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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
102/208

番外編 籠鳥は握り潰してこそ可憐 ~side Faust~ 【2】


「教会は墓を掘るとか言いながら地下道を作っているという話だが、うちの下にも掘りたいとはね」


 薔薇御殿と称される邸宅の応接室に皮肉げな声が響く。

 ファウストの向かいの席に座るのは、目の下の泣き黒子が何とも艶のある美丈夫だ。上着を羽織らず、シャツに濃紺のウエストコートを合わせた軽装の彼は長椅子にゆったりと掛けている。

 紅茶のカップをテーブルに戻した彼は足を組み直した。


「もしかして、私の寝首でも掻くつもりなのか?」

「その反対ですよ。有事の際、私たち【教会】がアデルバート様をお守りできるようにです」

「ふうん……? 自己顕示欲が強いんだな」


 政府ではなく自分たち教会が守ると強調したファウストを、アデルバートは冷たい目で一瞥した。

 刺々しい詰問を受けながらもファウストの表情は飽くまでも涼しい。


「まあ、キミに当たっても仕方のない話か。やりたいのならどうぞご自由に。私はどうだって良いんだ」

「……どうでも良いのですか?」

「教会が私腹を肥やそうが、政府の腹黒い蛆虫共が画策を練ろうが、私には関係ないことだ」


 この国の地中には脱税と諜報活動の為の地下道が至るところにある。そんな教会の裏の顔を貴族たちは知りながらも、その多くが黙認して甘い汁を共に吸っている。


「……ただ、私の領分を侵そうというなら容赦はしない。斬らねばならない悪人は始末する」


 アデルバートは冷ややかな声を放ち、ファウストを睨む。彼の琥珀色の瞳には冷徹な色があった。

 けれど、そのような態度に出られたからといって怯むほどファウストはまともではない。

 ファウストは視線を外し、一度も手を付けていなかった紅茶を飲む。

 その姿を見つめるアデルバートはじっと双眸を細めた後、諦めたように嘆息した。彼もまた紅茶のカップに手を伸ばす。カップを手に取るところから口許へ運ぶまで実に洗練された動作だ。

 手にしていたカップをソーサーに戻した彼は、不自然なまでににこりと微笑んだ。


「この話はここまでにするとして、この後は暇だろうか?」

「今のところこの後の予定はありませんよ」

「良かったらエレンさんの相手をしてやってくれないかな。主婦は退屈だそうだから」


 ファウストの返答を聞いたアデルバートは背凭れから身を起こし、先ほどまでの不機嫌さが嘘のように穏やかな声でそんな提案をした。

 美貌をふんだんに駆使した笑みを向けられ、くらりと目眩がする。


「人使い荒くありませんか……?」

「美人とただで茶が飲めるんだ。感謝して欲しいくらいだ」

「ああ、もう……のろけは結構ですよ。恥ずかしいと思わないのですか」

「私の可愛い妖精だよ。のろけなくてどうするんだ」

「はあ……」


 この若者は真顔で何を言っているのだろう。

 この五月の陽気のように果てしなく暢気そうなその様子に、ファウスト深々と溜め息をついた。


「エレンさんは勿論可愛いらしいけどね、息子たちも可愛いんだ。レヴィなんかまさに子供という感じの子犬っぷりが微笑ましいし、ルイは気難しいけどそこが可愛い。あれはエレンさんに似て美人になる」


 華やかさと気品を備えた完璧な貴公子だというのにアデルバートには困った一面がある。


(私以外にもこうしているのですかね……)


