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第5話

 彼女はぺこりと頭を下げ、

「あの、この前はどうもありがとうございました」

と言った。

 あどけない笑顔だった。僕は、その笑顔にたじろいだ。一瞬どう答えて良いのかわからなかった。

「ああ、いえ」

「今からお昼ですか?」

「あ、はい」

「あの、ご迷惑でなければ隣に座ってもいいですか?」

 僕は、曖昧な返事を繰り返し、コーヒーを自分の右脇から左脇へ移動させた。彼女はそれまでコーヒーが置いてあった場所に座り、僕は、中途半端にセロハンを剥がしたサンドイッチを左手に持ちながら、まごついていた。

「あ、どうぞ、気にしないで食べて下さい。でも、私が見ていたら食べづらいですよね。私も何か買ってきます」

 彼女はそう言うと、売店へ走り、クリームパンと牛乳を買って戻ってきた。

「好きなんです。クリームパン。あと、牛乳も。すごく合うでしょう」

そう言いながら彼女はクリームパンをおいしそうに食べ始めた。ちぎったりしないで、ぱくぱくと食べていくのは、見ていてとても気持ちが良かった。僕もサンドイッチを頬張ると、彼女は幸せそうに目を細めて、

「おいしいです」

 と言った。

 三年もの間、人と一緒に食事はおろか会話をしたことなどなかった僕は、なんだかそれだけで胸が一杯になってしまい、空腹感なんてどこかへいってしまった。しかし、僕は、何も言わず、心の動揺を悟られぬように、味もわからないサンドイッチをただ機械的に食べ続けた。それとは逆に、彼女は、本当においしそうにクリームパンを食べた。少しの間、彼女も僕も何も喋らなかった。二人の間に何かとても静かで不思議な時間が流れた。でも、彼女はそれを不思議だなんて思わなかっただろう。彼女にとって、あの時間の流れ方は、きっと自然だったのだ。

 僕がサンドイッチを食べ終わって、コーヒーをすすると、彼女は、

「この公園、よく来るんですか?」

 と言った。

「そうですね。良く来ます」

「実は、時々お見かけしてたんです。好きなんですか?ここ」

「そうですね。コーヒーがおいしいから」

「そうですか。私も好きです。コーヒー。あの、私、街村岬と言います」

「あ、桐野です。桐野光二」

「桐野さん・・・ですか。あの時は、桐野さんがいてくれて本当に助かりました」

「いえ、大したことじゃないです」

 あの時の凄惨な光景が頭をよぎった。彼女は微笑みながら、短い髪を手でとかしていた。

「あのおじいさんは?」

「あ、今は休憩時間なんです」

「君は、ホームヘルパーさん?」

「いえ、ボランティアです。まだ高二なので」

「そうですか。あのおじいさんは元気ですか?」

「・・・いえ、あんまり・・・」

「具合、悪いんですか?」

「はい・・・」

「あの、変なこと聞くようだけど、あの人から戦争の話を聞いたこととかありますか?」

「いえ、ありません。どうしてですか?」

「いや、それならいいんです。すいません。変なこと聞いてしまって」

「あの、何でもいいから聞かせてもらえませんか。もしかしたら、手がかりになるかもしれないし」

 彼女の表情から微笑が消えた。

「手がかりって、何のですか?」

「実は・・・庄吉さん、あ、あのおじいさん、庄吉さんていうんです。岡崎庄吉さん。庄吉さん、初めて私と会ったとき、私を見て泣いたんです。最初は驚いたような表情だったんですけど、みるみるうちに目が潤んできて。どうしたんですかって聞いてもただ呆然と私を見ているだけで何も言いませんでした。嬉しかったのか悲かったのか、私には、それさえわかりませんでした。それに・・・」

「それに?」

「庄吉さん、眠りながら泣くことがあるんです。私が庄吉さんのお世話をするようになってから一年くらいたつんですけど、その間だけで何度も。他のヘルパーさんに聞いてみたら、そんなこと気づかなかったって。それで、私、思い切って聞いてみたんです。庄吉さんに。『何か悲しい夢でも見るんですか?もしかしたら私のせいですか?』って」

