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第7話

 物置の陰に身を潜め、じっと鶏小屋の入り口を見張っていると、一匹の三毛猫が何処からともなく現れた。三毛猫は屈むようにしてしばらく上を見つめていたが、小さく足踏みするような動作をしたかと思うと、音もなくぴょんと飛び上がって、ゆうに一間半はあろうかと思われる軒の上にあっという間に上ってしまった。その後、三毛猫はその軒からさらに半間程上にあるトタンの裂け目へと姿を消した。

「あんなところから入っていやがったのか」

 庄吉は小さな声で呟き、傍らに置いてあった棒を手にして、足音をたてぬように鶏小屋へ近づいた。ここ数日、家の鶏が何者かに襲われ続け、父の善三から、

「お前が鶏小屋にきちんと鍵をかけないからだ」

 とひどく叱られていたのだ。庄吉は自分の無実を主張したが、息子の言い訳に耳を貸す善三ではない。庄吉は、もはや自分の手で真実を突き止めるしかないと、暇さえあればその日のように物置の陰に潜んで、犯人がやってくるのをじっと待っていたのだ。

 庄吉はまず、鶏小屋に梯子をかけ、静かに登ると、三毛猫が入っていった隙間を板で塞いだ。その後、梯子を下り、鶏小屋の鍵を開け、静かに中へ入った。小屋の中をさっと見渡した庄吉は、一羽の鶏に狙いを定めながらも、不意の侵入者に戸惑っている三毛猫を見つけた。庄吉は一瞬たりとも三毛猫から目をそらさず、一歩一歩近づいていった。身の危険を感じた三毛猫はすぐさま来た道を引き返そうと二階に上がったが、もう逃げ道は塞がれている。庄吉は梯子を登り、三毛猫の正面に立ちはだかった。逃げ場を失った三毛猫は背を丸くして「フー!」と庄吉を威嚇した。庄吉は三毛猫の目を見据え、頭部に狙いを定めて一気に棒を振り下ろした。

 庄吉が仕留めた獲物を表でさばいていると、同級の鉄男と三郎がやってきた。二人ともつぎはぎだらけの着物姿だ。その頃はズボンをはく子どもも見かけるようになったが、貧しい家の子はまだほとんどが着物だった。

「庄ちゃん、何してるんだ?何だそれ?」

「おお、鉄男か。こいつはウチの鶏を二羽も喰った猫だ。こいつのお陰でオレは父ちゃんからこっぴどく叱られたんだ。だけど今日やっと仕留めた」

「庄ちゃん、猫食うのか?気持ちわりい。たたられてもしらんぞ」

 恐ろしげな顔をして三郎が言う。

「オレは生まれてから一度も肉を食ったことがねえ。どうしてもいっぺん食ってみてえんだ。お前たちも食わねえか?」

 庄吉はそういいながら鍋に肉をどんどん放り投げていく。それを見た鉄男と三郎は顔を見合わせると、奇声をあげながらどこかへ走って行ってしまった。庄吉は鍋を土間に持ち込み、白菜を切って入れてから釜戸に火をつけた。鍋がぐつぐつ煮えたぎり、味噌で味つけをしていると、鉄男たちが再びやってきた。

「庄ちゃん、えらくいい匂いがするのう。やっぱりオレたちにも少し食わしてくれんか?」

 結局三人とも「旨い旨い」「猫がこんなに旨いとは知らんかった」などと言いながら、全て平らげてしまった。


 岡崎庄吉は、昭和三年に新潟にある村上という小さな集落の農家の三男として生まれた。彼の父、岡崎善三は、貧しい小作農の生まれで、若い時、庄吉の母である岡崎ヨシイのもとへ婿に入った。ヨシイは結婚の際、ほんのわずかではあるが田を分け与えられ分家したので、岡崎家はまがりなりにも自作農のはしくれだった。田の広さはわずか六反ほどで、父母と兄弟六人が食べ、余った米を売って生活するにはぎりぎりだったといえる。

 庄吉が尋常小学校五年生の時、四つ年上の次男の洪作が北海道で水産業を営む家に奉公へ出ることになった。庄吉の家には、上から、長男の秀太郎、次男の洪作、長女のタエ、三男の庄吉、四男の志郎、五男の啓介と合計六人の子どもがいる。自作農とはいっても、将来長男以外の子どもたちに分け与える田は無く、みなそれぞれ自分の食いぶちを稼ぐ術を身に付けなければならなかった。

 洪作が家を出る日には、家族七人で洪作を小出の駅まで見送りに行った。母のヨシイは洪作に弁当とわずかの金を持たせて、「身体に気をつけてな」と涙ぐみながら言った。

 洪作が北海道へ旅立ってから数ヶ月が過ぎたが、洪作からの便りはなかった。「便りの無いのが良い便り」というのが母の口癖になった年の暮れも近いある日、ついに待ちに待った洪作からの手紙が来た。その時、父の善三は留守だったが、母のヨシイを中心に、字の読めない弟たちも含めた五人の兄弟が頭をぶつけるようにして、その手紙を覗き込んだ。


 お父さんお母さん、お元気ですか。新潟はもう深い雪でしょうね。こちらはとても寒いです。新潟とはくらべものにならないくらい寒いです。外に出ると顔が痛いほどです。

 でも、僕は畳にも布団にも寝かせてもらえません。土間を上がって少し入った板の間に薄い毛布にくるまって寝ています。朝は四時に起きて、夜は十時まで働くので本当は疲れていて眠いのですが、あまりに寒くて眠れません。こちらへ来るときに足袋を持ってきていたらなあと後悔しています。あの時は暑かったのでそんなこと考えもしなかったし、足袋くらいこちらでもいただけるだろうと思っていたのですが、僕は今でも裸足です。