 夫バカと親バカはもう沢山だ。それを会う度に聞かされるこちらの身になって欲しい。

 あまりに堂々とのろけるものだからいっそ清々しい気持ちになり、拍手を送りたくなる。

 そんなファウストの態度を意に介した様子もなく、長椅子で優雅に足を組み、肘掛けに頬杖をついた彼は楽しそうだ。


「そういうことで、ルイ。このおじさんのこと、エレンさんの所へ案内してくれないか?」

「――――!」


 アデルバートの視線の先を辿るとカーテンの陰から子供が飛び出し、そのまま部屋を出て行った。

 子猫を思わせる小さな子供は、このクラインシュミットの養子の片割れだ。

 あまりのことにファウストは数瞬放心する。


「あの……あれは……」

「あーあ、逃げた」

「アデルバート様、ご子息はいつから居たのですか……?」

「最初からさ。キミは私とあの子の大事なチェスの勝負を邪魔したんだ」


 だからといって退室させずにカーテンの裏に隠すとはどういうつもりだろう。先ほどの話の中には健やかな子供に聞かせてはいけないものもあった。

 ファウストはアデルバートをじろりと睨む。


「……貴方にも問題はありますけど、ご子息も良い根性をしていますね」

「あの子はああやってどんどん新しいことを覚えていく。良いことだよ」

「そうですか」


 子供の成長に悪影響を与えかねない話をしたが、その幼さ故に内容を理解できていないだろう。

 そういうことで割り切ったファウストの前でアデルバートは小さく呟く。


「いけないな……」

「何がです?」


 アデルバートは頬杖を外し、浅く息を吐く。


「大人のこういう態度がいけないのだよな、と思って」

「アデルバート様――」

「私は彼等に普通に生きて欲しいと思っている。レヴィにもルイにも政治と無関係の世界で結婚して、家族と一緒に穏やかな一生を過ごして欲しい。その一方で、私の跡を継いだ彼等がどういう采配を振るうかも興味がある。……酷い親だろう?」


 アデルバートは笑う。赤み掛かった茶の瞳に愉しむ色が差した。

 彼は養子として引き取った双子を愛し、成長を楽しみにしているのだろう。眼差しが全てを語っている。

 前妻とその子供を失う前の彼を知っているからこそ、ファウストはその変化に驚く。


「私の夢はあの三人を幸せにすることなんだ」

「もう叶っているではないですか」

「いや、まだだ。幸せに際限はないからね、この器をもっと大きなものに育てたいと思っている」


 くす、と小さく笑いながら、アデルバートは紅茶を一口飲む。

 やがてカップがソーサーに戻される。器の中で冷めた紅茶が静かに揺れた。






 水色の小さなパラソルを差した淑女の姿はすぐに見付けることができた。

 声を掛けると、淑女は花が綻ぶように笑みを浮かべた。

 金にも映える薄茶色(ティーローズ)の髪が揺れると、仄かな甘い香りがした。チューベローズの香りだ。

 クラインシュミット侯爵夫人エレン・ルイーズは驚くほどの美女だ。

 白いレースが襟首と袖口を飾る空色のドレスは、透き通るような彼女の美しい容貌を引き立てている。服に着られているという言葉があるが、彼女の場合は服に勝ち過ぎているほどだろう。その誰もが振り返るほどの可憐な美貌は、年を重ねる毎に益々磨かれていくだろうことは明らかだった。


「レヴィ、ルイ。ご挨拶しなさい」

「母さん、このおっさんだれ?」

「こら、レヴェリー。そんなこと言っちゃ駄目よ。お兄さんと呼びなさい」

「えー!」

「貴方だって小さいって本当のことを言われるのは嫌でしょう? それと同じよ。人を傷付けるようなことを言っちゃ駄目なの」

「あはは……、別に構いませんよ。実際年食ってますからね」


 地味にエレンの言葉の方が胸を抉ったが、基本的にクラインシュミット夫妻は腹黒い二人なので諦める。

 一々真に受けていては身が持たない。聞き流すべきだ。

 ファウストが内心傷付きながらも笑みを浮かべていると、レヴェリーと呼ばれた栗毛の少年は挨拶をした。


「こんにちわ」

「はい、こんにちは。おじさんは……おっさんで良いですよ」

「うん、じゃあおっさん!」

「まあ」


 エレンは淡い水色の手袋をつけた手を口許に添え、品良く驚いてみせた。

 ただ、その大きな瞳は真ん丸と見開かれている。

 淑女の域にはまだ届かない幼さを垣間見たファウストは微笑ましく感じ、思わず笑ってしまった。

 笑い合う母親と知人。その間でにこにことする息子。和やかな空間。

 ふと、こちらをじっと見上げてくる視線に気付いた。


(ああ、さっきの子か……)


