Pomme de Discorde 【2】
街の賑わいから外れる頃、陽はすっかり傾いていた。空を覆う雲が黄昏の赤や紫色に染まっている。
墓地は天使の像がある広場から北へ行った場所にある。綺麗に整えられた芝生の上に整然と墓が並び、その墓標を太陽が赤く照らしていた。
クロエはヴィンセントの背に付いて歩く。
隣を歩いたところ、使用人らしく主人の後ろを歩けと言われた。背の高いヴィンセントに付いて歩くクロエは格好も相俟って本当に小間使いのようだ。
「先客がいるようだね」
墓の前には流行の黒いフロックコートを着て、裾がレースになったクラヴァットをゆったりと結んだ十代後半ほどの少年――華奢な青年と言った方が良いかもしれない――が立っていた。
話し声に気付いたのか、少年が振り向く。目が合うとヴィンセントはにこりと微笑み掛けた。
少年は微笑み返すこともなく、無表情のまま視線を外した。
「やあ、お久し振り」
「……ヴィンセント・ローゼンハイン」
熱も冷たさもない無機質な、何の感情も籠もっていない声色が名を紡ぐ。
クロエはそっと様子を窺う。
綿毛のように柔らかそうな薄茶色の髪に、澄み渡った夜空を思わせる紫水晶の瞳。伏しがちな目を縁取る睫毛は密度がある。この少女のように繊細な顔立ちをした少年をヴィンセントは知っているようだった。
「ルイスくん、そこでそうやって待っていてもレヴェリーはこないよ」
「何故あいつはこない?」
「いつものことじゃない」
「あんたたちが甘やかすから、あのろくでなしはどんどん甘ったれた奴になるんだ……」
忌々しいと言いたげに顔を顰めるルイスは、向けどころのない怒りをぶつけるように地を睨んだ。
「あの、事情は分かりませんが、レヴィくんのこと悪く言わ――」
「何も知らないなら口を挟まないでくれるか? 鬱陶しいから、引っ込んでろ」
面倒臭げな声と共に浴びせられたその一言にクロエは口籠もる。
高くも低くもない凛とした声はこの少年にそぐうものだったが、それだけにその冴え冴えとした様が強くなっている。
全身から静かに湧き上がる怒りに狼狽えていると、ドンッと突き飛ばされた。
「――――っ」
強い衝撃ではなかったが、突然のことにクロエはバランスを崩した。
そのまま後ろに倒れる。そう覚悟したその時、ヴィンセントが咄嗟に襟を掴んでくれ事なきを得た。
「ルイスくん、女の子に当たるなんて紳士としてちょっとスマートじゃないんじゃないかな?」
「あんたにだけは言われたくないな、人でなしのヴィンセント・ローゼンハイン」
「あのさあ、僕たちに八つ当たりするくらいなら直接本人に言えば良いじゃない。それができないってことは君自身も怖いんだろう? だったら、意気地なしの癖に格好付けるなよ」
ヴィンセントは意地悪そうに笑っている。その眼差しは鈍い輝きを放つ刃のように鋭く、クロエは気圧された。
「君って自分のことばかりだよね」
声色は奇妙なほどに優しく、哀れみが籠められているようだった。
「あんたムカつくよ……。ろくでなしの莫迦野郎」
普段聞くこともないような罵倒言葉にクロエは呆気に取られる。
この一見育ちが良く、温厚そうに見える少年の口から下品な罵詈雑言が飛び出すとは誰が思うだろう。ヴィンセントから外道台詞を聞いた時のように思わず唖然とする。
「えっ、何て言った? 良く聞こえなかったんだけど……もう少しゆっくり話してくれると助かるな」
途中から何を言っているかクロエには聞き取れていなかったが、それでも分かることはある。ヴィンセントはルイスをおちょくっている。
この構図は適わないと知りながらもいつも果敢に挑み掛かるレヴェリーを彷彿させるものがあり、クロエは少年に同情する。ヴィンセントも同じことを思ってからかっているのか、途中までは異様に輝いていた。
「君はレヴィくんとは違う弄り甲斐があるよね。でも……飽きたな」
ヴィンセントは手の指先を地面の方へ向け、それをひらひらと振った。犬猫を追い払うような仕草だ。
「くたばれ」
「じゃあまたね」
罵倒をまるで風の音でも聞くように聞き流し、満面の笑みで手を振るヴィンセントは腹黒い。直接害意を向けられていなくとも胃にちくちくと痛みが感じられるのだから、その威力は途轍もないだろう。
大丈夫かな、とクロエは窺うように視線を上げる。
紫の瞳と視線が合った。だが、瞬きの後に外れていた。
ルイスはまた伏し目がちの物憂げな表情に戻り、クロエの横を通り過ぎていった。
「……嵐のような人ですね……」
墓前に残された白いカーネーションを見ながらクロエは感想をこぼした。
「可愛い顔してあんなこと言うから驚くよね。あれは僕の弟より手に負えないかな」