 でも一番つらいのは飯です。飯は朝飯と夕飯の二回ですが、旦那様の家族と一緒に食べたことは一度もありません。僕は飼い犬のゴンと一緒に、ゴンと同じ飯を食べます。お代わりはできません。僕は毎日腹が減って腹が減って仕方がありません。でもたまにゴンが飯を残すことがあるので、そのときはゴンの飯を食べます。そういうときはとても嬉しいです。お母さん、お願いです。僕に足袋を一足送って下さい。そうすれば夜もきっと眠れると思います。

                                    洪作


 最初は声を出して読んでいたヨシイもだんだん声が小さくなり、ついには涙につまって、声が出なくなってしまった。字の読めない一年生の志郎が庄吉に、

「兄ちゃん、なんて書いてあるんだ?」

 と聞くので、庄吉は、

「洪作兄ちゃんは、犬の残した飯を食ってると」

 と訳も良くわからずに答えた。志郎は、

「兄ちゃん、そりゃ逆じゃろう?」

 と言うのだが、何度読み返しても洪作の手紙にはそう書いてある。庄吉は、

「間違いないて」

 と志郎に言い聞かせた。納得できない志郎は、ヨシイと同じように暗い顔をしているタエにも同じ質問を浴びせたが、タエはただ、

「洪作は大変な暮らしをしているんだよ」

 としか答えなかった。

(犬の残した飯を食うとはどういうことだろうか)

 庄吉の頭からは、そのことがどうしても離れなかった。自分だったら、たとえ飢え死しても、犬の残した飯なんぞは食わない。それは、武士が飯を食う為に刀を売るようなものだ。確かに洪作は苦労しているのだろうが、庄吉は洪作の不甲斐なさにがっかりした。いつも自分には偉そうなことを言っていたのに犬の残した飯を食うなんて、洪作は男としての誇りを失ってしまったのではないかと思った。

 夕方、善三が帰ってくると、ヨシイは洪作からの手紙を善三に渡した。善三が手紙を読んでいる間、庄吉は善三の表情の変化を少しも見逃すまいと、飯を食うふりをして、ずっと様子を伺っていた。庄吉は善三が、

「何を甘えたことを言っているのだ」

 と一喝するのを密かに期待していたが、意外にも善三は手紙を読み終えると、ヨシイに、

「すぐに洪作に足袋を送ってやれ。それから後のことは気にしないでいいから、すぐに帰って来るように手紙を書いてやれ」

 と言った。ヨシイは涙ぐみながら、

「わかりました」

 と答え、善三に深く頭を下げた。庄吉は今まで何度善三に叩かれたかわからない目の前の火箸を見ながら、兄の不甲斐なさに腹を立てない父に納得がいかなかった。

「父ちゃん、犬の食い残した飯を食うなんて、兄ちゃん、情けねえと思わねえか?」

「お前はこの手紙を読んだのか?」

 父の険しい表情を見た庄吉は、その場に直立した。

「読みました」

「お前はどうして洪作のことを情けないと思うのか」

「兄ちゃんは犬が飯を残したときは嬉しいと書いていたけど、人間が犬の残した飯を喜んで食うなんて、何ていうか、やっぱり情けないと思います」

「お前が洪作だったらどうする」

「オレならたとえ飢え死にしても、犬の残した飯なんか食わないし、食ったとしても嬉しいなんて思いません」

 善三がしばらく考えている間、庄吉には柱時計のカチカチという音が、やけに大きく聞こえた。やがて「ぼーん」と一つ、七時半を知らせる音が部屋に響き渡ると、善三は、我に返ったように言った。

「お前は本当に死んでも犬の残した飯は食わんかもしれんが、洪作がそんな目にあっているのはみんな俺に力がないからだ。洪作が今北海道で受けている仕打ちは、本来俺が受けるべきものなのに、洪作は俺の身代わりになって我慢してくれている。お前が情けなく思うのは俺であって洪作じゃない」

 予期せぬ父の言葉に庄吉は戸惑った。庄吉は父がその場で烈火の如く怒り出し、目の前の火箸で叩かれるか、物置に閉じ込められるかのどちらかだと思っていたのだ。それを覚悟の上で洪作の情けなさを訴えたのに、父はそれを自分のせいだと言った。庄吉にはそれが衝撃だった。

「庄吉、貧乏というのは情けないものだな。お前はたくさん勉強して貧乏になるなよ」

 善三は庄吉を見ずに、静かに独り言を言うように呟いた。

「父ちゃん、貧乏は悪いことか?」

「いや、誰だって好き好んで貧乏になるわけじゃない。朝から晩まで一生懸命働いたって貧乏な家に生まれたら一生貧乏なんだ」

「鉄男んとこみたいにか?」

「まあそうだ。しかし、ウチだって鉄男んとことそれほど違う訳じゃない。どんなに頑張ったって貧乏から抜け出せないのなら、それはその人のせいじゃないだろう。だがなあ、やっぱり親には子どもよりは責任がある。子どもには何もできないんだからなあ」

 鬼よりも恐ろしいと思っていた父親の善三がそう言うのを聞いて、庄吉は何か父がかわいそうになってしまった。

「オレはいつか金持ちになってみせる。それでみんなに楽をさせてみせるぞ、父ちゃん」庄吉が興奮した様子でそう言うと、

「そうだなあ。そうなってくれればそれほどいいことはないなあ」

父は優しく目を細めてそう答えた。



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