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第8話

 貧しい岡崎家の暮らしぶりでも、庄吉は弁当に白い米の飯を持っていくことができ、稗飯の弁当しか持ってこられない小作農の子どもたちからはいつも、

「いいなあ、庄ちゃんは。白い飯、一口食わしてくんねえか?」

 とうらやましがられた。男気のある庄吉は、その度に気前よく飯を友達に分けてやったし、けんかも強かったので、集落内はもちろん、村でも、「村上の庄」といえばその名を知らぬ者はいないくらいのガキ大将ぶりだった。庄吉は、自分の集落の仲間が、他の集落の子どもにひどい目にあわされたなどという話を聞けば、必ず仕返しに出向き、相手をこてんぱんにやっつけた。そして、その相手が降参した後、今度は隣村の者にその相手がやられたと聞けば、今度は隣村まで仕返しに行った。こうして、庄吉の歩く後ろには、いつもぞろぞろと十人ほどの子どもたちがつき従い、彼らはみな、庄吉が提案する遊びを嬉々として受け入れ、一緒に遊ぶことを好んだ。

 その日も学校が終わり、いつもの道を歩いていると、同級(尋常小学校六年)の三郎が庄吉に話しかけてきた。

「庄ちゃん、今日は何する?兵隊ごっこか?」

 兵隊ごっこで日本の指揮官をやるのはいつも庄吉と決まっている。庄吉はいつもロシアやシナの役割を果たす小さい子らのことを思うとあまり気乗りがしなかった。

「今日は兵隊ごっこはやらん。高村財閥の家の犬を退治しに行く」

 三郎は目の玉が飛び出るような表情をして、

「庄ちゃん、あっけなバカでかい秋田犬を退治するのか?」

「ああ、あいつ、前にオレが近くを通ったらすごい勢いで吠えやがった」

「庄ちゃん、でも、いったいどうやってやっつけんだ?いつかの猫とは話が違うだろう?それに高村財閥の犬を殺したらただじゃ済まねえぞ」

 同じく同級の鉄男が口をはさんだ。こういうときに口をはさめるのは同級の子どもだけだ。三郎の弟や鉄男の弟や、その他の年下の子どもたちはみんな固唾をのんで三人の様子をうかがっている。

「何も殺すなんていってねえ。綱引きやるんだ。あいつと」

「綱引き?」

「そうさ。あいつに縄をくわえさせておれたちみんなで引くんだ。それであいつを門のとこまで引きずり出したらオレたちの勝ちだ」

「そりゃ、面白そうじゃ!のう、みんな!」

 三郎が叫ぶと、みんな瞳をきらきら輝かせ、真っ赤に上気した顔でうなずいた。

 子どもたちの歩く道の右手は小さな山になっていて、そのふもとには数軒の農家が点在しており、左手は見渡す限りの水田だった。しかし、三十センチほどに育ったイネが風に吹かれて揺れる緑一色の風景が、少年たちの心を動かすというようなことはない。彼らはただ高村財閥の屋敷を目指して黙々と歩いた。途中、鉄男が、「あいつ喰いつかねえかなあ」と心配げに言ったが、それに答える者は誰もいなかった。

 高村財閥の屋敷は、破間川あぶるまがわにかかる橋を渡った少し先の高台にあった。財閥と呼ばれる家は村に二つあったが、高村財閥は室町時代からの名家で、当時は銀行まで所有している豪農だった。大きな門は開け放たれていたが、門を入ったすぐ右側に、子牛ほどもある大きな秋田犬が番をしており、庄吉は門を入ると、道すがら拾ってきた五メートル程の縄をその犬に向かって投げた。寝そべっていた秋田犬は思わぬ遊び相手の出現に跳ね起き、縄の端をくわえて引っ張った。

「そらみんな、引っ張れや!」

 庄吉がそう叫ぶと、皆、

「おう!」

 とばかり引っ張った。一番前はもちろん庄吉で、その後に鉄男、三郎と続いている。

「わっしょい、わっしょい」

 十人ばかりの子どもたちは掛け声をかけて縄を引いた。これにはさすがの大犬も、じりじりと前へ引きずり出されるしかなかった。

「みんな、もうちょっとだぞ、頑張れ!」

 庄吉がそう言った時、「ぐぅぅ」と唸った秋田犬の鎖が、なぜかカチャリと外れて地面に落ちた。犬はまだそれに気づかず、必死に引っ張っている。

「おい、みんな、鎖が外れたぞ、逃げろ!」

 庄吉がそう言うや否や、みんなは縄を捨てて走り出した。庄吉は、みんなが逃げ切るまではと一人で頑張ったが、とても一人でかなう相手ではない。ついに庄吉も縄を放して逃げ出した。秋田犬はすごい勢いで追いかけてくる。庄吉に追い付いては、庄吉の尻の辺りを「ウウウ」と唸りながら喰いつこうとするのだが、庄吉は走りながら何とかそれをかわしていた。しかし、ついに秋田犬の鋭い牙が庄吉の尻の肉をとらえ、着物ごと肉片をひきちぎった。秋田犬はそれを狂ったように振り回し、その肉片を食うことに夢中になった。