綺麗な顔をして外道台詞を吐くヴィンセントも人のことを言えないのでは……と言い掛けて、不思議な事実に気付く。この男にも家族がいるのだということに、今更思い至ったのだ。
「ローゼンハインさんって、弟さんいるんですね」
クロエは意外だった。
【家族】というもの自体がヴィンセントという人物と上手く繋がらない。人間なのだから血の繋がった両親や兄弟がいて当たり前なのに、何故か奇妙に思ってしまう。
ヴィンセントは生々しさがない。口数が多く、必要以上に色々なことを喋るが、自分の身の周りのことは何も語らない。生活感がないのだ。友人、恋人、家族。そういった繋がりから乖離した存在に感じられる。
「何その言い方。僕に家族がいるのがそんなに意外?」
「ご両親とかがいると言われても想像が付かなくて……」
「僕だって生き物だから産みの親はいるよ。まあ、彼等を親だとは思っていないけどね」
冷めた言葉を吐き出す唇は笑みの形に曲げられている。それは間違いなく皮肉の笑み。
底知れないものにクロエは背筋を冷やした。ヴィンセントは軽く息をつくと、歪んだ笑みを崩した。
「さて、墓参りしようか」
「そうですね。こちらなんですよね?」
百合の花を三本渡され、供えるように言われたクロエは膝を折る。その時、目に入った姓にどきりとした。
(クラインシュミット?)
ヴィンセントが百合を供える墓石にも同じ性が刻まれていた。
――アデルバート・クラインシュミット。
――エレン・クラインシュミット。
そして、その隣。
――レヴェリー・クラインシュミット。
良く知った少年の名前が刻まれていることにクロエはショックを受ける。
「ローゼンハインさん、これは何なんですか?」
「レヴェリーの義理の両親と、あの子自身の墓だよ」
「ご両親のものは分かります。でもどうしてレヴィくんのものが……」
「レヴェリーは君と似た境遇なんだ」
それはつまり、社会的に【死人】となった犠牲者ということなのだろうか。
レヴェリーは里親に引き取られてから色々あって、エルフェの元へやってきたと言っていた。一人きりだと思って寂しかったとも語っていた。それは、この世に既に存在しない【死人】だから。
クロエは胸の辺りが鈍く痛んだ。すると、ヴィンセントが慰めるように言う。
「レヴェリーも運が悪ければ土の下にいたよ。あの子とその弟は救われている方だ」
では、その【弟】はどうしているのだろう。何故、一緒に暮らしていないのだろう。
気にはなるが、本人がいないところで詮索するような真似は良くない。ヴィンセントが言葉を濁したのもきっとそうだ。
クロエは真っ直ぐにヴィンセントを見据え、訊ねた。
「ローゼンハインさんは毎年こちらにきているんですか?」
「きちゃ悪い?」
「いえ……、まめなんですね」
「【上】の連中は死んだ人間の墓参りなんてわざわざこないし、この件の担当もまともな奴じゃないし、身内はあの通り墓参りできる状態じゃないし。だったらレヴィくんの飼い主の僕がくるしかないじゃない」
飼い主などという悪ぶった言葉を使っているが、ヴィンセントは冷たい人ではないのかもしれない。
少しだけ、ほんの少しだけ見直した。
けれども。
「断っておくけど、別に情けとか同情じゃないからね。一年に一度も花が供えられない墓なんて見窄らしい。ただ僕の美意識に反するってだけだよ」
絆された瞬間、しっかりと釘を刺され、クロエは現実に返る。
(そうだよね、この人は悪い人だもの。私を殺した人なんだし……)
そんな悪人を【良い人かもしれない】などと一瞬でも勘違いした自分はやはり莫迦なのだろう。
まめな墓参りは本人が言うように美意識が許さないのだろうし、クロエを生かしているのも気紛れだ。
先ほどルイスが言ったように、ヴィンセントは人でなしでろくでなしの悪党だ。クロエはそんな彼に、ルイスと同じような罵倒を吐いても許されるだろう仕打ちを受けている。
家族、居場所、命、存在、時間、そして普通であることを奪われた。
例え賠償金を払われたところで失ったものはあまりに大きくて返ってこない。それどころか加害者は反省など微塵もしておらず、命を助けた礼を催促するような人だ。
ヴィンセントは並の悪党ではない。
物には限度というものがあり、それを越すとただ不快な産物か、呆れも嫌悪も通り越して感心できる産物になる。ヴィンセントは勿論後者である。
クロエはヴィンセントへ対しての感情は軽蔑を既に通り越して、彼のことを理解の範疇を超えた人種の違う人間だと思うことにしている。そう思ってしまえば彼の様々な言動も生暖かく感心できてしまう。
(そうだよ、ローゼンハインさんは私と違うんだから。だから、もう騙されない)
服従することを誓いはしても、心だけは絶対に許さない。
