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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
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Belle et Bete 【9】 (第一部完)


「あの男はどうだった?」

「相変わらずです。お母さんのことしか考えていませんでした」


 今のヴィンセントは頭の半分以上がディアナだ。クロエやその他のことは眼中にない。

 クロエがヴィンセントの暴言を聞き流したように、彼もこちらの小言など聞いていなかったのかもしれない。

 どちらにしても、もう彼を主人と仰ぐ気持ちはない。これからは対等の相手として接する。ファーストネームで呼ぶことにしたのはそういう意識からだ。


「ところで、何処へ向かっているんです? 昇降機ならベルシュタインにもありますよね」

中央(セントラル)に行くなら、街中より北林を通った方が早いんだ」


 シゴーニュの森は憩いの場の南林と、自然公園の北林に分かれている。

 北林の道は庭園のように整備され、花壇には美しい花が植えられていた。

 暫く歩くと、前方が薔薇色に染まった。クロエは思わず駆け寄る。芝生(カゾン)が敷き詰められた広大な敷地に百本にも及ぶ木があった。


「これは何の花です?」

「シューリスの桜」


 八重咲きのピンク色の花を垂れ下げた満開の桜は華やかだ。まるで空が薔薇の花で埋め尽くされているような光景にクロエは息を呑む。

 周囲を見れば、芝生の上では人々が日光浴や昼寝をしたり、ワインのボトルを開けてピクニックをしていた。


「私も少し休憩しても良いですか?」

「どうぞ」


 クロエは桜の根元へ腰を下ろした。

 日光をたっぷりと浴びた芝生はあたたかい。まだ生え揃ったばかりの若い緑の香りがする。心地良さに甘えて木に背を預ける。そのまま視線を上げると、視界に飛び込んでくるのは空の青さと花の赤だけだ。

 薔薇色の桜は薄桃色の桜とは別種の華がある。儚い美しさ(ボテ・エフェメール)とは無縁の艶やかさだ。


「……本当に休むんだ?」

「え……あ、済みません。起きます」


 別に良いけど、と短く答え、ルイスは幹に軽く背を預けた。

 クロエはルイスも少し寛いだらどうかと誘おうとしたが、このベルシュタイン市はヴァレンタインの領地だ。跡取りとして人目を気にする気持ちも分かるので、控えておいた。

 僅かに姿勢を正したクロエは、ピクニックを楽しむ家族を遠く眺めながら訊ねた。


「一昨日、何を怒っていたんです?」

「しつこいな。怒っていないと言っているじゃないか」

「だって怒ってますもん。気になるんです」


 こうなるとクロエが引かないと流石に理解したルイスは短く息をつくと、何処か硬い声で問う。


「キミはあいつ等を恨まないのか?」

「どうして?」

「誰かの所為にしなければ不幸を受け入れられない。人はそういうものだろ」


 誰かを恨んで、その憎しみを支えに生きている。そうやって目を曇らせれば嫌なものを見ずに済む。

 憎悪は、絶望よりも遥かに強い。


「私が憎むとしたら、自分です。こんなどうしようもない自分を打ち負かす為に生きます。それからヴィンセントさんをぎゃふんと言わせてやります」

「ぎゃふん……」

「ええと、ぶちのめすで通じます?」

「ぶちのめす?」


 シューリスの貴族であるルイスには下町庶民の言葉は伝わらない。他に何と言えば通じるのだろう。


「話の流れからして、屈伏させるとかそういう意味?」

「そうそう、そんな感じです。あの人を蹴り飛ばす気持ちで頑張ります」

「それは歪んでいると思う」

「元からです……というか、貴方たちに苛められて純真無垢でいられると思います?」

「オレは苛めてない」

「なかったことになんてしませんよ」


 卑屈さに磨きが掛かり、しぶとくなった。自分のことが嫌いで自信がない。その癖、他人からの愛だけは立派に求めている。

 ヴィンセントやレヴェリーが言うように、性格が悪くなった自覚がクロエにはある。クロエは世の中の男性が望むような、何も知らない天使ではいられなかった。


「卑怯でごめんなさい」


 あの時も何処かで試していた。

 自分の汚さを曝け出して受け入れてもらえなかったら忘れようと、逃げることばかりを考えていた。

 困らせたくない。嫌われたくない。幻滅されたくない。認めて欲しい。好かれたい。

 狡くて弱くて汚ない、本当にどうしようもないことばかりを考えている。

 素直に謝るクロエに対して、ルイスは労るように言った。


「もう良いよ。オレも悪かったんだ」

「……じゃあ、両成敗です」


 クロエはルイスを高潔な人なのだとずっと思っていた。

 その頑なさは、彼が必死で守ろうとしていた【自分】を包む鎧だった。

 不足のある存在だと分かったら、許さずにはいられなくなった。不器用さが愛しいとさえ感じてしまう。


「あの……貴方に頼みというか、希望があるんですけど言っても良いですか?」

「駄目と言っても言うんだろうから、どうぞご自由に」


 聞くだけなら害はないと判断したルイスは素っ気なく言って、クロエを見た。

 クロエは芝生の上で居住まいを正す。そして、真っ直ぐと見上げた。


「私と……その、友達に……」

「ごめん、聞こえなかった。でも聞きたくないから言わなくて良い」

「親友になることを前提に友達付き合いをして下さい……っ!」


 明らかに嫌がっていたが、押し切る。友人と認めてもらえないのならこちらから迫るしかない。そもそも、ルイスは自由に言えと許可を出したのだ。クロエが引く理由はなかった。