 目を向けた先でファウストは、母親の背中に隠れるようにしている黒猫を発見した。

 改めて顔を見てみると、思わずどきりとするような眼差しをしている子供だった。

 くっきりとした二重瞼や、物憂さを漂わせる重たげな睫毛が眦に落とす雰囲気が何とも婀娜っぽい。一度見たら忘れられないような少女だった。


「ほら、貴方もご挨拶なさい」


 エレンが促すものの、すっかり背に隠れてしまっている。

 だが、くすんだ金色の髪の間から向けられる眼差しは存外鋭く、敵意に満ちている。


「あ……済みません。この子、身体が弱くて外に出ないものだから……。ルイ、ちゃんとご挨拶しなきゃ駄目よ」

「構いませんよ。女の子は少し奥手なくらいが可愛いものです」


 エレンは申し訳なさそうにしているが、ファウストはやっと納得がいった心地だ。

 アデルバートが溺愛するのも分かった。エレンのようなか弱く保護欲を擽る存在と同じで、警戒心剥き出しな様に父性本能を擽られるのだろう。

 そうして一人納得して頷いていると、エレンが言い辛そうに言った。


「男の子ですけどね、この子」

「ええ……っ」


 じと……っと半分伏せた眼差しを向けられて、その冷たさにファウストは息が詰まった。

 確かに少女ならエレンのようなドレスを着ているはずだが、双子ということで敢えて揃えて男装しているかと思ったのだ。それに病弱で寝所を離れられないというのなら、尚更動き易い格好をしているだろう。