クロエが普段から知っているヴィンセントは本性を見せてはいない。きっと残酷なあちらが本性だ。演技や見せ掛けに惑わされてはいけない。分かっている。それでも。
恨み言もあれ以来、出てこない。そんな自分をクロエは情けなく思うしかなかった。
墓標の前に横たわった花が風に揺れた。
陽が沈んで風も随分冷たくなってきた。霜の月の名がある十一月ももうすぐ終わる。例年ならもう雪が降っている頃だ。
そろそろ戻りませんか。そう言おうとして見上げると、不思議な緑の眼がクロエを見下ろしていた。
「あの、ローゼンハインさん?」
「あのさ、さっきからラストネーム呼びになってるけど、身の程を弁えてくれる?」
その一言に、全身の血がざあっと冷えるような悪寒を感じる。
クロエの中でヴィンセントは線引きしておきたい人物なのか意識下では【ローゼンハインさん】なので、油断するとラストネーム呼びに戻ってしまう。
「す、済みません!」
「こういう時は謝るんじゃなくて」
「はい。かし……畏まりました……ヴィンセント、様……」
「一々怯えないでよ。僕が虐めているみたいに見えるじゃない」
「済みません……」
この三週間と少しですっかり調教されているクロエだが、その反面で怯えている。
それは毎日のようにヴィンセントが脅しているからなのだが、本人はその怯えが気に食わないらしく複雑な顔をする。
「良くできました。良い子だね」
勿忘草色の瞳がじわりと揺れるのを見たヴィンセントは流石にばつが悪いのか、クロエの髪を乱暴に撫でた。
「家族とかそういうものに夢を見るのは、恵まれた環境で育った奴だけだよ」
【クレベル】への帰り道、ヴィンセントはそんなことを言った。
「家族だからって一緒にいるのが当たり前という訳ではないということは君も知っているよね?」
「でも、一緒にいることが一番じゃないでしょうか」
クロエにもあたたかくて平凡な家庭への夢というものはあり、できることなら家族は共に暮らすのが一番だという思いがあった。
「そうかな。夫婦だって所詮他人だし、親子だって簡単に縁を分かつことができる。そんな薄っぺらいものが共に暮らすなんて何故だろう。何か利益でもあるからとか?」
「あの、利益とかそういうことではなくて……愛と言いますか……」
「愛? 虫酸が走る言葉だね」
神が人類に平等に注ぐ愛だとか、母が子供へ向ける愛だとか。そういったものはヴィンセントに伝わらない。
クロエも愛というものを語れるほど恵まれた育ちをした訳ではない。
それでも一銭の金にならなくとも自分たちを愛し、守ってくれた施設の先生の優しさは知っている。恐らく、そういったあたたかいものが愛なのだとクロエは思う。
「ヴィンセント様は尊敬する人とか、好きな人はいらっしゃらないんですか?」
「エルフェさんとか、レヴィくんとか、ルイスくんとか、メイフィールドさんは好きだけど?」
「それは好みの話ですよね。主にからかい甲斐があるとかいう」
「うわ、凄いね、メイフィールドさん。人の心が読めるなんて神通力を持っているみたいだ。尊敬するよ」
(莫迦にされてる。すっごく莫迦にされてる)
恨みがましい目で見上げる。頭一つ分ほど上にある表情は笑顔だ。ヴィンセントは喉を鳴らして笑っていた。
やはり、この人は腹の底が見えない。にこやかな笑顔の下で何を考えているのか、クロエはさっぱり分からない。
いつでも浮かべられる笑顔というものはある意味、完璧な無表情に匹敵する。
悪気なく人の地雷を踏んで、笑いながらかわしてしまう。同じ笑顔で事も無げに恐ろしいことを吐く。機嫌が悪い時は近寄っただけで暴言を吐かれるし、機嫌が良い時は頭を撫でてきたりもする。ヴィンセントの深層部には天使と悪魔が同居しているのではないかと、本当に思う。
笑い過ぎて涙目になったらしいヴィンセントは涙を拭う動作をすると、一度咳払いをした。
「そんな尊敬できるメイフィールドさんに一つ忠告してあげよう。これから生きていく上で必要以上に傷付きたくないなら覚えておきなよ。親兄弟だからこそ争うことなんて世間ではざらにある。所詮、人は自分可愛いんだ。だから他人へ期待や信頼は止めた方が良い」
傷付きたくないならと言うが、存在を消され人生を奪われる以上の嘆きはもうないだろう。
有り難い忠告もクロエの耳からはさらさらと流れていってしまう。
「ヴィンセント様は沢山の人を見てきたように言いますね」
「人間なんて、いつの時代もそういうものじゃない」
十八年しか生きていないクロエは分からない。それに【いつの時代も】と語るヴィンセントも、二十年程度生きているだけのように見えるのだがどうなのか。
(それとも三十年くらい生きていたりするの?)
