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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
105/208

番外編 籠鳥は握り潰してこそ可憐 ~side Faust~ 【5】

 遅い初雪の日から三ヶ月が経ち、季節は春になろうとしている。

 実を言えば、ルイスが外で暮らせるよう侯爵へ掛け合ったのはファウストだ。

 貴族たちから浴びる好奇の視線や、家族から注がれる期待、都の空気。その毒にルイスは参っていた。

 ファウストはルイスの療養という名目で、彼の兄のいる場所へ預けた。よりにもよってと思った存在のいる場所へ。


「君たちは生に執着していない。欲求がなさ過ぎなんだ。だから危機感を煽っただけだよ」


 何故クロエへ寿命を告げるようなことをしたのかとルイスに責められたファウストはそう答えた。

 人はいつ死ぬか分からない。人生をしっかり歩んで欲しいからこそ、寿命が少ないと言ったのだ。


「先生、人を非人間みたいに言わないで貰えますか。不愉快です」

「不愉快も何も実際健全じゃないだろう」

「健全ですよ」

「健全過ぎて不健全だ」

「貴方よりはまともだと自負していますけど」

「私は普通なの! 君が可笑しいの!」


 人間の三大欲求は食欲、性欲、睡眠欲だ。

 飲食も眠りも楽しめる時に楽しんだ者が勝ちだ。青春を教会に食い潰されたファウストはそう考える。 だが、自己嫌悪を突き詰めて、自制心の塊のようになっているこの子供たちに言い聞かせても無駄だろう。

 生きている楽しみは何かと問うたら彼等はきっと答えられない。

 虐めるつもりはないが、訊ねてみようか。好奇心が擽られる。

 ファウストの良くない欲求を察したのか、今まで黙っていたクロエが話に割り込んでくる。


「ま、まあまあ、揉めないで下さい。そのことはもう良いんです」

「良くない。このろくでなしはキミを傷物にした」


 傷付けたではなく、傷物にしたと言うところに悪意が込められていたが大人として聞き流す。

 アデルバートとエレンと同じで、ルイスの無自覚な毒に一々取り合っていると話が進まなくなる。自分のことを棚に上げたファウストは彼等の会話に耳を傾けた。


「キミはもっと怒るべきだ」

「怒ったじゃないですか」

「オレ以外に怒ってないだろ」

「もしかして不公平だったですか……?」

「不公平?」

「私は差別をしたつもりはありません。それに貴方を不快にさせたくて小言を言っている訳でもないです」


 話が噛み合っているような噛み合っていないような不思議な雰囲気だ。流石はアデルバートとエレンの息子と、ディアナの娘というところか。まともではないことを宿命付けられているとしか思えない。

 しかし、クロエよりは幾等か常識的かつ良識的であるルイスは訂正を入れる。


「そうではなく、もっと自分のことを考えた方が良いということを言ってるんだ。キミはいつも他を慮っている」

「他人のことばかりなのは貴方じゃないですか。いつも自分のことは後回しで……。そんな風じゃいつか野垂れ死にしてしまいます」

「同じ言葉を返すよ」

「ですから、貴方の方が問題なんです!」

「今はオレの話をしているんじゃない」


 会話は見事な平行線だった。こうなると冷静さを欠いた方が負けとなる。

 クロエは不利だな、とファウストは傍聴人として他人事のように哀れむ。


「……私は貴方が怒ってくれただけで充分ですよ」


 案の定クロエはしょんぼりと落ち込み、唇を引き結んで顔を背けた。彼女が引く姿勢を見せないことにルイスも苛立ち、不機嫌になる。


(良くない兆候でしょうかね……)