「私と友達になって下さい」

「腹が空いているなら、近くにアイスクリーム屋があるけど」

「私のこと何だと思ってるんです……?」


 潤びる眼差しと、友愛の告白から逃げたいルイスは、林檎と桃の蜂蜜漬けで誘導したようにアイスクリームで話を逸らそうとする。これにはクロエも頬を引き攣らせた。


「私は貴方を煮て焼いて食べたりしようなんて邪な思いはありません。ただ友達になりたいんです」

「あのさ……」

「はい」

「親友というのは友人の中でも特に親しい相手のことを言うのであって、なろうとしてなるものじゃない。大体、友人だって相互関係から成り立つものだ。勝手に名乗って良いものでもないけど、だからといって取り決めでなるものでもない。序でに邪心を抱くのは大抵男の方だ。キミが言っていることは可笑しい」

「済みません、正論ばかり言わないで下さい。傷付きます」


 いつもの調子でくどくどと論理的に説明され、クロエはむうと口を尖らせる。

 けれど、怒る気力も湧いてこず、肩が下がった。


「駄目ですか、友達……」


 クロエはルイスが何故こちらを助けてくれるのかを知りたかった。

 建前を全て取り払えばそれは、【友人だから】という言葉が欲しかったからだ。

 その言葉があれば――友人ならば、気兼ねなく傍にいることができる。

 性懲りもないクロエの心算に、ルイスは呆れ返っているだろう。今度こそ本当に嫌われたかもしれない。クロエは失意と共にしょんぼりと肩を落とす。


「友達になれば、キミは平気になるのか?」

「……平気とかそういうのじゃなくて……ただ嬉しいなって……」


 何か考えるような素振りを見せたルイスは、クロエに手を出すように言った。

 クロエは戸惑いながら恐る恐る手を伸ばす。

 ルイスは手袋を外すと、黒い衣に包まれた腕をそっと差し出した。


「……ルイス、くん?」

「宜しく、クロエさん」


 指先が触れ合ったかと思った瞬間、クロエの手は相手の掌に包まれていた。

 彼のあまりの狡さにクロエは息を呑んだ。普段はさっぱり名を呼ばない癖に、このタイミングでそうするのは卑怯だ。

 けれど、嬉しい。嬉しくないはずがない。


「それそろ行こうか」

「……は、はい!」


 クロエは手を引かれるまま立ち上がる。すると、ルイスの手は離れた。

 ただの握手だった。だが、彼が変なことをするものだから変な気持ちになる。顔を上げられない。


「展覧会はセントラルタワーだったかな」

「あと、広場で花市もやっているんです」


 新しい家で育てる花と、ヴィンセントとディアナに届ける花を見たかった。

 珍しい苗や、美しいアレンジメントがあると良い。そうして心弾ませるクロエにルイスはこんなことを言う。


「キミに何か買おうか?」


 ヴィンセントのように、こちらに似合う花でも選んでくれるというのだろうか。もしや、かの棘の多い青薔薇(ブルーヘブン)か。

 風に乱される髪を押さえながら、クロエは真意を窺おうとルイスの瞳を見る。


「クロエさんの好きな花を教えて」


 ルイスの瞳はクロエを映しながらも何処か遠いところを見ていた。

 何を見ているのだろうとぼんやりとその視線の先を辿ると、散りゆく桜の花があった。

 悼むような、惜しむような、それでいて諦めるような眼差しだ。気付くと、人形の方が人間らしいと思うほどに彼の顔からは精彩が消え、何も感じられなくなっていた。

 どくん、とクロエの心臓が大きく跳ねる。


(私は……)


 もし彼が自分自身のことを愛せないのならその分だけ――いや、それ以上に優しくしてやりたいと思う。

 おこがましいかもしれないけれど、助けになりたい。

 こんな自分では救うなんて大層なことも、雨風を凌ぐ傘になることもできないから、ただ独りで凍えてしまわないように傍にいたい。

 この感情は何なのだろう。いや、考えるまでもなく友情だ。

 そう、きっとそうだ。

 クロエは春に思いを馳せ、風に言葉を乗せた。


「私の好きな花は――――」



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 風の中に、ふと仄かに甘く爽やかな香りが漂う。

 熟れた果実のように大きく膨らんだ蕾の間に可憐な花が咲いていた。


「ほらクロエちゃん、取ってみて」


 蜜柑色の髪を風に吹かれるまま流す母が指し示す先に、白い花弁が落ちてきた。

 幼い少女は手を伸ばし、それを掴み取る。

 ふわりと舞い降りた花弁を手に掬った少女は堪えきれずにえへへ、と笑みをこぼした。


「みて、おとうさん! きれいだよ」

「ああ、綺麗だな」


 父は母の顔を見た後、少女の頭を撫でた。

 その手が優しくて、その笑みがあまりに眩しくて、少女は満面の笑みを浮かべた。


「クロエね、りんごのはながすき!」


 クロエが林檎の花を好きになったのは、きっと家族で過ごした幸せな日々の思い出があるからだ。




** 第一部 完 **

第一部完結です。

お読み下さりありがとうございます。

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