第9話
八月の夏祭りの日、庄吉は父から二十銭の小遣いをもらった。普段は贅沢の「ぜ」の字も許さぬ善三も、この日ばかりは毎年わずかな小遣いをくれるのだった。しかも、毎年十銭だった小遣いが、今年は二十銭に上がっていた。庄吉は、普段は決して食べることのできない甘い飴や、赤や青の綺麗な色をした水のことを考えると、ただそれだけでじっとしていられぬ心持ちになった。
夕方になると、約束通り鉄男が迎えにやってきた。庄吉が十銭白銅貨を二枚握りしめて土間へ出ると、そこにはいつもの一張羅を着た鉄男と、沙那子が並んで立っていた。いつものモンペ姿とは違い、髪を上げて少し短い紺の浴衣を身にまとった沙那子の凛とした美しさは、とても高等科二年の少女には見えなかった。鎮守へ向かう道を三人は肩を並べて歩いたが、一番背の低い庄吉は、鉄男が真ん中になるよう、細心の注意を払った。鎮守に近づき、遠くから華やかな屋台の明かりが見えると、もう三人とも歩いていられなくなり、誰ともなく走り出した。走りながら庄吉が笑って沙那子を見ると、沙那子も庄吉を見て笑っていた。
境内では、カルメ焼きやべっ甲飴の甘い香りや、串かつのソースの匂いが、裸電球の強烈な黄色い灯とあいまって、祭り独特の雰囲気をかもし出していた。庄吉は桃太郎のお面や、金魚すくいなどには目もくれず、今年こそはあの赤い水を飲んでみようと思った。毎年ここへ来る度にそう思うのだが、母の「あんな得体の知れぬものを飲んだら腹を壊すに決まっている」という忠告に打ち勝つことができず、或いは、たった一杯で十銭を使い果たすという冒険に挑む勇気が持てず、結局その決心が行動に移されることはなかった。
そこでは赤い水と青い水がまるで噴水のようにガラスの入れ物の中に吹き出していて、庄吉はまるで何かに憑かれたようにその様子に見入っていた。
「庄ちゃん、あれ買うんか?」
「あ、ああ」
庄吉は意を決したように握りしめていた左手を開いて、穴のあいた十銭白銅貨を右手で摘み、それをねじり鉢巻きをした赤ら顔の額のてかてかした男に差し出した。
「赤いのか青いのかどっちだ?」
男の声に、庄吉は沙那子と鉄男の顔をかわるがわる見たが、二人ともそんな大それた事には口をはさむことすらはばかられるとでも言いたげに、ただ息を呑むようにして庄吉を見つめているだけだった。「赤い方」と庄吉が答えると、男は紙コップを取り出し、容器の下についているコックを開けて、コップの八分目まで赤い水を入れた。庄吉はそれを両手で受け取ると、境内の隅へ歩いて行った。「飲むか?」と言うように、庄吉は、沙那子にコップを勧めたが、沙那子は両手を胸の前で開き、後ずさりした。鉄男にも同様にしたが、反応は同じだった。庄吉はまず匂いを嗅いでみた。何か今までに嗅いだ事もないような甘酸っぱい匂いがする。そして恐る恐る一口含んでゴクンと飲み込んだ。
「甘え!なんて甘えんだ!」
庄吉がもう一度勧めると、今度は鉄男も躊躇せず、赤い液体を口に含んだ。
「甘え!姉ちゃんも飲んでみろ!」
こうして三人は一口飲むごとに「甘え!」「甘い!」「うめえ!」「おいしい!」を連呼し、飲み終わった後に沙那子が、「庄ちゃんのべろ真っ赤だよ」と言うと、三人はべろを出してお互いの舌の赤さ加減を比べ合った。何かもう、おかしくておかしくて、三人とも狂ったように笑った。庄吉は、自分が持ってきたわずかな金で沙那子がこんなに楽しそうにしていることが嬉しくて仕方なかった。
残りの十銭では、十本一束で売っている鉛筆を買って三人で分けた。それは、製造過程ではじかれた不良品で、塗料が塗られていない白木の鉛筆だった。庄吉は少しも欲しくなかったのだが、鉄男が屋台の前でじっと見ていたから、つい鉄男の喜ぶ顔が見たくて、自分が欲しかったふりをして買ったのだ。
「庄ちゃん、ホントにいいんか?すまんのう。すまんのう」
鉄男は三本の鉛筆を両手で握りしめながら嬉しそうにそう言った。
三人が満ち足りた気分で境内を出ようと歩いていると、前から酒井柏太郎が十人もの取り巻きを従えてやってきた。柏太郎は鉄男の家に程近い、高村財閥とは違うもう一つの財閥の次男坊で、町の中学校に通っていた。沙那子とは同い年になる。鉄男の家は小作のいわゆる「水呑み百姓」で、酒井家から一町程の水田を借りて生計を立てていた。
「おう、鉄男じゃないか。沙那子も一緒か。お前ら小作の子がこんなとこ来て何か買う金持ってるのか?なんじゃそれ、見せてみろ」
柏太郎はそういうと、鉄男の持っていた鉛筆を無理矢理取り上げた。
「返してくれよ、柏太郎さん」
鉄男がそう言うと、
「返してくれよー柏太郎さん」
柏太郎はおどけた調子でそう言って、鉄男を挑発した。こぶしを固く握ってうつむいている鉄男を見て、今度は庄吉が言った。
「柏太郎さん、返してやってくれ」
二級下の庄吉だが、庄吉の武勇伝は村でも伝説になっている。柏太郎は少し怯んで、鉛筆を鉄男に返した。しかし、気が収まらなかったのだろう。
「そういえば、今日、鉄男の父ちゃんがうちに来とったな。どうせまた借金のことだろう。お前の父ちゃんは、お前の家ではちょっとは偉そうにしてるのか?うちの父ちゃんに金を借りに来るときはまるで猫のタマみたいに父ちゃんに擦り寄って来るて」
柏太郎がそう言うがはやいか、庄吉は柏太郎に踊りかかっていた。
庄吉は柏太郎に足をからめて倒し、馬乗りになってこれでもかというくらいに柏太郎の顔を殴りつけた。バチンバチンと鈍い音が辺りに響いた。柏太郎の顔も庄吉のこぶしも柏太郎の鼻血で血だらけになると、鉄男が、
「庄ちゃん、もうよせ。それ以上やると取り返しのつかんことになるて」
と言って庄吉をおさえた。庄吉は肩で息をしながら鉄男の手を振りほどき、柏太郎から身体を離すと、ふらふらした足どりで境内を後にした。