 何処となく、昔のヴィンセントとディアナの関係に似ていると思った。

 自制心の強過ぎる子供と、自制心の存在しない大人。

 ルイスの抱える哀しみが自分の内側に向かわず外側に向かったのなら、ヴィンセントのように他人を傷付けられるようになるだろう。

 クロエの抱える孤独が自分の内側に向かわず外側に向かったのなら、ディアナのように誰彼構わず関係を持つことができるようになるだろう。

 感情を内に抱え切ることができるか、それを抱えられずに外へ向けるか。彼等は紙一重だ。

 似ているから引き寄せられるし、嫌悪も強くなる。そして、同調した者の決裂は悲惨なことになる。

 ヴィンセントもディアナも、それに関わったエルフェもメルシエも人生が変わってしまった。その歪みによって生まれたクロエもまた幸福からは程遠い人生を送っている。


「私はそろそろ行こうかな」


 ファウストが荷物に手を伸ばすと、ルイスも席を立つ。


「途中まで送ります」

「君もまだ本調子じゃないだろう」

「外に出たい気分なので」


 上着を取ってくると言って部屋を出るルイスを見送ったクロエは安堵めいた息をついた。

 彼女が無意識に擦る手の甲には、赤い傷が走っている。

 自分の不注意で作った傷か他人に入れられた傷かは分からないが、痛ましいものだ。


「……貴女は女神様のようですね」


 その慈悲深さ――自己犠牲心は彼女を破滅に導くのではないだろうか。

 クロエはいずれヴィンセントとディアナを許すのだろうなと、ファウストは年明けの事件の時に思った。

 クロエは自分の不幸は自分が招いたものだと考え、仕方ないものだと受け入れていた。そして自分を痛め付ける者たちに愛されたがっていた。それは健気で、酷く滑稽な姿であった。

 自己価値の低さと無欲さは謙虚さの表れでもあるが、度を越せば心の病でしかない。

 感情がなければ生物の生活は成り立たない。危険が迫っても何とも思わず、食物や異性に心惹かれないようであれば種が途絶えてしまう。

 クロエは非凡な存在だ。


「私は良い人じゃないです」

「そうですか?」

「雪の結晶みたいに綺麗なものはありませんもん」


 自分にも下心くらいあるというようにクロエは苦笑した。


「妙に悟っていますねえ」

「最近色々と考えることがありましたから」


 事の元凶のヴィンセントとディアナはあの通りだし、エルフェとレヴェリーも無関心だ。助けのいないクロエは開き直らざるを得なかった。

 達観して、可笑しな風に悟ってしまう。初めて会った時のルイスもそうだった。

 痛ましいものだとファウストは哀れむが、彼等にとってその哀れみは望まないものだと理解はしているので口に出しはしなかった。






 【アルケイディア】の春は四月と五月、夏は六月と七月、秋は八月と九月、残りの半月が冬だ。

 春といっても夕方になれば気温は氷点下まで下がり、雪が降ることもある。折角咲いた花が枯れてしまうことも珍しくはない。

 凍えるような風が吹き荒ぶマロニエの並木道を歩きながら、ファウストは話し掛けた。


「君が怒っているなんて珍しいね」

「あの人と、貴方を含めた周りの奴等が気に食わないんです」

「そして自分自身が、と」

「分かったように言わないで貰えますか」

「これでも十年は君のことを看てきたつもりなんだけどな」

「高が十年じゃないですか」

「高が数ヶ月傍にいただけの女の子の為に怒れるんだから君も丸くなったものだね」


 貴族たる者、皮肉の応酬を楽しむ余裕がなくてはならない。

 しかし、ルイスはこういった言葉遊びをあまり好いていない。回りくどい言い方より、非礼に当たるとしてもはっきりと言った方が良い反応が返ってくる。

 案の定、ルイスはぐうの音も出ないというように口を閉ざす。

 少々虐め過ぎてしまっただろうか。ファウストは子供をあやす要領で頭を叩こうとして、その手を止めた。


(いけないいけない。いつまでも子供扱いはいけませんね)


 かつてのアデルバートと並んだ時と同じ目線にルイスが存在することに気付き、快い衝撃を受ける。

 あの頃、膝を折らなければ目線を合わせられなかった存在が肩を並べられる高さにいるのだから、子供の成長とは早いものだ。

 いや、子供の成長が早いというよりは、こちらの感じ方が遅いのかもしれない。

 外法の血を身体に取り込んだ時点で、その人はもう人間ではない。

 精神的に安定することはないから、年相応の成熟をすることもなくなる。青春時代に時間を止めたのだから、その気分が抜けないのも仕方ないことだ。大人気ないと言われるのも承知していた。