 酷い勘違いを受けた少年は屈辱で青冷め、頭を撫でて懐柔を試みるファウストの手を思い切り振り払った。


「もう……、駄目よルイ。この人は父さんのお友達で教会の方よ。怪しい人じゃないわ」


 教会という言葉を聞いて少年の目からは僅かに険が薄らいだが、それでも敵意がある。


「貴方は神父様……?」

「はい、まあそんなところです」


 少年ははあ、と嘆息する。

 容貌はそこはかとなくエレンと似て優美なのにその態度は可愛いげがない。

 きっと成長したらとんでもない糞餓鬼になるのだろうなと内心辟易しながらも、ファウストは表面上は穏やかな微笑を張り付けたまま固定する。


「神様って本当にいるんですか?」

「神様は人の心の中にいるものですよ。君は神様のことを信じていないのかな?」

「はい、信じていません。でも、父さんは神様は残酷で胡散臭いから信じると言っていたので、否定をするつもりはないです」

「恐れながらエレン様、お宅ではどんなご教育を……?」

「あら、済みません。あまりに天気が良いものだからうっかり聞いていませんでした。何のお話です?」

「………………」


 結局、母親は息子の味方なのだ。

 分が悪い勝負にファウストは早々に見切りを付け、黙殺することで耐えた。

 目が合うと、白薔薇の君(マダム・ローズ)と呼ばれる侯爵夫人はしてやったりの顔で笑っていた。


「どうでも良いですけど、お茶にしませんか。とっておきのプディングがありますよ」

「プディング!? それってどんなの?」

「レヴィの好きなベリーのムースを、ガトー・オランジュに乗せたものよ」

「オレンジケーキ……?」

「オレンジの皮と果汁が練り込んであるパウンドケーキ。あんまり甘くないからルイも好きだと思うわ」

「ふーん、酸っぱいんだ!」

「へえ……、甘いんだ」

「じゃあ、ばあやを呼んでお茶の時間にしましょう。ファウスト様も召し上がって行きますよね」


 見事に合わさり、けれど正反対な双子の感想を聞いたエレンはにこやかに笑い、家政婦を呼んだ。






 花が絶えることがない屋敷の庭園には初夏の薔薇が咲いている。

 大輪の薔薇があれば小さな野薔薇や、珍しい薄青の薔薇も咲いている。

 咲き乱れる花々と草木のコントラストが鮮やかな庭園に吹く風は、甘く艶やかだ。

 西日を浴びて金色に輝く長い髪を風に遊ばせながら、エレンは蔓薔薇のアーチをくぐる。


「夕方になると風も涼しいわね。好い気持ちだわ」


 薔薇の香りを仄かに含んだ風がエレンの髪をさらさらと揺らしている。ドレスの裾や帽子のリボンも翻る。その風に紛れてチューベローズの香りがふわりと漂った。


「ご子息は……ルイシスくんは変わっていますね」

「ふふ、吃驚したでしょう? あの子は私たちの話を理解していますよ。大人が話す言葉の矛盾や悪意にも気付いています。だから、うっかりしたことは言えません」


 紅茶の時間も終って双子の片割れが去った後、ファウストは鋭く切り込まれて冷や汗を掻いた。


『神様は私たちの罪を許して下さるんです』

『どんな人のことも?』

『はい、愛は平等です。いつだって神様は優しく私たちを見守っていますよ』

『……だったら、許さない。兄さんを捨てたあいつ等も許そうっていうなら絶対に許せない』


 年端もいかない少年から紡がれるものとしては絶望的な言葉だった。

 彼のあの諦観は教育を受けた結果のものではなく、初めからそうだったのだという。そうして背伸びをしなければ生きてこられなかった事実をファウストは痛ましいと思った。


「差し出がましいようですが、祈りの時間を設けるのは如何ですか?」

「うちは中立ですよ。そちらに入信したら、上の人たちに睨まれてしまいます」


 辛い過去があるというなら祈りを捧げたらどうだろうか。

 神を信じろとは言わない。ただ、祈りは人の心を穏やかにする。傷付いた心を祈りによって昇華させたら、その過去すらも己の糧として前を向いて歩けるようになるはずだ。

 そう提案するファウストにエレンは首を横へ振った。


「何かあった時に神様に縋るような心の弱い子になって欲しくないんです。偶像崇拝より生きている人間と触れ合った方が建設的ですもの」


 アデルバートにも言えることだが、彼女は冷めたところがある。

 感情的であり、それ以上に理性的である。彼女はクラインシュミットの人間なのだから、優しいだけの女性ではいられない。

 エレンは蔓薔薇のアーチから花を一輪手折る。目を伏せた表情は何処となく暗く、寂しげだ。


「それに男の子なんだから、いざという時、縋るのではなく縋られるようでなくちゃ」

「エレン様……」

「ファウスト様は本当に神父様なのですね。今まで疑っていてごめんなさい」


 紫の薔薇を口許に添えたエレンは笑っていた。

 秘密は薔薇の下で(アンダー・ザ・ローズ)の言葉があるように、薔薇は秘密の象徴だ。

 エレンは艶やかな薔薇の香りにうっとりと目を閉じ、笑う。傍らで溢された笑みをファウストはただ見つめる。

 笑みは線引き。この話は終いにしましょう、と詮索の手を拒む為のものだ。

 ゆうるりと開かれた彼女の瞳は赤い夕陽を受けて紫の薔薇と同じ色を湛えていた。


「エレン様、今は幸せですか?」

「まあ、変な質問。私はいつだって幸福ですよ?」


 ファウストの不躾な質問を気にする様子もなく、淑女は薔薇(エレン)の名に相応しく艶やかに微笑む。


「幸せすぎて怖いくらい。いつか罰が与えられて、この幸福が奪われてしまうんじゃないかって怯えています」

「もし奪われるとしたら貴女はどうするのですか? 運命を受け入れ、差し出しますか?」

「足掻きますよ。私は運命なんて天に与えられたものは大っ嫌いですから」


 赤みを帯びた陽光が射す中、エレンは静かに笑う。

 まるで雪の中に俯いて咲く花のように淡く儚い笑み。それだけでファウストは声を封じられる。

 エレンは垣根から紫色の薔薇を摘まみ、差し出した。

 指と指が触れ合うが、手袋越しでは何の温かさも伝わらない。それでも震えそうになるファウストは放心したまま薔薇の花を受け取った。


「頼みがあるんですけれど、良いですか?」

「……私に聞けることなら」


 真っ直ぐに見つめてくる青い瞳をファウストはただ見つめ返す。


「貴方の複雑な立場は知っているわ。でも、もし私とあの人に何かあったら私の子供たちを守ってあげて」

「エレン様」

「お願い。あの子たちだけは裏切らないで」


 消え入りそうな声で請われる。そのあまりにも切なげな響きに胸の痛みが一層強くなり、ファウストは無言で頷く。エレンは静かに微笑んだ。

 それが、彼女との最後になった。

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