ってるだろう」


 その瞬間、腕が伸びてきて喉を鷲掴みにされた。

 外法は肉体の一部を変化させられる。ヴィンセントが本気になれば、ディアナの細い首など片手で折ることができる。


「は……、殺すって? 殺せるものなら殺してみなよ」


 喉を圧迫する力が強くなり、鼻や耳が痛くなる。皮膚に食い込む爪の鈍い痛みが意識を繋いでいる。

 気を失わない程度に締め付けることからして、ヴィンセントは本気ではない。苛ついたディアナは、気合一撃とばかりに拳を下顎に叩き込んだ。


「ディアナ、本気で殺そうか?」

「君が先に手を出したんでしょ。倍返しにしないだけ良心的だと思って欲しいなァ……」


 母親のように男に隷属して生きるのは嫌だと心の底から思う。そうなるくらいなら手玉に取って利用してやろうと思っている。

 その為に力を求めた。

 あの屈辱をもう味わわないように、手に職を付けた。殺しの技術をひたすら磨いた。ディアナはもう男に好き勝手にされるほど弱くもなかった。


「あのさあ……わたし、今日履いてるの安全靴なんだよね……」

「だから何さ?」

「蹴るよ」


 男としての人生に終止符を打ってやろうかと不穏さをたっぷりと込め、ディアナは低い声で吐き捨てる。その瞬間、喉に添えられていた手から完全に力が抜けた。

 出会った時の【あれ】がトラウマになっているようで、ヴィンセントはディアナが蹴ると言うと必ず引く。

 犬猫の躾は最初が肝心だというが、そういう意味でディアナはヴィンセントの手綱を見事に握っていた。


「そんなに女の子が嫌いなら付き合わなきゃ良いのに」

「……人の気も知らないでごちゃごちゃと……」

「あー、うざい。すっごくうざったい。イタくて背中痒くなってくる!」


 この男は自分より四十は年上のはずなのに、この痛々しさは何なのだろう。

 自分のことを誰も理解してくれないなんていう台詞が許されるのは思春期までだ。外法と人間の心身の成長や価値観が違うとしても、これは酷過ぎる。


「何があったか知らないけど、他人に当たるのは止めなよ。理解されたいなら理解したいって思わせてよ。大体、人のこと試してんのそっちじゃん」


 ヴィンセントは暴力を振るうことで相手が何処まで付いてこられるのかと嘲笑っているようだ。


「わたしに失望したら殺しても良い。その代わり、君が可笑しくなったらわたしが殺してあげる。そう約束したじゃない。自暴自棄になるの止めてよ」


 一人は寂しいから傍にいる。けれど、互いに失望することがあったら殺し合おうと約束をした。

 まだ許容範囲だが、今の彼は途轍もなく格好悪かった。


「悩みがあるならディアナさんが聞いてあげるから、さ」

「悩みがあったとしてもお前みたいな低脳にだけは相談しないよ」

「ふうん、じゃあ仲良しのエルフェくんに泣き付けば? 二人はできてるんだもんねー。胸でも貸して貰って夜通し慰めて貰えば良いよ! あー、嫌だ嫌だ! 仲間外れはんたーい!」


 そうしていつも通り憎まれ口を叩き合うが、やはり違和感があった。

 話し掛けるといつもぴりぴりとしている。口喧嘩をしても何処か覇気がなくて、手を上げたとしても本気ではない。最近のヴィンセントは可笑しかった。


(友達甲斐がないよ……)


 女だという理由で格下に見られているのなら不快だし、別の理由で相談してくれないとしても面白くない。

 何でもはっきり言うのが自分たちの関係であったはずだ。

 それなのに、いつからか彼は加減するようになった。

 ディアナはそのことを嫌だと感じる。寄り添うことができない心の距離が堪らなく痛い。


(わたしがぶっ壊れているからなのかな)


 本当のところ、ヴィンセントへ向けた言葉の大半は自分へ向けたものだった。

 中身がないのは自分の方だ。

 母親譲りの金髪碧眼と、二十歳を越したばかりの若い肉体しかディアナは持っていない。

 【あの仕事】をする時は気持ち悪いほどしっかり化粧をして、仕事をしない時は白粉くらいしか被せない。最初は使い分けのつもりだった。だけど、莫迦みたいに笑っている内に本当に莫迦になってしまった。

 化け物のディアナに、ダイアナは食べられてしまった。

 この【自分】の人格が本当に自分自身のものだったのか、今のディアナは分からないのだ。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 何があったという訳ではなかった。