「もし、復讐する相手が身近な存在だったら君は討てるのかい?」

「唐突に何ですか?」

「君が人間臭くなるのは良いことだけど、心配でもあるんだ。そうだね、例えば敵がオーギュスト様やクロエさんだったらどうする?」

「有り得ない想像はしたくありません」

「有り得なくはないよ。知人が敵に回ることだってあるんだ」


 ルイスの復讐は敵個人では済まない。敵の家族を含めて皆殺しにすることだ。

 その家族の中に知人が混ざっていた時、どうするのだろう。


「君は物事の優先順位を一度見直した方が良い。今のままじゃろくでもないことになりそうだ」


 ルイスが人間らしく在るのは好ましいことだが、そのことで苦しむのならいっそ人形のように心を凍り付かせ、壊死させてしまった方が救われるとファウストは思うのだ。

 敢えて反感を買うような問い掛けをしたファウストにルイスはそうですね、と短く応えた。

 北風の冷たさの所為か、夕陽の色が妙に寒々しく映る。

 陽が沈みきれば宵闇の時間が訪れ、辺りは一層冷え込むだろう。この寒さなら雪が降っても可笑しくない。

 見送りはここまでで良い。そうして足を止めるファウストに、ルイスは思いもしない反撃をした。


「貴方にとってクラインシュミットの二人は何ですか?」

「そちらこそ、唐突に何なのかな?」

「興味本意です。貴方が母に向けていた目は尋常ではありませんでしたから」


 その言葉を聞いた瞬間、ファウストは堪えきれなくなり噴き出した。

 ルイスの口からそのような質問が出るとは思いもしなかった。

 これほど愉快な気持ちになるのは久々だ。やはり彼等の息子は良い刺激を与えてくれる。

 尚も込み上げてくる笑いの衝動をどうにか抑え、目を向けると、彼は不快感を隠さない表情をしていた。


「何が可笑しいんですか」

「君が言いたいのは私がエレン様に色目を使っていたということ? つまり、嫉妬をしていたと?」

「嫉妬ではなく、普通の子供だったら母親が妙な輩に目を付けられるのは嫌がるものだと思います」

「警戒していた癖にその背中に隠れるなんて矛盾しているよ。そういう時は前に出て淑女を守るのが紳士の在り方だ」


 十年前のあの日、ルイスはエレンの背に隠れていた。

 母親を見知らぬ男に取られることより、己を守ることを優先したのか。本当に人見知りだったのだなと今更ながら可笑しくなってしまう。


「貴方はどうして一々覚えているんですか……」

「君が覚えているのと同じことだよ。初対面の印象は大事だね」


 もしかするとルイスはこの十年疑い続けてきたのかもしれない。

 ファウストは誤解を解くことにした。


「安心しなさい。エレン様をアデルバート様から奪おうという邪心は持っていなかったよ。――それに、あの方の息子だから貴方に仕えた訳でもない。貴方に仕えようと思ったのは私の意思です」

「どうだか……。貴方は信用なりませんから」

「強いて言えば幸福な家庭を体現している二人に惚れていたのです」

「嫉妬ではなく、憧れたんですか?」

「別世界の人間に嫉妬なんてできませんよ」


 ファウストが惚れていたのはエレンではなく、家族という存在の彼等だ。

 家族というものから縁の薄い生まれをしたからか、ファウストは家族に憧れは持っていなかった。

 人質として生を受け、放り込まれた裏社会で見るに耐えないような人間の醜悪さを知った。

 血族で争うことは珍しくはないし、その血の繋がりが憎しみを深くすることもある。外法も人間も大して変わりはない。一皮剥けば醜いものが詰まりに詰まっている存在なのだ。

 ファウストは聖職者として人々の声に耳を傾けながら、日々絶望していた。

 そんな時に出会ったのが彼等だ。

 不足を抱えながらも、家族という砂の器を作り上げようとしていた二人がとても目映いものに見えた。

 醜悪なものが詰まった人間だからこそ、愛しいと感じた。


「……手に入らないこそ憧れたのかもしれません。貴方たち家族は私の希望でした」

「やはりオレをあの人たちの代わりにしているんじゃないですか」


 ルイスの指摘にファウストは首を横へ振った。


「私は貴方がくれる希望にうっとりしていますよ」

「変なこと言わないでくれますか」

「私は貴方に従順かつ忠実です」


 そう宣誓して膝を着こうとするファウストをルイスは片手で制した。

 その姿で膝を折るつもりかと目が言っている。レイヴンズクロフトの人間がヴァレンタインの人間に頭を垂れたと噂が流れでもすれば大事だ。

 月も星も一切ない空の色のような瞳はファウストをじっと見ている。


「……オレは(ジュ・ヌ・)貴方を(ヴ・クロワ・)信じない()