実は若作りなだけで三、四十年生きていたりするのかもしれない。何といったってヴィンセントだ。世間一般の常識に当て嵌らない可能は充分にある。
「ねえ、メイフィールドさん。みっともない顔して何考えてるの? 脱走計画とか?」
「い、いえ、私は何も考えていませんよ! お幾つなのかとかそんなことは……」
「へえ、僕の年齢が知りたいんだ。男に年を聞くなんて失礼な娘だね」
「そ……それは女性が言うことでは……」
「うるさいよ?」
笑顔で凄まれてしまい、クロエは心が冷たくなる。
「まあ、良いや。特別教えてあげる。二十三だよ。君よりも年下」
「はあ、そうですか」
ならば、十年前に会ったヴィンセントは十三歳だったというのか。
嘘だ、とクロエは思う。十三の少年が十八のクロエを見下すほどに背の高さがある訳がない。どう少なく見積もってもあの時の彼は十代後半だ。
やはりヴィンセントは分からない。自分は本当に何かに化かされているのではないだろうかと心配になる。
憂鬱な溜め息をつきながら空を見上げると、群青色のキャンバスに銀色の弓張り月が浮かんでいた。
夏ならばまだ太陽が眩しい時間なのに、この暗さ。雪は降らないがやはり冬だ。来月になればこのセントラルパーク周辺もノエルの飾り付けがされるだろう。【Jardin Secret】でも飾り付けをしようかという話が出ていた。こういう時に盛り上がるのはレヴェリーだ。
(レヴィくん、帰っているよね……?)
あの時、蒼白な顔をして立ち去ったレヴェリーが心配だった。
この寒さだ。ろくな上着も着ていなかったので、遅くまで出歩いていては風邪を引いてしまうかもしれない。
「今日の夕食って何作るの?」
「シチューにしようかと思っていましたけど」
「シチューか。だったらキャセロールにしてくれない?」
クロエの料理に期待をしていないヴィンセントが何かをリクエストするとは珍しい。
「でしたら、パスタとチーズを買い足さないといけないので、買い物をしていっても良いですか?」
「良いよ。荷物持ちくらいなら手伝ってあげる」
丁度、いつも利用しているショップはすぐ傍だった。
「あ、そうだ。デザートにストロベリーアイスクリームを忘れないでね。レヴィくんが好きだからさ」
落ち込んでいる子供には好物を与えるのが一番だとヴィンセントは語る。
意外な答えにクロエはぽかんとする。
(チーズとパスタもレヴィくんの好物だっけ)
料理に文句を付けるヴィンセントがリクエストなど珍しいと思ったらそういうことか。
それにしても意外だ。ヴィンセントにそのような他人を慮る心があったとは。悪党かと思っていたが、見直した。
幾度悪い人だと思おうとしても油断するとまた信用しそうになるクロエ。そんな騙され易くて危なっかしい少女の様子にヴィンセントはやれやれと肩を竦める。そして、しっかりと釘を刺した。
「別に心配とかしている訳じゃないからね。視界の端でうだうだ落ち込んでいられると目障りだし、だからといって片付けるのは解体したり埋めたりで労力が掛かるから面倒だし。大体しみったれた顔して、からかい甲斐もないレヴィくんなんて存在価値もないじゃない」
みるみるうちに蒼白になるクロエの顔を見て、天使の顔をした悪魔はにっこりと微笑むのだった。