 確かに悩みはあったが、話せる訳がない。その悩みの原因はディアナその人だ。

 ヴィンセントが好きでもない相手と付き合ったのは、ディアナのことを忘れる為だった。

 暇さえあればディアナのことを考えてしまうような自分のことが嫌で、適当な女と遊んでみた。

 だが、そうして付き合ったのは金髪碧眼の女ばかり。

 ディアナと似た容姿の女でないと遊ぶ気になれず、付き合ってからも一々比べてしまい、結局は長続きしない。今回に至っては平手打ちまで食らった。

 当然、気分は最悪だった。

 こちらの気持ちも知らずにディアナは今日も好き勝手に言ってくるので、ヴィンセントの気分は益々悪くなる。そして、いつものように手が出てしまう。

 こんなことをしたい訳じゃないと嘆く自分がいる一方で、安心している自分もいる。

 どれだけ言い争ったとしても、掴み合いをする時はディアナはヴィンセントのものだった。下らないことで口論している時だけはディアナを独占できる。

 ヴィンセントはそういう方法でしかディアナを引き付けておけない。

 恨まれることでしかディアナを傍に繋ぎ止めておく自信がない。


(何でこんな奴……)


 女だというのに身形に拘らず、化粧もしていない。人格も破綻しているとしか思えないほどに酷い。家は必要なものしか置いていない癖に汚い。料理は見た目も味も悪い。ディアナは何処からどう見ても最低の女だ。

 変なところを気に入っているといえばそうなのだが、それは物に対する嗜好だったはずだ。

 ディアナは物ではなく生物だ。そうなのだとあの日、気付いてしまった。

 人形ではなく人間になってしまった時点で、ヴィンセントはディアナの存在を持て余すことになった。


「――で、エルフェさん。その女は何さ?」


 散々揉めた後、酒を飲んで忘れるということで落ち着いたヴィンセントとディアナは、エルフェを呼んで酒場で飲むことにした。

 自主休講ばかりで学校に顔を出さない二人と違い、エルフェは真面目に勉学に励んでいる。

 エルフェにとって、アカデミーに通う四年は自由を許された最後の期間だ。本音は裏社会の繋がりよりも仲間との繋がりを大切にしたいところなのだろうが、律儀な彼は呼べば必ずやってくる。

 遅れて酒場にやってきたエルフェの隣には、身形の良い娘の姿があった。


「エルフェくんのお姉さんじゃないよね? 君の家は銀髪碧眼の家系みたいだし」


 ヴィンセントもディアナも不躾なほどに娘を見る。

 人目を引くローズレッドの髪を高い位置で結った娘は、アズライトのような瞳でヴィンセントとディアナを見て小さく会釈した。


「俺の幼馴染で、メルシエという」


 姉の夫の妹、つまり親戚だとエルフェは紹介した。


「メルシエちゃんかあ。そんな美人さんの幼馴染いるなんて羨ましいなー」

「そうだね。お前と違って従順そうで、おまけに胸もある」

「セクハラはんたーい!」


 隣に座るディアナが机下で足に攻撃を加えてくるのでそれに応戦しつつ、ヴィンセントは訊ねた。


「それで、何で連れてきたのさ? 美人の幼馴染を見せびらかしにきた訳じゃないだろう?」


 自分の日常が充実していることを自慢する為だけに連れてきたとすれば、この孫ほども年の離れた友人に対する認識を変えなければならないが、恐らくそのようなことはないだろう。