 橋を渡ったところで、みんなが庄吉を待っていた。

「大丈夫か?庄ちゃん。うわぁ、どうしたんだ、そのけつっぺた!血で真っ赤じゃねえか!」

 興奮した三郎がそう叫ぶとみんな庄吉の尻の辺りを見た。庄吉も右手で尻の辺りを触ってみたが、ひどい痛さだった。

「大変だ!肉が見えてるぞ!医者だ医者だ!」

「待て待て、そんなことしたら、このことがばれて大変なことになる。医者には行けん」

庄吉が三郎にそう言うと、鉄男が、

「そんじゃあ、うちに来い。姉ちゃんがいるからなんとかなるて」

 と言った。

 鉄男には二つ年上の姉がいた。当時は高等科二年で、頭の出来がよく、家にもう少し金があれば高等女学校にもいけただろうにと、皆から惜しまれていた。おまけに村一番の美人で、庄吉は密かに憧れていたのだった。

「鉄男の姉ちゃんはダメだ」

 庄吉は自分の尻を見られるのが恥ずかしかった。

「なんでだ?ばい菌でも入って倦んだりしたら大事だぞ」

 気の弱い三郎が言う。結局、庄吉以外全員の意見の一致によって、みんなで鉄男の家へ行くことになった。

 鉄男の家に着き、鉄男が「姉ちゃん、姉ちゃん」と大きな声で呼ぶと、奥から姉の沙那子が姿を見せた。

「どうしたのみんな。何かあったの?」

 沙那子が土間にひしめく子どもたちを見ながら誰ともなく尋ねると、男の子たちは皆、沙那子の真っ白な肌に気圧されたように何も言えなくなり、庄吉でさえ、何かもじもじとしてしまうのだった。何も塗っていないのが信じられないくらいに赤く見える唇に目がいくと、庄吉は衿のあたりまで顔を赤くした。

「姉ちゃん、庄ちゃんのここみてみろ」

 そう言って、鉄男が庄吉の尻の辺りをゆび指すと、沙那子はびっくりして、

「どうしたの庄ちゃん!何でこんなになったの?」

 と言った。

何も言えず黙っている庄吉に代わって三郎が、

「高村財閥の犬に喰いつかれたんだ」

と興奮した様子で答えた。

「高村さまの犬に?」

「ああ、あのでっけえ犬と綱引きしてたら鎖がはずれて、なあ、みんな!」

三郎がそう呼びかけると、みんな沙那子を見て頷いた。

「もう、何てことを。さあ早く上がって。私によく見せて」

沙那子がそう言うと、庄吉は何も言わずに上がりがまちに上がったが、一緒に上がるつもりでいるみんなには、

「みんなはここで帰れ」

 と言った。

 みんなは、何か立ち去りがたいようだったが、結局渋々と家を出て行った。 鉄男は、

「オレ、もう少しみんなと遊んでくっから」

と言うと「待ってくれえ」といいながら外へ飛び出して行った。

「庄ちゃん、そこにうつぶせになってくれる?」

 庄吉は何も言わず沙那子の言うとおりにした。沙那子は桶に水を汲んでくると傷口をていねいに洗い始めた。

「庄ちゃん、危ないことしないでね。ほら、前に庄ちゃんが私を蝮から守ってくれたことがあったでしょう。あの時、怖かったあ。私、庄ちゃん、死んでしまうかと思ったんだよ」

 沙那子と庄吉の家の墓は、どちらも庄吉の家の裏山の斜面を削ったところにあった。二年前、沙那子は墓参りに行ったときに、墓の脇の草むらに蝮が潜んでいたことに全く気づかず、そこに偶然やってきた庄吉が沙那子を遠ざけようとした瞬間に足を噛まれたのだ。庄吉は、すぐに帯をほどいて足のつけねを固く縛り、自力で墓の下までたどりついた。そこには既に沙那子が呼んできた大人達が集まっていて、庄吉は、沙那子の父親の引く大八車で街の病院まで運ばれた。庄吉は、だんだん薄れていく意識の中で、自分を覗き込む沙那子の美しい顔を眺めながら、「このまま死ぬのも悪くない」と思った。死ぬのは怖かったが、もし死ねば、それは名誉の死となる。沙那子もきっと自分のことを一生忘れないだろう。父も母もさぞかし鼻が高いに違いない。学もなく何のとりえもない自分がそのような栄誉を受けられる機会は、これを逃せばもう二度とないだろう。そう考えると、ここで死ぬことは、一石二鳥どころか三鳥かも四鳥かもわからんと、急におかしくなってニヤついた。すると、沙那子は、いよいよ庄吉が蝮の毒に侵されて気がおかしくなってしまったのだろうと思い、庄吉の名を呼びながら、より一層顔を寄せた。庄吉は、何とも言えぬ沙那子の甘い匂いを感じ、ついにケタケタと笑い出したのだった。

「あの時、庄ちゃんが助けてくれなかったら、私、死んでたかもしれないものね」

 庄吉はあの時の記憶をたどり、恍惚とした気持ちで沙那子の声を聞いていた。しかし、自分が沙那子より二つも年下であるという現実はどうやっても動かし難く、その現実にぶつかると、いつも庄吉は暗い気持ちになった。

 沙那子が薬を傷口に塗ると、あまりの痛さに庄吉は少し声を漏らした。そして、きれいなさらしを傷口にあて終わると、

「庄ちゃん、着物は鉄男のを着ていって」

 と言う沙那子の声に振り返りもせず、庄吉はただ、

「ありがとう」

 とだけ言って鉄男の家を飛び出した。

 夕暮れの水田は真っ赤に染まり、夕日を背にして農作業から帰る大人たちの黒い影があちこちのあぜ道に見えた。庄吉はその中の誰とも目が合わぬように全力で走った。



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