 辺りの喧騒を切り裂いて声が響く。その低さより、眼差しの冷たさに背筋が冷たく震えた。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 ファウストは久々に墓場へ足を向けた。

 蔓薔薇が囲む墓標の上には朽ちて間もない花が供えられている。ルイスが月に一度ここを訪れるのは今も変わっていないようだ。

 枯れた白薔薇の代わりに、紫の薔薇を手向ける。


何故、私は(プルクワ・)貴方から(スュイ・ジュ・)こんなに遠くに(スイーツ・ロワン・)いるのでしょうね(ドゥ・ヴ)?」


 ルイスに告げたように、ファウストはエレンに邪な心を抱いてはいなかった。

 エレンに対しては父性のようなものを感じていたのだ。

 教会にきて祈りを捧げる十代前半の少女はいつも涙を流し、懺悔していた。 その金髪碧眼の少女がエレンだと気付いたのは、アデルバートと関わるようになって暫くしてからのことだが、知ってからは見守るような気持ちで接していた。

 あの涙を流していた少女が幸福だと笑う。良かった、とファウストは安堵した。

 ファウストにとって娘のようなエレンの子供のルイスとレヴェリーは孫のようなものだ。

 レヴェリーは三年過ごした両親よりも、十年を過ごしたエルフェの影響を受けて成長した。一方、あの事件で心を止めてしまったルイスはアデルバートとエレンの影響を受けた成長をした。

 かつてエレンに向けていたものと同等の――いや、それ以上の畏敬の念をルイスへ抱いている。


「……エレン様」


 エレン・ルイーズという少女は不幸だった。

 懺悔を聞いているファウストは彼女の罪を知っている。だが、その罪は彼女が犯したものではなく、他者が彼女に犯したものだ。

 彼女と同じ境遇で清らかさを持ち続けられる人間など存在しない。それでも彼女は報われなかった。

 この世に神などいなかった。

 彼女のような人間が救われないのなら神は存在しない。理不尽に傷付けられながらも、その愚か者を許す人間こそが神に等しい存在だ。そう考えた瞬間、ファウストは【外法】となった。

 神を信仰せず、人間を信仰するこの身は破綻している。

 信仰の道に背を向けてからのファウストは人間讚美に生き、取り分け人間の負の面に心を惹かれた。

 そう、例えば――彼女が溢す涙は舐めればさぞや甘かっただろう。


「我等の主よ、御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心を成るが如く地にも成させたまえ。我等に罪を犯す者を我等が許す如く、我等の罪をも許したまえ。我等を試みに遭わせず、悪より救いたまえ……」


 哀しんでいる時の姿が堪らなく好き、というのは悪趣味だ。

 ファウストは自己の可能性追求の為なら、人生のあらゆる幸福と苦痛を体験したいと考える。だから、他者にもあらゆる快楽と苦悩を味わわせたい。

 この衝動は歪んでいる。欲望のままに振る舞えば外道となってしまう。


「貴方たちの愛し子はきっと敵を討ってくれますよ」


 苦しめて、苦しめて、苦しめた末に殺す。そうするように仕込んだ。

 銃で一撃で仕留めたりはしない。手足を潰し、動きを止めた後にじっくり甚振り殺すのだ。

 彼等を冒涜した者は裁かれなくてはならない。神の手ではなく、人間の手によって。


『もしも私が裏切るようなことがあればどうなりますか?』


私の(メフィエ・ヴ・)復讐に用心(ドゥ・マ・)して下さい(ヴァンジャンス)


 夜明け前の蒼闇の空のような瞳が真っ直ぐと向けられた。言葉をよりも、その()の色が忘れられない。

 あの微笑みを、あの優しさを、失いたくなかった。


「貴方たちを冒涜した相手はしっかり裁かれないと、ね……」


 躊躇も容赦もなく、善意も悪意もなく、ただ己の夢を叶える為だけに彼へ忠義を誓う。

 願いは変わらない。例え、身魂を焦がす贖いの時がこようとも。

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