「そうしたら?」

「そうしたら、『お嬢さんのせいなんかじゃないよ。気を使わせてしまって悪かったね。この年になるとね、いろいろあるんだ。だから気にしないでまた来てね』って。ただそれだけでした。私にはもうそれ以上聞くこともできなくて。その後、庄吉さん、認知症だということがわかって・・・。今ではもう、頭がはっきりしているときの方が少ないくらいになってしまいました。だからもう、その訳を庄吉さんから聞くことはできなくなるかもしれません」

「庄吉さんにご家族は?」

「身寄りは一人もいないって庄吉さん自身がそう言っていました。ただ、庄吉さん、お金はたくさん持っているみたいで、月々払うお金も、もう十年先の分まで払い込んであるみたいなんです。だから、身寄りがなくてもホームに入れたんだって、ヘルパーさんたちがそう言っていました」

 僕らの座っているベンチから少し離れたもう一つのベンチには、ホームレス風の男が背を向けて寝ていた。その前を、赤い靴を履いた女の子が、おばあさんに手を引かれて、よちよち歩いていた。その子が一歩進むごとに、サンダルからピヨピヨと音がした。

「私、庄吉さんが泣きながら眠っている姿を見るのが辛いんです。とても悲しそうで。家族も友達も誰もいなくて、少しずつ人生の終わりに近づいているっていうのに、涙を流しながら眠るなんて・・・しかも、それ、私のせいかもしれないんです。せめて庄吉さんがいつか永遠の眠りにつく時までに、その悲しみを取り除いてあげられたらと思うんですけど、原因がわからなくて。だから、どんな些細なことでも、何かわかったことがあったら教えて欲しいんです」

「そういう訳だったんですか。でも、それは、そのままにしておいてあげたほうがいいかもしれない。誰だって、人に触れられたくない心の傷みたいなものってあると思うし」

 そう言いながら、ふと彼女を見ると、彼女は肩をすぼめて泣いていた。僕はいつの間にか自分がつまらない大人の常識を身に纏っていることに気付き、何か砂を口一杯に詰め込んだような気分になった。もともとそんな人間の中で生きることに嫌気がさしてこの生活を始めたのに、知らず知らずのうちに、自分もその種の人間と同じ色に染まりかけていた。

「見えました・・・」

「え?」

「見えたんです」

「あの、何がですか?」

「戦争です」

「どういうことですか?」

「信じられないと思うけど、僕には昔から、何ていうか、人の心が読めるような力があるんです。信じてもらえますか?」

 彼女は、最初驚いたように目を丸くして僕を見つめていた。しかし、僕を見つめるうちに、僕の言ったことが彼女の心に溶けていくのがよくわかった。彼女の表情はだんだん穏やかになっていき、遂に、

「はい。信じます」

 とごく自然な声でそう言った。

「信じますからあの時何が見えたのか教えてもらえますか?」

「軍艦・・・あの人は軍艦で機関銃に弾を込める作業をしていました。そうしたら・・・」

 血みどろの記憶が蘇ってきた。

「そうしたら、敵の戦闘機が近くに爆弾を落として、気がついたら僕の足が・・・いや、僕の足じゃなく、庄吉さんの足が血だらけになっていたんです」

「それで・・・その後、どうなったんですか?」

「いや、そこまでです。あの短い間ではそこまでしか見られませんでした」

 僕がそう言うと、彼女は落ち着きを取り戻すように深いため息をついた。

「あの、それ以外のことって、見ることはできるんですか?」

「庄吉さんが、心に何かを思い描いていれば、見ることができます。何も考えていなければできません」

「それじゃあ、庄吉さんの意識がはっきりしているときがいいんですね」

「それはそうですね。でも、別に眠っていてもいいんです。庄吉さんが泣きながら眠っているときに手を触れれば、なぜ庄吉さんが泣くのか、きっとその理由がわかると思います」

そ の後、彼女は、近いうちに時間をかけて庄吉さんの心の中を見て欲しいと言った。もちろん僕はそれを引き受けた。その気がないのなら、最初から人の心が読めるなどと言ったりはしない。


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