 どのような答えが飛び出してくるかと期待して待っていると、エルフェは簡潔に答えた。


「社会勉強をさせようと思ってな」

「へえ、社会勉強」

「今までライゼンテールから出たこともないような世間知らずだ。仲良くしてやってくれ」

「……レイフェル様。わたくしを田舎者のように言わないで下さい」

「田舎者だろう。俺たちの故郷は葡萄畑(ヴィーニュ)しかないじゃないか」

「それはそうですけれど……!」


 メルシエは葡萄色の耳飾りを揺らして訴えるが、エルフェは笑うだけだ。

 エルフェとメルシエは同郷の出身のようで、アカデミーに通う為に都に出てきた彼女に庶民の暮らしを見せようと連れてきたらしい。

 ここは酒場といってもワインバーやパブのような店ではなく、デ・シーカ文化でいう居酒屋に近い飲食が可能なレストランだ。

 貴族の令嬢にとっては馴染みのない場所のようで、メルシエはそわそわと落ち着かない様子だった。


「アカデミーってことは十八歳かあ。若くて良いなあ」

「あなたもわたくしとそれほど変わりがないように見えますけど……」

「わたし、これでも二十三だからエルフェくんより年上だよ。そうだ、君のことメルちゃんって呼んで良い? わたしのことはお姉様でも、気軽にディアナさんでも良いから!」

「……は、はあ……」

「よろしくね、メルちゃん!」


 ディアナは手を差し出し、それに応えるように怖々と差し出された手をしっかりと握った。そして大袈裟な動作で上下に振る。盛大な握手にメルシエは困惑していた。


「うわ、若い娘をからかうおばさんみたいだ」

「中年のヴィンスくんは黙ってて!」

「俺はまだ二十二歳だよ。お前より若い」

「人間換算でしょー」

「ち、中年って……? レイフェル様、この方たちは……」

「聞き流せ。こいつ等は頭が少々残念なんだ。話の八割は聞き流して問題ない」


 そうして一方は高温、もう一方は低温な会話を続けている内に酒と料理が運ばれてくる。

 焼き鳥、枝豆、チーズ巻き、揚げ出し豆腐といったデ・シーカの摘まみに、メルシエはぽかんとする。

 麦酒の摘まみといえば、ナッツやプレッツェル、酒漬けのオリーブが主だろう。ヴィンセントも初めにこの店に連行された時には見たこともない料理に複雑な気分になったものだが、通う内に慣れてしまった。


「あの、ナイフとフォークは?」

「これそのまま食べるんだよ。ほら、こんな感じで」


 ディアナは串を手に取り、鮮やかにかぶりつく。

 相変わらず色気より食い気。美味しそうに食べるものだと感心しながら、ヴィンセントも豆腐を取る。

 やんごとなき身分の令嬢は串にかぶりつくという品性に欠けることができないようで、困り果てていた。


「箸の使い方は分かるか?」

「はい、デ・シーカ料理なら食べたことがあります」

「ならこうして串から取って食べると良い。これならお前も食べられるだろう」


 そう言ってエルフェはメルシエの前にある皿に鳥肉や豆を取り分けてやった。

 勝手に飲み食いを始めるヴィンセントやディアナと違い、エルフェは出来た監督者だ。

 甲斐甲斐しく世話をする姿を見て、ヴィンセントは生暖かい気分になる。


「エルフェさんって子供を駄目にするタイプだよね。親バカになりそうだ」

「あー、分かる分かる。目に入れても痛くないってくらい溺愛してそう」

「俺は子持ちじゃない」

「序でに奥さんの尻に敷かれそうじゃない?」

「それは俺も思うよ。エルフェさんって受け受けしいから」

「だよねー。草食ではないけど受けっぽい」

「ヴィンス、ディアナ……」


 エルフェは酒が入ると絡み癖が酷くなる友人二人を睨み付けていたが、最終的には嘆息した。

 二人の相手を真面目にすると身が持たないということをエルフェはこの一年半で学んでいる。そして、内輪の会話をしてはメルシエが居心地の悪さを感じてしまうだろうことも考えている。

 ひたすら聞き役に徹しているエルフェにメルシエは訊ねた。


「鶏肉、平気になったのですか?」

「脂のない部分なら平気だ。それよりも、お前は平気か? 居心地は悪くないか?」

「ええ。賑やかな場所は好きですし、お料理も美味しいです」

「そうか。では、今度は【ベルティエ】にでも降りてみるか」


 それは周囲のざわめきに消えてしまいそうなほどに静かで、穏やかな会話。

 他愛もない内容だったが向かい合う二人の親密さが窺えた。


(幼馴染って大人になってまでつるんでいるものか?)


 貴族の付き合いは冷めたものだという認識を持つヴィンセントは不思議に思う。

 メルシエがエルフェに向ける眼差しは潤びるようであったし、彼が彼女へ向ける目もとても優しいものだ。

 婚約者と聞いても驚かなかっただろう。それほどに二人は仲睦まじい様子だった。

 だが、この二人が一緒になることは有り得ない。

 貴族は家の政策の足しにならないことをしない。エルフェの姉とメルシエの兄が婚姻を結んでいるというなら、政略結婚は済んでいる。つまり、二人が結ばれることはないのだ。


(何でも良いけどな)


 この二人の仲が良かろうが悪かろうがどちらでも構わない。この頃はそう思っていた。

 ディアナがエルフェのことを好いていると知る、その時までは。

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